⑩ 水瀬姉妹
「ひぅ……っ」
いきなり至近距離で怒鳴られたのが予想外だったのか、彼女は肩をびくっと跳ね上がらせ、小さな悲鳴を漏らして椅子の背もたれへと縮こまった。
さっきまでの威勢の良さはどこへやら、目を潤ませて完全に怯えている。
「あ、いや……すまん、大声出して。だけどな、そんな言葉を女の子が軽々しく口にするもんじゃない」
「う、うるさいわね……! だってお姉ちゃん、今まで部活なんて一度も入ったことなかったのに! 毎日まっすぐ家に帰って勉強してたのに! 二年生になって急に変な部活に入り浸りだして、日が暮れるまで帰ってこないんだから!」
潤んだ瞳からポロリと大粒の涙をこぼしながら、彼女は堰を切ったように叫んだ。
悲劇のヒロインみたくなってるところ悪いが、ここはちゃんと訂正させてもらおう。
「だいたい、俺は何も悪くないぞ」
俺は心外だとばかりに両手を広げてみせた。
「水瀬さんがここに入ったのはあいつ自身の意志だし、俺が無理やり引っ張り込んだわけじゃない。なんなら――」
「そうそう。むしろ葵ちゃんをここに連れてきたのって、俺だよー」
ドアの前で涙目になって笑いを堪えていた蓮が、飄々と片手を挙げた。
水瀬さんの妹は信じられないものを見るような目で蓮を睨みつけ、それから再び俺へと視線を戻す。
「う、嘘よ……! だってお姉ちゃん、あんたと一番楽しそうに喋ってるじゃない! 学校が終わったあと二人でこの部室に入っていくのを何度も見たわ!」
「そりゃあ、隣の席だし、同じ部活だから一緒に移動くらいするだろ。……っていうか、お前そこまで監視してたのかよ」
どれだけ姉のことが好きなんだと呆れつつも、俺はふと引っかかるものを感じた。
ただ姉が部活を始めただけで、ここまで執拗に嫌がらせをして泣きそうな顔で問い詰めてくるだろうか。執着にしてはちょっと過剰すぎやしないか?
それに水瀬さんが二年生の春という中途半端な時期に、なぜ実績ゼロの名ばかり天文部になんて入ってきたのかも引っかかる。
――居心地が良さそうだから。
そうだ。確か、入部したあの日。水瀬さんが少し寂しそうに微笑みながらそう言っていたはずだ。水瀬さんは最初から入部理由を「居心地がよさそうだから」って言っていた。
「……なぁ」
俺はため息を一つ吐き出し、パイプ椅子を一つ引き寄せて彼女の正面に腰を下ろした。
さっきまでの怒鳴り声は引っ込め、できるだけトーンを落として問いかける。
「お前、名札見る限り『水瀬楪』だよな」
「呼び捨てにしないで」
「楪、さん。お前、水瀬さんが家に帰りたがらなくなった理由に、何か心当たりがあるんじゃないか?」
ビクッ、と楪の肩が大きく跳ねた。
図星を突かれたように目を見開き、それから視線を定めず迷わせる。
膝の上のスカートをぎゅっと握りしめるその指先が血色悪く白くなるほど震えていた。
「別に……関係ないでしょ、あんたには」
「関係大ありだ。俺の靴箱に『女の敵』なんて怪文書を放り込んで、水までぶっかけてきた張本人が目の前にいるんだからな。水瀬さんに心配されてごまかすの大変だったんだぞ」
痛いところを突かれて楪が口籠もる。
俺は少しだけ目線を低くして、彼女の強張った表情をまっすぐ見つめた。
「怒る気はないよ。ただ、お前がそこまで必死になるくらい、水瀬さんのことを心配してるのはわかったからさ。……本当は、何があったんだ?」
優しく促すと、楪の張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ち始めた。
「……言っちゃったのよ」
「え?」
「喧嘩して……カッとなって、言っちゃったの。『本当のお姉ちゃんじゃないくせに』って……!」
しゃくりあげながら吐き出されたその言葉に、俺も、ドアの前に立っていた蓮も、息を呑んで言葉を失った。
「本当のお姉ちゃんじゃないくせに、って……」
『どういうこと?』
喉まで出かけて奥に引っ込める。
蓮も同じようだったようで、静まり返った部室に楪の嗚咽混じりに震える声だけが小さく響く。
膝の上にぽたぽたと落ちる涙を、彼女はブラウスの袖で乱暴に拭いながら。ゆっくりと、詰まり詰まり言葉を紡いでいく。
