㉚ 赤音島きたー!!
東京湾の専用マリーナから乗り込んだのは、定期便の大型客船でも高速船でもなく、橘家が所有しているプライベートなジェットボートだった。すでに先に乗り込んでいるあの執事のような人の運転で航行するようだ。
白を基調とした船体は、二十人乗りほどのスマートなサイズ感。
一階には冷房の効いた快適なソファ席が並び、外階段を上がった後方には、見晴らしの良いオープンエアのテラス席が備え付けられている。大富豪のメガクルーザーとまではいかなくとも、高校の部活合宿の移動手段としては完全にオーバースペックだった。
赤音島までは、波を切り裂くように飛ばしておよそ二時間ちょっとの道のりだ。
定期便のような堅苦しさもなく、船外のテラス席に出て自由に風を浴びることができる。
「うわぁぁぁ! 風すごーい! 海だーっ!」
テラス席の手すりにかじりつき、髪を派手になびかせながらめいが歓声を上げる。そのすぐ後ろで、楪が「めいさん、危ないですから身を乗り出さないでください……!」と風に煽られながら必死にめいの服の裾を掴んでいた。
「ふふ、気持ちいいね、陸くん」
隣に並んだ葵が、吹き抜ける心地よい潮風に目を細めながら、そっと微笑みかけてくる。潮風を含んだ葵の柔らかな髪の香りがふわりと鼻先をくすぐり、不意に跳ねた船体の揺れに合わせて、ふたりの肩が軽く触れ合った。付き合ってすぐにこうしてふたりの思い出が作れるイベントがあるのは嬉しいことだ。たとえそれが部活の合宿だったとしても。
「あれ、そういえば先輩は?」
ここに俺を含む四人しかいない。
「下……かな」
なんだか苦笑いを浮かべて下へ続く階段をチラリと見る葵。どうしたのやらとそっちのほうを見に行く。
一階のキャビンを覗くと、日焼けを気にした凜乃先輩が優雅にケーキをもぐもぐ満面の笑みで食べて、お高そうなお茶を飲みながら、テラス席の俺たちを穏やかな笑顔で見守っていた。――あの人、いつも通り過ぎるだろ。どこに行っても相変わらずで何も変わらない先輩が微笑ましいよ俺は。
定刻通り赤音島に到着し、船から一歩桟橋へ降り立った瞬間、夏の熱気と濃密な磯の香りが一気に押し寄せてきた。青と白がどこまでも延々と続いていきそうな、普段感じない海のパワーを全身に浴びて、思わずはしゃぎ回りたくなる。
「しま、きたーっ!!」
ぴょんぴょん飛び回るめいと、笑って見ている先輩と葵。あと潮風を浴びすぎてちょっと疲れた顔の楪。
……俺はめいと同レベルだったのかもしれない。
しかしまだ来たばかりなのに、ここで体力を使うのはもったいない。俺たちは宿泊先へと向かった。
港を出ると、目の前には昔ながらの個人商店や干物屋が並ぶ、活気ある商店街が広がっていた。大型ショッピングモールのような今風の建物は見当たらない。絶賛開発中の島らしく、少し離れた山側では工事用の重機が動いているのが見えたが、生活の中心はいまだにこの賑やかな商店街のようだ。なんでも、うちの青葉学園とは昔から学校行事で交流があったらしく、島民のおじさんが制服のエンブレムを見て手を振ってくれたりもした。
そんな街並みを抜け、海岸沿いの崖を縫うように伸びる専用の舗装路を登っていく。周囲は鬱蒼とした木々に囲まれ、関係者以外立ち入り禁止のゲートをくぐった先に建っていたのは、高台の突端に佇む立派なコテージだった。
「……うわ、広っ」
「すごーい!」
「うわーひろいです!」
「これぞリゾートって感じね! すごいわ!」
「うふふ。今日のために、うちで持ってる別荘を開けてもらったんだよ」
木張りの玄関をくぐり、思わず声が漏れた。
吹き抜けのリビングに、立派なオープンキッチン。そして二階へと続く階段の先には、いくつもの個室が並んでいた。部屋割りを決める段になって分かったのだが、なんとこの規模、俺たち部員五人全員がそれぞれ一人一部屋ずつは余裕で使える計算になる。
赤音島の開発には橘家も投資しているらしく、島内に広大な土地とこの別荘を保有しているのだそうだ。生徒会室で突きつけられた「橘家の影響力」という現実が脳裏をかすめ、胸の奥がチクりと痛む。手配してくれた凜乃先輩は「せっかくの合宿だから、のびのび使ってね」といつものおっとりした笑顔を浮かべていたが、ボートといい別荘といい、一般庶民の俺からすれば感謝を通り越して恐れ多さすら感じるレベルだった。もっと日頃から先輩に感謝して過ごそう。
「あ、そうだ。みんなに言ってなかったんだけどね」
リビングの大きなガラス戸を開けながら、凜乃先輩が振り返って微笑んだ。
「奥に、源泉かけ流しの露天風呂もあるの。事前にお願いして綺麗にしてもらってるから、いつでも自由に入っていいからねえ」
「えっ、別荘に温泉ついてるんですか!?」
「うん。海に突き出た崖の上だから、外からは誰も見えないし、誰も近づけないようになってるよー? 夕陽もすごく綺麗に見えるし……夜は灯りを消せば、遮るものが何もないから星空を見るのに最高の絶景スポットなんだよぉ」
海沿いの高台。プライベートな空間で、誰の目も気にせずいつでも入れる温泉。
しかも、夜にはそこから満天の星空が一望できるという。天文部にとって、これ以上ないどころか夢のようなロケーションだった。
「俺の部屋は……ここか」
あてがわれた個室に入り、ベッドの上にボストンバッグを下ろす。部屋の並びは、共有スペースに近いほうから順に俺、葵、楪、先輩、めいの順番だった。俺と葵が並んでいるから思惑を感じそうだが、一応部屋割りはくじ引きだ。まあどう並んでいても何か起きるわけじゃないだろ。うん。
「にしてもやっぱあちぃな」
額の汗を拭いながら、ポケットから凜乃先輩お手製の『合宿のしおり』を取り出してパラパラとめくった。
夜間の観測場所や機材の組み立て手順、明日の天候データまで、先輩の几帳面で丸っこい文字がびっしりと並んでいる。そして『※水着持参必須』の文字が二重線で塗られている。
そういえば海、入るんだよな。
さっきまで立っていた桟橋から見た光景や、この部屋から聞こえる海鳴りで脳が一気に二か月前のことを呼び起こした。
ゴールデンウィークのことだ。たしかみんな水着を買ってたよな……。
そうして思い浮かばれる葵の水着姿。実際にどんな水着を買ったのか見当もつかないが、普段のスクールタイプもいいがビキニやへそ出しのスポーツタイプなんかもいいな。
いや、それだけじゃない。凜乃先輩も、めいも、あの狂犬の楪も、全員が水着を着て同じ空間にいるということになる。
さっきまで生徒会との廃部宣告をどう覆すかで張り詰めていた俺の脳みそに、突如として別のベクトルからのとんでもない緊張感が雪崩れ込んできた。
それでも今の俺には葵がいるわけだからちょっとやそっとじゃ動揺しないがな。
「りくせんぱーいっ。一緒にお風呂入りましょーっ! 洗いっこしましょーっ!」
…………動揺、しない、が、な。




