③ ある日のこと
ある日の午後のこと。
四限目の終了を告げるチャイムが鳴ると同時に、教室は一気に昼休みの騒がしさに包まれた。
「相沢くん、お昼、机くっつけてもいい?」
「ああ、いいよ。俺は購買のパンだけどな」
「ふふ、私はお弁当。……あ、卵焼き、少し甘めに作ってみたんだけど、一つ食べる?」
「いいのか? ありがたくもらうよ」
隣の席の水瀬さんが、椅子を寄せてお弁当箱の蓋を開ける。
学年一とも言われる清楚な美人と机を並べて昼飯を食べるなんて、新学期の初日には想像もしていなかった光景だ。周りの男子たちからチラチラと羨望の視線が刺さっている気もするが、気づかないフリをしておくに限る。
そんな穏やかな時間が流れていた時――ガラッ、と教室の後ろの扉が勢いよく開いた。
「りく先輩っ! 見つけました!」
「……ん?」
鮮やかなピンク色の髪を揺らして、可愛らしいお弁当箱を抱えためいが一直線に俺の席へと駆け寄ってくる。
小柄で童顔なのに、歩くたびにブレザーの胸元がたゆんと揺れるものだから、教室中の男子の視線が一瞬で釘付けになったのがわかった。
見つけましたって、そりゃいるだろ。俺の教室だぞ。
「お前、一年生の教室は下の階だろ。どうしたんだ」
「りく先輩と一緒にお昼を食べたくて、出張してきましたっ! ほらほら、めいも混ぜてください!」
「あ、めいちゃん。こんにちは。……ふふ、じゃあ三人で食べよっか」
「あ、水瀬先輩……! むー、やっぱり今日も隣の席なんですね……っ」
めいがぷくっと頬を膨らませながら、空いていた前の席の椅子を強引に引き寄せて座り込む。
サラサラの黒髪美人の水瀬さんと、ピンク髪の小柄でグラマラスなめい。教室の隅っこにある俺の机だけが、なんだか急に異常な華やかさに包まれてしまった。
「……相沢の奴、いつの間にあんな可愛い一年の後輩まで手懐けたんだ……?」
「隣に水瀬さんがいて、正面にあのロリ巨乳ちゃんとか、どんな徳を積んだらそうなるんだよ……」
「しかもあいつ、めちゃくちゃ平然と焼きそばパン食ってんぞ。大物すぎるだろ……」
「相沢先生ーっ! そのHな叡智を分け与えてくれー!」
遠くの席で、クラスの男子たちがバカみたいなノリでざわついているのが聞こえてくる。生きてて楽しそうだなこいつら。
「おい陸、ちょっと待て。その状況はどういうことだ」
たまたまクラスの前を通りかかったらしい蓮が廊下側の窓から顔だけ覗かせてから、ツカツカっと近寄ってきて信じられないものを見るような目で俺の机の横に立った。彼女持ちのイケメンにそんな顔をされても困る。
「どういうことも何も、ただの昼飯だけど」
「ただの昼飯で学園のツートップみたいな美少女二人に囲まれてる奴がいるかよ……! お前、その落ち着きっぷりは逆にすげえわ……」
「大げさだな。ただの部活の仲間だよ」
いかにもなんとも思ってないですよ風に、俺が肩をすくめてパンをかじると、水瀬さんとめいが同時にピクリと反応した。
「むー! 『ただの』じゃありません! ほら、りく先輩、めいの作ったタコさんウインナーもあーんしてください! あーん!」
「お前な、教室でそういうのはやめろって」
「……じゃあ、相沢くん。私の卵焼きも、はい。あーん」
「え……いや、水瀬さんまで何やってるんだよ」
右からはめいがウインナーを、左からは水瀬さんが卵焼きを箸で摘まんで突き出してくる。
教室中の男子から「あいつマジかよ……」という畏敬の念すらこもった視線を集めながら、俺は観念して二人の箸に交互に口を近づけた。卵焼きがちょっと甘かった。
*
放課後、部室のドアを開けると、今日も今日とて凜乃先輩が一人で優雅にお茶を飲んでいた。
「あ、陸くんだー。お疲れさまぁ。……あれ、葵ちゃんは一緒じゃないの?」
「水瀬さんはクラス委員長の集まりがあるらしくて、少し遅れるそうです。めいも今日はまだみたいですね」
「そっかぁ。じゃあ、しばらくは陸くんと二人っきりだねぇ」
凜乃先輩が柔らかい茶髪を揺らして、ふふっとおっとり笑う。
部室に先輩と二人きり。しかも向かいに座る先輩は、今日もブレザーの胸元が窮屈そうなくらいむっちりとしている。……いや、意識するな俺。
「そういえば先輩、聞いてくださいよ。今日の昼休み、めいの奴がいきなり俺のクラスまで弁当持って突撃してきたんです」
「えーっ、めいちゃんが二年生の教室に? うふふ、相変わらず陸くんのことが大好きだねぇ」
「笑い事じゃないですよ。水瀬さんとめいに挟まれて昼飯食うことになって、蓮やクラスの男子たちから『あいつはヤベーな』みたいな目で見られて大変だったんですから」
「あらあら、それは災難だったねぇ。……でも、可愛い女の子二人に囲まれて、ほんとはちょっと嬉しかったんじゃない?」
先輩がテーブルに肘をつき、むぎゅっと豊かな胸元を乗せながら悪戯っぽく小首を傾げる。
……おかしいな。先輩の目を見てるはずなのに勝手に視線が下にあるたわわに吸い寄せられ――。目が泳ぎすぎて滑稽な姿を晒しているかもしれない。
「ごほん……別に。ただの部活の仲間ですし、周りが勝手に騒いでるだけです」
「ふぅん? 陸くんってば、そういうところ意外とクールだよねぇ。あーんとかしてもらったんじゃないの?」
「なっ……なんでわかるんですか」
まさかエスパー!?
