⑰ ドキドキあまーい時間っ!!
廊下の奥にある洗面所の扉が閉まり、続いて脱衣所の引き戸がコトンと控えめな音を立てて閉まった。
……行ったか。
玄関からまっすぐ伸びる通路を挟み、手前の左手にはリビング。右手には俺の部屋と、海外出張続きの両親が年にひと月も使わない実質空き部屋の主寝室がある。
高校生の一人暮らしには持て余す広さの2LDK。いつもならだだっ広くて静かすぎるだけの空間なのに、誰かが帰ってくる可能性がゼロの完全な密室に葵とふたりきりだと思うと、急に息が詰まりそうになる。
乾き切った喉を潤そうと、俺はリビングを抜けて奥のキッチンへ向かった。
半個室になっているキッチンには、リビング側と廊下側の両方に出入りできる扉がついている。その廊下側の扉を一枚隔てた真向かいにトイレと――葵が入った洗面所がある。
冷蔵庫から麦茶のピッチャーを取り出し、グラスに注ぐ。
一気に喉へ流し込もうとグラスを傾けた瞬間だった。
ピピッ、と給湯器のリモコンが短く鳴った。
続いて、向かいの扉の奥から――
――ジャーッ……。
思わず、グラスを口につけたまま動きが止まった。
近い。近すぎる。
リビングにいればくぐもって聞こえるはずの水音が、キッチンの扉一枚を隔てたすぐ向こうから、恐ろしいほどの鮮明さで鼓膜を叩いてくる。
お湯が床や壁を打つ音。時折混じる、微かな水飛沫の跳ねる音。
洗面所の正面にある収納からバスタオルを取り出して、左手の脱衣所に入ってその右手の浴室へ。
見慣れた自宅の間取りだからこそ、葵が今どこで、どんな体勢でシャワーを浴びているのか。嫌でも脳裏に克明に浮かび上がってしまう。
温かい湯気。濡れた黒髪。肌を伝う雫。
……ダメだ。これ完全にアウトなやつだ。
早くリビングに戻るべきだった。扉を開ければすぐにリビングへ逃げ込める。
なのに、足が床に縫い付けられたように動かない。そんなはずないのに、動けば足音が向こうに聞こえて、俺がこんな至近距離で聞き耳を立てていたと思われるんじゃないかという恐怖すら湧いてくる。
グラスを持ったまま、キッチンの薄暗がりの中で完全に金縛り状態だった。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく鐘を鳴らし、息の吸い方すら忘れていく。
三分だったのか五分だったのか――いや、十分だったのか。時間の感覚すら完全に麻痺して、頭が熱気でぼんやりとしてきた、その時だった。
キュッ。
不意に水音が止まり、静寂が降ってきた。
ビクッと肩が跳ね、持っていたグラスが小刻みに揺れてカチャリと鳴る。
ハッとして我に返ると、額にじっとりと冷や汗が滲んでいた。
……あ、危ねえ。完全に魂が抜けてた。
慌ててピッチャーを冷蔵庫に戻し、俺は抜き足差し足でリビングへと駆け戻った。
ソファに腰を下ろし、必死で呼吸を整える。
やがて廊下の奥から、ドライヤーの温風の音が短く聞こえ――止まった。
ペタ、ペタと、廊下のフローリングを歩く素足の小さな足音が近づいてくる。
リビングの扉が、そろりと数センチだけ開いた。
「あの……陸くん……?」
「お、おう! あがったか!」
裏返りそうな声をなんとか抑え込んで立ち上がると、扉がゆっくりと引かれた。
そこに立っていた葵の姿を見た瞬間、俺の思考回路は今度こそ完全に焼き切れた。
……おいおいおい。
ちょっと待て、それは聞いてない。
現れた葵は、俺が貸した無地の白Tシャツを着ていた。
