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第6話 「酔ってません」

1


平日の朝にしては、少しだけ空気がゆるんでいる気がした。


テーブルの上には、トーストとサラダと、昨夜の残りのスープ。

いつもの朝ごはん。


だけど、心のどこかで、私は今日の夜のことを先取りしている。


「今日、KSSの親睦会ですよね」


パンにバターを塗りながら切り出すと、向かい側で書類をめくっていた恒一さんが、書類から視線だけを上げた。


「ああ、そうらしい」


「東京支社の人も来るんでしたっけ」


「大蔵屋担当の村上係長が来るって聞いてる」


いつも通りの、落ち着いた声だった。


親睦会と言っても、恒一さんの口ぶりだと、半分くらいは仕事の延長みたいに聞こえる。


「じゃあ、飲み会というより、仕事の人たちとの食事会みたいな感じですか?」


「まあ、そんなところだな」


「それ、親睦会って言うんですか?」


「言うらしい」


あまり楽しそうではない返事に、思わず笑ってしまう。


「神田さんも行くんですよね」


「遅番のあとに合流する」


「恵美が、飲みすぎないでって言ってそう」


「言われてるだろうな」


恒一さんが、少しだけ口元をゆるめた。


神田さんが恵美に注意されているところを想像すると、なんとなく納得してしまう。


それと同時に、私はふと思い出した。


この前、私が同期の女子会のあと、恒一さんと一緒に帰ってきた夜。


軽いサワーを少し飲んだだけで、全然酔ってなんかいなかったのに、彼はキッチンで水を一杯入れて、当たり前みたいに私の前へ差し出した。


『念のため、飲んでおいたほうがいい』


その声が妙に真面目で、仕事のときの彼に少し似ていた。


私は少しだけ文句を言いながら、結局その水を飲んだ。


嫌だったわけじゃない。

むしろ、少しだけ嬉しかった。


家に帰ってきたあとまで、ちゃんと見てくれている。

そう思うと、水まで少しやさしい味がした。


「じゃあ、今日は帰ってきたら、私が水を出しますね」


そう言うと、恒一さんが書類から顔を上げた。


「俺に?」


「はい」


「酔ってなくても?」


「酔ってなくても。念のためです」


わざと真面目な顔で言うと、恒一さんは一瞬だけ黙って、それから小さく笑った。


「あれを根に持ってるのか」


「根には持ってません。覚えてるだけです」


「同じだろ」


「違います。嬉しかったから、今度は私がするんです」


言ってから、少しだけ照れた。


恒一さんも、すぐには返事をしなかった。


「……そうか」


短い言葉だったけれど、声は少し柔らかい。


「でも、飲みすぎないでくださいね」


「飲みすぎない」


「そこは一応、言っておきます」


「わかった」


あまりにも真面目に頷くので、逆におかしくなる。

きっと本人は、本気でそう思っている。

だから私も、本気で信じておくことにした。


帰ってきたら水を出す。

ただ、それだけ。



「そろそろ出なくていいのか?」


「いけない、七時半!」


慌てて立ち上がると、椅子が小さく音を立てた。

バッグを持って玄関へ向かう。

靴を履き終えたところで、恒一さんが言った。


「いってらっしゃい」


「いってきます。親睦会、楽しんできてくださいね」


「楽しむものなのか?」


「親睦会ですから」


「そうか」


最後まで少し納得していない顔に笑いながら、私は玄関のドアを開けた。


今夜の私は、たぶんコップに水を入れるタイミングを考えながら、あの人の帰りを待つことになるのだろう。



2


その日の大蔵屋は、朝から落ち着く気配がなかった。

開店してすぐにお中元カウンターへの案内が入り、ひと段落つく前に、催事場の場所をたずねるお客様が続く。


「お中元承りカウンターは、9階でございます。中央のエレベーターをご利用くださいませ」


笑顔で案内して、エレベーターの扉が閉まるのを見届けたら、すぐに別のお客様の影が視界に入る。


「すみません、このチラシの商品って、どこにあります?」


差し出されたチラシには、開催中のクリアランスセールの文字が大きく載っていた。


「こちらの商品は、2階の婦人服売場でのお取り扱いでございます」

「セール価格でのご提供は、28日まででございます」


そう説明してから、今度は駐車券のカウンターはどこかとたずねられ、その次は「去年ここにあった売場はどこに行ったの?」と首をかしげるお客様。