「あ~、やっぱりしてもらったんだぁ」
しまった! 完全にカマをかけられた。おっとりしているようで、こういうところだけ妙に鋭いから油断できない。これがうわさに聞く女の勘というやつなのか?
「いいなぁ、葵ちゃんもめいちゃんも積極的で。……ねぇ陸くん」
凜乃先輩がすっと立ち上がり、俺の隣の椅子へと移動してくる。
ふわりと甘い香りが漂い、丸みを帯びた柔らかな肩が俺の腕にぴたりと触れ合った。
「……なんですか、急に」
「んー? 二人だけずるいから、お姉さんも陸くんに甘やかしてもらおうかなぁって。ほら、このチョコ、あーんして?」
「……先輩、それただ自分が食べたいだけじゃないですか」
「いいじゃない、いまは誰もいないんだから。……ね、陸くん?」
すぐ間近にある先輩の潤んだ瞳に見つめられて、俺は小さく息を呑んだ。それになんだか先輩の吐息すら甘い気がする。
昼休みの教室では平然としていられたはずなのに、二人きりの部室で迫られると、どうにも勝手が違うらしい。
「……今回だけですよ」
「わぁい、陸くん大好きぃ」
俺が観念してチョコを摘まむと、先輩は幸せそうに目を細めて口を開けた。
――まさにその瞬間だった。
ガチャリ、と部室のドアノブが回る音がした。
「お待たせ。委員長の集まり、思ったより早く終わって……」
俺は反射的に手を引っ込め、摘まんでいたチョコをそのまま自分の口へと押し込んだ。
「んぐっ……ああ、水瀬さん。早かったな」
「え……? うん、お疲れさま、相沢くん、凜乃先輩」
入ってきた水瀬さんが、俺と凜乃先輩の異様な距離感を見て、きょとんと目を丸くする。
隣では、口を開けたまま固まっていた凜乃先輩が「あーあ……」とでも言いたげに、少しだけ残念そうに眉を下げていた。
「あの、二人ともすごくくっついてるけど……今、なにか――」
「いや、べつに何もしてないぞ。な、先輩」
「んー……? もうちょっとで美味しいところだったんだけどねぇ」
「せ、先輩……? 変な言い方しないでくださいって」
水瀬さんが細い黒髪を揺らして、じっと俺の手元と先輩の顔を見比べる。
「相沢くん、なんだか顔が赤いよ? 今、ほんとに――」
水瀬さんが核心に迫ろうと一歩踏み出した、ちょうどその時だった。
「りく先輩っ! お待たせしましたー!」
バンッ! と勢いよく扉が開き、ピンク色の髪をなびかせためいが突風が吹くように飛び込んできた。
ナイスタイミングに、心の中で大拍手を送らせていただこう。
「日直日誌、最速で終わらせてきましたよ! えへへ、褒めてくださいっ!」
「……ああ、お疲れ。よく頑張ったな」
「わぁい! って、あれ? 水瀬先輩どうしたんですか、棒立ちで」
「ううん、なんでもないよめいちゃん。ほら、一緒にお茶淹れよっか」
凜乃先輩が何事もなかったかのように立ち上がり、めいの背中を押して給湯スペースへと向かう。
水瀬さんはまだ少しだけ釈然としない様子で首を傾げていたけれど、俺がそっと視線を逸らすと、「……まあ、いっか」といつもの席に腰を下ろした。
危ないところだった。めいの騒がしさに救われる日が来るとは思わなかったな。
俺は胸を撫で下ろしながら、口の中で溶け残った甘いチョコをそっと飲み込んだ。




