⑯ 大雨がっ!!
お土産を選んでショップをあとにし、水族館の出口へと向かっていた、その時だった。
「っ……いたたた……」
隣を歩いていた水瀬さんが、ふと小さく息を漏らして足を止めた。
どうしたのかと振り返ると、顔をしかめながら左足の踵をそっと手で押さえている。
「どうした? 足、痛いのか?」
「ううん、平気……なんだけど……」
そう言いながらも再び歩き出そうとした足元が、ぐらりと揺らいだ。
慌てて腕を掴んで支えると、彼女はとても申し訳なさそうに眉を八の字に曲げる。
「……ごめん。実は今日のためにって新しい靴を買ったんだけど……少しきつかったみたいで、靴擦れしちゃって。歩くのがちょっと痛いかも」
見れば、上品な白いサンダルの踵部分に、薄っすらと赤くにじんだ跡が見える。見ているだけでかなり痛そうだ。
きっと初デートだからって気合いを入れて新品を下ろしてきたんだろう。その健気さを思うと、愛おしさと申し訳なさで胸が締め付けられる。
「無理するなよ。……ほら、ちょっと座れ」
近くにあった石のベンチに誘導し、そっと腰掛けさせた。
「あ、ありがとう……。せっかくのデートなのに、足手まといになっちゃってごめんね」
「何言ってんだよ。怪我したわけじゃないんだし、気にすんな」
俺は彼女の前にしゃがみ込み、その細い足首をそっと自分の膝の上に乗せた。
「えっ……!?」
水瀬さんが小さくびくっと体を震わせ、顔を真っ赤に染める。
周囲を行き交う観光客の視線が少しだけ気になったが、構っていられない。優しくサンダルを脱がせ、傷口を確認する。思っていた以上に皮が剥けていて、痛々しく赤くなっていた。
「けっこう赤くなってんじゃねえか。痛かったろ」
「ううん……これくらい、平気……」
「全然平気そうに見えねえよ」
カバンの中には、さっきショップで買ったお土産と一緒に、念のため入れておいたばんそうこうがあった。
サッと取り出し、傷口に丁寧に貼り付ける。
「これで少しはマシになるか?」
「うん……すごく、痛みが引いたよ。ありがとう、相沢くん」
水瀬さんは恥ずかしそうに目を伏せながらも、嬉しそうにとろけるような笑みを向けた。
とはいえ、貼ったところで一度傷ついた皮がすぐに治るわけじゃない。この調子じゃ、ここから駅までの道のりを歩くのはかなり厳しそうだ。
俺は彼女に背中を向け、低い姿勢を取った。
「ほら、乗れ」
「え……? それって……」
「このまま歩かせたら悪化するだろ。駅までけっこう距離あるし、遠慮すんなって」
少し戸惑う気配のあと、恐る恐るといった様子で、柔らかな温もりが背中にふわりと覆いかぶさってきた。
細い腕が首元に回され、薄手の私服越しに柔らかな感触がダイレクトに伝わってくる。
「つかまったか?」
「うん……あの、すごく重くない……?」
「軽い軽い。お前、ちゃんとメシ食ってんのかってくらい軽いぞ」
ふふ、と背中越しに楽しそうな笑い声が聞こえた。
少しだけ体勢を整え、俺はゆっくりと立ち上がる。
「それじゃ、駅までお姫様抱っこならぬ、おんぶの刑だ」
「もう……でも、すごく温かい。ありがとう――りくくん」
「…………おう、任せろ……あ、あお……」
「っ!?」
「あおぃ……」
「えー? なんてーっ!?」
いたずらっぽいその声はウキウキが隠せていない。なんで名前呼ぶだけでこんなに恥ずかしいんだよ。
「あおい! あーおーいー!! あおいあおいあおいあおい! これでいいか!?」
「やったーっ! やっと呼んでくれたーっ!」
ちくしょう……今日のところはこのくらいで勘弁しといてやる。
*
