第5話 「暗黙の了解」
1
もうすぐ、世間の夏休みがやってくる。
12時半からの休憩時間に私と恵美は、窓際のふたり掛けのテーブルで日替わり定食を前に向かい合っていた。
7月初旬、昼の社員食堂は、夏のクリアランスセール前らしく、まだ、落ち着いた空気が漂っている。
「ねえ、朝倉さん」
向かいで恵美がわざとらしく言って、ニヤッと笑う。
「名前で呼んでよ」
小声で抗議したところへ、トレイを持った女性が「あ、ひよりちゃん」と声を弾ませて近づいてきた。
「奈々ちゃん、お疲れさま」
「隣、いい?」
婦人靴売り場の森下奈々は、昔から明るく場を回す同期の段取り役だ。
3人でテーブルを詰めて座ると、奈々ちゃんが身を乗り出す。
「あのさ、久しぶりに同期女子で集まろうって話しててね。来週の金曜、仕事終わりにどうかなって」
「女子会?」
「うん。参加できるのは、早番か休みの人限定だけど。沙織は来るって。地下の洋菓子の」
「沙織ちゃん、来るんだ」
「あと真帆も。販促の。今のところ5人くらいかな。ひよりちゃん、どう?」
「今、噂のど真ん中の恵美ちゃんは、もちろん来るよね?」
恵美は、ちょっと、びっくりしたような顔をしたものの、平静を装って言った。
「もう、噂も下火でしょ?」
「行くわよ…もちろん」
奈々ちゃんに見つめられて、私は一瞬だけカレンダーを思い浮かべる。
来週の金曜、恒一さんのシフトは遅番だったはずだ。
女子会のあとに彼の退勤時間に合わせて合流して、一緒に帰れるかもしれない。
そんな想像にふわりと笑ったところで、恵美がすかさず突っ込む。
「今、絶対、朝倉さんのシフト計算してたでしょ」
「し、してないよ」
「してる顔だもん」
「結婚してから、こういう同期の集まりもご無沙汰だったもんね」
図星を刺されて、私は視線を落として箸をいじる。
奈々ちゃんが楽しそうに笑った。
「いいなあ、その感じ。新婚っぽくて。予定立てる時に、まず旦那さんのシフトから考えちゃうやつ」
「ちが……くは、ないかも」
観念して認めると、ふたりから「ほら」「やっぱり」と声がそろう。
どちらもからかい半分なのに、嫌な感じは少しもしなくて、むしろ頬がじんわりと熱くなる。
「じゃあ、朝倉さんのシフト確認してから、参加できそうならグループに入れていい?」
「うん。たぶん彼は遅番だと思うから」
そう答えながら、女子会のテーブルで久しぶりに同期と笑い合って、駅で待つ恒一さんと並んで歩く自分の姿を思い描いていた。
その夜の食卓には、焼き魚と小鉢がふたつずつ並んでいた。
恒一さんが箸をとるタイミングを見計らって、私は口を開く。
「恒一さん、来週の金曜なんだけど」
「うん?」
「同期の女子会誘われてて。早番か休みの子だけなんだけど、行こうかなって」
恒一さんは、さばの身をほぐしながら、あっさりと頷いた。
「いいね。行ってくればいい」
あまりにもさらっとした返事に、少し拍子抜けする。
「……一応、聞いておこうかなと思って」
「俺に了解取らなくてもいいから。行きたいなら、行けばいいよ」
言葉は軽いけれど、否定も引き止める気配もない。
その自然さに、なんだか安心する。
「来週の金曜って、恒一さん遅番……だよね?」
「そうだな。たしか遅番」
「じゃあ、その、そんなに遅くならないようにするね」
何気ないふうを装って言うと、彼は一拍おいて、ゆっくりと私を見る。
「俺の時間に無理矢理合わせなくても、大丈夫だから」
目が合った瞬間、心臓が跳ねた。
考えていたことを、きれいに言い当てられた気がして、あわてて視線をそらす。
「べつに、合わせたとかじゃなくて。たまたま、そうかなって思っただけ」
「ふうん。たまたまね」
