第7話 「素手では、ちょっと!」
1
ここ数日、ひよりと俺のシフトはほとんど同じだ。
そうなると、ひよりの機嫌は分かりやすいくらい良くなる。
単純で、でもその単純さが愛おしい。
朝から分かる。
いつもより少しだけ声が明るい。
朝食の皿を出す手も軽い。
出勤前に玄関で靴を履きながら、「今日は帰ってから映画、観られますね」と二回言った。
今日はふたりとも早番だった。
明日はふたりとも遅番だ。
つまり、多少の夜更かしは許される。
晩飯を食べて、片づけまで終えても、まだ二十時を少し過ぎたところだった。
先に風呂を済ませた俺は、リビングのソファに座り、テレビのストリーミング画面を開いていた。
映画の候補はいくつかある。
ひよりは恋愛ものでもミステリーでも観るが、疲れている日は重すぎるものを選ばない方がいい。
かといって、あまりにも軽すぎると途中で寝る。
リモコンを持ったまま、画面をスクロールする。
洗面脱衣所では、ひよりが風呂から上がった音がしていた。
ドライヤーの前に化粧水だろうか。
洗濯機のふたが軽く当たる音と、棚を開ける音が聞こえる。
その直後だった。
「きゃああっ!」
悲鳴が上がった。
反射的に立ち上がった。
リモコンをソファに放り、洗面脱衣所へ向かう。
「ひより!」
引き戸を勢いよく開ける。
その瞬間、ひよりがこちらを見て、さっきとは別の悲鳴を上げた。
「ひゃああっ!」
「何だ」
「開けないでください!」
ひよりは風呂上がりの薄いキャミソール姿で、濡れた髪を肩に落としたまま、両腕で自分の体を抱えるようにしていた。
頬が赤い。
目も見開いている。
悲鳴が聞こえた以上、開けるなと言われても困る。
今さら、半裸だろうが全裸だろうが、隠すような仲でもないのに、と一瞬だけ場違いなことを考えた。
「悲鳴が聞こえた」
「それはそうですけど!」
「怪我は」
「してません!」
「じゃあ、何があった」
「います!」
「何が」
ひよりは答える代わりに、俺の背中側へ回り込んだ。
洗面台と洗濯機の間、白い壁の方を指さしている。
その指先を追う。
白い壁に、茶色っぽい小さな蜘蛛がいた。
胴体は一センチあるかないか。
脚まで入れれば、五百円硬貨より少し大きいくらいか。
じっとしている。
特に危険そうには見えない。
「蜘蛛か」
そう言うと、背中の後ろから、ひよりの声が飛んできた。
「その反応、軽すぎません?」
ひよりが俺のTシャツの背中をつかむ。
「小さいだろ」
「小さくありません!」
蜘蛛が少し動いた。
「動きました!」
「動くものだろ」
「冷静に言わないでください!」
ひよりが背中のTシャツをつかむ手に力を入れる。
声だけは元気だな、と変なことを思いながら、もう一度壁の蜘蛛を見る。
外に出せば済む。
逃げられても面倒だと判断して、俺は一歩、そいつに近づいた。
その瞬間、俺の背中にくっついたままのひよりから、声が飛んできた。
「待ってください」
「今度は何だ」
「まさか、素手ですか」
2
「外へ出すだけだ」
「つぶさないけど?」
そう返すと、背中からひよりがおぞましげに、ひぃっと息を吸い込んだ。
これだけは譲れない、という顔が目に浮かぶような声だった。
ひよりは全力でTシャツをつかみ、後ろへ引っ張った。
「素手では、ちょっと!」
思いのほか強い声音で言われて、思わず動きを止める。
「何がダメなんだ」
少し振り返って、ひよりを見た。
ひよりは視線を下げてはいたが、声だけは張り上げていた。
「その手で、あとで私に触るじゃないですか!」
「手は洗う」
「洗っても、今見た記憶が残ります!」
「記憶か」
「記憶です」
蜘蛛に触った手で触られるのが嫌らしい。
なるほど、そういうものか。
そんなことを言っていたら、排水口の掃除だって似たようなものだと思う。
ただ、ひよりの中では別物なのだろう。
納得はしきれない。
理屈も完全には分からない。
でも、まあいい。
ひよりが嫌なら、しないだけだ。
「じゃあ、何で取る」
俺がもう一度手を持ち上げると、ひよりは慌ててその腕をつかんだ。
「コップとか、紙とか」
「コップ」
「透明じゃないやつでお願いします」
「中が見えないからか」
「見えたら無理です」
即答しながら、ひよりは俺の背中越しにきょろきょろと辺りを見回す。
「そうだ! 紙コップ! 紙コップあります!」
ぱっと表情が明るくなって、俺のTシャツを引っ張りながら、洗面台の方を指さした。
「紙コップなら、洗面台の下にあります!」
「なんである」
しゃがみ込んで扉に手をかけると、ひよりが少しだけ俺の肩に額を寄せてくる。
「こういう時のためではないですけど、今はこういう時のためです!」
