⑳ 水瀬葵Ⅰ
「……ふう。ごちそうさまでした!」
嵐のような夕食が終わり、母さんは満足そうに自分の腹を撫でながらソファへと倒れ込んだ。
脱衣所の除湿乾燥機がピピッと完了音を鳴らしたのは、ちょうど食器を片付け終えたタイミングだった。
「陸くん、お洋服……乾いたみたい」
「あ、ああ。着替えてきな」
葵は小さく頷くと、脱衣所へと小走りで向かった。
数分後、自分の制服に着替えて戻ってきた葵を見て、俺は心の底からホッとした。あのぶかぶかの白Tシャツ姿も破壊力抜群で理性が危うかったが、見慣れた清楚な制服姿に戻ってくれたことで、ようやく正常な酸素濃度が戻ってきた気がする。
窓の外を見やると、あれほど激しく叩きつけていた夕立はすっかり上がり、雨上がりの湿ったアスファルトの匂いが夜風に乗って漂っていた。
「雨、やんだな。もう遅いし、家まで送るよ」
「えっ、いいの……? あ、でも、迷惑じゃ……」
「女の子をこんな夜道に一人で帰せるわけないだろ。すぐそこだし、送らせてくれ」
「……うん。ありがとう、陸くん」
葵が嬉しそうに頬を緩め、控えめに微笑む。
よし、これでようやく葵と二人きりで落ち着いた時間が――と思った、まさにその瞬間だった。
「あー、陸ぅ! それなら、あきらちゃんも一緒に送ってあげなさいよ!」
ソファでスマホをいじっていた母さんが、思い出したように顔を上げて爆弾を投下した。
「……は?」
「あきらちゃんのおうち、陸のところからちょっと歩くでしょ? 女の子を夜道に一人で帰すわけにいかないじゃない。ついでなんだから送っていきなさい」
「え、いや……」
勘弁してくれ。
葵を送るのは当然だとしても、晶まで連れて行くなんて、どう考えても帰り道が新たな修羅場になる未来しか見えない。俺の中で晶に対する警戒警報がけたたましく鳴り響いていた。中学の時のトラウマも、さっきのディープキスの生々しい感触も、まだ何ひとつ消化できていないのだ。全く乗り気になれるはずがない。
「陸、嫌そうな顔しないの。ほら、男の子でしょ!」
「わ、分かったよ……」
母さんの無敵の押しに勝てるはずもなく、俺は重い溜息をついた。
隣を見れば、晶は「やったー! りっくんと夜のお散歩だ!」と無邪気に飛び跳ねている。
一方の葵は、スッと表情を消し、冷え切った瞳で晶を凝視していた。
――終わった。
俺を真ん中に挟んで、左右に葵と晶。
外に出れば雨上がりの涼しい夜風が吹いているはずなのに、玄関を開ける前から、俺の胃袋だけがキリキリと音を立てて痛み始めていた。
*
エントランスを出てすぐの住宅街は、ついさっきまでの大雨が嘘のように静まり返っていた。道路のあちこちにできた水たまりが、街灯のオレンジ色をぼんやりと反射している。
左隣には、制服のスカートを控えめに揺らしながら歩く葵。
右隣には、長い脚で軽快にステップを踏む晶。
俺を真ん中に挟んだこの並び順は、どう考えても歩く火薬庫そのものだった。葵からは無言の冷気が漂い、晶からは爛漫とした熱気が押し寄せてくる。
葵の家までは歩いて十分もかからない。早く葵を安全圏へ送り届け、そのあと晶をなんとか適当にあしらって帰る――それだけを考えて、俺が早足になりかけた、その時だった。
「――あれ? 陸くん!」
向かいの曲がり角から、聞き覚えのある柔らかい声が降ってきた。
見れば、両手にパンパンに膨らんだスーパーのレジ袋を下げた、見慣れた先輩の姿。買い出しの帰りだったのだろう。俺の姿を認めるなり、ぱっと顔を輝かせた先輩は、その豊かな胸をたゆんたゆんと大きく揺らしながら、パタパタと小走りで駆け寄ってきた。
「ふふ、やっぱり陸くんだ! 葵ちゃんも一緒……あ、ふたりでお出かけしてたの?」
夜道で偶然出くわしたふたりを微笑ましくからかうような、いつもの優しいからかいの眼差し。
だが、その視線が、俺の右隣に立つ見慣れない長身の少女へと滑った瞬間、先輩のまばたきがぴたりと止まった。
「……そちらは――?」
「あー、辻さん。ちょっと偶然ね」
胃の奥をキリキリと痛めながら、俺はなるべく当たり障りのないトーンで取り繕おうとした。
だが、そんな牽制がこの爆弾娘に通じるはずもなかった。
「はじめまして! 辻晶です! りっくんの彼女やってます! おねえさんすっごくおっぱい大きいですね!」
「――え?」
あまりにも屈託のない、太陽のような笑顔から放たれたド直球の自己紹介。
先輩は目を丸くして完全に固まり、掲げたレジ袋ごと時を止めた。
「違います!!」
夜の住宅街を切り裂くような、張り詰めた叫び声。
驚愕して見開かれた葵の瞳から、すさまじい気迫が迸っていた。普段の慎ましさを完全にかなぐり捨てた葵の剣幕に、先輩がびくっと肩を跳ねさせて視線を泳がせる。
「か、彼女じゃないですよ。その、中学の同級生です」
震える唇を必死に抑え込み、吐き捨てるように訂正する俺の横で、晶は何ひとつ悪びれもせず、くすくすと肩を揺らした。
「もーひどいなありっくんは。あたしたち別れ話なんてしてないよね? ってことはまだ付き合ってるってことじゃない」
カラッとした声。悪意の欠片もない、当然の真実を口にするような無邪気さ。
その軽薄な調子に、俺の頭の芯でブツンと何かが千切れた。
「ふざけんなよ!!」
冷静に、いつも通りに淡々と突き放す。
そのはずだった。なのに、喉から飛び出したのは無様に裏返った怒鳴り声だった。
こいつは平気な顔をして笑っているが、俺は全然普通じゃない。
関係なんて、とっくに終了しているんだ。
あの日、嘲笑が飛び交う教室から逃げ出していく俺の背中を、お前が追わなかったあの瞬間に――。