「昨年まで4階にございました婦人フォーマルの売場は、ただいま2階のギフトサロン横に移設しております」


言いながら、自分でもよくこんなにスラスラ出てくるなと思う。


先日の同期の女子会で、あれだけ愚痴を言ったのに。


お中元シーズン前は毎年バタバタするだとか、チラシの問い合わせが一番ややこしいだとか、去年のレイアウトを基準に聞かれても困るだとか。


それでも今日の私は、結局いつも通りに笑って、いつも通りに頭を下げて、いつも通りに案内している。

百貨店で働くというのは、そういうことなのかもしれない。


「駐車券の認証をいたしますね」


次のお客様に声をかけながら、私は自分の口元が、ごく自然に「インフォメーションの笑顔」になっていることに気づいて、心の中で小さく苦笑した。




お昼どきの波がひと段落して、インフォの交代に入ったタイミングで、ようやく休憩だ。

社食でトレイをテーブルへ置いた時、隣に腰を下ろした恵美が、開口一番、声をひそめる。


「今日、KSSの親睦会だよね」


「うん。恒一さんも、遅番終わりに行くって」


お味噌汁のふたを開けながら答えると、恵美がストローをさしたペットボトルを揺らした。


「亮も行くって言ってた」


神田さんの名前が出て、頭の中でふたりの姿が自然に並ぶ。


「恵美、飲みすぎないでって言った?」


「言った」


間髪入れずに返ってきて、思わず笑ってしまう。


「やっぱり」


「そりゃ言うでしょ。ああいうのって、言っとくだけでも違う気がするし」


恵美はそう言ってから、ご飯のふたを外しつつ、ふと真顔になる。


「でもさ、亮より朝倉さんのほうが心配じゃない?」


「え、なんで?」


箸を持った手が止まる。

私の中では、心配度の順番は逆だったからだ。


「真面目な人ってさ、上の人に勧められたら断らなさそうじゃない?」


「ああ……」


言われてみれば、ものすごくありそうな話だ。


「で、『まあ一杯だけ』とか言いながら、気づいたらちゃんと飲んでるタイプ」

「自分ではセーブしてるつもりなんだけど、周りのペースに合わせちゃうというか」


恵美の言葉に、今朝の「飲みすぎない」が頭の中でリフレインする。

あの、妙に自信ありげな声。


「恒一さん、そんなに飲まないと思うけど」


一応、そう返す。

そう返したい、という気持ちもある。


結婚してからも、その前に一緒に住んでいたときも、彼がお酒で失敗したところを見たことはない。

帰ってきても、いつもと同じように落ち着いていて、ふらつくどころか足取り一つ変わらない。


だから、信じている。


「朝倉さん、真面目だし、変なことにはなりそうじゃないけど」


「うん?」


「飲みの席だと、その真面目さが逆に心配になること、あるから」


冗談めかした口調のわりに、その言葉はすっと胸に残った。


私は箸をだし巻き卵に伸ばしながら、ほんの少しだけ、今夜の親睦会のテーブルを想像してみる。

東京支社から来る村上係長や、他のメンバーと並んで座る彼の姿は、まだぼんやりしていて、そこにグラスが何杯並ぶのかも、まだうまく思い描けなかった。




昼休憩を終えてインフォメーションカウンターに戻った。

ちょうど館内巡回中のKSSの制服が視界の端をかすめた。


恵美が、私の横で小さく声を上げる。


「神田さん」


その声は仕事の呼び方にしては少しだけやわらかくて、神田さんもすぐに気づいた。


「お疲れ様です」


いつもの落ち着いた声。

インフォの前では、ほんの少しだけ表情がやわらぐ。


「今日、親睦会でしょ。飲みすぎないでよ」


恵美がカウンター越しにひそひそ声で言うと、神田さんは苦笑いを浮かべた。


「俺より主任の心配してください」


「え?」


思わず、私の声が出る。

話題が急にうちに飛び火した気がして、胸の奥がきゅっとする。


「東京支社の村上係長が来るらしいんで」


さらっと続ける神田さんの言葉に、恵美が首を傾げた。


「偉い人?」


「大蔵屋担当の管理の人です。現場もよく見に来る人ですけど、今日は親睦会なので」


今日は親睦会なので。

その一言が、妙に意味ありげに聞こえる。


「恒一さん、飲まされるんですか?」


気づいたら、そう口にしていた。


「飲まされるというか……断りにくい場面は、あるかもしれません」


言いよどむような言い方が、かえって想像をふくらませる。


「亮が止めたら?」


恵美が軽く笑いながら振ると、神田さんは肩をすくめた。


「俺も飲まされる側なんで」