葵をおんぶして駅までたどり着き、無事に電車に乗って地元へ戻ってきた頃には、すっかり夕暮れ時になっていた。
足の痛みもだいぶ落ち着いた葵は、「もう歩けるから大丈夫だよ、ありがとう」と恥ずかしそうに地面に足を降ろした。
駅の改札を出て、二人で並んで住宅街へと歩き出す。
デートの終わりが近づくにつれて、なんとなーく名残惜しいような、それでいて気まずいような。妙に言い表すのがむずがゆい甘酸っぱい空気が二人の間に流れていた。
「……あのさ、葵」
「んっ?」
「今日はその……本当に楽しかったよ。靴擦れは大変だったけど」
「うん……私も。すごく、夢みたいに楽しい一日だった」
照れくさそうに微笑む葵の横顔を見ていると、胸の奥がキュッと締め付けられる。
――その時だった。
ピトッ、と頬に冷たいものが当たった。
続いて、遠雷の低い音がゴロゴロと空の向こうから響いてくる。
「……え?」
見上げると、さっきまで夕焼けが広がっていたはずの西の空が、いつの間にか不気味なほど真っ黒な入道雲に覆われていた。
次の瞬間、ザァァァァッ!! と軒下に逃げ込む暇もなく視界が白く塗りつぶされる。
「うわっ!?」
前触れもなく、文字通りバケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が襲ってきた。
夏の夕立特有の暴力的な雨粒が、アスファルトを激しく叩きつける。わずか数秒で、俺たちの服はすっかり雨を吸い込んでしまった。
「きゃっ……! すごい雨……!」
「やべえ、傘持ってねえ!」
「――っ!?!?」
このままでは秒でずぶ濡れだ。
足の痛む葵に走らせるわけにもいかない。俺は葵の体をぐっと引き寄せ、そのまま抱え上げるようにして土砂降りの雨の中を駆け出した。
「俺の家ならここからすぐだから!」
「う、うん……っ!」
腕の中で、葵は小さく丸まったまま大人しく収まっている。ときおり胸元から「おひめさまだっこ……」と嬉しそうな呟きが漏れ聞こえてくるが、頼むから今は声に出さないでくれ。気合いで足を動かす。
水たまりをバシャバシャと蹴散らしながら走ること数分。
どうにかこうにか、俺の住むアパートの軒先へと飛び込んだ。
「はぁ……っ、す、すごい雨だったね……!」
「まったくだ……」
葵をそっと地面に下ろし、お互いの姿を見合わせて苦笑いが漏れる。
葵は濡れた黒髪が頬に張り付き、白いワンピースは雨を吸って肌にぴったりと吸い付いていた。透けてこそいないものの、体のラインがくっきりと浮き出ている。
……目のやり場がない。心臓がバラエティー番組の点数発表のドラムロールくらいにとんでもない速さでビートを刻んでいる。
俺は慌てて視線を逸らした。
「あ、の……陸くん、服が……」
「うち、ここすぐだから。とりあえず入れ、風邪ひく」
鍵を開け、葵を自分の部屋へと招き入れる。
玄関で立ち往生している葵に、洗面所から引っ掴んできたバスタオルを手渡した。
「まずは頭と体を拭け。あと……急で悪いけど、シャワー使っていいぞ。風邪ひいたら元も子もないし、俺の部屋着なら貸せるから」
「え……? しゃ、シャワー……?」
葵の顔が、一気に耳まで真っ赤に染め上がった。
そりゃそうだ。男の部屋に駆け込んで、いきなりシャワーを借りて着替えるなんて、イベントとしてエンジンがかかりすぎている。
だが残念ながらやましい気持ちは一切ない。……ないよな? ほんとにないよな、俺。
「い、いや、嫌なら無理しなくていいけど……でもそのままだと絶対風邪引くし!」
「ううん……ありがとう。お言葉に甘えて……借りるね」
葵は真っ赤な顔のまま、震える手でタオルを受け取り、小さく頷いたのだった。




