第9話 「まだ、そこまでは」スピンオフ 神田亮×前田恵美
1
今日は、たぶん一か月ぶりで亮と休みが重なる日だ。
昨日、亮は当務明けで、あたしは遅番。
なんだか、シフトが合わない日が続いていた。
当務明けの夜遅く、亮が大蔵屋まで迎えに来てくれた。
そういえば、ひよりも同棲する前は、嘆いていたことを思い出す。
館内で会って、立ち話かちょっと手を振る程度で、何日も過ぎていってしまう。
でも、あの子たちはお互いの部屋が近かったから、シフトをやりくりして無理にでも会っていた。
あたしはどうなんだろう?
亮がうちに泊まって、一緒に出勤して、その日の夜はひとりだ。
寂しいと感じるときもある。
でも、気楽だと感じるときもある。
隣では、亮がまだ寝ている。
片腕が布団からはみ出していて、それだけでベッドの半分を取られている気がする。
シングルのベッドで、ガタイのいいこいつと一緒に寝るのはキツイ。
でも、嫌じゃない。
ひとつ年下で、弟みたいな気がしていた。最初は。
じっと見ていると、亮が目を開けた。
ぼーっと、あたしを見ている。
そして、笑う。
かわいい顔で。
「笑ってないで、もっと奥へ行って」
「狭い」
じっと見てたことを、隠すようにそう言った。
「あ、ごめん」
「でも、こうしたら、狭くても平気になる」
掠れた声でそう言って、抱きすくめられた。
「そうじゃなくて」
そう言いながらも、抵抗しないあたしがいる。
「あんたの部屋はふたりで寝られないくらいに、狭いし」
「あたしのベッドは、小さい」
「うん。じゃあ引っ越して、一緒に住む?」
亮が寝起きの声で言った。
「住まない。まだ」
一緒に住みたくないわけじゃない。
あたしの心がついていっていないだけ。
「まだ、なんだ」
亮の小さなため息。
「ちょっと、黙って」
これ以上、この話を広げたくなくて遮るように言った。
「言ったの、恵美さん」
「忘れて」
もう、そろそろベッドから出ないと。
なんだか、悔しいけど「海ほたる」は楽しみだ。
2
あたしの部屋だって、広くはない。
でも、トイレとバスは分離しているし、ダイニングらしき空間もある。
亮の部屋よりは、ずいぶんマシだ。
軽くシャワーを浴びて、洗面台の鏡で化粧をしていたら、亮が洗面所に入ってきた。
「機嫌いいね」
なんだか、ムカつく。
「普通だと思うけど?」
まつ毛をビューラーで挟みながら言った。
できるだけ普通の顔で。
「昨日、恵美さんが選んでた服」
「あれ、着るんでしょ?俺もあの服、好き」
可愛すぎて、またムカつく。
「見てたの?油断も隙もないわね」
こんなことしか言えないあたしのどこがいいのかと思う。
でも亮は、そういう顔で笑うから困る。
亮は化粧をするあたしの隣で、洗面台の棚にある整髪料に手を伸ばした。
この整髪料も、そこのシェーバーも、洗濯かごの中のTシャツも亮のだ。
置いてあるだけ。
そう思うには、すでにいつもの景色になっている。
口ではそう言っているくせに、頭の中は全然違うことを考えている。
自分でも面倒くさい。
ひよりみたいに、好きなら好きとまっすぐ言える女だったら、亮はもっと楽だったんだろうか。
こんなに、素直じゃないあたしだから、亮はここにいるのか。
正直、わからない。
車に乗り込んだ時に、時計を見たら十時だった。
遅い朝ごはんをどこかで食べようと話しながら、亮は車を出した。
以前は、お互い早番だと亮がインフォに誘いに来ることが多かった。
「帰りに、ちょっと飲みませんか」
行ったら行ったで、亮は毎回みたいに「俺と付き合ってください」
それに慣れてきて、なかなか返事をしないあたしに亮は粘り強かった。
お互い早番なのに、誘われない日は、自分勝手だとは思うけど。
「なんで、今日は誘わないの?」とムカついていた。
今は、どちらかの家で過ごすことが多い。
なんとなく、帰る場所みたいなものができてきたから。
それに名前はついていない。
生活という感じじゃない。
半同棲とも言えない。
泊まって帰るだけ?
物を置いて帰るだけ?