からかうでもなく、ただ少しだけ目じりをゆるめて、それ以上は追及してこない。
その代わりのように、迎えに行くとも、飲み会が終わったら連絡しろとも言わなかった。
言われたら、私はその時間に合わせて切り上げようとする。
そういうことまで、ちゃんと読まれてしまっているのが、くすぐったくて、少し悔しい。
「楽しんでおいで。たまにはそういうのもいい」
「……うん」
短く返事をしながら、胸の奥で、言葉にしない約束がそっと形になる。
彼は迎えに来るとも言わないし、私も迎えに来てほしいとは言わない。
それでもきっと、女子会が終わるころ、どちらからともなく連絡をして、いつもの駅で落ち合って、一緒に帰る。
そんな数日後を、ふたりとも、もう当たり前のように思い描いているのだと感じて、私は味噌汁の湯気の向こうににじむ横顔を、少しだけ長く見つめた。
2
女子会当日の朝から、心のどこかが少しだけ浮いていた。
夏のクリアランスセール前で館内は、そこまで混み合ってはいない。
それでも、お中元カウンターは日に日に列が長くなっている。
新入社員たちはだいぶ慣れてきたとはいえ、まだ細かいところで迷うようで、バックヤードからは時々インカムで質問が飛んでくる。
「お中元会場はどちらですか?」
「9階でございます。こちらのエスカレーターを上がっていただきますと、正面に会場がございます」
いつもの笑顔でご案内しながら、頭の隅には終業後の予定がちらちらと浮かんでいた。
案内を終えて顔を上げると、新人の子が不安そうに伝票を抱えて立っていた。
「ひよりさん、この領収書の書き方なんですけど…」
「ここにご依頼主さまのお名前を書いて、こっちに金額ね。ほら、大丈夫」
手早く見本を見せる。
目の前の仕事に集中しているつもりなのに、気を抜くとすぐ、夜のことを考えてしまう。
「駐車券の優待はどこでもらえます?」
「こちらで承ります。当館でのお買い物のレシートはお持ちでしょうか?」
口は自然に案内の言葉を紡ぎながら、心の中では予定を並べている。
18時スタートの飲み会。
久しぶりの同期の女子会。
2時間くらいで切り上げれば、20時。
もし話が盛り上がって、もう少し長くなったとしても、21時くらいにはお店を出られるはず。
そして、22時。
その数字だけが、どうしても頭から消えてくれない。
まるで、そこに小さな付箋を貼られているみたいに。
私の1日の終わりはいつの間にか、彼の退勤時間を基準に考えるクセがついてしまっている。
カウンターの端に視線を落としながら、私はそっと息を吐いた。
「……仕事に集中、仕事に集中」
自分にそう言い聞かせて顔を上げると、ちょうどお客様がこちらへ向かって歩いてくるところだった。
私はいつもの笑顔を作り直して、一歩前に出る。
「いらっしゃいませ。ご案内いたします」
昼休憩の終わりぎわ、バックヤードで紙コップのお茶を飲んでいると、ロッカールームの前で恵美が声をかけてきた。
「ねえ、今日さ。18時でいいんだよね?」
「うん。奈々ちゃんが予約してくれてるって。駅ビルのところ」
「駅ビルなら近くて楽だね。エスカレーター降りたらすぐだし」
「ほんとそれ。遠かったら、たぶん行く気力なくなってたと思う」
思いがけず本音が出て、ふたりでくすっと笑う。
午前中からずっとバタバタだったし、お中元の問い合わせも増えてきて、正直、体力の残り具合には少し不安がある。
恵美はカウンターに持ち込むトートバッグからうちわを取り出して、何でもないふうに続けた。
「で、何時までいる予定?」
「え?」
一瞬だけ言葉が詰まる。何時までなんて、まだ誰ともちゃんと決めていない。
「……普通に」
「普通に?」
