㉘ 暗雲低迷
赤音島での天文部合宿の計画が決まった翌日、放課後の部室。
めいと楪が中等部のグラウンド側で騒いでいる間、俺は部室に残って、合宿に持っていく小型天体望遠鏡のレンズをクロスで磨いていた。
「陸くん、手際がいいね」
お茶を淹れ終えた凜乃先輩が、湯呑みを机に置きながら隣に腰掛けてきた。
ふわりと、先輩特有の落ち着いた紅茶のような香りが鼻先をくすぐる。
「いえ、これくらいしか役に立てないんで。……そういえば先輩、合宿のしおり、すごく細かく作ってくれてましたね。夜の観測スケジュールとか、潮汐表まで」
「ふふ、最後の合宿だからね。気合いが入っちゃった」
「最後……?」
手を止め、思わず顔を上げる。
凜乃先輩は優しく目を細め、湯呑みに両手を添えていた。
「うん。この夏合宿が終わって、秋の青葉祭が終わったら……私、部長を引退するから。次の部長は、陸くんにお願いしたいと思ってるの」
「……え」
喉の奥で、息が詰まった。
この部室に来れば、いつも当たり前のように凜乃先輩がいて、お茶を淹れてくれて、穏やかに笑いかけてくれる。俺にとってここは永遠に続くはずの場所だった。
だが――当たり前のことだった。凜乃先輩は三年生で、もうすぐ高等部を卒業してしまうのだ。
「……そっか。先輩、卒業しちゃうんですよね」
ぽつりとこぼれた自分の声が、情けないほど震えていた。
胸の奥がキュッと締め付けられる。失いたくない。この場所も、この時間も、この人のいる空気も。
けど、そんなことは言っていられない。時間は何もしなくても動くのだから。
「……寂しくなりますね」
「ふふ、そんな顔しないでよ」
凜乃先輩は困ったように、けれど愛おしそうに眉尻を下げて笑った。
「秋の青葉祭までは、ちゃんとみんなと一緒にいるから。それまでは、ずっと一緒だよ」
その寂しげな微笑みに、俺は胸の痛みを誤魔化すように、ぎこちなく頷くことしかできなかった。
そして、終業式の日の放課後。
教室でのホームルームが終わり、夏休みを迎える解放感で湧き上がる校舎の中。
葵が教室に財布を忘れたらしいので、靴を履き替えて待っていることにした俺は、靴箱のある玄関ホールまでやってきていた。
「なんだこれ?」
俺の靴箱には、一枚の事務的な呼び出し状が入っていた。
『本日放課後、生徒会室へ出頭のこと。天文部・相沢陸』
なんだかめんどくさいが生徒会の呼び出しなら行かないと後がめんどそうだ。
葵に『生徒会室に行かなきゃならんみたいだから先に帰ってていいよ』とだけメッセージを送っておく。連絡入れときゃたぶん楪あたりと帰るだろう。
さて、行くか。
胸を突く嫌な予感を抱えたまま、俺は本館の最上階にある誰も近寄らない部屋の前に立っていた。
小さくノックし、返事を待たずに引き戸を開ける。
「……失礼します。二年の、相沢です」
薄暗い生徒会室の中央には、事務机を挟んで、ポツンと一脚のパイプ椅子が置かれていた。
机の向こう側には、腕を組み、書類に視線を落としたままの生徒会長が腰掛けている。部屋の空気は冷房が効きすぎていて、肌が粟立つほどに冷え切っていた。まるで、取調室だった。
「座りたまえ、相沢くん」
あまり見る機会のない生徒会長。小柄な眼鏡の男の先輩だった。
何やら手元の紙を見下ろしたまま俺に視線も合わせずに促され、硬いパイプ椅子に腰を下ろした。
「……あの、生徒会から呼び出しなんて、心当たりがないんですが。合宿の申請書類なら、橘部長がすべて不備なく提出したはずです」
「合宿の件ではない」
とりあえず穏便に済ませようと穏やかに尋ねる。
生徒会長は手元のファイルをペラリと一枚めくり、冷淡な声で告げた。
「天文部の存続についてだ。単刀直入に言おう。天文部は、今年度をもって廃部となる。青葉祭が、君たちの最後の活動だ」
「――は?」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
思考が真っ白になり、遅れて激しい動揺と怒りが込み上げてくる。
「な……なんで!? 意味が分かんねえよ! うちは校内清掃のボランティアだって真面目に参加してるし、部としての責務は全部果たしてきたはずだぞ! 今まで何の警告もなかったのに、いきなり廃部だなんて――」
「形式上の義務を果たしていれば許される規模ではないのだよ、マンモス校である青葉学園の部活動は。部活動を立ち上げたくとも数が多く申請すらできない部活は山ほどある」
会長は平然とした顔で、手元の書類をトントンと指先で叩いた。
「部員名簿を見たまえ。中等部の水瀬楪は学則上、正式部員にはカウントされない。つまり高等部の現部員は、三年生の橘、二年の君と水瀬、一年の一ノ瀬――実質四名だ。本校の部活動設立・維持規定である『高等部生徒五名以上』を満たしていない。大会での顕著な入賞実績もなければ、学術論文の提出もない。本来なら、とっくの昔に同好会へ格下げ、あるいは自然消滅しているべきだった」
「そんな……! じゃあ、なんで今まで……!」
「橘凜乃がいるからだ」
「――は?」
淡々と告げられた名前に、俺の呼吸が止まった。
「……どうやら何も知らないようだから教えてやろう。橘家はこの青葉学園の設立母体に対する最大の寄付者だ。理事会および学園長は、橘家の本家筋のご令嬢である彼女の在学中、彼女のわがままを通すために、特別に天文部の存続を目こぼししてきた。……だが、彼女は今年度で高等部を卒業する。後ろ盾を失った部活を、来年度以降も資金を割いて維持する理由は、学園のどこにも存在しない」
頭の芯が凍りついた。
凜乃先輩の……橘家の力で、生かされていただけ?