あっさりした答えに、カウンターの内と外で、同時に小さなため息が漏れる。


さっきまで「そんなに飲まないと思う」と信じていた心に、じわりと小さな泡みたいな心配が広がっていくような気がした。


神田さんと話していると、ふいに背後の空気が変わった。

視線を向けるより早く、神田さんの背筋がぴんと伸びる。


そのすぐ後ろから、見慣れた長身のシルエットが現れた。


「何してる」


低い声に、神田さんが即座に業務モードの顔に戻る。


「業務連絡です」


さらっと言うその横で、恵美が悪びれもせずに続けた。


「飲みすぎないでくださいっていう業務連絡です」


カウンター越しに言い切ると、朝倉さんが一瞬だけ恵美を見て、それから私のほうへ視線を移す。


「朝も聞いた」


短くそう言われて、少しだけ胸がくすぐったくなる。


「何度も聞いてください」


私がそう返すと、彼はほんのわずかに目尻をゆるめた。


「そうか」


その一言で会話を締めて、すぐに巡回の歩調に戻っていく背中を、私たちは3人で見送る。


去っていく背中が角を曲がったあたりで、恵美が小声でつぶやいた。


「新婚って感じ」


「恵美も今、似たようなことしてたからね」


思わずツッコミを入れると、恵美はむっとした顔で首を振る。


「私は違う」


絶対に違わない、と心の中でだけつぶやいて、わたしはまたインフォメーションの笑顔に戻った。



3


22時前の大蔵屋は、昼間の賑やかさが嘘のように静かだった。

フロアの照明は半分落とされ、シャッターの下りた出入口だけが、外の街灯を鈍く反射している。

ところどころ、片づけの残る売場からだけ、小さな物音とバックヤードの蛍光灯の白い光が漏れていた。


警備室では、遅番終わりの処理がいつも通りに進む。

巡回報告をまとめ、鍵の返却と確認を済ませ、日報にサインを入れる。

忘れ物や閉店後対応の記録を引き継ぎに書き込んで、ようやく今日の仕事が一区切りついたところだった。


巡回報告を書き終えて、日報の欄を埋めていると、横から覗き込むようにして神田が声をかけてきた。


「主任、今日、親睦会ですよ」


「わかってるよ。お前もだろ」


ペンを動かしたまま返すと、神田がじっとこちらの顔を見て、ため息まじりに言う。


「顔が帰りたい人です」


「帰らない」


「逃げる人の顔です」


「逃げない」


即答すると、なぜか詰所の空気が少しだけ和んだ。

別に逃げるつもりはない。

そもそも、嫌な集まりでもない。


飲み会は嫌いではない。

今回は仕事の延長みたいなものだし、顔を合わせておくのは大事だとわかっている。

ただ、仕事が終わったあとに「楽しみでわくわくする」種類のものでもないだけだ。


ペン先を止めたところで、ふと今朝のことを思い出す。


『飲みすぎないでくださいね』


インフォのカウンター越しに、真顔でそう言ったひよりの顔。

昼には前田さんにも、同じようなことを言われた。


飲みすぎるつもりはない。

そもそも、そんなに量は飲まないつもりだ。

東京支社の村上係長に挨拶をして、何杯か付き合いでグラスを空けて、適当なところで切り上げて帰る。


それだけの話だと、本気で思っている。


自分が酔って足元がおぼつかなくなるような未来なんて、いまのところ、想像の範囲には入っていない。



警備室での片づけを終えて、ロッカー室に移動する。

上着を替える前にポケットの中身を出そうとして、何となくスマホの画面をのぞいた。


隣では神田も同じようにロッカーを開け、スマホをチェックしている。

通知音がひとつ鳴って、神田の指が止まった。


画面をちらりと見た神田の口元が、わずかにゆるむ。


「前田さんか」


つい口をついて出すと、神田の肩がほんの少し固まる。


「……業務連絡です」


「違うだろ」


「飲みすぎるなっていう連絡です」


「なら業務連絡だな」


さっき「業務連絡」とからかわれていた場面が、頭をよぎっておかしくなる。


神田は小さく咳払いをしてから、こちらを見た。


「主任も奥さんから言われてましたよね」


「ああ。朝から3回聞いた」


玄関、朝食のテーブル、そしてインフォの前。

どれも同じ「飲みすぎないでくださいね」だった。


「愛されてますね」


「うるさい」


そう返しながらも、ロッカーの金属に反射した自分の顔が、ほんの少しだけゆるんでいるのを自覚して、視線をそらした。


上着に袖を通していると、神田がスマホを見ながらぼそりと言った。


「今日、村上係長、もう来てるみたいです」


「そうか」