「お父さんたちの話を……昔、聞いちゃって。だから……知ってたの。お姉ちゃんは、本当は赤ちゃんのときに事故で死んじゃったおじさん夫婦の子供で、うちのお父さんたちが引き取って育てたんだって……」
「…………」
「お姉ちゃんはずっと知らなくて……うちでもずっといい子で、勉強もできて自慢のお姉ちゃんで……。なのに私、成績のことで注意されたとき、悔しくて……一番言っちゃいけないこと、ぶつけちゃったのよ」
両手で顔を覆い、楪は小さな肩を震わせて泣きじゃくった。
「そしたらお姉ちゃん、すごく傷ついた顔をして……それから、家で私の顔を見なくなって、お母さんたちにも変に気を使うようになって……。私のせいで、お姉ちゃんを傷つけたの。謝りたいのに、怖くて言えなくて……そしたら急に、こんな変な部活に入り浸るようになって……!」
「だから、俺に八つ当たりしたわけか」
ドアにもたれていた蓮が、珍しくおどけた様子も消して神妙な顔つきで黙り込んでいる。
俺は深く、重いため息を一つ吐き出した。
そして、前屈みになってパイプ椅子に座る楪を、まっすぐに見据えた。
「おい、楪」
「な、なに……? どうせアンタも、私が悪いって責めるんでしょ……!」
睨み返してくるその瞳は、罪悪感と自己嫌悪で今にも壊れそうだった。
そんなやつに、一般論や常識を説いたところで何の救いにもならない。
ただ態度が気に食わないから一発デコピンをかましてやると、「へぅ……」と小さくなった。
「当たり前だろ。お前が言ったことは最悪だし、水瀬さんはめちゃくちゃ傷ついたと思うぞ」
残念ながら俺は水瀬さんと違って優しくない。だから容赦なく突き放す。
楪は痛みに耐えるようにギュッと目をつぶった。
だが、俺はそこで言葉を切らずにそのまま続けた。
「でもな。水瀬さんは、その程度のことでお前のこと嫌いにはなんねえよ」
「え……?」
驚いたように、楪が涙に濡れた顔を上げた。
「俺が水瀬さんと知り合ってから、まだ数ヶ月だ。お前が一緒に過ごしてきた年月に比べたら、ほんのちょっとでしかない。……だけどな、あいつがどれだけ真面目で、どれだけ周りのことを大切に考えてるかくらいは知ってる」
部室でみんなとお茶を飲むときの穏やかな笑顔もそうだ。
誰かが困っていれば真っ先に手を差し伸べる優しさだってある。
「お前が見てきた水瀬葵は、そんなに薄情なやつだったか? たった一度の喧嘩で、血が繋がってないからって理由で、二度と大事な妹を許せないくらい心の狭いやつだったのかよ」
「そ、そんなわけ……ない……」
「だろ? あいつが家に帰らなくなったのは、お前を憎んでるからじゃない。自分が家にいることで、お前や家族に気を使わせるのが怖くて、居場所を探して逃げてるだけだ」
俺は立ち上がり、楪の頭の上にポンと軽く手を置いた。
「だから、お前が逃げるなよ。逃げれば逃げるほどつらくなる。それに偽物の姉妹だっていいじゃねえか。お前も水瀬さんが好き。水瀬さんもお前が好き。ほら、何の問題もねえ。それ以外の事実が必要だってのか? そこらへんの血のつながってるだけの本物の兄弟姉妹より仲がいいじゃねえか。兄弟のいねえ俺からしたらお前らのほうがよっぽど本物だと思うけどな」
「……っ」
「大丈夫だよ。あいつなら、ちゃんと謝れば許してくれる。自信持て。お前の好きなあいつを信じろ」
楪は口元を手で押さえ、子供のようにわあわあと声を上げて泣き崩れた。
その背中を、蓮が優しく見守るように見つめている。
「……ったく。世話の焼ける姉妹だな」
俺はポケットから自分のハンカチを取り出し、泣きじゃくる楪の手に無理やり握らせた。
「ほら、今日はもう帰って。ちゃんと水瀬さんに謝るんだぞ」
「……うるさい」
こ、こいつ……! さっきまでしおらしくてちょっとかわいいなあこんな妹欲しいなあって思いかけたってのに!!!
「んじゃま。一件落着ってことですかね?」
最後まで見守っていた蓮が飄々と仕切りだす。
「おう、蓮。手伝ってくれてサンキューな」
「んー? にひひ、まあ明日面白いもん見れそうだしいいってもんよ」
「?」
こいつもこいつで何を言ってるんだ?
