㉔ ちょっと気恥ずかしい朝。緊張するーっ!!
結局、昨夜は一睡もできなかった。
葵と正式に恋人同士になったという事実が、頭の中で何度も何度もリフレインして、心臓の鼓動が耳の奥で激しく鳴り止まなかったのだ。最後に枕元の時計を確認したのは、確か午前三時過ぎだったはずだ。
早く寝なきゃと思えば思うほど目が冴えて、右へ左へと何度も寝返りを打ち、体温が上がりすぎて暑くなったのでズボンを脱ぎ捨て、上はTシャツ、下はトランクス一枚という限界スタイルまで試してみた。それでも神経は高ぶったままで、まるで寝た気がしないまま、白々とカーテンの隙間が明るくなっていた。
「……ふわぁぁ」
重たい瞼をこすりながら、寝ぼけた面のままダイニングテーブルにつく。
朝食は、昨日残った母さんの味噌汁を温め直し、炊き立ての白米に豪快にぶっかけた猫まんまスタイルだ。行儀が悪いのは百も承知だが、睡眠不足で死にかけの胃袋にはこれが一番手っ取り早くて染み渡る。
ズズズと音を立ててかっこんでいると、ピーンポーンと間の抜けたインターホンが鳴り響いた。
「ん……こんな朝早くに誰だ?」
出ようとして立ち上がりかけると、身支度を終えた母さんがキッチンから小走りで現れ、俺の肩をポンと押して制した。
「陸、早く食べないと遅刻するでしょ! 座って食べてなさい!」
そう言って受話器を取った母さんは、相手の名前を聞くなり「ふふーん♪」と鼻歌交じりに鼻を鳴らし、なぜか満面の笑みで上機嫌に玄関へと向かっていった。
……なんだ? 朝から何かいいことでもあったのか?
首を傾げつつ、俺は再び茶碗に向き直る。
あぁ、やっぱり人の作る飯ってなんでこんなに美味いんだろうな。一人暮らしのときはコンビニのパンかシリアルで適当に済ませていたが、同じ手抜きでも手作りの温かみがあると全然質が違う。
そんな呑気な感想を抱きながら汁をすすっていると、廊下の向こうからトタトタと小刻みな足音が近づいてきた。
母さん、フローリングなんだからもうちょっと静かに歩けよ……そう思いながら、茶碗を持ったままゆっくり振り返る。
「で、母さん、いったい誰だったん――」
「……おはようございます、陸くん」
「え?」
爆速で首が回った。
「お、おはよ……?」
聞き間違えるわけがない。
朝の空気に溶け込む小川のせせらぎのような、透き通った鈴の音。
そこに立っていたのは、しっかりとアイロンのかけられた制服に身を包み、通学鞄を両手で抱え持った葵だった。
「葵……? な、なんで……」
「迎えに、来ちゃった」
少しだけ恥ずかしそうに伏し目がちになりながら、けれど嬉しさを隠しきれない様子で小さく微笑む。
破壊力が桁違いだ。寝起きの脳天に直撃したあまりの可愛さに、俺の意識は一瞬で覚醒した。と同時に、凄まじい焦燥感が背筋を駆け上がる。
「す、すぐ準備する!!」
俺は残っていた猫まんまを喉の奥へ一気に流し込み、コップの麦茶をがぶ飲みした。
立ち上がって部屋へダッシュしようとした、その刹那――ふと、下半身のスースーする涼しさに気づいた。
……おっと危ない。
俺は今、上こそTシャツを着ているが、下は完全にパンツ一丁だった。
「わ、わりぃけど向こう向いててくれ! 俺、今ズボン履いてねえんだわ!!」
手近にあったクッションで慌てて前を隠しながら叫ぶと、葵の視線が俺の生足へと吸い寄せられた。
次の瞬間、葵の顔がボッと音を立てそうな勢いで、耳の先まで真っ赤に染まり上がる。
「か、かれしかのじょなら、そういうのもいいんじゃないかなっ!!!!!」
「声上ずってんぞ!! いいわけあるか!!」
裏返った大声で必死に主張する葵にツッコミを入れながら、俺はクッションを押し当てたまま、脱兎の勢いで自室へと飛び込んだ。
廊下ではニマニマ顔の母さんが俺たちのことを見ていた。
我が家を青春ドラマの上映かなにかだと勘違いしてない?
「お待たせ。ほら、いくぞ」
大急ぎで制服のズボンに脚を通し、髪を整えてリビングに戻ると、葵と母さんはすっかり意気投合してお茶を飲んでいた。母さんの「若いっていいわねぇ」というニヤニヤ顔から逃げるように、俺は葵を促して足早に玄関を出た。
マンションのエントランスを抜けると、夏休みを間近に控えた季節特有の、少し湿り気を帯びた朝の空気が頬を撫でる。
通学路には、夏服のシャツを着た同じ高校の生徒たちがちらほらと歩き始めていた。昨夜は雨と暗闇に紛れていたけれど、こうして白日のもとで通学路の景色に紛れ込むと、途端に日常の現実感が押し寄せてくる。
俺と葵は、歩幅を合わせて横に並んで歩いた。
いつもなら何気なく一人で歩いていた道なのに、隣に葵がいるというだけで、視界の彩度がまるで違う。
肩と肩が触れ合いそうなほど近い距離。歩くたびに、葵の夏服のチェックスカートが微かに揺れ、昨夜と同じ甘いシャンプーの香りが朝風に乗ってふわりと鼻先をかすめた。
「……あの、陸くん」
「ん?」
前を見据えたまま、葵がぽつりと声をかけてくる。
横目をやると、彼女は緊張しているのか、通学鞄の持ち手を両手でぎゅっと握りしめていた。白い頬が、強い朝の光を浴びてほんのりと赤らんでいる。
「……手、繋いでもいいかな?」
消え入りそうな、でも確かな熱を帯びたおねだり。
周りには他の生徒たちも歩いている。誰に見られるか分からないという羞恥心が頭をよぎったけれど――それ以上に、昨夜の屋上で触れ合ったぬくもりが、昨夜交わした約束が、俺の背中を押した。
「……見つかったらからかわれるぞ」
「うん。でも、いいの」
控えめに、でも意志の強い瞳で見上げてくる葵。
俺は照れ隠しに小さく息を吐き出すと、制服のズボンのポケットから右手を出し、そっと葵の左手へと滑り込ませた。
触れ合った瞬間、葵の細い指がするりと絡みついてきて、ぎゅっと強く握り返される。
恋人として歩く初めての登校路。
繋いだ手のひらから伝わってくる熱が、昨夜の寝不足なんて一瞬で吹き飛ばしてしまうほど、心地よく胸の奥を焦がしていた。