胸を張るような声が、背中から響いた。
洗面台下の収納には、紙コップが数個重なっていた。
そばに、使いかけのハンドソープの詰め替えを包んでいたチラシがある。
それも抜き取って、立ち上がった。
紙コップを片手に持ち、そっと壁際ににじり寄る。
背中には、まだひよりがぴったり張り付いている。
「近づきすぎです」
すぐ後ろから、小声のくせに必死な指示が飛ぶ。
「捕まえるんだから近づく」
「正論やめてください」
ひよりの指がTシャツの裾をきゅっとつまみ直したその瞬間、蜘蛛がすっと壁を横に動いた。
「動きました!」
思わず肩が揺れるほどの声量だ。
「動いてる」
視線で追いながら答えると、背中から抗議の息がかかる。
「実況しないでください!」
「なら聞くな」
小さくため息をつきつつ、動線をふさぐように一歩踏み出す。
蜘蛛と壁の隙間を測りながら、紙コップの縁をそっと近づけていくと、背中のひよりも息を止めた気配がした。
タイミングを見て紙コップをかぶせる。
すぐに、もう片方の手でチラシを持ち、コップの縁と壁のあいだにそっと差し込んでいく。
逃げ道をふさぐように、少しずつ。
背中では、ひよりがTシャツをぎゅうっとつかんでいる。
指の関節のこわばりが布越しに伝わる。
コップの中で、かさ、と小さな音がした。
その瞬間、背後の気配が凍りついたように動きを止める。
ひよりが、息を飲んだのが分かった。
「取った」
チラシでふさがれた底を支えながら、静かに告げる。
「……中にいます?」
おそるおそる、という声色だ。
「いる」
正直に答えると、背中から小さな抗議が飛んでくる。
「言わないでください」
「聞いただろ」
3
捕獲したあとも、ひよりはまだ俺の背中に張り付いたままだった。
片手で紙コップ、もう片方で下に差し込んだチラシを押さえる。
中は見えない。
けれど、ときどき「かさ」と小さな音がして、そのたびに背中の指先に力がこもる。
ひよりは俺のTシャツをぎゅっとつかんだまま、じりじりと俺の後ろに隠れ続けている。
「もう大丈夫だ」
声を落として告げると、即座に返ってきた。
「大丈夫じゃないです」
「取った」
「持ってるじゃないですか」
思わず苦笑が漏れる。
ひよりにとっては、捕まえたら終わりではない。
こいつがちゃんと家の外に出るまでは、まだ「現在進行形の事件」らしい。
「外に出す」
紙コップとチラシをしっかり押さえたまま言うと、背中からおそるおそる声が返る。
「今ですか?」
「今出さないでどうする」
「それは、そうですけど」
問題はどこから外に出すかだ。
ベランダがいちばんいいが、出るにはリビングを通るしかない。
「リビング通ります?」
「通る」
「映画見る部屋ですよ」
「蜘蛛は見ない」
「そういう問題じゃありません」
背中で抗議しながらも、ひよりは俺のTシャツを離さない。
紙コップを持ったまま洗面所を出て、リビングへ向かう。
ひよりは距離を取るかと思いきや、逆にぴったり後ろについてきた。
「ついてくるのか」
「置いていかないでください」
「近づきたいのか、離れたいのか、どっちだ」
「分かりません!」
本気で混乱している声に、思わず口元がゆるむ。
そのとき、手の中の紙コップの中で、かさっと小さな音がした。
「今、動きました?」
すぐ背中から飛んでくる。
「動いた」
「言わないでください!」
「聞いただろ」
ベランダの掃き出し窓を開けると、夜風がするりと入り込んだ。
ひよりは部屋の中、カーテンの影あたりからこちらを見ているが、半分はわざと視線をそらしている。
紙コップをベランダの端まで運び、そっと腰を落とす。
チラシを少しだけずらすと、足もとの暗がりがわずかに動いた。
「こっち来ません?」
背中の方から、縋るような声。
「来ない」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんって言わないでください」
苦笑しつつ、紙コップを外側に向けて傾ける。
俺から見れば、ただ手首をひねっただけだ。
中にいた小さな影は、すっと暗い方へ走り去る。
「出した」
「本当に?」
「ああ」
「見えませんでした」
「見ない方がいいだろ」
「はい」
返事を聞きながら、静かに窓を閉めた。
リビングに戻ると、ひよりの視線がまず紙コップに向かった。
「それ、どうするんですか」
「捨てる」
キッチンのゴミ箱の方へ歩くと、背中からほっと息が漏れる。
「ありがとうございます」
「礼を言うことか」
「大事です」
真顔で言うものだから、紙コップ一つ捨てるだけなのに、妙に大役を果たした気分になった。
リビングのローソファに座るとテレビの画面は、ストリーミングの検索画面のまま止まっている。
