第8話 「鍵のない夜」
1
早番の朝、私はいつも通りぎりぎりの時間に玄関へ飛び出した。
北向きの玄関は、朝でもどこか薄暗い。
小さな照明はついているのに、足元と靴箱の上だけが、ぽうっと浮かぶみたいに明るい。
片手でバッグを肩に掛け直しながら、もう片方の手でキーケースを探る。
指先に触れたそれを取り出して、靴を履きやすいように、下駄箱の上へ置いた。
いつもの、賃貸マンションの、見慣れた玄関。
先に靴を履いた恒一さんがドアの向こうの共用廊下で、待っている。
同じ時間に家を出るのは、今日が初めてではない。
よくあることだ。
でも、こうして並んで出勤する朝が、私は好きだ。
私がドアから一歩離れると、背後で「ガチャ」と鍵のかかる音がした。
その確かな手応えを聞いたからこそ、私は何の疑いもなく歩き出す。
自分のキーケースが、下駄箱の上にぽつんと残されているなんて、これっぽっちも思わない。
「忘れ物ないか」
隣で鍵をしまいながら、恒一さんが聞いてくる。
「大丈夫です」
「本当に?」
「子どもじゃないんですから」
当務の彼は、肩から下げたバッグも手提げも、いつもより少し多い。
私は早番で、駅まで並んで歩く。
「今日は当務ですよね」
「ああ」
「明日の朝まで?」
「そうだな」
「じゃあ、帰ってもいないんですね」
「戸締まりはちゃんとしろよ」
「わかってます」
よりによって鍵を置いてきた人間が、それを言う。
ふたりとも、まだ何も気づかないまま、いつもの朝の道を歩いていく。
2
早番を終えて、自宅のマンションに着いたのは18時ごろだった。
今日はそれなりに忙しくて、足も肩も重い。
靴を脱いで、着替えて、ソファに沈み込みたい。
冷蔵庫の麦茶か水を一気に飲めたら、それだけで生き返りそうだ。
共用廊下を歩いて、見慣れた玄関の前に立つ。
北向きの通路はもう薄暗くて、壁の照明だけが頼りない明かりを落としている。
私はバッグを肩から少しずらし、いつものように片手を中へ入れた。
キーケースに指先が触れるはずの場所を、探る。
けれど、触れるのは財布の縁と、ハンカチと、小さなポーチのファスナーだけだった。
私は無意識に、バッグの底のほうまで手を沈めていく。
なのに、鍵の固い感触だけが、どこにも見つからなかった。
いつものポケットを探る。
指先に触れるのはレシートとリップだけで、肝心の固い感触がない。
ポーチを開ける。
中身を軽くかき混ぜて、もう一度指を差し入れる。
ない。
内側のファスナーを開ける。
ハンカチと小さな鏡と、替えのマスク。
ない。
定期入れの横も探ってみる。毎朝取り出す場所だから、ここにあってくれれば一番ほっとするのに。
やっぱり、ない。
「……あれ?」
声に出してから、もう一度、最初から順番に確かめる。
ポケット、ポーチ、ファスナー、定期入れの横。
二回探す。ない。
三回探しても、ないものはない。
そのときになって、ようやく朝の玄関の光景が、はっきりと戻ってくる。
下駄箱の上。
靴を履くときに、一度置いた。
そのまま、出た。
そして、恒一さんが鍵を閉めた。
家は、目の前にある。
けれど、鍵がないだけで、ただのドアは、どうしようもなく冷たい壁みたいになる。
バッグを抱えたまま、玄関ドアの前でしゃがみ込む。
ため息をひとつ吐いてから、私はスマホを取り出した。
発信履歴の一番上をタップする。
電話の向こうから、無機質な館内アナウンスと、かすかな人の気配が混じって聞こえる。
仕事中なのは分かっていて、それでも他に頼る相手が思いつかなくて、私はスマホを耳に押し当てたまま、玄関ドアにもたれた。
「恒一さん」
名を呼ぶと、すぐに低い声が返ってくる。
―どうした
「鍵がありません」
言った瞬間、情けなさが胸にこみ上げる。
ついさっきまで、早く着替えたいだの、麦茶が飲みたいだの考えていた自分が、急にばかみたいに思えてくる。
―どこにいる
「家の前です」
―鍵は家の中か?