「早番組から写真来ました。もう始まってます」


開始は18時半か19時。

早番と休みのやつらは、すでに何杯かやっている時間だ。

俺たちは遅番終わりで、22時半ごろの合流になる。


神田が少し嫌そうに顔をしかめる。


「たぶん、着いたらすぐ乾杯させられます」


「一杯だけだ」


「その『一杯だけ』が一番信用できないんですよ」


「ひよりにも似たようなことを言われた」


「奥さん正しいです」


即答されて、返す言葉が見つからなかった。



駅ビルへ続く道に出る前に、大蔵屋の外壁沿いを歩く。

夜のガラスには館内の灯りが薄く残っていて、昼間の賑わいの名残りだけが映っている。


正面玄関の近くまで来たとき、ガラス越しに1階フロアが目に入った。

インフォメーションカウンターも、当然ながらもう無人だ。

早番のひよりは、とっくに家に帰っている時間帯。


ふと、今朝の言葉が浮かぶ。


『帰ってきたら水、出しますね』


あのときの、少しだけ呆れたような、でも心配している目つき。

思い出しただけで、口元がわずかにゆるむ。


「主任、何笑ってるんですか」


横を歩く神田に拾われて、我に返る。


「笑ってない」


「笑ってました」


「見間違いだ」


否定すると、神田がじっとこちらを見上げる。


「奥さんのことですか」


「黙れ」


短く切り捨てて、足を少しだけ速めた。

背中に、神田の小さな笑い声がついてくる。



4


駅ビル近くの居酒屋に着く。

店の前から、すでに賑やかな声が漏れている。

暖簾が、出入りする客に押されて、落ち着きなく揺れていた。


「行きますか」


隣で神田が言う。


「ああ」


短く返すと、神田がこちらを横目で見上げた。


「主任、本当に一杯だけで済みます?」


「さぁな。状況次第」

「明日もあるし」


「その返事、危ないですね」


「うるさいな」

「お前こそ、つぶれるなよ」



軽口を交わしながらも、店の奥から聞こえる笑い声に、自然と肩に力が入っていく。

聞き慣れた隊員たちの声に、少しだけ聞き慣れない東京支社の声が混ざっている。

今日の飲み会が、いつもの打ち上げとは違うことを、そのざわめきが教えていた。


そうして、俺は夜のざわめきの中へ一歩踏み込んだ。



5


居酒屋に入ると、早番と休みの隊員たちはもう始めていた。

テーブルには空いたジョッキと、枝豆や唐揚げ、刺身の皿が雑に並んでいる。

奥の席では、東京支社の村上係長が笑っていた。


村上係長は苦手なタイプじゃない。

現場もちゃんと見ているし、警備の隊員のことも公平に評価してくれている。

ただ、飲み会になると少し距離が近い。

そういうタイプだ。



村上係長がすぐに俺たちに気づく。


「おお、朝倉主任。遅番お疲れ」


「お疲れ様です。遅くなりました」


「神田くんもお疲れ。まあ座れ座れ」


すすめられるまま、俺は空いた席に腰を下ろし、神田はその隣に座った。

その横顔には、わずかに警戒の色がある。


まずはビールを頼む。

ジョッキが置かれるのを見計らって、村上係長が声を張った。


「とりあえず遅番組も来たし、もう一回乾杯するか」


「お疲れ様です」


早番組が一斉にジョッキを掲げる中、俺は一杯目のビールに口をつけた。



少し飲んだあと、村上係長が仕事の話を振ってきた。


「大蔵屋は安定してるよ。クレームも大きな事故も少ない」


「現場全員で回してます」


そう返すと、村上係長が口元をゆるめる。


「そういうところが朝倉主任らしいな」


ほめ言葉として受け取れるのは分かっている。

それでも、胸のどこかがむずがゆくて、俺はジョッキの水滴を親指でなぞりながら、少し黙った。


「事実なので」


ようやく絞り出した言葉に、隣の神田が小さく笑うのが聞こえた。


「でもな、主任が締めてくれてるから、下が動きやすいってのはある」


村上係長は、からかうでもなく、淡々と言う。

その調子がかえって、本音なのだと分からせる。


その言葉を、俺は二口目のビールと一緒に飲み込んだ。



少し場が落ち着いたころ、村上係長がジョッキを置いて、ふと思い出したように言った。


「そういえば、朝倉主任。結婚したんだってな」


口元に運びかけていたジョッキが、空中で一瞬止まる。


また、その話か。


「……はい」


短く答えると、隣で神田が笑いをこらえる気配を見せた。


「奥さん、大蔵屋の人なんだろ?」


「インフォメーションです」


「おお、あそこの。だから昼間、前を通ると雰囲気が柔らかくなったのか」


