㉒ 水瀬葵Ⅲ
街灯の明かりが途切れ、夜の闇に沈んだ校舎の輪郭が目の前に浮かび上がった。
重厚な正門は当然ながらぴっちりと閉じられていて、頑丈な鉄の鎖が巻きつけられている。
いうまでもなく学校の門は固く閉ざされているわけだ。
「こんな時間だし、入れるわけねえよ」
当たり前の現実を口にした俺に、葵は足を止め、振り返って静かに微笑んだ。
夜風にふわりと揺れる、清楚な白いワンピース。薄手のカーディガンのポケットから取り出したのは――ごく普通の黒いヘアピンが二本。
葵は門の横にある小さな勝手口の前まで歩み寄ると、金属の鍵穴にすっとピンを差し込み、躊躇なくカチャカチャと動かし始めた。
「……なにしてんの?」
思わず素の声が出た。
だって、あの学園でトップクラスの優等生で、誰よりも真面目で品行方正な水瀬葵がピッキング? ありえねえだろ。
「……実はね、ちょっと練習したことがあるの」
葵がこともなげに囁いた、ほぼその瞬間だった。
――ガチャンッ。
静まり返った夜の闇に、あっけなく鍵の開く重い金属音が響く。
「……うん、開いた」
「嘘だろおい」
嘘だろおい!
わずか十秒足らずの早業に、俺の脳の処理が完全に追いつかない。どう見たって常習犯の手さばきじゃねえか。
「ほら、陸くん。早く入って?」
勝手口の扉を少しだけ押し開け、葵はひそひそ声で手招きしてくる。
「入ってって……防犯システムとか大丈夫なのかよ」
「平気だよ。宿直の先生がいる夜は、誤作動を防ぐために内部はもちろん切ってあるの。外周のセンサーは……乗り越えなければ大丈夫。……職員室で聞いて知ってるから」
優等生の葵は、悪戯が見つかった子どものように小さく笑って、ぺろりと舌を出した。
情報網も手口も、あまりにも手慣れすぎている。
「もしかしなくてもお前……前にもやったことあるだろ」
「……ふふっ。秘密。今は細かいこと、気にしないで?」
悪びれもせずに囁くと、葵は俺の手をふたたびぎゅっと握り直した。
夜の学校への不法侵入という特大の非日常に心臓が跳ね上がる。けれど、握られた手のひらの確かな体温が、不思議と俺の恐怖心を塗りつぶしていった。
勝手口をくぐり抜けて校舎に忍び込むと、そこは昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
いつも歩いているはずの学校なのに、夜の闇に沈んだだけで全く別の異界のように思える。少しでも足音を立てればどこまでも反響してしまいそうで、なんだか無性に怖い。夏だというのに、どこかひんやりとした冷たい空気が肌を撫でていた。
俺と葵は、月明かりが差し込むリノリウムの廊下を、息を潜めて歩く。木の床や金属の階段に比べれば足音は立ちにくい素材だが、それでも心臓の鼓動がダイレクトに床へ響いてしまいそうな緊張感だった。
前を行く葵の、白いワンピースの裾が静かに揺れている。
最上階まで来て、廊下には出ずに階段をさらに曲がる。向かっている方角を察して俺は思わず眉をひそめた。
「……屋上?」
「うん。屋上だよ」
振り返りもせず、葵は当然のように階段へ足をかけた。
先頭を歩く葵の背中について、一段ずつ上へと上がっていく。
だが、うちの学校の屋上扉は、事故防止のために昼間でも厳重に施錠されていて立ち入り禁止のはずだ。
「……またピッキングか」
踊り場に立ち、重たい鉄の扉の前に立った葵の後ろ姿に、呆れた声が漏れた。
葵はカーディガンのポケットから先ほどの黒いヘアピンを取り出し、振り返る。
月光に照らされたその表情は、「もちろんですよ」と言いたげな悪戯っぽい涼やかな笑みをたたえていた。ここまで来ると引くのを通り越して、もはや感心してしまう。
カチャ、カチャ。
――ガチャンッ。
そしてまた、ものの十秒足らずで重いシリンダーが外れる音が響いた。
「……お前、実は夜は怪盗だったりする?」
「ふふっ。怪盗なら、もうとっくに陸くんの心を盗んでるはずなんだけどな」
そんな冗談を囁きながら、葵は両手で重い鉄扉をギギッと押し開けた。
途端に、生温い夜風が一気に吹き込んできて、葵の長い黒髪と白いワンピースを大きく煽った。
鉄扉を押し開けて踏み出した屋上は、ひんやりとした夜風が吹き抜けるだけの、がらんとしたコンクリートの広場だった。
柵で囲われた屋上に出て、葵は何を見せたかったのだろう。