「普通に、一次会くらいじゃないかなって」
自分でもあいまいだなと思いながら答えると、恵美の口元がにやっと上がる。
「朝倉さん、22時上がりだっけ、今日」
「そう。」
私を見て恵美は肩をすくめた。
「顔に書いてある」
「書いてないから」
「書いてるって。『22時』ってでっかく」
そう言って笑うから、私もつられて吹き出してしまう。
顔色だけでバレる悔しさと、見透かされている安心感とがごちゃまぜになって、胸のあたりがなんとなくくすぐったい。
「べつに、合わせてるとかじゃないもん。ただ、明日も仕事だし、普通に一次会くらいで帰ろうかなって思っただけ」
「はいはい。そういうことにしといてあげる」
「それなら、恵美だってそうでしょ?」
「今日はアイツ、当務」
恵美はそう言って、うちわで顔を扇いでいた。
「とりあえず、17時ダッシュで上がろう」
「化粧も直さないとだし」
「そだね。暑いから」
時計を見ると、そろそろ持ち場に戻る時間だ。
私は空になった紙コップをゴミ箱に入れて、小さく深呼吸をする。
さっき恵美に見透かされたことを思い出して、急に恥ずかしくなった。
17時。
更衣室のロッカーを開ける。
仕事用のヒールを脱ぐと、足の裏にじんじんとした疲れが広がった。
ロッカーの下段から、いつもの歩きやすいロウヒールを取り出して履き替えると、脚が軽くなったような気がした。
4つ向こうのロッカーの扉を開けたまま、恵美が顔を出した。
「ひより、今日、ちゃんと飲むの?」
「んー、少しだけ」
「あー、やっぱり」
「恵美はつぶれない程度にね。今日、神田さん当務だし」
いつも、からかわれているから、このくらいはご愛敬だ。
通用口から、外へ出るとまだまだ明るい。
湿気を含んだ風は生ぬるいけれど、久しぶりの女子会は楽しみではあった。
「やっぱり、金曜の駅ビルは混んでるね」
周囲を見て私が言った。
「結構多いね。そう思うと来週からのクリアランスセール怖いわ」
恵美が、思い出したくないことを言う。
私はつい歩きながらスマホを取り出して、画面を見る。
恒一さんからは、なにも来ていない。
それでいいのだと、自分に言い聞かせる。
約束はしていない。
「どうしたの?」
「んーん。奈々ちゃんたち、もう着いてるかなって」
それでも、帰り道の先にいる人のことを考えている自分に、笑ってしまった。
3
18時少し前。
駅ビルの居酒屋の前まで来ると、すでに入り口には待ち合わせをしている誰かが何組か固まっていた。
店員さんが、忙しそうに名前を確認しながら、次々と店内へ案内していく。
「ここだね、『柚子なんちゃら』ってお店」
「名前、もうちょっと、ちゃんと覚えてあげてよ」
恵美と笑い合いながら予約名を告げると、のれんの奥の半個室へと通された。
格子の仕切りで区切られたテーブル席で、隣の席の笑い声が漏れ聞こえる。
金曜の夜らしく、店内は賑やかだ。
いちばん奥の席では、奈々ちゃんがメニューを広げていた。
「あ、ひよりちゃん、恵美ちゃん!お疲れ様!」
「奈々、おつかれ」
「お疲れ様、早いね」
「だって幹事だもん。とりあえず席押さえないと」
奈々ちゃんは婦人靴売り場の頼れる段取り役らしく、すでに飲み放題のコースと最初の料理まで一通り確認済みらしい。
少しして「ごめーん、遅くなった」と、地下食品の洋菓子担当、竹内沙織が、紙袋を抱えて顔を出す。
その後ろから、販促の西野真帆も「おつかれ」と静かに入ってくる。
「5人そろったね」
奈々ちゃんが手際よく仕切っている。
「じゃあ、まず飲み物決めよ。ビールの人!」
さすがだ。
メニューを回しながら、自然に進行役をかって出ている。