そう言い切るには、亮の整髪料はうちの洗面台の棚にないと落ち着かない。
「そういえば、あんたの部屋、なんであんなに狭いの?」
信号待ちで、車が止まったとき、ふいに聞いた。
「家賃が安かった」
「寝るだけだし」
そういえば、前にひよりも言っていた。
朝倉さんも、ひよりと暮らす前は、家なんて寝るだけの場所みたいなものだったらしい。
仕事が不規則で、そうなるのかもしれない。
帰って、寝て、また出る。
それだけなら、部屋は広くなくてもいい。
でも、誰かと一緒に過ごすとなると、話は変わる。
昨日、亮は当務明けだった。
うちで寝たとはいえ、遠出しても大丈夫なんだろうか。
「疲れたら言って」
「恵美さんが?」
「あんたが」
「心配してくれてんの?」
「普通よ。普通」
車はしばらく走る。
川崎方面だ。
海が見える。
海の上に橋が伸びている。
東京湾を横切るアクアラインの途中に、海の上に浮かぶようなパーキングエリアがある。
海ほたる、と呼ばれるそこへ、遅い朝ごはんを食べに寄ることにした。
風が気持ちいい。
久しぶりに出かけた先が、ここでよかった。
部屋でふたりで過ごすのも嫌じゃない。
でも、こうして、外に出るのもやっぱりいい。
少し風が強くなってきて、亮がこちらを向いた。
「寒くない?」
そう言って、あたしの手を取る。
まぶしげにあたしを見ていて、落ち着かない。
「大丈夫」
風で、スカートの裾が飛ばされそうにはためいていた。
展望デッキへ向かおうとしたところで、後ろから明るい声がした。
「あっ、亮くん?」
亮が振り返る。
その一瞬で、あたしは分かった。
これは、職場の人でも、ただの知り合いでもない。
亮の顔が、少しだけ家族の顔になった。
「……あ、義姉さん」
3
ねえさん…
亮の兄弟の奥さん?
ねえさんというからには、兄嫁だろう。
これは、面倒なことになったかもしれない。
兄嫁さんらしき人は、後ろを振り返って手を振っている。
「シュウくん!亮くんがいた!」
シュウくん。
たぶん、亮のお兄さんの名前だ。
平日なのに、人がそこそこいる。
それでも、向こうから歩いてくる男性が亮のお兄さんだとすぐにわかった。
似ていたから。
亮のほうが少し背が高い。
ほんの少し。
お兄さんが連れていた男の子は、父親の手を離して駆け寄ってきた。
「りょーくん!」
亮は、しゃがんでその子を抱きとめる。
「リク!元気だったか?」
そう言って、リクくんを抱き上げた。
お兄さんらしき人が、あたしをちらりと見て亮を見る。
「彼女?」
亮は、リクくんを抱いたまま言った。
「そう、俺の彼女」
「前田恵美さん」
あたしは、仕事用の笑顔を素早く作った。
「こんにちは」
そして、亮に抱かれているリクくんにも、もう一度言った。
「こんにちは。リクくん」
ちょっと固まっているリクくんを見て、兄嫁さんらしき人が、挨拶を促す。
「リク、ごあいさつは?」
「こんにちは」
小さい声で、恥ずかしそうに彼が言った。
シュウさんが、あたしに向き直って言った。
「亮の兄です」
「神田秀、こっちは嫁さんの佳那と陸」
佳那さんが、可愛く笑って頭を下げた。
「前田恵美です」
あたしも、頭を下げる。
佳那さんは、なんとなく雰囲気がひよりに似ていた。
控えめで、感じのいいところ、初対面で距離を詰めすぎないところが。
そして、話しかけるときの柔らかさも。
「よかったら、お茶でもする?席、取ってあるの」
佳那さんが、亮を見て言った。
亮はあたしを見る。
こういう場合には、頷くしかない。
カフェの席について、オーダーしたあと、秀さんが楽しそうに笑って言った。
「知らなかったな。彼女がいるなら言えよ」
秀さんは、悪気のない顔で続けた。
「結婚するの?」
亮が、あたしを見て、兄を見た。
「いや、まだ、そこまでは」
そこで、間髪を入れず、佳那さんのフォローが入る。
「ちょっと、いきなりそんなこと聞かないの」
「恵美さん、困ってるじゃない」
「いえ、大丈夫です」
反射的に、あたしはそう答えた。
亮が「まだ、そこまでは」
そう言ったときは、助かったと思った。
亮の家族の前で、結婚だの将来だの、勝手に話が進むのは困る。
でも。
胸の奥に引っかかるものがある。
「まだ、そこまでは」
本当にその通りなのに、なぜか面白くなかった。
自分でも、どうしてなのかわからなかった。
「まだ」
その一言を、今朝、ベッドの中で言ったのは、あたしのほうだった。
それなのに、亮の口から聞くと、なんだか違う響きに聞こえた。
4
亮のお兄さんの口から、出し抜けに出てきた「結婚するの?」
場の空気が、微妙だ。
でも、ここで“します”とも“しません”とも明言するのもおかしい。
佳那さんは、察したように言った。
「ごめんなさい。秀くん、すぐそういう聞き方するの」
「悪気はないんだけど、順番飛ばしちゃって」
あたしは、インフォメーションで鍛えられた笑顔を向けた。
「いえ、本当に大丈夫です」
大丈夫じゃない。
佳那さんが、うまくこの場を和ませていた。
周囲の温度を感知する速さは、やっぱりひよりに似ていると思った。