ひよりが隣に腰を下ろして言った。
「恒一さん、なんでそんなに平気なんですか」
「実家では普通にいたからな」
ひよりは、少し目を見開いていた。
「おふくろは、殺すなって言ってた」
「お義母さん、強いですね」
「蜘蛛を見て、客が来たとか言ってた」
ひよりが、さっき蜘蛛を見たときとは別の顔で固まった。
「……お客さん?」
俺にとっては普通だったことが、ひよりにはかなり意外だったらしい。
4
「蜘蛛を、お客さんって言うんですか」
ひよりが、まだ少し信じられないような顔で聞いてきた。
「おふくろの言い方だ」
「蜘蛛って、ほかの小さい虫を食べるだろ」
「だから、見つけても殺すなって言われてた」
「外に出してやれって」
ひよりは、すぐには返事をしなかった。
さっきまであれだけ騒いでいたのに、今はソファの上で膝に手を置いて、少し考えるような顔をしている。
「……そうですよね」
「何が」
「さっきの蜘蛛も、別に私を驚かせようとして、そこにいたわけじゃないんですよね」
「してないだろうな」
「ただ、そこにいただけで」
「ああ」
ひよりは、少しだけ肩を落とした。
「ダメなものはダメですけど、思ったより大きくて」
「びっくりしちゃって」
それは、たぶん本当にそうなのだろう。
怖かったし、驚いた。
嫌だし、急だった。
ひよりの顔を見ていると、そんなふうに見えた。
「でも、殺さなくていいです」
ひよりが、もう一度洗面所の方をちらりと見てから言った。
「外に出してあげるのでいいです」
「分かった」
「ただし、素手では触らないでください」
「それは聞いた」
「何回でも言います」
そこは譲る気がないらしい。
「あと、普段使うコップもだめです」
「紙コップだな」
「はい。使ったら捨てます」
「分かった」
ひよりはまだ少し警戒した顔をしていたが、さっきのように俺の背中へ隠れることはなかった。
虫は、どこにでもいる。
蜘蛛だって、たぶん生きるためにそこにいただけだ。
それでも、苦手なものが急に平気になるわけではない。
夫婦で暮らす家のルールは、たぶん、こうやって少しずつ増えていく。
5
テレビ画面は、さっきのまま映画の検索一覧を映している。
リビングの空気も、ようやく普通の夜に戻ってきた。
「映画、観るか」
声をかけると、ひよりもいつもの調子で返してくる。
「観ます」
そこまでは自然だった。
だがその直後、ふと自分の身体を見下ろしたひよりが、ぴたりと固まる。
髪はまだ少し濡れていて、服はキャミソールのまま。
さっき悲鳴を上げたあと、洗面所の戸を開けた俺にその格好を見られ、そのまま背中に張り付いて家じゅうを移動していたことを、今さら思い出したらしい。
テレビの光だけが静かに揺れている。
「……恒一さん」
「ん?」
「私、叫んだ時のままの格好でここにいますけど……」
ここはたぶん、ごまかしても意味がない。
悲鳴が聞こえたから行った。
怪我がないか、ちゃんと立っていられるか確認した。
それ以上の説明は、今のひよりにはしない方がいい気がする。
「悲鳴が聞こえたからな」
「そういう意味じゃなくて」
「怪我がないかは見た」
「そこだけでお願いします」
それなら、と心の中だけでうなずいておいた。
薄いカーディガンを羽織り、髪もきちんと乾かして、ひよりが戻ってきた。
さっきより表情は落ち着いているが、リビングに入る前に一度だけ洗面所の方へ視線をやる。
「まだ気になるのか」
「少しだけ」
「いないって」
「分かってます」
「なら見るな」
「気持ちの問題です」
いかにもひよりらしい理屈だと思いながら、ふたりでソファに座り直す。
テレビには、まだストリーミングの候補一覧が並んでいる。
リモコンを手に取り、今度は意識的に軽めの恋愛映画をスクロールして選ぶ。
「これにするか」
そう言いかけたところで、ひよりがぽつりと付け加える。
「虫が出ないやつでお願いします」
「条件が増えたな」
ひよりはカーディガンの袖を少し引っ張りながら、俺の隣に座り直した。
画面の中では、選びかけの映画のサムネイルが並んでいる。
ひよりが、洗面所の方をちらりと見て、小さく言った。
「……お客さん、もう来なくていいです」
「名前をつけたのか」
「つけてません」
そう言いながら、ひよりは俺の腕に少しだけ寄りかかった。
この家には、またひとつルールが増えた。
蜘蛛は殺さない。
ただし、素手では触らない。
紙コップは捨てる。
それから、悲鳴が聞こえたら、俺はたぶんまた扉を開ける。
たとえそのあと、ひよりに怒られるとしても。
ひより日和 新婚編 第8話 「素手では、ちょっと!」 おわり