きょろきょろとあたりを見回してみるが、貯水タンクとフェンスの影が落ちているだけで、特別なものなんて何もない。
「見て」
ふいに、隣に立った葵が静かに言った。
「見てって、なにを――」
葵がすっと伸ばした白い指先は、暗闇の先、頭上を指していた。
促されるまま、その指が示すほうを辿るようにして首を上げる。
――瞬間。
「うわぁ……」
思わず、間抜けな感嘆が口からこぼれ落ちていた。
雨雲がすっかり吹き払われた夜空いっぱいに、信じられないほどの星が散らばって輝いていた。
夕立が空気中のチリを全部洗い流してくれたせいだろうか。群青色に澄み渡った空の奥から、無数の光の粒が零れ落ちてきそうなくらい、鮮明に瞬いている。
街灯の明るい普段の街中路では、こんなにたくさんの星なんて一度も見たことがなかった。
「きれいでしょ」
見上げる俺の横顔を盗み見るようにして、葵が誇らしげに微笑む。
葵が両腕を広げてくるりと回る。白いワンピースが夜闇にふわりと膨らみ、恥ずかしそうに手で押さえて、葵は空を見上げ直しながら言葉を続けた。
「ほら、ここってとっても広い敷地で、しかも夜は明かりも人もいないから真っ暗でしょ? だから、星がよく見えるの」
「へぇ……知らなかった」
「星の光ってね、何百年も何千年も昔に放たれた光が、時間をかけて今ここに届いてるんだって」
静寂が広がる夜の屋上で、葵の声が鈴の音のように澄んで響いた。
フェンスにそっと両手を預けた葵は、満天の星を見上げたまま、穏やかな横顔で言葉を紡ぐ。
「過去に言われた酷い言葉とか、昔受けた心の傷って……きっと、この星の光と同じなんだと思う。何年も前のことなのに、ずっと胸の奥に残り続けて、今でも自分を縛りつけて苦しめるの」
「……葵」
「私、陸くんの昔のことはよく知らないよ。あの人がどんな酷いことを言ったのかも、全部は分からない」
葵がふっと息を吸い、俺のほうへと向き直った。
風がさらりと黒髪を揺らし、その切れ長の瞳が真っ直ぐに俺を捉える。濡れたように光る黒い瞳には、迷いなど微塵もなかった。
「でもね、陸くん。私が今日一緒にいて、この目で見た陸くんは……怪我した私を必死でおんぶしてくれて、お姫様抱っこまでしてくれて、自分の服を貸してくれて……誰よりも優しくて、あたたかくて、かっこよかったよ」
葵の小さな手が、フェンスを掴んでいた俺の右手を、下からそっと包み込んできた。
ひんやりした夜風のなかで、その指先だけが熱を帯びているように温かい。
「過去に誰が陸くんを否定したって、関係ない。今の私はね……陸くんの全部が、大好きなんだよ」
「――――っ」
心臓が大きく跳ねた。
頭の奥で、あの冷たい教室の笑い声が、黒い霧のように溶けて消えていく。
ずっと自分を縛りつけていた鎖が、葵のたった一言で、音を立てて砕け散っていくような感覚だった。
他人の好意を直視するのが怖い。他人の好意を受け止めるのが怖い。また裏切られるのが怖い。
そんな惨めな臆病者の檻を、この子は今、自分の手で強引にこじ開けようとしてくれているのだ。
だから、そんな葵だからこそ俺は――。
「……葵」
「うん」
「俺も、ずっと……葵のこと、好きだった。……俺と、付き合ってくれるか?」
声は震えていたかもしれない。
でも、逃げずに、初めて自分の言葉で真っ直ぐに伝えた。
葵の目が丸くなり、みるみるうちに大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。けれどその口元は、これ以上ないほど幸せそうに綻んでいる。
「……はいっ! 喜んで……っ!」
たまらなくなって、俺は葵の肩を引き寄せた。
白いワンピース越しに伝わる華奢な体温。胸元に顔を埋めた葵から、あの甘いシャンプーの匂いが立ち上る。
顔を上げた葵の潤んだ瞳が、俺の唇を見つめていた。
リビングで遮られた時間の続き。今度は誰にも邪魔されない――そう信じて、二人の距離がゼロになろうとした、その刹那だった。
――ガチャリ。
屋上への鉄扉の向こう、階段の下から響いたのは、明確な鍵の音と重い足音。
「だーれか屋上にいるのかー? 鍵が開いてるぞー?」
太い声とともに、扉の隙間から黄色い懐中電灯のビームが射し込んできた。
まずい、宿直の先生だ!
「「――――っ!?」」