さすがにそれは言い過ぎだろうと思う。

けれど、頭ごなしに否定するのも違う気がして、返事の言葉がうまく出てこない。

ジョッキの中の泡ばかり見つめてしまう。


どう反応するのが正解なのか分からず黙っていると、横から小声が飛んできた。


「主任、顔」


「黙れ」


神田の横腹を肘で小さくつつきながら、低く返す。

隣のテーブルでは、別の話題で笑い声が上がっているのに、自分のところだけ、妙な熱がこもっている気がした。



村上係長が、ふいに神田の方を見る。


「そういえば、神田くんもインフォの子と仲がいいって聞いたぞ」


神田が固まった。


「……誰からですか」


「現場は狭いからな」


村上はニヤリと笑う。

俺はジョッキに口をつけ、何も言わずにビールを飲んだ。


「普通です」


神田が、少しだけ声を落として言う。


「普通らしいです」


「主任まで言わないでください」


神田が小声で抗議してくるのを、村上が面白そうに眺める。


「前田さんだったか」


「……はい」


その返事と一緒に、神田の耳がほんのり赤くなる。

ここにいない本人の存在感が、テーブルの上にふわりと浮かんだ気がした。


「いいことだ。現場同士で仲がいいのは悪くない。ただ、勤務中はほどほどにな」


「わかってます」


「そこは大丈夫です」


俺が口を挟むと、村上係長が愉快そうに笑った。


「朝倉主任が言うと説得力あるな。自分も職場結婚なのに」


言葉が一瞬、喉の途中でひっかかる。

否定する理由もないから、黙ってビールをもう一口飲んだ。

隣で神田が、笑いをこらえている気配だけが伝わってくる。



「まあ、今日は朝倉主任の結婚祝いも兼ねて、一杯」


村上係長がそう言って、こちらにジョッキを向ける。


「ありがとうございます」


軽く頭を下げて応じると、隣で神田が小声を寄せてきた。


「主任、ペース」


「わかってる」


言いながらも、さっきよりビールの泡が減る速度が少しだけ速い自覚がある。


「神田くんも飲め。前田さんに心配されてるんだろ」


「それ、関係あります?」


「あるだろ。心配してくれる人がいるのはいいことだ」


村上係長は笑いながら言って、自分のジョッキにも口をつけた。


からかわれているようでいて、言葉そのものは温度が高い。

俺も神田も、何となくそれ以上は否定しづらくなって、素直にグラスを傾ける。


喉を落ちていく冷たい液体の感触は、まだはっきりしている。

酔ってはいない。

けれど、予定していたよりも、少しだけペースが上がっているのを、俺は自分で分かっていた。




店を出る少し前、ラストオーダーのグラスがほとんど空になったころには、気づけば、時計は午前1時近くを指していた。

神田は頬が赤く、言葉もいつもより軽い。

けれど、完全に潰れているわけではない。

水を飲みながら、俺の顔をじっと見てくる。


「主任……これ、奥さんに水を出されるやつですね」


「酔ってない」


即答すると、神田が肩を揺らした。


「誰もそこまでは言ってないです」


「酔ってない」


二度目を口にしたところで、自分でもわずかに違和感があった。

背筋は伸びているし、言葉もはっきりしているつもりだ。

ただ、箸を置く動作ひとつ、ジョッキを戻す手つきひとつが、いつもより少しだけ遅い。


「2回言うところが、ちょっと怪しいです」


神田の目も、だいぶとろんとしている。


「お前もだろ」


「俺は……恵美さんに怒られない程度です」


「それはもう怒られる」


口にした瞬間、自分でもおかしくなって小さく笑う。

グラスの底に残った氷が、からんと鳴った。



6


会計を済ませて店を出ると、時刻は午前1時半。

駅ビル近くの夜は、もう昼間とはまるで違う顔をしている。


金曜の夜とはいえ、人影はだいぶ減っていた。

タクシー乗り場へ流れていく背中、コンビニだけが白く明るい。

夜風が少しだけ冷たくて、酔いの熱を撫でていく。


俺は背筋こそ伸びているものの、歩幅がいつもより丁寧で、少しだけ遅い。

会話もできるし、まっすぐ歩ける。

ただ、動きの一つひとつに、妙な慎重さが混じっていた。


神田も頬を赤くし、ポケットからスマホを出すのに、わずかにもたついている。



村上係長は、まだ上機嫌のままネクタイをゆるめた。


「今日は遅番明けなのに悪かったな」


「いえ。ありがとうございました」


頭を下げると、村上係長がにやりと笑う。


「奥さんによろしくな」


一拍、言葉が遅れてから口をつく。


