⑱ 辻晶
「ふ〜んふふ〜ん♪ ただいまー! あー、フライト長かった〜! 陸ぅ、サプライズで一週間だけ一時帰国したわよー!」
――母さん……!?!?
背筋を駆け上がる絶望的な悪寒。
見上げれば、俺の上に押し倒す体勢で乗っかったまま、だぶだぶの白Tシャツ一枚に見える姿の葵が、完全に魂の抜けた顔で口元をパクパクと震わせていた。
無情にも廊下からパタパタとこちらへ近づいてくる母さんの足音が響く。
だが! 絶望はそれだけでは終わらなかった。
「……あ、そうそう陸! エントランスのところで雨宿りしてた子がいてね、『りっくんの彼女です』って言うから一緒に連れて上がってきちゃったわよ〜!」
「……は?」
彼女?
何を言っているんだ。俺の彼女――ではないが、いま俺に覆いかぶさってキス寸前だった女の子なら、目の前で真っ白になって固まっている。
それなのに。
リビングの扉の向こうから、聞き覚えのある――そして、思い出すだけで胃の奥がキュッと冷たくなる声が微かに混じって聞こえてきた。
『お邪魔しまーす。ふふ、りっくん驚くかな……』
その声を聞いた瞬間に、頭の奥でガラスが割れるような音がした。
中学の記憶が濁流のように脳裏へ逆流してくる。
――中一の秋。ろくに恋もわからないまま、告白されてなんとなく付き合った女の子。
人気者だった蓮の隣にいつもいた俺を、周囲の女子たちが「蓮の金魚のフン」「自分がイケてるって勘違いしてる」と陰口を叩いていた。忘れもしないあの教室の隅。
あろうことか俺をかばうどころか彼女は、彼女は周りの女子たちに同調してヘラヘラと笑いながら言ったのだ。
『あんな勘違い男と本気で付き合うわけないでしょ。罰ゲームみたいなもんだから……』
教室の扉の隙間から、それを全部聞いていた俺の目の前で。
他人の好意なんて信じられない。
自分なんかが好かれるはずがない。
向けられた好意に飛びつけば、またあの時みたいに足元をすくわれて笑いものにされるだけだ――。
俺が好意を恐れるようになった元凶。――辻晶。
ガラッ!
非情にも、リビングの引き戸が勢いよく開け放たれた。
「陸ぅ! 彼女ちゃん連れて……って、あ、れ……?」
スーツケースを引いた母さんが、開け放たれたリビングの入り口で呆然と立ち尽くす。
その視線の先にあるのは――もちろん言うまでもない。ソファの上で裸にも近い服の葵に押し倒されている俺の姿。
葵の黒髪が俺の頬にかかり、あと数センチで唇が重なるという、言い訳の余地がミリもない現場だ。
「ひゃっ……!?」
葵が短い悲鳴を上げて、弾かれたように俺の上から飛び退いた。
だぶだぶのTシャツの裾を両手で必死に押さえ込み、顔から火が出るどころか頭から湯気を吹き出しそうな勢いで真っ赤になっている。
だが、問題は母さんだけではなかった。
母さんの背後からひょっこりと顔を覗かせた人物。
「お邪魔しまーす! りっくーん、久しぶ――」
扉の隙間から現れたその姿を見て、俺の思考は完全にフリーズした。
……だれ、だ?
