㉖ そんなに変わらない天文部
午前中の授業は、もはや授業というより針の筵だった。
休み時間になるたび、他クラスの男子が廊下から教室を覗き込んでは「あいつか……?」「水瀬さんの彼氏ってどいつだよ……」と偵察してくる。半日授業で午前中四時間しかなかったのが、唯一の神の慈悲だった。
四時間目が終わり、補習のない俺は逃げるように教室を出た。
葵はというと、「職員室で先生に用事があるから、陸くんは先に部活に行ってて?」と微笑んで別れた。半日授業の日は、午後の補習組以外は部活か下校。俺は重たい足取りで特別棟の奥、文芸部の部室へと向かった。
さすがに部室なら平穏だろう――そう思っていた俺が甘かった。
部室のドアの前まで来ると、すでに中から尋常じゃない熱気と騒がしい声が漏れ聞こえていた。
「――だからですね、りの先輩! 全校生徒が今その話で持ちきりなんですよ!?」
「まあまあ、めいちゃん落ち着いて……」
嫌な予感しかしない。
俺は深くため息を吐き出し、覚悟を決めて引き戸に手をかけた。ガラガラ、と音を立てて開ける。
「……ちわっす」
「あ! 来た! 張本人キターーーーッ!!」
顔を出した瞬間、一年生の後輩・一ノ瀬めいが、弾かれたような勢いでパイプ椅子から飛び上がった。
机を乗り越えてきそうな猛スピードで俺の目の前まで詰め寄ってくる。
「りく先輩! どういうことですかーっ!?」
「うおっ、近い近い! なんだよ急に」
「なんだよじゃありません! あの二年の高嶺の花、学年トップの才女、水瀬先輩が男と付き合い始めたって、今一年のフロアまで大騒ぎになってるんですよ! で、そのお相手が……まさかのりく先輩って、どういう天変地異ですか!?」
「天変地異って言うな」
「昨日の私のメッセージ、ぜーんぶ無視したくせに! めいのえっちな写真の誘惑もスルーして、裏で水瀬先輩とイチャコラしてたんですか!? ずるいです! めいだってずっとアタックしてたのにー!」
両手でポカポカと俺の胸板を叩いて抗議してくるめい。あの狂気の画像添付は犬だったのかよと脱力しつつ、手首を掴んでなんとか宥める。
「ふふっ。相沢くん、災難だね」
奥の長机から、鈴を転がすような穏やかな笑い声が聞こえた。
部長であり、唯一の三年生である橘凜乃先輩が、湯呑みに緑茶を注ぎながら微笑んでいた。
昨夜のあの気まずい鉢合わせの現場に居合わせ、俺の過去のトラウマの引き金を引きかけた晶のことも知っている、唯一の先輩だ。
「……凜乃先輩。昨日は、その……ご心配おかけしました」
「ううん、いいの。ちゃんと帰れたみたいで安心したよ」
凜乃先輩は立ち上がり、めいの頭をぽんぽんと撫でて席に戻すと、俺の前に湯呑みをコトッと置いた。
その切れ長の瞳が、どこまでも優しく、慈愛に満ちた光を宿して俺を見つめてくる。
「噂、すごいよ? 三年生の教室にまで届いてる。『あの水瀬さんが、自分から告白して男を捕まえたらしい』って男子たちが悔しがってて……まさかそれがうちの後輩だとは、みんな夢にも思ってないみたいだけど」
「……すみません、なんか部活にまで迷惑かけそうな勢いで」
「迷惑だなんて思ってないよ」
先輩はふっと目を細めて、悪戯っぽく唇の端を上げた。
「……よかったね、相沢くん。昨日はすごく苦しそうな顔をしてたから、心配でたまらなかったんだよ。でも、ちゃんと前を向けたんだね」
「あ……はい。葵が、全部引っ張り出してくれたというか……」
「うん。水瀬さん、本当に相沢くんのことが大好きなんだね」
言葉の端々に、心からの祝福が滲んでいる。
けれどほんの一瞬だけ、先輩の瞳の奥に、自分の大切な居場所から誰かが旅立っていくのを見送るような、微かな寂しさが揺れた気がした。だがそれは一瞬で消え去り、いつもの頼もしい先輩の笑顔に戻る。
「さて、と。めいちゃん、悔しがるのはそこまでにして、今日の部誌の校正を手伝って――」
先輩がそう言いかけた、その時だった。
ドタドタドタドタッ!!