次々と、手を上げてみんなビールを注文するようだ。
「ひよりちゃんは?ちゃんと飲む?」
さっき、ロッカーで恵美から聞かれたばかりの質問を、今度は奈々ちゃんから聞かれた。
「少しだけ。最初はグレープフルーツサワーで」
「はいはい。ひよりは様子見ね」
テーブルに、ジョッキやグラスが並ぶと、奈々ちゃんが身を乗り出した。
「久しぶりの同期女子会ってことで。新しい部署も増えたし、結婚した人もいるし」
そこでチラッと、奈々ちゃんの視線が私のほうへ流れる。
「いろいろあるけど、とりあえず、今日ここに集まれたことに」
「かんぱーい」
「かんぱーい!」
5つのグラスが軽く触れあう。
泡のはじける音と一緒に、金曜の夜がやっと始まった。
グラスが一口ずつ減ってきたころ、話題は自然と「最近どう?」に移っていった。
「うちはさぁ」
奈々ちゃんが、枝豆をつまみながらため息をつく。
「今日、履いて帰りたいって言われても、サイズがなかったら無理なんだよね」
「あるある」
「『取り寄せできます』ってちゃんと言ってるのに、『今日欲しいのに』って、そこで怒られてもさ」
「もうね、工場から直に伝えてほしい」
婦人靴売り場の現場感が、見えるようだ。
「こっちも似たようなもんだよ」
グラスを置きながら、沙織ちゃんが肩をすくめた。
「洋菓子はさ、保冷剤問題が永遠」
「2時間までなら大丈夫ですって何回言っても『これから映画観ます』って、堂々と言われるし」
「それはもう、あきらめてほしいよね」
「じゃあ、持ち歩かないでくださいって言えたらいいんだけど」
「心の中で、すいませんって感じ」
地下食品のリアルに、みんなで「わかる」と相槌を打つ。
「私はさ」
真帆ちゃんだ。
「チラシに載せた商品が、初日で完売したときの空気がもう…」
「地獄」
「それは、キツイね」
「お客様にも売り場にも謝るの、なぜか販促」
「発注数決めたの、私じゃないのに」
「『なんで、こんなに少ないんだ』って、こっちが聞きたい」
「バイヤーに言ってほしい」
売り場と本部の板挟み感に、今度は奈々ちゃんと沙織ちゃんが全力で頷いている。
「でもさ、そうやってチラシ乗せてもらえると、売り場としてはありがたいんだよね」
「そうそう。地下も、載った週末は明らかにお客様の数が違う」
「だから余計に責任感じるんだってば」
真帆ちゃんが、苦笑して、またグラスに口をつける。
「インフォもさ」
皆の愚痴を聞きながら、私もグラスを指でなぞって口を開く。
「売り場が移動してると怒られるよ」
「インフォ、あるある」
「それ、わかる気する」
「『前はここだったのに』って言われても、今は違うんです、ってなるもん」
「フロアガイドも新しくなってますってお見せしても『でも、前はここだった』って」
なかなか、わかってくれないお客さまを思い出して、苦笑がこぼれる。
「結局さ」
恵美が、唐揚げをつまみながら話をまとめるように言った。
「百貨店って、最終的に目の前にいる人が謝るよね」
一瞬の間のあと、全員の声がそろった。
「わかる」
みんな同じなんだと思うと、なんだか不思議な一体感が小さな半個室のテーブルに広がった。
話題は、そのまま今年の新人さんの話へと滑っていった。
「ところでさ、今年の新人さん、どう?」
奈々ちゃんが、唐揚げをつつきながら言う。
「みんな、真面目だよ」
私は、グラスを置いて答える。
「真面目なんだけど、まだ館内の距離感がわかってない感じ」
「1階から9階まで案内するときとか、説明してるこっちが迷子になりそうな顔してる」
「わかる。エレベーターとエスカレーターの位置、最初こんがらがるよね」
恵美が頷いて続ける。
「説明してる本人が迷子状態で『とりあえず、一緒に行こうか』ってなる」
