⑲ 料理対決!!
「とりあえずご飯にしましょ! お腹すいちゃった!」
能天気な母さんのその一言は、バチバチと火花を散らしていたリビングの空気を、見事にへし折った。
一触即発だった二人の視線が、同時に「は?」という顔をして母さんへと向けられる。
「もー、せっかくの久しぶりの帰国なんだから、そんな怖い顔しないで! ね? あきらちゃんもお腹空いてるでしょ?」
「あはは、そうですね!!」
晶は先ほどまでの殺気立つ空気を一瞬で塗り替え、太陽のようなまぶしい笑顔を咲かせて母さんに歩み寄った。その圧倒的なコミュ力と図太さに、俺は心の中で「お前、海外でどんなサバイバル術を学んできたんだよ……」と盛大にツッコミを入れる。
だが、問題はもう一人のほうだ。
「……あの、私、そろそろお暇しないと……」
葵は青ざめた顔で、ガタガタと震えながら後じさっていた。
だぶだぶの白Tシャツという「陸の部屋着(=既成事実)」を着たまま、彼女を自称する高身長の美女と母親の目の前にいるという地獄。精神的限界を迎えた葵の瞳には、うっすらと涙の膜が浮かんでいる。そりゃそうだ、高校生のメンタルで耐えられる修羅場のキャパシティをとうに超えている。というか俺のキャパも限界なんだが?
「えっ、帰っちゃうの? ダメよ、こんな大雨なんだから! それに、せっかくの可愛いお友達なんだし、一緒にご飯食べていきなさいって!」
母さんは事情を何も知らないからこそ無慈悲に、そして満面の笑みで葵の逃げ道を完全に塞いだ。
まずい! これ以上ここにいたら葵が窒息死するか精神崩壊する!
「母さん! 葵は、その、服が濡れてたから俺のが貸しただけで、その、あれだ!」
「ふーん? 男物のTシャツ一枚で、しかもさっきは上から覆いかぶさって……青春だねぇ?」
「違うわっ!!」
母さんのニヤニヤした冷やかしに、俺は必死で叫んだ。
だが、その横で。
「ねえ、りっくん」
スッと近寄ってきたのは、いつの間にか荷物を下ろしていた晶だった。
晶は俺の腕に自分の豊かな腕を絡めつけ、ぴったりと密着させてくる。タンクトップ越しに伝わってくる柔らかい感触に、思考が強制的にショートしかけた。
「あたし、お腹ぺこぺこ! ねえ、お料理手伝うから、一緒にキッチン行こっか?」
「は、はあ……?」
「それとも、そっちの可愛いお友達も一緒に来る? ……あ、でも、二人きりのほうがいいのかなぁ?」
悪意というより悪戯心がたっぷりな声。しかし逃げ場を一切与えない爽やかな笑顔。
その背後で、葵が「……っ」と唇を噛み締めながら、潤んだ瞳で俺を見上げていた。
――地獄だ。
「じゃあ、さっそくキッチン借りるねー! りっくん、お料理の腕が落ちてないかあたしが厳しいチェックしてあげる!」
晶は太陽のような笑顔を浮かべて、ニヤニヤと出方をうかがっているようにも見える。
「あの、陸くん……私、ご飯作る……っ!」
葵が絞り出すような小さな声を出した。
潤んだ瞳には悔しさと焦燥の色が浮かんでいる。さっきまでの圧倒的な敗北感と絶望を乗り越え、彼女の中で何かがカチリと音を立てて切り替わったようだった。
不意に、葵がふっと息を吸い込み、真っ直ぐに俺を見上げる。
「私も、行く。……お料理、手伝うから」
「えっ? いや、葵は客だし、そんな無理して――」
「無理じゃない!」
ぐっと両手を握りしめ、葵は揺るぎない意志を宿した黒い瞳を光らせた。
普段の清楚で控えめな彼女からは想像もつかないほど、負けん気に満ちた表情だ。
「あんな……あんな海外かぶれの女に、いいところ全部持って行かれるなんて絶対イヤ! 私だって、陸くんのために美味しいご飯作れるもん……っ!」
ポッと両頬を朱色に染めながらも、葵は一歩も引かない姿勢を見せる。
彼女を自称する強烈なライバル(晶)の登場によって、葵のなかに眠っていた闘争心が完全に火を吹いた瞬間だった。
「わかった、わかったから……! 頼むから暴走しないでくれよ?」
「うぅ、分かってる……。でも、負けないからね……!」
決意を固めた葵は、パタパタと素足を鳴らしてキッチンへと向かっていった。
