㉙ 約束
生徒会室のドアを閉め、会長のハンドタオルを額に押し当てながら廊下を歩く。じんじんと脈打つような激痛のせいで、足元が定まらない。
とにかく一度トイレに行って血を洗い流そうと階段へ向かった、その角を曲がった瞬間だった。
「――陸くん!?」
息を切らした葵が、そこに立っていた。
生徒会室の方へ向かおうとしていたのか、手には通学鞄を握りしめている。もしかしたら迎えに来てくれていたのかもしれない。
そして、俺の顔を見るなり、その大きな瞳を信じられないものを見るように見開いた。
「どうしたの、その額……血が出てるよ!?」
「あ、いや、これは別に大したこと――」
「いいから来て!」
言い訳を遮るように、葵は俺の手首をぎゅっと掴んだ。普段の穏やかさからは想像もつかない強い力で引っ張られ、俺はされるがまま保健室へと連行された。
終業式の日の午後、保健室には誰もいなかった。先生も不在のようで、静まり返った部屋にカーテンの擦れる微かな音だけが響いている。
葵は俺を丸椅子に座らせると、迷いのない手つきで救急箱を取り出し、消毒液とガーゼを用意した。
「どうしたのこのケガ」
至近距離で額の傷を覗き込まれる。濡らした脱脂綿が傷口に触れ、ツンとした刺激が走った。
「はははっ。コケちった」
「もう、ドジなんだから」
呆れたようにため息を吐きながらも、葵の手つきはどこまでも丁寧で、優しい。ピンセットで器用にガーゼを当て、白いテープで固定してくれる。
「まあこんなこともあるさ」
口から出た軽薄な言葉とは裏腹に、葵に嘘をついているという罪悪感で、胸のあたりがチリチリと痛んだ。
葵は救急箱を片付けながら、何気ない調子で尋ねてきた。
「そういえば生徒会からの呼び出しってなんだったの?」
「んー。合宿申請書類に不備があったーって」
――ズキッ。
「? 凜乃先輩じゃなくてそれで陸くんが呼び出されたの?」
「うん。書類の俺が書いたところがミスってたみたいで」
――ズキズキッ!
「ふーん。そうなんだ」
「いやあそうなんだよ。ほんとチェックして書いたはずなんだけどな。まあこういう書類ってちゃんとチェックしても見落としがあるもんだよな。じゃなきゃダブルチェックだなんだってやらないよな。大人ですらミスるんだ。俺だってミスったってなんらおかしくないよ。それにわざわざこんなことで呼び出さなくたっていいよな。申請期間ギリギリってわけでもないし先輩経由で持ってきてくれたってバチはあたんねえのによ。参ったよほんと――」
――ズキズキズキズキッッ!!
口が止まらなかった。
嘘を塗り固めるため、沈黙の隙間を埋めるため、どうでもいい屁理屈をマシンガンのように並べ立てる。喋っていないと、あの冷たい生徒会室の床の感触が、額の奥の痛みが、全部顔に出てしまいそうだった。
「――陸くん」
「うん? どうした葵。なんか深刻そうな顔してるけど何かあったか? 良ければこのパーフェクトなボーイフレンドである相沢陸さんが相談に乗りますよ。なーに、キス一回で恥ずかしい話から怖い話でもなーんでも聞きますよ。こう見えて聞き上手の陸、なんて蓮から呼ばれてたりするんだぜ」
おどけた調子で笑い、いつものように茶化そうとした。
「――陸くん」
再び名前を呼ばれた瞬間。
ふわりと、葵の体温が正面からぶつかってきた。
突然、葵に抱きしめられた。優しく。俺の顔を包むような抱擁で。
「……っ」
葵の制服の生地と、柔軟剤の柔らかな香りが鼻腔をくすぐる。
俺の頭をそっと胸元に引き寄せる葵の腕は、震えるほど力強く、そして痛いほど温かかった。耳元で、トクン、トクンと彼女の心音が規則正しく響いている。
おどけていた口が、完全に塞がれた。
張り巡らせていた嘘の防壁が、その柔らかな体温にあっさりと溶かされていく。
葵は何も言わない。
何があったのか問い詰めることも、嘘を暴くこともしない。
ただ、壊れ物を抱きしめるみたいに、ぎゅっと、俺の背中に両手を回していた。
心臓の鼓動を聞いていると自然と涙があふれてきて、葵は何も言わずに頭をなでてくれた。
*
ひとしきり葵の胸の中で泣いた俺は、気づけば気を失っていたみたいで、保健室のベッドに寝かされていた。
鼻をかすめる消毒液の匂いと、微かに差し込む西日の暖かさ。額に貼られたガーゼがじんじん疼いて、先ほどの生徒会室での出来事が決して悪い夢ではないことを冷酷に思い出させる。