「食品はさ」
沙織ちゃんが苦笑いを浮かべた。
「まず、包装で詰む。リボンの向きとか、シールの位置とか」
「最初は絶対どこか間違えるから」
「こっちも口で説明するより、もう手を動かしたほうが早い」
「販促は新人さん来てないけど」
真帆ちゃんがグラスを回しながら言う。
「社内メールの宛先間違いは、毎年あるね」
「全館一斉にどうでもいい下書き送っちゃって、平謝りしてる子は必ずひとりはいる」
「うわ、それキツイね」
想像しただけで、テーブルに小さな笑いが広がる。
仕事の愚痴と新人話がひと段落したところで、奈々ちゃんの視線が、じっとこちらに向いた。
「で、朝倉さんとはどうなの?」
ちょうど、サワーを口に運んでいた私は、危うくむせそうになって、慌ててグラスをテーブルに戻した。
「ど、どうって」
「どうって、そのままよ」
奈々ちゃんはニヤニヤしながら続ける。
「あの警備の朝倉さんでしょ?背高くて、黒い制服の」
「たまに1階通ると、めっちゃ目立つやつ」
その言い方に、胸のあたりがくすぐったくなる。
そこへ真帆ちゃんが、少し首を傾げた。
「高阪さんが朝倉さんになったの、まだ慣れないなぁ」
「わかる。でも似合うよね」
沙織ちゃんが笑う。
「朝倉ひよりって、なんかいいじゃん。百貨店にいそうな名字」
「やめてよ、なんか恥ずかしい」
名前をフルで言われると、まだどこかこそばゆくてグラスの氷をストローでつついた。
「本人、まだ呼ばれると朝倉主任探すときあるからね」
恵美がさらっと暴露した。
「この前さ、『朝倉さんいますか?』って言われて、一瞬マジで探してたよね?」
「ちょっと待って、それここで言う?」
「だって、可愛かったんだもん。『あ、私か』って顔してた」
「なにそれ可愛い」
奈々ちゃんがテーブルを叩いて笑う。
入籍すぐのころにあった呼び方のドタバタを、みんなうっすら覚えているらしい。
「そのうち、こっちが『高阪さん』って呼んだら違和感あるようになるんだろうね」
真帆ちゃんが、穏やかな目を向けて言った。
「…そうなったら、ちょっと嬉しいかも」
小さくそう答えると、同期たちはそれぞれに「いいじゃん」「新婚だー」とからかい混じりに笑っていた。
「でもさ」
奈々ちゃんが、ふと意味ありげに箸を止めた。
「インフォってさ、KSSと距離近くない?」
その瞬間、私と恵美の口が、ぴったり同時に動いた。
「「たまたま」」
一拍おいて、奈々ちゃんと沙織ちゃんと真帆ちゃんの声がそろう。
「「声そろってるし」」
「打ち合わせした?」
「シフト表一緒に見てそう」
「見てないから」
「見てないってば」
私と恵美が慌てて否定すると、テーブルの上にどっと笑いが広がった。
笑いながらも奈々ちゃんの矛先はそのまま横にスライドする。
「でさ、恵美ちゃんは神田さんとどうなの?」
「急に来たね」
恵美が眉をひそめる。
「普通だよ、普通」
「普通って言いながら、顔赤いよ」
つい口を挟むと、恵美が半眼でにらんできた。
「ひよりに言われたくないよ」
「だって、さっきから帰る時間のこと顔に出てるんだもん」
「出てないしーー」
奈々ちゃんがまたテーブルをたたいて笑う。
沙織ちゃんも「女子会ってこういうのだよね」と肩を揺らしていた。
ひとしきり笑ったあと、奈々ちゃんがふと思い出したように私を見る。
「そういえばさ入社研修のとき、ひよりちゃんめっちゃ姿勢よかったよね」
「わかる」
恵美がすぐ乗ってくる。
「もうその頃からインフォ感あった。座学のときも背筋ぴんって」
「そんなことないよ。必死だっただけ」
慣れないパンプスとスーツで、倒れないように立っていただけだ。