俺が着てもゆったりめのサイズ感だが、小柄な葵が着ると完全にワンピース状態だ。肩の縫い目が大きく落ちて五分袖のようになり、ゆるんだ首元からは華奢な鎖骨のラインがくっきりと覗いている。
そして何より問題なのは、その丈だった。
裾が太ももの半分あたりまですっぽりと覆い隠していて、下に着ているはずのスウェットの短パンが、布地の奥に隠れて完全に視界から消えている。
パッと見、まるで大きなTシャツ一枚しか着ていないようにしか見えない。
いわゆる、世に言う「彼シャツ」現象そのものだ。
しかも、薄手の綿生地の向こう側に透ける肩の華奢さや、裾からすらりと伸びる真っ白な生足は、湯上がり特有のほんのりとした桜色に染まっている。
軽く乾かしただけの黒髪からは、俺がいつも使っている安物のシャンプーの匂いが、信じられないくらい甘い湯気となってふわっとリビングに漂ってきた。
火照った頬。少し潤んだ瞳。
反則だろ、これ。控えめに言ってエッチすぎる。目のやり場どころか、視界のどこを切り取っても直視できない。
「ごめんね、お待たせしちゃって……。あの、サイズ……やっぱり大きすぎた、かな?」
葵は両手でTシャツの裾をきゅっと掴み、恥ずかしそうにもじもじと内股を擦り合わせた。
その仕草に合わせて、隠れているはずの太もものラインが際立つ。
ダメだ。これ以上見ていたら、高校生男子の理性が消し炭になる。
「……似合ってる。似合ってるから、とりあえず早く座れ。風邪ひくぞ」
俺は乾き切った喉から声を絞り出し、逃げるように視線をテレビの真っ黒な画面へと突き刺した。
「あ、あのね、陸くん。濡れたお洋服、脱衣所のバーに干して除湿乾燥モード? をつけておいたんだけど……大丈夫だったかな?」
「お、おう。全然オッケー。あそこ、除湿モード強にしておけば一時間ちょっとで乾くから」
努めて平気なトーンを装いながら答える。だが、自分の声がわずかに上擦っているのは隠しようがなかった。
葵は「よかった」と胸を撫で下ろし、ぺたぺたと素足の音を立ててリビングに入ってきた。そして、俺が座っている三人掛けのローソファの、一番端っこ――俺からクッション二つ分ほど空けた位置に、ちょこんと腰を下ろした。
――静かだ。
エアコンの送風音と、閉め切った窓を叩く雨の音だけが、室内の余白を埋めている。
広いリビングのはずなのに、なんだかうまく呼吸できていない。酸素が足りない。すぐ隣から漂ってくる、俺と同じはずなのにまるで別の花のように甘いシャンプーの匂いのせいかもしれない。
ほんのわずかでも視線をやれば、だぶだぶの白Tシャツから覗く白い膝小僧や、首筋の湿り気が目に入ってしまう。だからといって前を向けば、消えているテレビの黒い画面に、並んで座る俺たちの姿が鏡のように映り込んでしまう。
逃げ場がない。
「……あの、陸くん」
「な、なに?」
過剰に反応して振り返ると、葵は膝の上でぎゅっと両手を握りしめ、上目遣いで俺を見ていた。
「陸くんも、シャワー浴びてこなくていいの? 雨、陸くんのほうがたくさん浴びてたし……風邪、引いちゃうよ」
「あー……いや、俺はあとでいい。乾いたタオルで拭いたし、男なんてそんな簡単に風邪ひかないから」
「だめだよ。はい、これ」
葵が手元に持っていたフェイスタオルを広げ、立ち上がった。
そして――すっと、俺の真横へと距離を詰めて座り直した。
近い。肩と肩が触れ合いそうな距離。
驚いて固まる俺の頭に、葵は両手でふわりとタオルを被せてきた。
「ちょ、葵……?」
「じっとしてて。……今日、ずっと私を助けてくれたお礼」