廊下の向こうから、床が抜けるんじゃないかという凄まじい足音が響いてきた。
この暴力的な踏み込みの音。まさか、昨晩の狂気のマシンガン通知の主――。
バーンッ!!
蝶番が悲鳴を上げる勢いで、部室のドアが乱暴に跳ね除けられた。
肩を激しく上下させ、額に青筋を浮かべた一年生の美少女――水瀬楪が、鬼のような形相で仁王立ちしていた。
「――いたわね、極悪人相沢陸ぅぅぅぅぅ!! うちのお姉ちゃんを誑かした落とし前、今すぐここでつけてもらうわよぉぉぉっ!!」
血相を変えて突っ込んできた楪の手には、なぜか丸められたファッション雑誌が凶器のように握りしめられていた。完全に殺る気満々だ。
「ちょっと、楪ちゃん? ここは部室だから暴れちゃダメだよぉ」
すぐさま凜乃先輩が割って入り、振り上げられた雑誌を優しく、けれど絶対に逃さない手つきで受け止める。そのまま興奮して肩で息をする楪の背中を、お母さんのようにトントンと宥め始めた。
「ほら、深呼吸して。吸ってー、吐いてー」
「すー……はー……って、騙されませんよ凜乃先輩! この男、昨日の夜だってお姉ちゃんを連れ回して、私のメッセージを全部無視したんですよ! 絶対に変なこと吹き込んで洗脳したに決まってます!」
「おい誰が極悪人だ! 仮にも未来のお兄様になるかもしれない男に向かってなんて態度だよ!」
「誰がお兄様よ! 認めるわけないでしょ、こんな男!」
アンガーマネジメントしたくせに全然マネジメントできてねえじゃねえか!
散々な言われように頭を抱えていると、横からすり寄ってきた小柄な影が、俺の腰へぎゅっと抱き着いてきた。めいだ。
「そうですよりく先輩! めいという可愛い後輩がいながら水瀬先輩を選ぶなんて! でもいいです、めいは諦めませんから!」
「おい離せめい、ややこしくなるから!」
「もし水瀬先輩とケンカしたり、ちょっと浮気したくなったら、一番にめいに連絡してくださいね! めいならいつでもりく先輩の二号さんになる準備できてますから! ほら、練習しときましょー!」
「するわけねえだろ!」
目をぎゅっと瞑り、唇をとがらせて「ちゅー!」と顔を寄せてくるめい。
俺は寸前のところで右手を伸ばし、めいの顔面を真正面からガシッとわしづかみにして押し留めた。
「むぐぐぐっ! はなすれすりくせんぱい! めいのファーストキスがああぁ!」
「誰がやるかバカ! 爪立てるな痛い!」
先輩に宥められる楪の怒号と、顔面を掴まれてバタ足するめいの奇声。
部室が完全なカオスと化していた、まさにその瞬間だった。
――ガラリ。
開け放たれたままだった引き戸の前に、すっと人影が立った。
職員室での用事を終えたらしい葵が、通学鞄を胸元で抱え、絵に描いたような満面の笑みを浮かべて部室の中を見つめている。
その瞳の奥には、光が一切宿っていなかった。
「……へえ。いきなり浮気?」
鈴の音のように澄んだ、けれど部屋中の温度をマイナス二十度まで叩き落とすような冷ややかな声が、凍りついた部室に響き渡った。