「たぶん、下駄箱の上です」
短い沈黙が落ちる。
受話口の向こうで、彼が状況を組み立てている気配がする。
―……閉め出されたのか
「その言い方、刺さります」
冗談めかしたつもりが、少しだけ声がにごる。
それでも彼は、そこで責めるようなことは言わなかった。
―体調は?悪くないか
「大丈夫です」
―家の前?
「はい」
―そこに長くいるな
当務中だから、長くは話せない。
怒りも呆れも挟まず、安全だけを確かめるその口調が、余計に申し訳なくて、私は鍵のない玄関の前で、ますます小さくなった気分になる。
「大蔵屋に戻ったら、恒一さんの鍵、借りられますよね」
玄関前の床に視線を落としたまま、私はそう口にした。
声に出してみれば、たしかにそれは一番現実的な方法に思える。
電話の向こうで、少しだけ間があく。
―渡せるけど
短く、落ち着いた返事。
大蔵屋まで引き返して、当務中の彼を呼び出して、鍵を借りて、またこのマンションまで戻ってくる。
時間も手間もかかるけれど、できない話ではない。
今から電車に乗って百貨店に戻れば、なんだかんだで20時ごろには家に入れるはずだ。
無理ではない。
そう頭では計算しながら、通勤着の自分が、再び人混みの駅へ向かう姿を想像して、私は思わず小さく息を吐いた。
「大蔵屋に戻ります」
自分で言いながら、肩のあたりが重くなる。
それでも、それしかないと思って口に出した。
―待て、待て
受話口の向こうで、恒一さんの声が静かに止めた。
―今夜、俺は帰らない
「……はい」
当務なのは、さっき自分で確認したばかりだ。
それでも改めて言われると、家にたどり着いた先の光景まで、くっきりと突きつけられる。
―家に入っても、ひとりだろ
「それは、そうですけど」
鍵さえあれば届くはずの部屋が、急に遠く感じられる。
―実家は無理か
「実家、ですか?」
思ってもみなかった選択肢に、思わず聞き返す。
―明日、休みだろ?
―横浜。行けるなら、今日はそっちでもいい
「休みだけど…」
「でも、急に泊めてって言うのも」
―お前のママなら、嫌がらないだろ
少し間を置いてから、穏やかに言い切られる。
「たぶん、ママは喜びます」
口にしてみて、母の顔が浮かぶ。
驚いて、それから笑う顔。
―なら、聞いてみろ
短く、迷いのない声。
閉め出された玄関先で、その一言だけが、行き先を決めてくれた。
―実家に行くなら、着いたら連絡しろ
短く区切るように言われて、スマホを持つ手に少しだけ力が入る。
「はい」
返事をしながら、頭の中で電車の路線図と、家と百貨店と横浜の位置関係を並べていく。
大蔵屋に戻れば鍵は借りられる。
でも、その先に待っているのは、誰もいない部屋だ。
―お義母さんに、急で悪いって伝えておいてくれ
当務中なのに、そこを外さないあたりが、いかにも恒一さんらしいと思う。
フォトウェディングの写真を持って行った日のことが浮かぶ。
テーブルの上にアルバムを広げて、何度も見返していた母の顔。
あの日も、嬉しそうで、少し名残惜しそうだった。
結婚してから実家に泊まるのは初めてだ。
夫のいる家から、娘だった家へ。
「お邪魔します」ではなく「ただいま」と言って上がることを思うと、玄関前でスマホを握りしめたまま、胸の奥が少しだけそわそわする。
けれど、今夜ひとりきりの部屋に戻るより、そのほうがずっとあたたかい気がした。
実家に行く段取りまで話し終えて、そろそろ切ろうとしたときだった。
―朝、子どもじゃないって言ってたよな
ふいに思い出したような声色で言われて、私はスマホを握り直す。
「今それ言います?」
―言っておく
「意地悪」
口ではそう返しながら、玄関先で小さく笑いがこぼれた。
閉め出された情けなさに、ほんの少しだけ、いつものふたりの温度が戻ってくる。
久しぶりに、実家へ帰ってもいいのかもしれない。
私はスマホの画面を開き、実家の番号を探した。
3
「ママ?」
コール音のあと、聞き慣れた声がすぐに返ってくる。
―ひよちゃん? どうしたの?
その一言を聞いただけで、胸のあたりがふっとゆるむ。
「鍵、家の中に置いてきちゃって」
―ええ? 家に入れないの?