なぜだか楽しそうにしている蓮がどいてやると、ドアを開けて部屋から出ていく楪。
その背中を俺と蓮で見送ってから、部室に施錠して帰る。
ま、これにて一件落着。ってことでいいのか? まあいいんだろうな。
*
翌朝、ホームルームが始まる前の教室。
ガラガラと後ろの引き戸を開けて入ってきた水瀬さんはどこか晴れやかで、少し照れくさそうな顔をしていた。
「おはよう、相沢くん」
「……おう、おはよう」
隣の席に座り、スクールバッグから教科書を取り出す彼女からどこか清々しさが感じられる。
「あのね、相沢くん。……昨日の夜、楪とちゃんと話せたの」
「楪……? 誰だそれ」
「もう、とぼけないでよ。私の妹」
はて何のことですかね、と首を傾げてみせる俺に、水瀬さんはふふっと小さく吹き出した。
怒るでもなく、すべてをお見通しだと言わんばかりに、優しく目を細めて授業の準備を進める。
「昨日の夕方、家に帰ったらね、楪が玄関で待ってたの。……顔を真っ赤にして、泣きながら『ごめんなさい』って。今までずっと言えなかったこと、全部話してくれたわ」
「へえ。そりゃよかったな」
「うん。相沢くんのハンカチ、楪がちゃんと洗濯してアイロンかけてたよ。『これ、あいつに返しておいて』って預かってきたの」
「あいつ呼ばわりかよ。まったく、可愛げのない妹さんだこと」
差し出された綺麗に折り畳まれた自分のハンカチを受け取りながら、俺は苦笑いを浮かべた。
昨日の今日でちゃんと姉に向き合って謝れたらしい。生意気な口を利くくせに、根は素直なやつだ。
「……相沢くんが背中を押してくれたんでしょう? 楪が言ってた。『女の敵のくせに、偉そうに説教してきた』って」
「人聞きの悪いことを言うな。俺はただ、廊下に水を撒き散らした不審者を軽く指導しただけだ」
「ふふ、やっぱり相沢くんは優しいね。ありがとう。……私、ずっと怖かったんだ。本当の家族じゃないって知って、みんなにどう接していいかわからなくなって……家に帰るのが苦しくて、逃げてばかりで」
水瀬さんは机の上に置いた自分の両手をそっと重ね、窓の外から差し込む柔らかな朝の光を見つめた。
「でも、ちゃんと向き合えたよ。血が繋がってなくても、私たちはちゃんと姉妹なんだって、楪が泣きながら抱きついてきてくれて……すごく、救われた気がした」
穏やかに微笑む水瀬さんの横顔は、出会った頃のあの完璧すぎる優等生の仮面が剥がれ落ち、年相応の女の子の柔らかな表情をしていた。
家庭のしこりが解け、彼女が逃げ込む必要のあった「避難所」は、もう役目を終えたのかもしれない。
ふと、胸の奥に小さな寂しさがよぎる。
「……そっか。よかったな、本当に」
「うん!」
「……じゃあ、もう水瀬さんは天文部をやめちゃうのか。寂しくなるなあ」
俺が少しだけ目線を逸らし、ぼそりと零したその言葉に、水瀬さんは教科書をめくる手をピタリと止めた。
教室の中の喧騒が一瞬だけ遠のいたような気がした。
水瀬さんはゆっくりと、ガガガガガと壊れたロボットのようにこちらへ顔を向け、驚いたように丸くした瞳で俺をじっと見つめて――それから、いたずらっぽく、けれどどこか熱を含んだ笑みを唇に浮かべた。
「――やめないよ?」
「え?」
「やめるわけないじゃない。……だって、今の私にとってあの場所は、もう『逃げ場所』じゃないもの」
水瀬さんは机に肘をつき、細い指先を顎に添えて、俺の顔を覗き込んできた。
長い黒髪がさらりと肩から滑り落ち、風に乗って届く甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
「相沢くんの隣にいたいから、私はあそこにいるの。……それとも、相沢くんは私がいない方がいい?」
「……っ、そ、そんなわけないだろ」
「ふふっ……もっと好きになっちゃったかも」
「――? なんか言った?」
最後だけ聞き取れず、聞き返すと。
「なんでもなーい」
水瀬さんは満足そうにくすくすと笑いながら、前を向いてノートを広げた。




