㉜ 楪と二人で買い物!!
高台のコテージを出て、海風が通り抜ける舗装された坂道を下る。
歩き始めてから、俺と楪の間にはきっかり二メートル半ほどの距離が保たれていた。俺が少し歩幅を緩めれば向こうも露骨に立ち止まり、俺が早歩きになれば一定の車間距離を維持して小走りでついてくる。完全に警戒心MAXの野良猫である。
「……あのな、そんなに離れて歩かなくても減るもんじゃないだろ」
「うるさい。三メートル以上近づかないでって言ったでしょ。お姉ちゃんの息がかかった空気以外、あんたと同じ空間の酸素すら吸いたくないの」
相変わらずの切れ味だ。ため息をつきながら前を向き直す。相変わらずで何よりだ。
坂を下りきって十分ほど歩くと、港へと続くメインストリート――赤音島の中央商店街の入口が見えてきた。
昼下がりの商店街は、思っていた以上に活気があった。
車一台がやっと通れるほどの狭い通りを挟んで、個人経営の八百屋や鮮魚店、日用品を雑多に並べた金物屋などがひしめき合っている。まだ半日授業でもやっている時期なのか、地元の高校の制服を着た生徒たちがアイスキャンディーを片手に数人でたむろしている姿もちらほら見えた。開発中の島とはいえ、生活の血肉はこの細い路地にしっかりと通っているらしい。
すれ違いざま、自転車を押した男子高校生ふたりの会話が、潮風に乗ってふっと耳に入ってきた。
「……今日、流星群のピークらしいぜ」
「マジ? でもどこで見んだよ。町中じゃ街灯邪魔だしな」
「岬の先の、旧展望台あるじゃん。あそこ、夜になると明かり一つないから一番綺麗に見えるってさ」
「おいおい、あそこ立ち入り禁止だろーがよ」
ゲラゲラと笑いながら二人は通り過ぎていく。
岬の旧展望台。
立ち入り禁止という単語には引っかかったが、地元の高校生がそう言うくらいなら、夜の観測には絶好の方角なのかもしれない。俺はそれを頭の片隅にメモしておいた。
まずは八百屋の軒先に立ち寄る。
段ボール箱に積まれた野菜の中から、玉ねぎと人参をカゴに入れる。めいが嫌がるピーマンとゴーヤは当然パスだ。
続いて向かったのは、氷を敷き詰めたトロ箱がずらりと並ぶ鮮魚店だった。
せっかく海に囲まれた島に来たのだ。昼飯にせよ夜のバーベキューにせよ、新鮮な魚をスルーするなんて選択肢はない。
「へいらっしゃい! 兄ちゃんたち、観光かい? 今朝あがったばかりのいい魚が入ってるよ!」
威勢のいい店主のおじさんに声をかけられ、並んだ魚を覗き込む。
銀色にぎらりと輝く立派なアジや、ぷっくりと太ったイサキ。葵のために香りの強すぎるハーブやクセのある魚は避けたいところだが、この鮮度なら塩焼きにするだけで絶対に美味いはずだ。めいも魚なら文句は言わないだろう。
「おじさん、このアジと、あと刺身用におすすめの白身を少し見繕ってもらえますか?」
「あいよ! それなら獲れたてのカンパチにしときな、脂がのってて最高だよ!」
手際よく魚を捌いて包んでくれるおじさんの後ろ姿を眺めながら、俺は何気なく前を歩いていた楪の後頭部に目をやった。
ふと、店先の裸電球と夏の強い日差しを浴びて、楪の右耳のあたりがキラリと小さく光った。
「……ん?」
思わず視線を留める。
よく見ると、耳たぶに小さな金属の飾りが揺れていた。
ピアスホールを開けている風ではない。耳たぶを外側から挟み込むタイプの、イヤーカフかノンホールピアスというやつだろうか。普段の学校生活では校則があるし、部室でもつけているところを見たことがなかった。
じっと見つめてしまった俺の無遠慮な視線に気づいたのか、楪がパッと耳元を手で覆い、威嚇するように眉を吊り上げた。
「……何見てんの。きも」
「ちげえよ。ピアスなんて珍しいなと思って見てただけだ」
「…………」
楪は忌々しそうに唇を尖らせ、一度ぷいっと横を向いてから、ほんの少しだけ自慢げに、だがボソリと呟いた。
「……お姉ちゃんにもらったやつだから」