「うん。恒一さん、当務で帰れなくて」
事情を一気に説明すると、ママはほとんど間を置かずに言った。
―じゃあ、帰っておいで
あまりにも即答で、思わずスマホを持つ手を見つめてしまう。
「急に泊まってもいい?」
―いいに決まってるでしょ。夕飯は?
当然のようにそう続ける声が、私にはたまらなく心強かった。
改札を抜けて、私は東京方面のホームへは向かわず、横浜へ向かう電車に乗った。
ついさっきまで「鍵を借りに戻る」ことしか考えられなかったのに、スマホ越しに「帰っておいで」と言われただけで、足は自然と実家の方向へ向いていた。
家には入れなかった。
けれど、行く場所がないわけではなかった。
鍵を忘れた情けなさは、まだ胸のどこかに残っている。
それでも、ママのあの一言を思い出すたび、肩の力が少し抜けていく気がした。
電車を降りて、実家の最寄り駅からの道を歩くうちに、胸のあたりが少しずつ落ち着いていく。
青葉区の静かな住宅街を曲がって、見慣れた家の前に立った。
玄関のドアが開いた瞬間、懐かしい匂いがふわっと鼻先をくすぐる。
洗剤と木の匂いと、ここで暮らしていた頃から変わらない、実家の匂い。
奥の方から、ぱたぱたとスリッパの音が近づいてくる。
「ひよちゃん、もう」
ママが顔を出して、呆れ半分、嬉しさ半分みたいな笑顔を向けてきた。
その表情を見た瞬間、張りつめていたものがほどけていく。
「鍵忘れたのか」
ママの後ろからパパの声まで聞こえてきて、思わず振り返る。
「言わないで」
唇をとがらせてそう返しながら、私は靴を脱いで、一歩、実家の中へ足を踏み入れた。
玄関に入って、思わず口からこぼれた。
「ただいま」
言ってから、自分で少しだけ不思議になる。
昔は何も考えずに、毎日この言葉をここで言っていた。
でも今は、私には別の家がある。
恒一さんと一緒に暮らしている、もうひとつの玄関がある。
実家の匂いは相変わらずで、胸の奥がふわっとゆるむ。
ここは安心する場所だ。
でも、完全に昔と同じではない。
この家は、ちゃんと私を受け入れてくれる。
ママは、変わらず「ひよちゃん」と呼んでくれる。
それでも私は、もうここに毎日帰ってくる娘ではないのだと、しみじみと思った。
実家のダイニングテーブルにバッグを軽く置いて立ったまま、恒一さんに連絡した。
〈実家に着きました〉
すぐに既読がついて、短い返事が返ってくる。
〈よかった〉
〈ママが夕ご飯出してくれるそうです〉
〈食べて寝ろ〉
〈子ども扱いですか〉
〈鍵を忘れた人間には言う〉
今日の朝、「子どもじゃないんですから」と言った自分の台詞が、ここでまた刺さる。
スマホを見つめながら、苦笑いしか出てこない。
少しして、また一行。
〈明日、迎えに行く〉
〈当務明けですよ。無理しないでください〉
〈一度帰って休んでから行く〉
文字だけなのに、いつもの落ち着いた声が聞こえる気がして、私はスマホを胸の前で握ったまま、ほっと息をついた。
実家は、やっぱりあたたかかった。
けれど、スマホの画面に残る「明日、迎えに行く」の文字を見ていると、胸の奥に別のあたたかさが灯る。
帰ってきた場所と、帰りたい場所。
その二つが、今夜だけ、少し離れたところにある気がした。
4
急な帰省なのに、ママは冷蔵庫をのぞいて、手早く夕飯を用意してくれた。
焼き魚と、ほうれん草のおひたしみたいな小鉢と、味噌汁。
「あるものだけどね」と笑いながら並べてくれた食卓は、ちゃんと一食になっていて、久しぶりに実家のテーブルにつくと、それだけで胸がゆるむ。
「鍵、下駄箱の上か」
パパがリビングのソファからこちらを向いて言った。
私は箸を持ったまま顔をしかめる。
「なんで知ってるの。もう言わないで」
「朝って、そういうことあるのよ」
ママがすぐにかばうように言ってくれる。
「俺も一回ある」
パパまでさらっと白状したから、思わず笑ってしまった。
情けなさでいっぱいだった気持ちが、少しずつほどけていくのを、自分でもはっきり感じた。
味噌汁をすすっていると、ママがふと思い出したように聞いてきた。
「恒一さん、当務なの?」
