㉗ とうとう合宿先決定!!
「……ち、違う! これは不可抗力で、めいが勝手に突撃してきただけで――!」
「ふふっ、冗談だよ。陸くんがそんなことするわけないって信じてるもん」
氷点下の笑顔から一転、葵はふわりと花が咲くように柔らかく微笑んで部室へ足を踏み入れた。その変わり身の早さに、顔面を掴まれていたいたずらっ子のめいも、怒り心頭だった楪も、思わず息を呑んでたじろぐ。正妻の余裕と凄みが完全に空間を支配していた。
そんな騒がしい修羅場をひとまず収めたのは、部長の凜乃先輩だった。
「はいはい、みんなそこまでにしようね。今日は大事な連絡があるんだから」
先輩がパンパンと手を叩いて全員をパイプ椅子に着席させると、長机の上に一枚のプリントを広げた。
終業式を目前に控えたこの時期、天文部にとって一年で最大のメインイベント――夏休み合宿の計画書だ。
「今年の夏合宿だけど、顧問の先生から正式に許可が下りたよ。行き先は……ここ」
先輩の細い指先が、プリントに印刷された地図の一角をトントンと指した。
「赤音島。東京から船で行ける離島だよ」
「離島……島ですか!?」
めいが目を輝かせて身を乗り出す。
「うん。実は赤音島ってね、日本でも有数の星が綺麗に見える島なんだよ。光害がほとんどないから、肉眼で天の川の細かい筋までくっきり見えるんだって。天文部の夏合宿の観測地としては、これ以上ない素敵な場所だと思わない?」
「す、すごいです! 島! 満天の星空! りく先輩と星空合宿……!」
「めいちゃん、陸くんじゃなくて天体観測がメインだからね?」
凜乃先輩が苦笑いしながら釘を刺すが、めいはすでに脳内リゾート気分で浮き足立っている。
一方で、俺の隣に腰掛けた葵は、プリントに載った「赤音島」の文字と星空の写真を見つめながら、そっと胸元に手を当てていた。
星の光。
あの日、ふたりで夜の屋上で交わした、過去から届く光の話。
葵がふと顔を上げ、俺と視線がぶつかる。その澄んだ瞳には、あの夜のぬくもりを思い出したような、愛おしさと期待が宿っていた。
「……星が綺麗な島、か」
俺が小さく呟くと、葵は机の下で、俺の指先にそっと自分の小指を絡めてきた。
周りの誰にも見えない、ふたりだけの秘密の合図。
「楽しみだね、陸くん」
葵が耳元でそう囁き、机の下で小指を絡めてきたまさにその瞬間。
長机の対面に座っていた楪の頭のセンサーが、ピピピッと異常を検知した。
「……ッ!? おいゴミ! 今お姉ちゃんに何吹き込んだ! 二人でこそこそアイコンタクト取ってんじゃないわよガルルルルッ!」
パイプ椅子をガタッと鳴らし、野良犬ばりに歯を剥き出して身を乗り出してくる楪。さっき雑誌を取り上げられたばかりだというのに、今度はボールペンを逆手に構えて俺を刺し殺さんばかりの勢いだ。中高一貫の学園だからって、中学生が高校生の部室でこの狂犬ぶりはどうなんだ。
「吹き込んでねえよ! 合宿楽しみだなって普通の話だろ!」
「嘘おっしゃい! お前のその薄汚い脳みそで合宿の夜に乗じてお姉ちゃんをどうにかしようとか考えてたに決まってるわ! 絶対行かせない! 合宿参加届は私がビリビリに破いて――」
「はいはい、ゆずちゃん、どうどう。ステイですよー」
暴れ狂う楪の肩に、後ろからすっと細い両手が置かれた。
――めいだ。
ふにゃっとした普段通りのアホっぽい笑顔を浮かべ、楪の背中をポンポンと優しく叩いている。
だが、その手が触れた瞬間。
さっきまで噛みつきそうな勢いだった楪の背筋が、ビクゥッ! と跳ね上がった。
なんだかビビってるようにも見える。
「ひっ……!」
「せっかくりの先輩が計画してくれた合宿なんですから、あんまり暴れちゃダメですよ? ね?」
めいは至極楽しそうに、首を傾げてにこやかに笑っているだけだ。
なのに、楪の顔からサッと血の気が引いていくのが見えた。
さっきまでの狂犬モードはどこへやら、喉をごくりと鳴らし、額に冷や汗を浮かべながら、ぎこちない動きで椅子に座り直している。
「あ……う、うん……めい、さん……」
「よろしい。ふふっ、ゆずちゃんはいい子ですね〜」
頭を撫でられながら、小動物のように小さくなって震える楪。
……え?