あそこは、先輩がただ純粋に守ってくれていた場所じゃなかったのか。先輩自身が、どれだけの重荷を背負ってあの部室を維持してきたのか。そして先輩がいなくなれば、あの場所は跡形もなく消え去る――。
(消える……? あの部室が?)
葵が優しく笑ってくれるあの場所が。
めいがアホみたいに騒いで、楪が怒鳴り込んでくる、あの温かい日常が。
俺がようやく見つけた、あの場所が。
「すでに職員会議および理事会での承認は済んでいる。橘には夏休み明け、しかるべきタイミングで通達する。君に事前に伝えたのは、次期部長だと彼女から聞いていたからだ。……用件は以上だ。速やかに退室したまえ」
書類を閉じ、立ち上がろうとする生徒会長。
「……待ってくれ」
生徒会長を呼び止める。
きっと声は震えてまともに発声できていないと思う。
プライド? そんなもの、中学のあの日にとっくにドブに捨てた。
他人の目? どう見られたっていい。俺はどうなったっていい。
だけど――あの場所だけは。あいつらの笑顔だけは、絶対に奪わせない。
ガタアンッ!!
椅子を蹴倒すような勢いで立ち上がり、俺は生徒会室の硬く冷たいリノリウムの床に、両膝を叩きつけた。
「おい、相沢――」
「頼む……ッ!!」
膝をつき、両手を床に叩きつけ、全身の体重を乗せて頭を下げた。
ゴツンッ!!
鈍い骨の音が室内に響き渡る。
それでも足りない。俺は額を、ザラついた床に擦り付けた。
皮が裂け、額からツゥッと生温かい血が流れて視界の端を赤く染める。構うものか。もっと強く、床が砕けるほどに押し付ける。
「頼む……! 廃部だけは、勘弁してください……! 俺はどうなってもいい! 学園中のどんな雑用でも、トイレ掃除でも、ペナルティでも全部俺がやります! どんな処分だって受ける! だから……俺らの居場所だけは、天文部だけは、無くさないでくれ……ッ!!」
床にポタポタと、自分の血が赤い染みを作っていく。
額の激痛など、胸の奥を引き裂かれる痛みに比べれば何の感覚もなかった。必死に、狂ったように床に額を擦り付け続ける俺を、生徒会長は息を呑んで見下ろしていた。
静寂が、部屋を支配する。
やがて、会長の深く重いため息が降ってきた。
「……頭を上げろ、相沢」
革靴が俺の目の前まで歩み寄り、制服のポケットから取り出された真っ白なハンドタオルが、床に落ちた。
「理事会の決定を、私の一存で覆す権限はない。……だが、学則に則った『正式な申し立て』を行う権利なら、君たちにも残されている」
血で汚れた額をわずかに上げると、会長は冷徹な仮面を少しだけ崩し、困惑と、どこか圧倒されたような眼差しで俺を見下ろしていた。
「条件は二つだ。一つ、夏休み明けの青葉祭までに、高等部生徒の中から正式な部員を『もう一名』勧誘し、規定である五名以上の頭数を揃えること。ただし他部との兼部は認めない」
あと一人。高等部から、新入部員を。
「そしてもう一つ。秋の青葉祭において、全校生徒および教職員の前で活動実績のプレゼンテーションを行え。そこで実施される全校信任投票において、過半数の賛成票を勝ち取ること」
全校生徒数千人の前での、活動報告。
凜乃先輩や葵のおかげでだいぶ平気になったとはいえ、辻の一件以来あまり目立たないように生きてきた俺にとって、それは死刑台に上がるに等しい要求だった。
「それが達成できれば、橘家の寄付など関係なく、青葉学園の正当な部活動として存続を認めるよう、私が生徒会として理事会に具申しよう。……だが、できなければ青葉祭の最終日をもって、天文部は完全に解散だ」
会長は背を向け、机の上の書類を片付け始めた。
「ひとつ!」
俺が声をあげると生徒会長の手がピクリと止まる。
「ひとつだけ頼みがある」
「……なんだ? 言ってみたまえ」
「先輩……橘先輩やほかの誰にも、廃部のこと、言わないでください」
「……いいだろう。ただしこれ以上の譲歩はしない。さあ、タオルで額を拭いて、保健室へ行け。……夏休みを有意義に使うんだな」
俺は床に落ちた白いタオルを血まみれの手で握りしめ、ふらつく足で立ち上がった。
額から流れる血が目に入って、視界が真っ赤に滲んでいた。
守る。絶対に……俺が守ってみせる。
先輩にも、葵にも、めいや楪にも、こんな無様な血の流し方は絶対に言えない。
痛む額を右手で押さえ、俺は静かに生徒会室のドアを押し開けた。
外は、息が詰まるほどの夏の熱気に満ちていた。