「うん。明日の朝まで」
「大変ねえ」
ほんの少し眉を下げて言う声に、心配とねぎらいが混ざっている。
「でも、一回帰って休んでから迎えに来るって」
お椀を持ったままそう言うと、ママはほっとしたように笑った。
「ちゃんとしてるわねえ」
その一言に、胸の奥がじんわりあたたかくなる。
私が言われるより、恒一さんのことを褒めてもらえるのが、なんだかうれしい。
「当務明けなら無理させるなよ」
リビングからパパがぽつりと言った。
「私もそう言ったよ」
そう返すと、ふたりとも少し安心したような顔をする。
鍵を忘れた情けなさはまだあるのに、その輪の中に自分と恒一さんが並んでいることが、心強かった。
食器を少し端に寄せながら、ママが言った。
「この前、写真持ってきてくれたときも、恒一さん、きちんとしてたものね」
フォトウェディングのアルバムを抱えてここに来た日のことが、すぐに浮かぶ。
あの日の恒一さんは、実家のリビングのソファに座って、少し緊張した顔でママとパパに頭を下げていた。
あのときは、結婚の報告と写真を見せるために来た日。
今日みたいに、鍵を下駄箱の上に置いてきて、閉め出されて、実家に泊まりに来た日ではない。
並べて考えると、差がありすぎてちょっとおかしい。
私のほうはこんなに情けないのに、ママの中の恒一さんの評価は、完全に「きちんとしている人」で固定されていて、そのギャップがなんだかくすぐったかった。
夕飯のあと、私は昔の自分の部屋のドアを開けた。
部屋は残っていた。
本棚も、カーテンも、ベッドも、そのまま。
だけど少し片づけられていて、机の上は前よりずっとすっきりしている。
私のものもちゃんとあるのに、「今の私の部屋」という感じは、少し薄くなっていた。
本棚の背表紙や、学生時代に集めた小物たちを眺めると、胸の奥がじんわり懐かしくなる。
ここで毎日眠って、ここから学校やバイトに通っていた頃の自分が、すぐ近くにいるみたいだ。
それでも、ベッドのそばに今日のバッグをそっと置いた瞬間、はっきり思う。
ここは、私の部屋だった場所だ。
否定ではなくて、ただ、時々帰ってくる人の部屋になったんだと、静かに受け入れるような気持ちだった。
昔の自分の部屋のベッドの端に座ったところで、私はスマホを開いた。
〈夕飯食べました〉
〈お風呂も入りました〉
〈今日はこのまま寝ます〉
送ってすぐ、短い返事が返ってくる。
〈寝ろ〉
〈そればっかりですね〉
〈鍵を忘れた日は寝た方がいい〉
〈そんな日、分類しないでください〉
思わず声が漏れるくらい、ひとりで笑ってしまう。
実家の天井を見上げながら、スマホの明かりだけがやけに心強い。
少し間をおいて、もう一行。
〈明日、昼過ぎには行けると思う〉
〈待ってます〉
送信ボタンを押したあと、自分でその文字を見つめてしまう。
娘だった家で、夫を待つ。
「ただいま」と言う場所で、「迎えに来る人」を待っている。
この不思議さごと、今の私の生活なんだと、胸の奥でそっとかみしめた。
実家の布団は、懐かしい匂いがした。
けれど、目を閉じる前に思い浮かぶのは、この部屋ではなく、私たちのあの部屋だった。
下駄箱の上に置きっぱなしのキーケース。
薄暗い玄関。
明日の朝、そこへ一度帰ってくる恒一さん。
それから、私を迎えに来てくれる人。
私はスマホの画面に残る〈明日、迎えに行く〉をもう一度だけ見て、布団の中で小さく息を吐いた。
実家は、安心できる。
でも、明日帰る場所を思うと、少しだけそわそわした。
夫に迎えに来てもらう明日を、実家の布団の中で待っている。
それは、娘だった私と、妻になった私が、同じ部屋にいるような夜だった。
5
朝の引き継ぎを終えるころには、体のどこかに眠気がまとわりついている。
それでも、仕事はいつも通りきっちり片づける。
「主任、奥さん、大丈夫でした?」
書類をまとめていると、神田が遠慮がちに聞いてきた。
「実家に帰った」
「よかったですね」
「鍵はたぶん家の中だ」
「下駄箱の上でしたっけ」
「そう言ってた」
神田の口元が、わずかにゆるむ。
笑いをこらえているのが見え見えで、ため息をひとつ飲み込む。