あの最強のシスコン狂犬が、なんで一個上の後輩にこんな怯えてるんだ?
あのめいだぞ? 昨日俺に犬の腹の写真を「えっちな写真」と言って送りつけてきたり、さっき俺の顔面にキスしようとしてきたあのアホの後輩だぞ?
「……陸くん、どうかした?」
「あ、いや……なんでもない」
隣の葵が不思議そうに小首をかしげ、凜乃先輩も「ふふ、めいちゃんはお姉さんぶるのが上手だね」なんて呑気に目を細めている。
俺には二人の間に何があったのかさっぱり分からなかったが、あの楪が借りてきた猫どころか怯えたハムスターみたいになっている光景は、ただただ不気味だった。でもまあ俺としては大人しくしてもらえるならありがたい。
「じゃあ、解散。みんな合宿の同意書、保護者の方にちゃんと書いてもらってね」
凜乃先輩の号令で部活が終わり、俺たちは鞄を持って部室を後にした。
キャンパスを抜け、正門へと続く並木道を歩く。
俺のすぐ隣には、葵がいる。
歩幅を合わせるように並んで歩く。時折、揺れる制服の肩や手の甲が微かに触れ合い、そのたびに心臓が跳ねるような落ち着かない熱を帯びる。
「……ねえ、陸くん」
「ん?」
「あの島、すごく星が綺麗なんだって。私、ずっと行ってみたかったの。だから……陸くんと一緒に行けるの、本当に嬉しいな」
葵がふわりと微笑みながら、小声でそう言って見上げてくる。
普段の教室で見せる凛とした優等生の顔とは違う、恋人にだけ向ける柔らかくて甘い表情。その眩しさに直視できず、俺は照れ隠しに前を向いたまま「……ああ、俺も楽しみだよ」と短く返した。
ふたりきりの、甘い下校風景――であればどれほど良かっただろうか。
「むぅぅぅ……! いいなぁ、水瀬先輩ずるいです……! りく先輩の隣、めいだって歩きたいのにー!」
すぐ真後ろから、怨念のこもった声が聞こえてくる。
振り返らなくても分かる。五歩ほど後ろで、めいが鞄のストラップを両手でぎゅっと握りしめ、唇を尖らせてじっと俺たちの背中を睨みつけているのだ。隙あらば間に割り込んできそうな気配をひしひしと感じる。
今までだったらそんなことお構いなしに抱き着いてきていたのに、さすがに俺が葵と付き合い始めたから遠慮をしているようだ。こんなに分別の聞く後輩だったなんて、驚きだがな。
そして、さらにその後ろ。
「…………」
めいのさらに数歩後ろから、重たくて冷え切った、殺気にも似た視線が突き刺さっていた。
――楪だ。
腕を組み、顎を引いて、めいよりもさらに距離を取りながらついてきている。
さっき部室でめいに頭を撫でられて大人しくなった反動なのか、その瞳は「隙を見せたら相沢陸を仕留める」という暗殺者の光を宿していた。だが、目の前を歩くめいの背中を時折チラチラと警戒するように見やり、それ以上前に踏み込めないでいる。
先頭を歩く俺と葵。
その後ろを羨ましそうに尾行するめい。
さらにその後ろで、めいを警戒しつつ俺を睨み倒す楪。
奇妙すぎる縦一列の行列。
下校する他の生徒たちが「なんだあの一行……」と遠巻きにヒソヒソ囁きながらすれ違っていく。
「……なあ、葵」
「なに、陸くん?」
「背後からのプレッシャーが凄まじすぎて、全然落ち着いて帰れないんだけど」
俺が引きつった顔で耳打ちすると、葵はクスクスと小さく喉を鳴らして笑った。
「ふふ、いいじゃない。賑やかで」
そう言って葵は、後ろのふたりには見えないように、俺の手の甲にそっと指先を絡めてきた。
背後から「ギャッ!?」と楪が息を呑むような小さな悲鳴が聞こえた気がしたが、葵は澄ました顔で前を見据え、俺の歩幅に合わせて静かに歩き続けた。