タオルの上から、葵の小さな両手が俺の頭をわしゃわしゃと優しく撫でるように拭き始める。
布越しに伝わる体温。すぐ目の前にある、胸元のゆるんだ襟ぐり。葵が動くたびに、白Tシャツの裾がわずかに揺れて太もものきめ細かな肌が露わになる。
あまりの至近距離に、心臓が爆発しそうだ。息を止めていないと、喉から心臓が飛び出してしまいそうになる。
「……もう、十分だから。自分で拭けるって」
「だめ。……私に、お世話させて」
葵の手が止まる。
タオルがはらりと俺の首元に落ちて、二人の視線が真正面からぶつかった。
葵の黒い瞳が、濡れたように潤んでいる。至近距離で見つめ合っていると、葵の長いまつ毛が震え、その白い頬がみるみるうちに朱色に染まっていくのが分かった。
逃げられない。空気が甘く重い。
逃げ場のない熱を帯びて引き絞られていく。
「陸くん……」
「……葵」
「私ね……今日、すごく嬉しかったの。おんぶしてくれたのも、お姫様抱っこしてくれたのも……名前、呼んでくれたのも」
葵の指先が、そろりと俺の胸元――着ているシャツの生地をきゅっと掴んだ。
震える吐息が、俺の唇に届きそうなほど近い。
「陸くんは……私のこと、どう思ってる?」
「それは……」
「私ね、もう我慢できないよ……?」
甘い囁きとともに、葵がぐっと身を乗り出してきた。
その小さな手のひらが、俺の胸板をトン、と押す。
踏ん張る間もなく、俺の背中はそのまま柔らかいソファの背もたれへと沈み込んだ。
――えっ?
視界がぐるりと回る。
気がつけば、俺はソファの上に完全に仰向けに押し倒されていた。
その上に覆いかぶさるようにして、葵が俺を見下ろしている。
だぶだぶの白Tシャツが重力に従って前へと垂れ下がり、ゆるんだ首元から覗く白い鎖骨と、その奥の素肌がこれでもかという至近距離で迫る。葵の長い黒髪がさらりと俺の頬を撫で、吐息が直接肌に触れた。
「葵、お前……っ」
「陸くん……」
葵の瞳には、もう逃げ場のない熱が宿っていた。
潤んだ唇が、ゆっくりと、確実に俺の唇を目掛けて降りてくる。
心臓が耳の奥で激しく乱打していた。天井の照明が葵の輪郭を照らし、時間がスローモーションのように引き延ばされる。
あと数センチ。触れ合う、その寸前――
ガチャガチャッ!! ガッチャン!!
静まり返ったマンションの玄関から金属音が響き渡った。
「「――――っ!?」」
完全に時が止まった。
葵の動きがピタッと凍りつき、俺の呼吸も喉の奥で詰まる。
――え? 鍵!?
ドアノブが回る重い音が続く。
両親は海外出張中で、年にひと月も帰ってこない。まさかこんなタイミングで帰ってくるわけ――。
玄関から聞こえてきたのは、カチャリとパンプスを脱ぐ音と――あまりにも聞き覚えのある、能天気な鼻歌だった。
「ふ〜んふふ〜ん♪ ただいまー! あー、フライト長かった〜! 陸ぅ、サプライズで一週間だけ一時帰国したわよー!」
――母さん……!?!?
先ほどまでの甘いムードが一気に霧散して、背筋を駆け上がる絶望的な悪寒が急激に熱を冷ましていく。
見上げれば、俺の上に押し倒す体勢で乗っかったまま、だぶだぶの白Tシャツ一枚に見える姿の葵が、完全に魂の抜けた顔で口元をパクパクと震わせていた。
無情にも廊下からパタパタとこちらへ近づいてくる母さんの足音が響く。
だが! 絶望はそれだけでは終わらなかった。
「……あ、そうそう陸! エントランスのところで雨宿りしてた子がいてね、『りっくんの彼女です』って言うから一緒に連れて上がってきちゃったわよ〜!」
「……は?」