「……はい」


隣の神田にも、視線が向く。


「神田くんも、前田さんに怒られないようにな」


「怒られません」


「怒られる」


間髪入れずに口をはさんだ俺に、神田がむっとした顔を向ける。


「主任もです」


そのやり取りに、村上係長が「仲がいいなあ」と笑い、周りの隊員たちからも小さな笑い声がこぼれた。



***


スマホが振動して、画面を見ると神田さんからだった。


〈夜分にすみません。 主任、今から帰ります〉

〈 少しだけ酔っていますが、歩けます〉

〈 会話もできます。ただ、いつもより丁寧です〉


思わず〈夜分にすみません〉のあたりでふふっと笑ってしまう。神田さんまで、いつもより文章が丁寧な気がする。


〈丁寧?〉


そう送ると、すぐに返事が来た。


〈はい。 いつもより『ありがとうございます』が多いです〉


頭の中に、少しだけ頬を赤くして、やたらと「ありがとうございます」と言っている恒一さんの姿が浮かんでくる。


〈ありがとうございますが多い主任さん、了解しました〉


そう打ちかけて、いったん消す。

結局、〈ありがとうございます〉とだけ返した。



神田さんからのメッセージを読み返して、ふっと息が抜けたちょうどそのとき、画面の上に新しい通知が浮かんだ。


〈今出た〉


恒一さんからだった。


先月も、同じ文面が届いた。

あのときの〈今出た〉は、酔っていない声がそのまま文字になったみたいで、安心という意味が強かった。


今日は、違う。

神田さんの〈いつもより丁寧です〉が頭の隅に残っていて、〈今出た〉には、少し笑いと、少しだけ心配が混ざる。


私はスマホをテーブルに置いて、キッチンに向かった。

棚からコップを一つ出して、シンクの横に置く。

水を入れるのは、帰ってきてからでいい。

そう思って、いったんソファへ戻った。


朝、何気なく口にした自分の声を思い出す。


『帰ってきたら水、出しますね』


本当にそうすることになるなんて思っていなかった。でも、それは全然、嫌なことじゃない。




玄関の鍵が回る音がして、ソファからぱっと立ち上がる。

キッチンに向かいながら、コップに水を注いだ。

朝に言った通りだ。

帰ってきたら、水を出す。

念のために。


玄関の扉が開く気配がして、ほんの少しだけ間があった。


そのあとで聞こえてきた声は、いつもより少し低くてゆっくりしていて、それから妙に丁寧だった。


「ただいま帰りました」


私はコップを持ったまま、玄関の方を振り向く。


「……敬語?」



7


玄関まで行くと、恒一さんはちょうど靴を脱いでいるところだった。

足元を見ると、いつもより動きがゆっくりで、やたらと丁寧だ。


右の靴を揃えて、左もそろりと並べて、少し首をかしげてから、もう一度位置を直す。


「靴、そんなに揃えなくても大丈夫ですよ」


水のコップを持ったまま声をかけると、真剣な顔で足元を見たまま返ってくる。


「揃ってない」


「揃ってます」


「少しずれてる」


「酔ってますね」


「酔ってない」


即答する声も、やっぱりどこか丁寧で、私はコップを持った手で口元を隠しながら、そっと笑った。


玄関に立ったまま、私はコップを持ち直した。


「さっき、ただいま帰りましたって言いましたよ」


恒一さんは、まだ靴の位置を気にしながら顔だけこちらを向く。


「言ったか」


「言いました」


「ただいま」


「今さら言い直しても遅いです」


そう言いながらも、声が少しだけ柔らかくなるのを自分で分かっていた。

恒一さんが、ほんの少しだけ視線を落としてから、ゆっくりと口を開く。


「……ただいま、ひよ」


名前を呼ぶ声が、いつもより丁寧で、少しだけ酔っていて、胸の奥がきゅっとなる。


「……おかえりなさい」


負けたみたいに、小さくそう返した。



ダイニングに戻りコップを差し出す。


「水、飲んでください」


恒一さんは、少し素直すぎるくらいの声で答えた。


「飲む」


その返事に、つい口元がゆるむ。


「えらい」


思わずそう言うと、少しだけ眉をひそめる。


「子ども扱いするな」


そう言いながらも、コップはきちんと両手で受け取ってくれる。

指先まで丁寧に添えられていて、こぼさないように一口ずつ確かめるみたいに飲んでいる。


その横顔を見ながら、私は心の中で小さく息をついた。


神田さんの言っていた「いつもより丁寧」の意味が、少しわかった気がした。


ダイニングの椅子に座ったところで、私はふと思い出して口を開いた。