記憶の中にある、小柄で背中を丸めていつもおどおどしていた少女の面影はどこにもない。
そこに立っていたのは、すらりと長い手足を持つ、見上げるような高身長の女の子だった。
爽やかなショートカットに、ほんのり日焼けした健康的な小麦色の肌。薄手の白いタンクトップの上からでも分かる肉付きは、同じ高校生とは到底思えない。引き締まったウエストに対して、胸元はタンクトップの生地をこれでもかと押し広げ、強烈な谷間を惜しげもなく主張していた。
葵の華奢で清楚なスレンダーさとは、何もかもが真逆。
あまりにも成長した体を前に、呆気に取られる俺の視界の中で――その少女の瞳が、ソファの上にいる俺を捉えた。
「……あ」
晶の瞳が獲物を捕らえたチーターのように細められる。
その視線は、俺から乱れた襟元を手で押さえて床にへたり込んでいる葵へと滑り、一瞬で状況を把握したようだった。
あの頃のままの気弱な晶だったなら、気まずさに耐えかねて泣き出すか逃げ出すか――
そう身構えた瞬間だった。
「あっはは! りっくんたら、なにやってんのさ!」
カラッとした、夏の青空を突き抜けるような爽やかな笑い声がリビングに響いた。
晶は長い脚で迷いなくずかずかと部屋に踏み込んでくる。
笑顔だ。一切の陰りもない、太陽みたいな満面の笑み。
「え、あ、辻……?」
「もう〜、ただいまのハグ、待ちきれなかった? お友達とふざけてないで、早くあたしを迎えてよ!」
母さんが「あらあら、若い子って自由ねぇ」と呑気に目を丸くしている間にも、晶はあっという間に俺との距離をゼロにした。そして俺の胸倉をつかむようにしてぐっと引っ張り起こして、そのままハグをした。
香水じゃない匂い。石鹸と太陽の混ざった匂い。
呆気にとられる俺の首筋に晶のしなやかな腕が巻きつけられる。
「つ、じ……!? お前、な――」
「んっ……」
言葉は、出なかった。
問答無用で塞がれたからだ。
視界いっぱいに広がる、晶の至近距離の笑顔。
重なった唇は、柔らかく触れ合うだけなんて生温いものじゃなかった。
ためらいも恥じらいも一切なく、晶の舌が強引に俺の口内へと割り込んでくる。
「っ……!?!? んむ……っ!?」
抵抗しようにも、鍛えられた体幹でガッチリとホールドされてびくともしない。
タンクトップ越しに、豊満すぎる胸の質量が俺の胸板へとむにゅりと押し潰される。
熱い。生々しい。逃げ場を塞ぐように。深く。執拗に。
絡め取られるように舌を貪られる。
呼吸を奪われ、視界がチカチカと明滅した。
助けてほしいのに母さんは手で顔を覆って恥ずかしそうに「ひゃーっすっごい!」なんて言っている。
中学時代、手すらろくに繋げなかったあの少女がどうしてこんな――
じゅぷ、と甘く濡れた音を立てて、ようやく唇が離された。
銀色の細い糸が、俺と晶の唇の間にすうっと引いて切れる。
「ふはっ……! んー、やっぱりりっくんの味! 向こうにいる間、ずーっとこれが恋しかったんだよね〜!」
晶は親指で自分の下唇を拭い、スポーツドリンクを一気飲みした後のような爽やかな笑顔で、パチンとウインクを飛ばしてきた。
その顔には、罪悪感も照れも微塵もない。あるのは狂気的なまでの純度を誇る「あたしのもの」という絶対の確信だけだった。
獰猛な獣にようやく手放された俺は、酸欠の金魚のように口をパクパクさせながら、ソファの上で完全にへたり込んだ。
な、なにが……起きた……?
だが、静まり返ったリビングで、本当に恐ろしい事態はそこから始まった。
――ピキッ。ピキピキピキッ!
部屋の温度が、一瞬で氷点下まで叩き落とされるような錯覚。
恐る恐る視線を横へと向けると、床に座り込んでいた葵が、ゆらりと立ち上がるところだった。
肩まで伸びた黒髪が影を落としてその表情を覆い隠している。
白Tシャツの裾を握りしめた葵の小さな拳が、小刻みにわなわなと震えていた。
「……あ、あの……?」
葵が顔を上げた。
その瞳から、さっきまでの湯上がりの甘い熱気は完全に消え去っていた。
光もなく底知れない黒い炎を宿した瞳が、俺の唇を奪った晶へと真っ直ぐに突き刺さる。
「……陸くんの、なんなんですか? あなた」
静かに。低く、押し殺された声。
葵の全身から立ち上る凄まじい威圧感に、さっきまで能天気だった母さんですら「ひっ」と息を呑んでスーツケースの陰に隠れた。
しかし、晶はその殺気を受け止めてなお、向日葵のような明るい笑みを崩さなかった。
むしろ嬉しそうに豊満な胸を反らせて堂々と名乗りを上げる。
「あたし? あたしはりっくんの彼女! 辻晶だよ! 君こそ、うちのりっくんの服着て、ここで何してたのかな?」
バチバチと、二人の視線が交錯した空間で火花が散っていた。