「葵が?」
「そうよ。この前の誕生日にくれたの。だから、あんたみたいな薄汚いゴミに見られる筋合いはないの」
手で隠しながらも、その耳元に触れる指先は壊れ物を扱うようにとても丁寧だった。
本当に葵のことが大好きなんだなと、呆れを通り越して少し微笑ましくなってしまう。ここで余計なことを言うとまた噛みつかれそうだったので、俺は「へえ、いいじゃん」とだけ短く返して魚の包みを受け取った。
「はいお待ち! あとこれ、商店街の福引券ね! ちょうど二千円超えたから一枚引いてきな!」
おじさんが魚の袋と一緒に、小さな黄色い紙切れを差し出してきた。
へえ、くじ引きねえ。
見れば、魚屋のすぐ向かいにある広場に紅白の幕が張られ、ガラポン抽選器が置かれた小さな福引所が設けられている。どうやら商店街全体の夏祭りイベントか何からしい。
「ほら、楪。回してこいよ」
「はあ? なんであたしが」
「俺は両手で魚と野菜持ってるし。それにくじ運あんま良くないんだよ」
半ば強引に福引券を押し付けると、楪は「チッ」とわざとらしく舌打ちをしながらも、渋々といった足取りで抽選器の前に立った。
係のおじさんに券を渡し、ガラガラとハンドルを回す。
コロン、と赤い玉が転がり出た。
「おっ、お嬢ちゃん当たりだよ! 三等賞!」
「えっ……あ、当たり……?」
目を丸くする楪におじさんが差し出したのは、小さな桐箱だった。三等が当たりかどうかはいささか疑問が残る命題ではあるが、どうやら何かもらえるようだ。
蓋を開けると、透明な小瓶の中に、茜色にきらめく不思議な形の小さな小石が収められ、革紐が通されてペンダントのようになっていた。
「この赤音島の海岸でしか採れない『茜石』だよ。ほら、島には昔から夕陽が奇跡を叶えるっていう古い言い伝えがあるだろ? それにちなんで、持っていると願い事が一つだけ叶うって言われてる縁起物さ」
おじさんはそう言って快活に笑った。
まあ、観光客向けのよくある胡散臭いご当地グッズだろう。だが、小瓶の中の石は夏の陽光を透かして、まるで本物の夕焼けを閉じ込めたみたいに綺麗に輝いていた。
「……願いの、叶う石」
楪が小瓶を手のひらに乗せ、物珍しそうにまじまじと見つめている。
「よかったな。お前が引いたんだし、お前が持っとけよ。タダだし、合宿の記念にもなるだろ」
俺がそう声をかけると、楪はハッとして我に返り、「べ、別に欲しくて引いたわけじゃないし!」といつもの調子でツンと顔を背けた。
けれど、その小瓶を握りしめた手のひらは大切そうに指を閉じていて、横顔には隠しきれない嬉しさが滲んでいた。
「……じゃあ、戻るか。美味そうな魚も手に入ったし」
「言われなくても戻るわよ。さっさと歩きなさい、荷物持ち」
さっきよりほんの少しだけ歩く距離が縮まったような、縮まっていないような。
俺たちは夕暮れ前の涼やかな風が吹き始めた商店街を後にし、獲れたての魚を提げて高台のコテージへと坂道を登り返していった。
*
「ただいまー」
「……帰ったわよ、お姉ちゃん」
リビングの重厚なドアを開けると、冷房の効いた涼しい空気が火照った体を包み込んだ。
ソファで寛いでいためいが「あー! りく先輩、ゆずちゃん! おかえりなさーい!」と真っ先に駆け寄ってくる。その姿を見た瞬間、楪はビクゥッと肩を震わせ、俺の背後へとサッと身を隠した。さっきまでの威勢はどこへやら、完全にめいから逃げるための盾にされている。いったい楪はめいの何におびえてるんだろうか。
「ふふ、おかえりなさい。ふたりとも早かったね」
キッチンから顔を出した葵が、エプロン姿で柔らかく微笑みかけてくれた。
その姿の破壊力に思わず見惚れそうになるのをぐっと堪え、俺は買ってきたレジ袋をオープンキッチンの調理台に並べた。
「商店街の魚屋で、美味そうなのが手に入ったぞ。今朝獲れたてのカンパチとアジ」
「わぁ、すごい! ツヤツヤしてて本当に美味しそう!」