身動きをしようとして、シーツの擦れる小さな音が鳴った。
視線をカーテンの隙間にやると、パイプ椅子に座って静かに文庫本を読んでいる葵の姿があった。
薄い西日が、葵の柔らかな髪の毛を透かすように照らしている。
ページをめくる指先。時折、俯いた拍子に顔にかかった前髪を、指先で掬ってすっと耳の裏へと流してかける。
その何気ない横顔と可愛らしい仕草に、トクン、と胸が高鳴る。
……我ながら、何を見惚れてるんだか。
キスとか彼シャツとか、そういうもっと心臓が跳ね上がるようなことだって経験済みのはずなのに。今更、こんな静かな日常のワンシーンでいちいち興奮してしまうなんて、俺も案外シャイなんだなと自嘲気味に息を吐く。
そのわずかな気配に、葵がパッと本から顔を上げた。
俺と目が合うと、張り詰めていた表情がふっとほどけ、心底ほっとしたような優しい笑みを浮かべる。
「……陸くん。気がついた?」
膝の上に本を伏せ、葵は椅子を引き寄せてベッドの脇に身を乗り出してきた。
その瞳には心配の色がはっきりと浮かんでいる。額のガーゼに触れようとして、ためらうように指先を止める仕草を見て、申し訳なさで胸が痛んだ。
「ごめん、葵。……情けないとこ見せたな」
上体を起こそうとすると、頭の芯がずんと重く脈打った。
生徒会室で会長に突きつけられた冷徹な言葉が、胸の奥を鋭く締め上げてくる。
――今年度をもって、天文部は廃部となる。
――橘家の令嬢である彼女の在学中、特別に存続を目こぼしされていただけだ。
言えるわけがない。
葵にも、凜乃先輩にも、めいや楪にも。
あの天文部の部室は、みんなが心地よいと思って毎日顔を出している大切な居場所だ。
穏やかに笑う凜乃先輩がいて、才色兼備の葵がいて、アホみたいに騒ぐめいや、文句を言いながらやってくる楪がいる。
その輪の中に俺がいるのは――ただの「おまけ」でしかない。
ずっと、そう思ってきた。いや、今でもそうとしか思えない。
俺が声をかけたわけでもないのに、ボランティア清掃にはいつの間にか全員が集まっていた。
学校が休みの日でさえ、特別な天体観測があるわけでもないのに、ただのお茶飲み部活にみんなが当たり前のように顔を出す。
あいつらは、あの場所を、あそこに流れる時間を心から大切にしているんだ。
俺みたいな端っこにいる人間がいなくなっても部室は部室のままだろうが、あの部室そのものが消えてしまったら、みんなは大事な場所を失ってしまう。
だから、俺はどうなったっていい。
額の皮が裂けようが、どんな屈辱を味わおうが、あいつらの居場所だけは俺が守らなきゃいけない。
こんな現実を押し付けて、あいつらが笑っていられる場所を壊すわけにはいかないんだ。
「……葵」
「うん」
「今日のことは……今日見たことは全部――忘れてくれないか」
シーツを握りしめ、葵の目を見た。
「理由は、言えない。……本当にダサいし、格好悪い話だけど。もし、少しでも俺のことを信じてくれるなら……何も聞かないで、今まで通りに過ごしてほしいんだ」
身勝手極まりない頼みだ。自分でもよくこんな厚かましい台詞を吐けたと思う。
いきなり額から血を流して泣き崩れたくせに、何一つ説明もせず、忘れろと言っているのだから。怒られても、突き放されても文句は言えない。
怖くなって葵の顔が直視できない。横目で盗み見るように、葵を見る。
けれど、俺の心配なんてどこへやら。
葵の表情に怒りや疑いの色は浮かばなかった。
静かに息を吸うと、俺の右手を両手でそっと包み込んできた。驚くほど温かい手のひらだった。
「……わかった。聞かない」
葵は柔らかく微笑んだ。
怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ静かに俺の顔を見つめている。
「でも、約束して」
葵は俺の手をぎゅっと握り直すと、顔を近づけて、じっと俺の瞳を覗き込んできた。
「助けてほしいときは、ちゃんと言うんだよ?」
その言葉と、まっすぐに向けられた視線の強さに、胸の奥が熱く焼けるようだった。
何があったかなんて一言も言っていないのに、それでも葵は無理に聞き出そうとせず、俺が口を開くのを信じて待つと言っているのだ。
「……ああ。約束する」
嘘つきの口で、俺はそう答えた。
この約束を果たす日は、絶対に来させてはならないと思いながら。
額の奥の痛みを堪えつつ、俺は葵の手をそっと握り返した。