「神田さんから連絡来ました」


「神田が?」


コップを持ったまま、恒一さんが少しだけ眉を上げる。


「はい。主任、少しだけ酔っていますって」


「大げさだ」


すぐに返ってきた言葉に、私は続ける。


「歩けます、会話もできます、ただ、いつもより丁寧ですって」


恒一さんが、そこで一度黙った。

コップの中の水を見つめてから、小さく息を吐く。


「丁寧なのは悪くない」


「悪くないですけど、酔ってます」


「酔ってない」


恒一さんが、椅子から少し身を起こして上着に手をかけた。


「シャワー浴びる」


「今日はやめましょう」


即座にそう言うと、動きが一瞬止まる。


「大丈夫だ」


「その大丈夫は信用しません」


前に同じやり取りをしたことを思い出して、少しだけ声が強くなる。

恒一さんは、納得いかないという顔をした。


「汗かいた」


「明日の朝、浴びてください。今日は顔洗って、着替えて寝ましょう」


「寝るのか」


「寝ます」


酔っているとき特有の、妙にまっすぐな目で見られる。


「……そうか」


少しだけ間があいてから、素直にそう言ってシャツのボタンを外し始めるその様子が、どうしようもなく可愛く見えた。


水を飲み終えた恒一さんが、コップをテーブルに置いて、ふとキッチンの方を見た。


「水があった」


「朝、言いましたから」


私がそう答えると、少しだけ目を細める。


「覚えてたな」


「はい。覚えてました」


そのあと、短い沈黙が落ちる。

リビングの時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。


「帰ってきたら、ひよがいた」


不意に落ちてきた言葉に、胸の奥がきゅっとする。


「いますよ。ここ、家です」


できるだけ普通の声で返すと、恒一さんは小さくうなずいた。


「そうだな」


「酔ってますね」


「酔ってない」


「でも?」


問いかけるように首をかしげると、少し視線をそらしてから、ぽつりと言った。


「……いいなと思った」


その一言で、さっきまで「酔ってますね」とか言っていた自分が、まとめて撃沈した気がした。

顔が熱くなるのをごまかすみたいに、「それは…よかったです」とだけ、小さく口にした。


空気が少し落ち着いたころ、もう一度キッチンに立った。

コップを手に戻る。


「もう一杯、飲みます?」


椅子にもたれていた恒一さんが、迷いなく顔を上げる。


「飲む」


さっきよりも、少しだけ素直な声だった。


「素直ですね」


笑いながらそう言うと、恒一さんは一瞬だけ目をそらして、小さく付け加えた。


「ひよが出すから」


胸のあたりを、きゅっと掴まれた気分。

コップをもう一度満たしながら、今日はちゃんと水を出せてよかった。



酔っていないと言い張る人は、コップを両手で持って、二杯目の水をゆっくり飲んだ。


その横顔は、いつもより赤くて、いつもより幼く見えた。


でも、帰ってきたら私がいることを「いい」と言ってくれた。


それだけで、今夜の私は、たぶん…きっと甘やかしてしまう



8


翌朝は、いつもより少し遅い時間に目が覚めた。

隣を見ると、恒一さんはまだ眠っている。

完全な二日酔いというほどではなさそうだけれど、起きたときの身体はいつもより少しだけ重いはずだ。


先にベッドを出て、軽めの朝ごはんを用意する。

白いごはんを少なめによそって、具は控えめの味噌汁、梅干しをひとつ、卵焼きを少しだけ。

それと、テーブルの真ん中に、水のグラスを置いた。


寝室のドアが開いて、恒一さんがゆっくり出てきた。

いつもなら起きてすぐ顔がはっきりしているのに、今日は少しだけ眉間にしわが寄っている。


「おはようございます」


声をかけると、足を止めてこちらを見る。


「……おはよう」


返事はちゃんとしているけれど、声もどこか低い。


「頭、痛いですか?」


テーブルに味噌汁を置きながらたずねると、恒一さんは少し考えるみたいに視線を落としてから答えた。


「少し重い」


「酔ってましたね」


昨夜の靴と水と「ただいま」を思い出しながら言うと、恒一さんは、ほんの一瞬だけ間をあけてから、いつもの言葉を口にした。


「酔ってない」


まだ言うんだ、と思わず笑ってしまう。


「朝からそれ言います?」


私の言葉に、恒一さんも、少しだけ眉間のしわをゆるめた。


「まず水です」


「飲む」


素直な返事に、思わず笑ってしまう。


「素直ですね」


