㉓ 水瀬葵Ⅳ
ロマンチックな空気は瞬時に吹き飛んだ。
パニックで硬直する俺の手を、葵が咄嗟に力強く引く。
「陸くん、こっち……っ!」
葵が滑り込んだのは、屋上の隅にある配管と巨大な貯水タンクのわずかな隙間だった。
大人一人がやっと通れるほどの薄暗い隙間に、二人で無理やり体を押し込む。
ギギッ、と鉄扉が完全に開く音がした。
ザッ、ザッ、と巡回する先生の重い足音が屋上のコンクリートを叩き、すぐ近くを通り過ぎていく。
――近い。
見つかれば夜間侵入で一発停学だ。
だがそれ以上にヤバかったのは、この隙間の狭さだった。
身動きが取れないほどの超密着。
俺の胸板に、葵の柔らかな胸がぺったりと押しつけられている。吐息がかかるどころの距離ではない。
暗闇の中で、葵の長いまつ毛が震え、上目遣いで俺を見つめていた。
ドクンドクンドクンッ!
どちらのものか分からない心臓の激しい鼓動が、重なり合ってひとつに溶けていく。
ついさっき恋人になったばかりの女の子の温もりが、逃げ場のない密着の中で、これ以上ないほど生々しく伝わっていた。
「……なんだ、閉め忘れか?」
独り言を呟きながら、先生の足音が再び鉄扉の向こうへと遠ざかっていく。
ギギッ、バタン、と重い金属音が響き、カチャリと施錠される音が夜の闇に沈んだ。
――行ったか……。
張り詰めていた空気が抜け、肺の奥から一気に息を吐き出す。
だが、安堵とともに意識が向かったのは、依然として自分にぺったりと重なり合っている葵の体温だった。
暗がりの中で見つめ合うこと数秒。ふっと葵の肩が揺れ、くぐもった笑い声が漏れた。
「ふふっ……あはは、危なかったね」
「おい笑い事じゃないぞ、心臓止まるかと思った……」
貯水タンクの隙間からそろりと抜け出し、ふたりで顔を見合わせて小さく噴き出す。
冷たい夜風が火照った頬を撫でていく中、葵はスカートの裾を軽く整え、上目遣いで悪戯っぽく唇を尖らせた。
「……また、お預けになっちゃったね」
ほんの少しだけ残念そうな、でも甘やかな響きを帯びたその声。
自分の弱さも過去の傷も全部受け止めてくれて。
今、目の前で自分のためだけに微笑んでいる女の子。
この子が、俺の恋人になったんだ。
その事実が胸の奥をじんわりと満たし、どうしようもないほどの愛おしさが全身を駆け巡った。
――考えるより先に、体が動いていた。
すっと距離を詰め、葵の華奢な肩に手を添える。
驚いて見開かれた葵の瞳が視界いっぱいに広がった瞬間、俺は自分の唇を重ねていた。
ほんの、触れ合うだけ。
恥ずかしさのあまり頭が沸騰して、一秒にも満たない、触れたか触れてないかのような拙いキス。
それでも、俺にしてはこれ以上ないくらいに頑張った瞬間だった。
「……っ」
パッと飛び退くように体を離すと、葵はぽかんと口を開けたまま、自分の唇にそっと指先を当てていた。
みるみるうちに、その白い頬が耳の先まで真っ赤に染まっていく。
「……まさか、陸くんからチューしてくれるとは……思わなかったな」
「う、うるせえ! いちいち言うんじゃねえよ!」
真っ赤になった顔を誤魔化すようにそっぽを向くと、葵は今度こそ声を出して「ふふっ、あはは!」と幸せそうに笑った。そのつられて笑ってしまった俺の口元も、もう元には戻らなかった。
校舎を出て、再び夜道を並んで歩く。
さっきと同じように手は繋がれていた。けれど、強引に引っ張られていた行きとはまるで違う。
指先がお互いを探り合い、遠慮がちに絡められたその繋ぎ方は、どこまでもぎこちなくて、初々しい――できたてほやほやのカップルそのものだった。
*
葵を無事に家の前まで送り届け、ふたりで名残惜しそうに手を振り合って別れたあと。
なんとか平静を装って自宅の玄関をくぐり、リビングでいびきをかいて熟睡している母さんを毛布でくるんでから、俺は自室のベッドへと飛び込んだ。
仰向けに倒れ込み、天井を見上げる。
唇の端には、まだあの柔らかくて拙い感触が残っているような気がして、思い出すだけでカッと顔に熱が集まった。
本当に、葵と付き合うことになったんだな……。
実感がじわじわと胸を満たしていく中、ポケットからスマホを取り出す。まずは無事に帰り着いた報告と、今日連れ出してくれたことへの心からのお礼をメッセージで送らなければ。
そう思って画面のロックを解除した、その瞬間だった。
「……は?」
目に飛び込んできたメッセージアプリのアイコンの右上に、見たこともない赤いバッジが表示されていた。
【+999】
――1000件以上!?
バグか? それともウイルスの類か何かを踏んだのか?
一気に冷や汗が噴き出し、震える指先でアプリを開く。画面を埋め尽くしていたのは、特定のアカウントから怒涛の勢いで送りつけられてきた未読メッセージの山だった。
いったい誰が、こんな時間に――。
まず、通知の圧倒的大多数を占めていたのは、葵の妹である水瀬楪だった。
『お姉ちゃん知らない?』
『ほんとに知らない?』
『寝た?』
『もしかしてお姉ちゃんといっしょ?』
『無視?』
『お姉ちゃんと一緒なんでしょ!』
『おい』
『おい』
『へんじ』
『へーんーじー!』
画面をスクロールしてもスクロールしても、短文の連打、連打、連打。
姉が夜更けになっても帰ってこないことに勘づいたシスコン妹による、狂気じみたマシンガンチャットだった。これ、あとで葵と一緒に謝りに行かないと絶対に殺されるやつだ。
続いて、スクロールを押し上げていたもう一つの震源地は、後輩の一ノ瀬めい。
『デートしたんですか!?』
『なんで誘ってくれないんですか!』
『いつでも待ってます!』
『せんぱい!』
『せーんーぱーいー!』
『めいのえっちな写真見ます?』
[画像が送信されました]
『むー。これでも既読つかないってことは寝てるってことですよね?』
「……っ!」
こんな『えっちな写真』なんて煽り文句のあとに[画像が送信されました]なんて表示されたら、男なら反射的に開いちまうに決まってるだろ!
理性を総動員してサムネイルの展開をグッと堪えたが、どこからデートの情報を嗅ぎつけたのか、めいの情報網とグイグイくる後輩力には相変わらず肝を冷やされる。
そして、最後の一人。
恐る恐る開いたそのトークルームの主は、先ほど修羅場の現場で遭遇してしまった橘凜乃先輩だった。
『大丈夫だった?』
『ちゃんと帰れた?』
『タイミング悪かったみたいでごめんね』
『また学校でね』
『ちゃんと部活来れる?』
『しんどかったら休んでもいいよ?』
『無理しちゃだめだよ?』
『おやすみなさい』
怒涛の連打に晒されたあとのこの文面は、荒れ狂う嵐の海に差し込んだ後光のように眩しかった。
自分のことよりもまず俺のメンタルを気遣い、気まずくならないように学校や部活へのフォローまで入れてくれている。
最後までどこまでも優しく、人格者で、心から尊敬できる先輩だった。
「……とりあえず、返信の優先順位を考えないと死ぬな」
ベッドの上で頭を抱えながら、俺は深い溜息とともに葵にメッセージを送るべく画面へと指を滑らせた。