「うふふ、豪勢なお昼ごはんになりそうだねえ」
凜乃先輩もリビングからふわりと歩み寄ってきて、調理台の上の食材を覗き込んで目を細める。
「カンパチは魚屋のおじさんが綺麗に柵にしてくれたから、刺身のまま切って醤油でいこう。あとは買ってきた玉ねぎと人参、それに肉を合わせて野菜炒めを作るか。それならすぐできるし」
「賛成! じゃあ私、野菜炒め作るね」
「あ、俺も手伝うよ」
「ちょっと待ちなさいよ相沢! お姉ちゃんに包丁持たせてあんたは何もしない気!? あたしもお姉ちゃんの手伝いする!」
めいから逃げつつも、葵との共同作業を邪魔しようと楪が割り込んでくる。
結局、俺がカンパチの刺身を引く係、葵と楪が野菜炒めを作る係、そしてめいと凜乃先輩がお皿とお箸を並べる係、というフォーメーションに落ち着いた。
広々としたオープンキッチンに、カンパチの身を刃先でスッと切り分ける心地よい音が響く。
切り口のエッジがピンと立ったカンパチは、綺麗な白身にほんのり淡い桜色の血合いが入り、脂が乗って驚くほどみずみずしい。皿に扇状に並べていくと、それだけでちょっとした料亭のような見栄えになった。
隣のコンロからは、熱したフライパンに豚肉と野菜が投入され、ジュワーッ! という威勢のいい音と香ばしい匂いが立ち上ってくる。
苦い野菜を徹底的に排除した、玉ねぎと人参の甘みが引き立つ特製の野菜炒めだ。
「楪、火加減見てくれる?」
「うん、任せてお姉ちゃん! あ、胡椒これくらいでいい?」
「ありがとう、ちょうどいいよ」
葵に褒められて、子犬のように嬉しそうに目を輝かせる楪。
その耳元では、さっき商店街で自慢げに見せてくれたあのイヤーカフが、キッチンのダウンライトを反射して控えめに揺れていた。葵にもらった宝物。あんなに嬉しそうにつけている姿を見ると、生意気な狂犬後輩とはいえ、妹らしくてどこか憎めないところがある。妹って言うか義妹って言うか。何言ってんだろ俺。
「はーい、できたよー!」
葵の声で、出来立ての料理がリビングの大きなダイニングテーブルへと運ばれた。
中央に鎮座する、艶やかなカンパチの刺身。
湯気をもうもうと立ち上らせる、彩り豊かな野菜炒め。
そして炊きたてのツヤツヤした白米。手早く作ったとはいえ、島ならではの贅沢が詰まった最高の昼食だ。
「それでは……いただきまーす!」
めいの元気な号令に合わせて手を合わせ、それぞれが箸を伸ばす。
まずはメインのカンパチ。小皿の醤油にちょんと浸すと、表面の脂がパッと醤油を弾いた。そのまま口へと運ぶ。
「……っ、うまっ」
思わず声が漏れた。
驚くほどプリップリの歯ごたえ。噛みしめるたびに、獲れたて特有の澄んだ甘みと上品な脂の旨味が口の中いっぱいに広がっていく。東京のスーパーで買う刺身とは、弾力も鮮度も完全に別物だった。
「ん〜〜っ! おいしーい! ぷりぷりです!」
めいが両手で頬を押さえて悶絶している。
「本当、すごく美味しい……! 臭みが全然なくて、いくらでも食べられそう」
葵も目を丸くして感動したように微笑み、すかさずご飯を口に運んでいる。その隣で、楪も「……まあ、魚屋の腕がいいだけだけどね」と憎まれ口を叩きつつ、箸を止める気配はまったくない。
「野菜炒めも大成功だねえ。お野菜が甘くてとっても美味しいよ」
凜乃先輩がおっとりと野菜炒めを口に運び、幸せそうに目を細めた。
肉の旨味を吸ったシャキシャキの玉ねぎと人参が、刺身のさっぱりした脂と抜群の相性を見せている。シンプルだが、これ以上ない白米の相棒だ。
「ほら、楪。ご飯おかわりあるぞ」
「……自分でよそうから構わないで。あんたによそってもらったら米が腐るわ」
「お前なぁ……」
相変わらずの減らず口に苦笑いしながらも、箸は止まらない。
窓の外に広がる真っ青な海と夏の空を眺めながら、俺たちは賑やかにテーブルを囲み、あっという間に皿を空にしていった。