「笑うな」
「まだ笑ってません」
素知らぬ顔をしているが、目の端は完全に笑っている。
鍵を忘れて閉め出されたことなんて、ひよりには悪いが、他人から見れば格好のネタだろう。
主任としての顔を崩さないまま、俺は書類を整え、今日の勤務を終える準備を続けた。
退勤して一度、家に戻る。
シャワーを浴びて、少しでも休んでから行く。
それが自分の性分にも、ひよりにもいちばん筋が通る。
マンションのドアを開けると、北向きの玄関は朝でも薄暗い。
スイッチを入れた明かりが、足元と下駄箱だけを浮かび上がらせる。
視線を向けた先に、それはあった。
下駄箱の上。
ひよりのキーケース。
本当に、下駄箱の上にあった。
昨夜、電話越しに「たぶん、下駄箱の上です」と言ったとおりの場所に。
怒るでも、呆れ返るでもなく、まずはただ事実を確認する。
朝のあわただしい玄関の光景が、逆再生みたいに頭の中でつながっていく。
あいつがバタバタしながら靴を履いて、ここに一度置いて、そのまま出ていったことまで想像がつく。
下駄箱の上のキーケースに手を伸ばす。
指先に、見慣れた革の感触が触れたところで、小さく息が漏れた。
「……本当に子どもじゃないって言えないな」
誰に聞かせるでもなく、独り言のようにこぼして、ひとりで少し苦笑する。
昨日の朝、「子どもじゃないんですから」と胸を張っていた顔が浮かぶ。
あのあと、この鍵をここに置いたまま出勤して、家の前で途方に暮れていた姿も、容易に想像できた。
帰ってきた部屋に、ひよりがいない。
当務明けなら珍しいことではない。
シフトが合わない日は、いくらでもある。
それでも今日は、少し違った。
ひよりは帰らなかったのではない。
帰れなかった。
シャワーを浴びて、簡単に何か胃に入れてから、ベッドに倒れ込む。
迎えに行きたい気持ちはあるが、眠気が抜けない頭で行っても、ひよりがいちばん困る。
スマホのアラームを13時にセットして、目を閉じた。落ちるように眠って、アラームの音で目を覚ます。
カーテンの隙間の光で、もう昼を回っていることが分かる。
スマホを手に取ると、ひよりからメッセージが入っていた。
〈起きましたか?〉
〈まだなら寝てください〉
苦笑しながら指を動かす。
〈起きた〉
〈今から出る〉
すぐに返信が返ってきた。
〈無理してませんか〉
〈してない〉
短いやり取りだけで、だいたい伝わる。
アラームとメッセージで完全に目も覚めた。
スマホを置き、俺は横浜へ向かう支度を始めた。
車のキーと一緒に、ひよりのキーケースもポケットに入れる。
自分の鍵も確認して、念のためのトートバッグをひとつ掴んだ。
実家から何か荷物を持ち帰ることになってもいいように、今日は車で行く。
鍵を忘れたから迎えに行く。
そう言ってしまえば、それだけのことだ。
連絡を受けて、鍵を拾って、迎えに行く。
ただの用事の一つに過ぎない。
それでも、少しだけ不思議な感じがしていた。
今、ひよりがいるのは、俺と暮らしている家とは別の「帰れる家」だ。
子どもの頃から毎日「ただいま」と言っていた方の玄関。
その実家にいるひよりを、今日は俺が迎えに行く。
娘だった家から、俺と暮らす家へ。
そのあいだをつなぐために、俺がハンドルを握る。
そう思うと、ポケットの中のふたつの鍵が、いつもより少しだけ重く感じられた。
6
リビングの時計が正午を過ぎたあたりから、なんとなく落ち着かなくて、私はソファの上でそわそわしていた。
「恒一さん、何時ごろ?」
「昼過ぎって言ってた」
私がそう答えると、ママはうれしそうにキッチンをのぞいた。
「お茶出さなきゃね」
張り切りすぎない声なのに、どこか弾んでいる。
「当務明けなんだろ。長く引き留めるなよ」
パパは新聞だかテレビだかから目を離さずにそう言って、ママが「お茶くらいいいでしょ」と軽く返す。
その温度が、いかにもこの家らしくて、少し笑ってしまう。
自分の実家なのに、ここで誰かを待っている感じが不思議だった。
娘だった家で、夫を待つ。
言葉にしてみると、それだけで少しくすぐったくて、膝の上で組んだ指先に、自然と力が入った。