「亮くん、ちゃんとご飯食べてる?」
「ひとりだと、適当に済ませそう」
佳那さんが、あたしを見て言う。
なぜか、亮もあたしを見る。
「あ…料理は彼の方が上手ですけど」
「自分の部屋では……ね?」
最後の「ね?」は、亮のほうを向いて言った。
佳那さんは、納得したように頷く。
「あの部屋ではね。キッチンが狭いというか、小さいというか」
あの部屋を知っているみたいだ。
亮が、寝るだけの部屋だと言った部屋を、家族として知っている人。
佳那さんが、亮に言った。
「亮くん、引っ越すなら言ってね。」
「また、手伝いに行くから」
「ああ、うん」
亮の返事は、なんだかあいまいだった。
そのときは、あたしの荷物も一緒に入るんだろうか。
いや、違う。
変なことを考えている自分にムカついた。
「亮はさ、なんでも軽く言うけど、軽いときほど真剣だよな」
唐突に、お兄さんが言った。
「高校も、大学も軽く言って、そのまま入学した」
「落ちると思ったけど、受かってたな」
亮が、いきなり何を言い出すという顔で止める。
「兄貴」
ちょっと、笑った。
本当にそうだから。
家族はちゃんと知っている。
あたしが最近知ったことを、この人たちはずっと前から知っている。
さっきからもぞもぞしていた陸くんが、亮のところにフライドポテトをつまんで持ってきた。
「りょーくん、これたべる?」
「陸がたべろ」
「りょーくんも」
「じゃあ、一個だけな」
亮の目が、緩く笑っている。
子どもに、優しいんだなと思った。
でも、あたしにだって、亮はいつも優しい。
あたしも、無意識に笑っていたのかもしれない。
佳那さんが、こそっと言った。
「亮くんが女の人をちゃんと紹介するの、初めて見たかも」
「え」
「さっき、普通に『俺の彼女』って言ったの」
「なんか、見慣れないっていうか」
「言い切ったなって感じかも」
そうかもしれない。
わかりにくいのは、あたしのほうだ。
亮は、ちゃんと言い切っている。
彼女だと。
まだ、だと。
決めていないのは、たぶん、あたしの方だった。
5
軽い食事とお茶を飲んで、解散した。
別れ際に、佳那さんが言った言葉が、胸に残る。
「また会えたら嬉しいです」
あたしも佳那さんは好きになれそうだ。
仕事用でない笑顔が自然に出た。
「こちらこそ、ありがとうございます」
ますます面倒なことになった。
でも、嫌な時間ではなかった。
それがまた面倒ではあるけれど。
陸くんが、父親に手を引かれている。
空いた手に、海ほたるのキャラクターのぬいぐるみを持ったまま、手を振っている。
「りょーくん、またね」
亮も「またな」と手を振っている。
あたしも陸くんに手を振れば、彼も笑って手を振り返した。
風が強い。
亮が、自然にあたしの肩を抱き歩幅を合わせてくれる。
風に煽られて、飛んでいくかとでも思っているみたいに。
「まだ、そこまでは」
あたしが今朝言ったことを、亮が言っただけだ。
俺の彼女だとも言った。
どちらも、本当だった。
いつまでも、このままでいいわけはないけれど、今はこれでいいと思った。
車に乗って、シートベルトをつけたとき、亮が言った。
「なんか、すいません」
「なにが?」
「急で……家族に合わせる形になって」
「あんたのせいじゃないでしょ」
「びっくりしたよね」
「うん」
エンジンの始動した音がする。
前にあるナビゲーションのモニターが、光る。
「驚いたけど」
「嫌じゃなかった」
亮が、ちょっと笑ってシフトレバーをドライブに入れた。
「そうか。よかった」
亮が、なんだか嬉しそうな顔をしていて、ムカつく。
「何その顔」
「いや」
「笑わないで」
「笑ってない」
「笑ってるじゃん」
車が、ゆっくり動き出した。
「兄貴のいい方は、軽かったけど」
「うん」
「俺は、ちゃんと考えてる」
「なにを?」
「これからのこと」
車は、海の上へまっすぐ伸びる橋を、来たときとは反対の方向へ戻っていく。
彼は、前を見たまま言った。
「今すぐじゃなくていい」
「でも、ちゃんと考えてる」
「……まだ、決まってないから」
「うん」
「ほんとに、まだだから」
「わかってる」
あたしは、前を向いて前方に続く道を見ている亮に言った。
「でも、決めないまま」
「放置はしない」
亮は、少しだけ黙った。
「それ、けっこう嬉しい」
「大げさ」
「大げさじゃない」
亮は前を向いたまま、静かに笑った。
その日は、亮は自分の部屋へ帰った。
あたしはひとりで部屋に戻って、洗面台の棚を見た。
亮の整髪料は、いつもの場所にある。
シェーバーも、充電器も、畳んだTシャツも。
置いてあるだけ。
そう言えば済む。
でも、今日、亮はあたしを「俺の彼女」と言った。
佳那さんは「また会えたら嬉しいです」と言った。
陸くんは、小さな手を振ってくれた。
まだ決まってない。
一緒に住むとも、結婚するとも、何も決めていない。
でも、決めないままでいいとも、もう思っていない。
置いてあるだけ。
そう言うには、その場所はもう、自然すぎた。
ひより日和 新婚編 第8話 スピンオフ 「まだ、そこまでは」 おわり




