㉑ 水瀬葵Ⅱ
夜の静寂を切り裂いた自分の怒鳴り声が、遅れて耳の奥で反響した。
――やってしまった。
目を丸くして息を呑む凜乃先輩。息を止めて俺を見つめる葵。そして、笑顔をピキリと凍りつかせた晶。
三人の視線が一気に突き刺さり、カッと頭に血が上っていたのが、急速に冷え切っていく。
「あ――わりぃ」
掠れた声でそれだけ吐き捨てると、俺は逃げるように踵を返した。
背後から「あ、陸くん!」「りっくん……!」と呼び止める声が聞こえた気がしたが、振り返る余裕なんて微塵もなかった。情けなさと恥ずかしさで視界が狭まり、ただひたすらに夜道を蹴って、自宅のマンションへと駆け戻った。
玄関のドアを乱暴に閉め、リビングから「あれぇ? 陸ぅ、早かったじゃない〜」と呑気に飛んでくる母さんの声を無視して自室へ飛び込む。
バタン、と引き戸を閉めて鍵をかけ、そのままベッドへと倒れ込んだ。
「……っ、クソ」
天井の暗がりを見上げながら、ぎゅっとシーツを握りしめる。
俺は一体、何をやっているんだ。
平気なフリをして、無関心を装って、誰の好意も本気にしないように予防線を張ってきたはずなのに。あんなにみっともなく声を荒らげて、先輩や葵にまで最悪な空気を吸わせて。
結局、俺はあの教室の隅から一歩も前に進めていない。晶の軽薄な一言に動揺して、過去の亡霊に怯えて喚き散らしただけだ。
自己嫌悪の底なし沼に沈み、奥歯を噛み締めていた、その時だった。
――ブブッ、ブブッ。
ポケットの中でスマホが震えた。
画面を恐る恐る点灯させると、そこには『水瀬葵』の文字。
出るのが怖くてベッドの端へ放り捨てて無視してしまった。そして数十秒震え続けて、切れる。
ブブッ、ブブッ。
ブブッ、ブブッ。
ブブッ、ブブッ。
出なくても、何度もかかってくる電話。
スマホをジッと見つめて、四回目の着信でようやく手に取る。躊躇したが、逃げっぱなしで終わるわけにもいかない。通話ボタンをスワイプし、耳に当てた。
「……もしもし」
『あ、陸くん……やっと出てくれた』
スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、少し息の上がった、でもいつものように柔らかな葵の声だった。
「さっきは……ごめん。大声出して、変な空気にして」
『ううん、謝らないで。……陸くんが、ずっとひとりで我慢して傷ついてたこと、私、ちゃんと分かってるから』
「え……」
『それにね、私……今日はすごく楽しかったよ。雨に降られちゃったけど、陸くんにおんぶしてもらって、しかもお姫様だったまで! おうちにまでお邪魔して……今日は初めてがいっぱいだった!』
責める色など欠片もない、心からの温かい言葉。
冷え切っていた胸の奥に、じんわりとぬくもりが広がっていく。さっきまで荒れ狂っていた感情の波が、葵の声を聞いているだけで、嘘のように静まっていくのが分かった。
「葵……ありがとな」
『ふふっ。どういたしまして――』
ピンポーン。
その時、静まり返った部屋の外から、澄ました電子音が鳴り響いた。
こんな時間にインターホン?
ドアを少し開けて廊下からリビングを覗き込むと、リビングのソファでは、残った夕食のおかずを肴に缶チューハイを開けた母さんが、気持ちよさそうな寝息を立てて完全に酔いつぶれていた。起きる気配はゼロだ。
「わりぃ葵、ちょっとインターホン鳴ってるから待っててくれ。すぐ出るから」
『うん、わかった』
通話画面を伏せて廊下を抜け、玄関へ向かう。
モニターを確認しようと覗き込み――俺は目を疑った。
鍵を回してドアを開けると、そこには通話中のスマホを耳に当てたまま、小さく息を切らしている女の子が立っていた。
「――なんで?」
ついさっき電話越しに声を届けてくれていた葵が、夜の街灯を背に受け、乱れた前髪を手で払いながら立っていた。
葵はスマホをポケットにしまうと、潤んだ黒い瞳で真っ直ぐに俺を見つめ、小さく微笑んだ。
「ねえ、今から時間ある?」
「は……? 時間って、もうこんな夜だぞ?」
困惑する俺の返答など待たずに、葵はすっと歩み寄ると、俺の手首を小さな手でぎゅっと握りしめてきた。
「ちょっとだけ、付き合って」
有無を言わさぬ力強さだった。
そのまま子供のように手を引かれ、俺は引っ張られるほうへと靴を履いて連れ出されていく。
夜風がひんやりと肌を撫でる中、前を行く葵の背中についていく。
目的地は聞かされていない。けれど、曲がり角を曲がるたび、見慣れた景色が視界をよぎる。
中学に入学してから、毎日、毎朝、嫌というほど歩き続けてきた通学路。
――学校への道だ。
「なあ、何をするかくらい教えてくれてもいいんじゃないか?」
耐えかねて尋ねると、葵は引いていた足をふと緩め、肩越しに振り返った。
「んー? ふふっ、秘密っ!」
街灯の明かりに照らされたその笑顔は、夏の終わりの夜風を吹き飛ばすくらい屈託がなくて、胸の奥がきゅうと音を立ててときめいてしまう。
他人の好意が怖い。裏切られるのが怖い。
そうやって頑丈な鉄格子で心を塞ぎ込んできた俺を。
もしかしたら葵は、この暗闇の中から強引に連れ出して、檻ごとぶち壊してくれるんじゃないか。
引かれる手のひらの確かなぬくもりを感じながら、俺はそんな確信めいた予感を抱いていた。