インターホンが鳴った瞬間、立ち上がろうとした私より先に、ママがさっと玄関へ向かった。
「はーい」
ドアを開けると、そこには当務明けの恒一さんがいた。
少し眠そうな目をしているけれど、ちゃんとシャワーを浴びて着替えてきたことは分かる。
無理をしているようには見えなかった。
「ひよりがごめんなさいね、こんなことで」
ママが私の不手際を代わりに謝ると、彼はすぐ首を横に振った。
「いいえ。誰にでもあることです」
落ち着いた声に、ママの表情がほっとゆるむ。
その後ろから顔を出した私に、恒一さんは視線を向けた。
「迎えに来た」
「ありがとうございます」
私が頭を下げると、「ほら」と言ってポケットから私のキーケースを取り出し、手のひらに乗せてくれる。
「……お騒がせしました」
「あったからいい」
短いやり取りなのに、胸の中で固まっていたものが、ようやくほどけていくのが分かった。
玄関先で一通りのやり取りが済んだところで、ママが言った。
「お疲れでしょう? お茶くらい飲んでいって」
当務明けだと知っている声色で、それでもどこか嬉しそうに。
「当務明けなので、あまり長くは……」
恒一さんが、きちんとした調子で遠慮する。
そこへ、奥からパパの声が飛んできた。
「せっかくここまで来たんだから、少し上がっていったら?」
その「せっかくここまで」が、なんだかおかしくて、私は靴のつま先を見つめる。
ママも「ね?」という顔でこちらと彼を交互に見てくるので、恒一さんは少しだけ困ったように眉を動かしてから、静かにうなずいた。
「……では、少しだけ」
そう言って靴を脱ぎ、私の実家のリビングへと上がっていく背中を見ていると、娘だった家と、今の生活が、やわらかくつながっていくのを感じた。
リビングに入ると、前に来たときと同じ景色なのに、空気が少し違って感じられた。
恒一さんは、前と同じソファに腰を下ろす。
あのときは、フォトウェディングの写真を持ってきた、事前に打ち合わせのあった「ご挨拶」の訪問だった。
今日は、鍵を忘れて実家に泊まった私を迎えに来た夫として、同じ場所に座っている。
そう思うと、同じソファなのに、彼の背中が少しだけ違って見えた。
ママがお茶を運んできて、テーブルにそっと置く。
「昨日は急なことで、すみませんでした」
恒一さんが、きちんと頭を下げて言う。
「いいのよ。ひよちゃんが帰ってくるの久しぶりだったし」
「鍵忘れのおかげみたいに言わないで」
思わず口を挟むと、ママは笑って首を傾げた。
「おかげよ」
その言い方がいかにもママで、苦笑いしか出てこない。
「鍵はあったのか」
パパがテレビから目を離して、テーブル越しに彼を見る。
「下駄箱の上にありました」
「本当に下駄箱の上だったんだな」
パパが妙に納得したようにうなずくから、私は思わず声を上げた。
「もう、そこは掘らないで」
笑いながら抗議すると、リビングの空気がふわっとやわらかくなる。
鍵を忘れた情けなさも、昨夜の不安も、ここではもう、家族みんなで少しずつ笑い話に変わっていくのだと、ソファの端に腰かけながら、しみじみ感じた。
ママが、改めて頭を下げた。
「当務明けなのに、わざわざありがとうね」
「一度帰って休みましたから」
恒一さんが、いつもの落ち着いた声で答える。
「そのまま来たら怒るところだった」
奥でパパがぽつりと言うから、思わず振り返った。
「パパが?」
「危ないだろ」
ぶっきらぼうだけど、その一言にちゃんとした心配がにじんでいる。
「はい。そこは気をつけます」
恒一さんはまっすぐパパを見て、きちんとうなずいた。
そのやり取りを横で見ていて、胸の奥がじんわりあたたかくなる。
この人は、私とふたりの家族というだけじゃない。
ママやパパの心配の中にも、少しずつ入ってきている。
お茶の湯気が少し落ち着いたころ、恒一さんが静かに立ち上がった。
「そろそろ」
ママは名残惜しそうにしながらも、当務明けだと分かっているから、それ以上は引き止めない。
「またゆっくり来てね」
「はい」
短くうなずく声が、いつもより少しだけやわらかく聞こえた。