「昨日も飲んだ」


「覚えてるんですね」


その「覚えてる」に少し安心しながら、本題に入る。


「昨日のこと、どこまで覚えてます?」


恒一さんはグラスを指でなぞりながら、少し黙った。


「……店を出た」


「はい」


「帰った」


「はい」


「水を飲んだ」


「はい」


「シャワーを止められた」


「はい。止めました」


そこで一度目を伏せてから、少しだけ声を落とす。


「……敬語で帰ったか」


「帰りました」


そう告げると、恒一さんがほんの少しだけ顔をしかめる。


「神田か」


「神田さんからも連絡来ましたけど、敬語は本人から聞きました」


「……そうか」


リビングの空気が少しだけゆるんだところで、私はこらえきれずに切り出した。


「ただいま帰りました、って」


昨夜の玄関先の声を思い出しながら言うと、恒一さんはわずかに肩を固くする。


「忘れろ」


即答だった。


「無理です」


「なぜ」


真正面から問われて、少し笑いをこらえながら答える。


「かわいかったので」


一瞬で言葉が止まる。恒一さんは視線を落とし、しばらく黙ってから、小さく息を吐いた。


「……かわいいは違う」


「違いません」


きっぱりと言い切ると、恒一さんはますます言葉に詰まって、私は味噌汁のお椀を手に取りながら、朝からちょっと得をした気分になった。


恒一さんが箸を持ったまま、視線だけこちらに向ける。


「帰ってきたら、私がいて、いいなと思ったって言いました」


その瞬間、箸の動きが止まった。

少し間を置いてから、低い声が落ちる。


「……言ったかな」


「言いました」


また、短い沈黙。


「覚えてないですか?」


うかがうように聞くと、恒一さんは味噌汁をひと口飲んでから、ぽつりと言った。


「覚えてる」


意外な答えに、思わず身を乗り出してしまう。


「覚えてるんですか」


「覚えてる」


「酔ってたのに?」


「酔ってない」


「そこはもういいです」


半分あきれながら言うと、恒一さんは少しだけ視線を落とした。


「酔ってたから言ったわけじゃない」


その一言が、思っていた以上にまっすぐ胸に刺さる。


「……はい」


声が小さくなった。


「帰ったら、ひよがいて、水があって。いいと思った」


もう一度、同じ言葉をゆっくり繰り返されて、私は箸を持つ手に力が入る。

まともな返事が出てこなかった。

代わりに小さく言った。


「私も、あなたが帰ってきてくれて、嬉しかったです」


朝のテーブルの上で、味噌汁の湯気だけが、やけに静かに立ちのぼっていた。




スマホが震えて、画面を見ると恵美からだった。


〈おはよう。そっちは無事?〉


私はすぐに返信を打つ。


〈無事。いつもより丁寧に敬語で〉


少しして返ってきた一文に、思わず吹き出す。


〈こっちは『怒られない程度』ではなかった。〉


笑いをこらえきれずにいると、向かいで箸を動かしていた恒一さんが顔を上げた。


「前田さんか」


「はい。神田さん、怒られたみたいです」


「だろうな」


即答する声が、妙に落ち着いている。


「恒一さんも、怒られてますよ」


「俺もか」


「はい。シャワーを浴びようとしたので」


昨夜のやり取りを思い出しながら言うと、恒一さんは一瞬だけ目を伏せて、素直に言った。


「……それは、悪かった」


その言い方がちゃんとまじめで、酔っていても崩れない人なんだと、あらためて思う。


テーブルの上の水のコップを見ながら、私はぽつりと言った。


「昨日、ちゃんと水飲んでくれて、よかったです」


恒一さんは一瞬だけ視線を落としてから、あっさりと返す。


「ひよが出したからな」


昨日と同じ言葉なのに、鼓動が跳ねた。


「それも覚えてるんですね」


「覚えてる」


短く言ってから、少しだけ間があいた。


「また出して」


「飲み会のたびに?」


思わずからかうみたいな言い方になると、恒一さんは首を小さく振る。


「飲み会じゃなくても」


言葉の意味がすぐにはうまく飲み込めなくて、でも、頬がじんわり熱くなるのは止められない。


「じゃあ、出します」


コップをそっと持ち上げながらそう答えると、当たり前みたいにうなずいた恒一さんの横顔が、いつもより少しだけ近く感じられた。




ひより日和 新婚編 第6話 「酔ってません」 おわり




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