――やばい。このままでは、今夜の我が家の夕食会場が、女子二人による仁義なき料理バトルフィールドと化してしまう。
俺は生きた心地がしないまま、二人の背中を追いかけてキッチンへと足を踏み出した。
半個室のキッチンに足を踏み入れると、そこはすでに普通の家庭の台所とは思えないほどの殺気と熱気に包まれていた。
我が家のキッチンは、高校生の一人暮らしには少し贅沢な、大きめの二口コンロがついている。
その狭いスペースに、圧倒的な存在感を放つ二人の少女が並び立っていた。
「ねえ、りっくんって、昔から肉料理が好きだったよね? だから、あたしは特製のジャンボハンバーグにするの!」
左側のコンロの前で、晶は満面の笑みを浮かべながらボウルを豪快に混ぜている。
引き締まった二の腕にしなやかな筋肉が浮かび上がり、手際よく空気を抜いて形を整えたタネは、見るからにボリューム満点のガッツリ系だ。海外留学で鍛え上げられたのか、手際も迷いも一切ない。
一方、右側のコンロの前では、葵が真剣そのものの表情で鍋に向き合っていた。
こちらは一転して、和食の職人のような細やかな手つきだ。
鍋には出汁パックから丁寧に引いた黄金色の出汁が香り立ち、隣のまな板では包丁がリズミカルな音を立てて瑞々しいキャベツを美しい千切りへと変えていく。さらに、その手早さで豚こま肉を使った豚の生姜焼きのタレを絡め、香ばしい醤油と生姜の食欲をそそる匂いを充満させていた。
ハンバーグで男ウケを直撃する晶と、本格的な和定食の技で家庭的な胃袋を掴みにいく葵。
並んで包丁を振るう二人の背中からは、バチバチと見えない火花が散り、キッチンの温度が数度上がったような錯覚さえ覚える。
あまりの熱気と緊迫感に、後ろから見守ることしかできない俺は、ただただ冷や汗を流しながら固唾を呑んで立ち尽くすのがやっとだった。声なんて、とてもじゃないが出せない。
やがて、戦争のような調理時間が終わり、食卓には所狭しと料理が並べられた。
中央に鎮座するのは、晶が作った肉汁あふれる巨大なジャンボハンバーグ。そしてその脇を固めるように、葵が手際よく仕上げた黄金色の出汁巻き卵、ふんわり盛られた千切りキャベツ、香ばしいタレが絡んだ豚の生姜焼き、そして丁寧に引いた出汁が香る熱々の味噌汁と炊き立ての白米が並ぶ。
卓を囲むのは、母さん、晶、葵、そして生きた心地がしない俺。
全員の視線が集中する中、まずは味見役を任命された母さんが箸を持った。
「じゃあ、さっそくいただきます!」
母さんが最初に狙ったのは、晶のジャンボハンバーグだった。
箸を入れると、肉汁がじゅわっと溢れ出す。それを一口でパクリと口に運ぶ。
「んーーっ! おいしいっ! お肉の旨味がギュッと詰まってて、ソースも最高!」
とても美味しそうに頬を緩ませる母さんを見て、晶が「でしょー?」と得意げに胸を張る。
だが、母さんの箸は止まらない。続いて、葵が作った豚の生姜焼きへと伸びた。
タレが絶妙に絡んだ豚こま肉を口に含むと――瞬間、母さんの目が大きく見開かれた。
「――っ!?」
口の中に広がるすりおろし生姜の爽やかな香りとキレのある醤油の風味が、一気に鼻を通り抜ける。そのあまりの白米泥棒な味付けに、母さんは興奮したように茶碗を掴み、白米をバクバクとかっこみ始めた。
「これこれこれーっ! この生姜の効き具合、たまらない! うーん、おいしい! 日本に帰ってきたー!って感じがするぅ!」
さらに、追い打ちをかけるように葵の味噌汁をズズズと勢いよく飲み干し、母さんは天を仰いだ。
「出汁の味が染みる……! お味噌汁と生姜焼き、そしてこの完璧な出汁巻き卵の定食ヂカラ……! 毎日の疲れた胃袋に染み渡るこの感じ、文句なしで私の好みドンピシャだわ!」
母さんはバシッとテーブルを叩き、満面の笑みで宣言した。
「――この勝負、葵ちゃんの勝ちー!」
その瞬間、食卓の空気が劇的に変わった。
「やった……!」と葵が小さくガッツポーズをして頬を赤らめ、対照的に晶は「うそっ、マジか〜!」と悔しそうに頬を膨らませる。
母さんの能天気な一言によって、今夜の地獄の夕食会は、とりあえず葵の勝利という形で最初の決着を見たのだった。