私が自分のバッグに手を伸ばすと、その前に恒一さんがひょいと持ち上げる。
「自分で持てます」
「持つ」
いつものやり取りに、思わずむっとした顔をすると、そばで見ていたママがくすっと笑った。
「持ってもらいなさい」
「ママまで」
抗議しながらも、結局バッグはそのまま彼の手の中にある。
実家の玄関で交わされる、そのささやかなやり取りが、なんだかくすぐったかった。
実家の玄関で靴を履きながら、私は少しだけ後ろを振り返った。
ママが手を振っている。
パパはリビングの奥から「気をつけて」と言った。
ここは、いつでも帰っておいでと言ってくれる場所だ。
でも今日は、迎えに来てくれた人と一緒に出ていく。
「行くぞ」
玄関の外で、恒一さんが私のバッグを持って待っていた。
「はい」
私はキーケースをバッグの中にしまい直して、今度こそちゃんと、その感触を指先で確かめた。
7
私が玄関先まで行くと、ママが「あ、待って」と言って、ぱたぱたと家の奥へ引っ込んだ。
少しして戻ってきたママの手には、見覚えのある紙袋。
「これ、持って帰って」
中には、お中元でもらったらしいゼリーの詰め合わせと、焼き菓子と、そうめん。
「いいの?」
「いいのよ、もらいものだから。恒一さんにも食べてもらって」
「そんなにいらないよ」
「いいから」
押し切るように紙袋を持たされて、私は重さに少したじろぐ。
「重いし」
「恒一さんが持ってくれるでしょ」
当然みたいに言われて、横を見ると、彼はもう何も言わずに紙袋を受け取っていた。
「ありがとうございます」
私が小声で礼を言うと、「いや」と短く返す。
実家の玄関先で、ママに荷物を押し付けられている夫という構図が、なんだかおかしくて、でもなんだか感慨深い。
◇◇◇
マンションの前に立ったとき、昨日の夕方のことが、どうしても頭をよぎった。
あのときは、ここで何度バッグの中を探っても、鍵の感触が見つからなかった。
今日は、違う。
バッグの内ポケットに指を入れると、すぐにキーケースの固い感触が指先に触れる。
私はそっとつまみ上げて、確かめるように握った。
「あります」
「あるな」
「確認しました」
「よし」
短いやり取りのあと、自分の鍵でドアを開ける。
ガチャ、と軽い音がして、ドアノブが素直に回った。
昨日は、どうしようもなく冷たい壁みたいだったドアが、今日はちゃんと、私たちの家の入口に戻る。
足を一歩踏み入れた瞬間、胸の奥までほっと緩んだ。
玄関に入ると、北向きの薄暗さがいつものように迎えてくれた。
下駄箱の上は、昨日キーケースが一晩置かれていた場所だ。
思わずそこに視線が行く。
でも今日は、何もない。
キーケースはちゃんとバッグの中にしまってある。
恒一さんが、通勤バッグとママからの紙袋を玄関脇に置く。
紙袋の口から、ゼリーの箱が少し見えていて、実家のあたたかさが、そのままふたりの家についてきたみたいだと思った。
「鍵置き場、作るか」
「……必要ですね」
「小さいトレーでいい」
「かわいいのにしてください」
「分かった」
そんな会話を交わしながら、暮らしがまた一つ整っていく。
鍵忘れが、ただの失敗じゃなくて、ふたりの家の新しいルールになっていくのが、ちょっと嬉しかった。
バッグの内ポケットに、もう一度キーケースをしまう。
指先でその感触を確かめて、ポケットの口をきゅっと閉じる。
北向きの薄暗い玄関に、一歩足を踏み入れてから、私はゆっくりと口を開いた。
「ただいま」
昨日は実家で言った言葉を、今日はここで言う。
朝倉ひよりとして暮らしている、この家で。
「おかえり」
すぐそばで、恒一さんの声が返ってくる。
その一言を聞いた瞬間、胸の奥まで、ようやくちゃんと帰ってきた気がした。
実家は、帰れる場所だった。
急に電話しても「帰っておいで」と言ってくれる、あたたかい場所。
その場所から持たされた紙袋が、今は私たちのキッチンの隅に置かれている。
でも、今の私が毎日帰ってくるのは、この薄暗い玄関で、下駄箱の上に鍵を置き忘れるような朝がある部屋だ。
ひより日和 新婚編 第7話 「鍵のない夜」 おわり