そう言い訳しながらも、あのときの緊張した教室の緊張した空気を少し思い出す。
「私は包装研修でリボン地獄だった」
沙織ちゃんが、グラスをくるくる回しながら笑う。
「最初の1週間、夢の中でもリボン結んでたもん」
「ほどけるか、緩むかの二択」
「販促はさ」
真帆ちゃんが、箸を置いて続ける。
「最初、館内の裏動線がもうダンジョン」
「泣きそうだった」
「バックヤード同士繋がってるのは便利だけど、現在地がわからない」
「でも、あの頃の私たちも、今の新人さんも、やってることはそんなに変わらないのかもね」
誰かがぽつりと言って、テーブルに小さな頷きがいくつも生まれた。
自分たちも、最初はあんなふうに、迷っていた。
それなのに、いつの間にか誰かに教える側になっている。
「でもさ」
沙織ちゃんが、箸を置いてぽつりと言う。
「なんだかんだ、お客様に『ありがとう』って言われると弱いよね」
「わかるー」
奈々ちゃんがすぐに頷いた。
「めっちゃ怒られた後でも、ひとりにありがとうって言われると、ちょっと復活する」
「もう少し頑張るかってなるよね」
恵美が笑いながら、レモンサワーの氷をつつく。
「でもさ」
私はグラスを両手で包んで、小さく続けた。
「その一言で、また立てる日あるよね」
「そうそう。だから、たぶんやめられないんだよね、この仕事」
沙織ちゃんがそう言って笑うと、みんなの顔にも同じような苦笑が広がった。
時間も21時半を過ぎている。
店員さんがやってきて、飲み放題のラストオーダーだという。
奈々ちゃんが、みんなを見て言った。
「この後、もう1軒行ける人いる?」
「私は、無理。明日朝から地下だもん」
沙織ちゃんは、自分のバッグを引き寄せている。
「私も帰る。洗濯したい」
真帆ちゃんも、バッグに手を突っ込んで財布を探している。
「私も帰るかな。明日もあるし」
恵美は私を見て言った。
「そだね」
私も恵美を見て頷いた。
「えー、みんな健全」
会計を済ませて、奈々ちゃんが言った。
「楽しかった。ありがと」
「また、やろうね。今度は遅番組も呼びたいし」
沙織ちゃんが、あきらめ顔で言う。
「全員のシフトを合わせるの、ほぼ無理」
「百貨店勤務の宿命だよね」
恵美も同調している。
「電気設備の法定点検の日に合わせる!」
私が言うと、みんなが声を合わせて言った。
「それ、いい!!」
みんなで笑った。
4
奈々ちゃんたちとは、駅ビルの通路で別れた。
時刻は22時を少し回ったところだった。
私は歩きながら、スマホを取り出し恒一さんにメッセージを送る。
〈今、終わりました。駅に向かいます〉
送信してから、画面を見つめるけれど、すぐには既読がつかない。
まだ、着替えているのかな…。
隣を歩く恵美が、ちらっと私のスマホをのぞき込んだ。
「返事、まだ?」
「うん。たぶん、今ちょうど終わったところだろうから」
「詳しいねぇ」
「普通に考えたらそうでしょ」
「普通ね」
恵美が「普通」を強調する。
最後までいじられて、苦笑いでごまかすしかなかった。
22時10分を過ぎたころ、ようやくスマホが震える。
〈今出た〉
その短い一文を見て、胸のあたりがふっと軽くなる。
安堵に似た息が漏れた。
「じゃあ、私は先に帰るね」
「え、いいの?」
「いいの。ここから先は、新婚さんの時間でしょ」
「そういう言い方しないで」
「朝倉さんによろしく。水、飲ませてもらいなよ」
「そんなに飲んでないってば」
恵美はひらひらと手を振って、改札のほうへ歩いていった。
約束はしていない。
迎えに来てほしいとも言っていない。
それでも、私はもう少しここで待つことにした。
5
改札の少し手前で足を止める。
金曜日の夜の駅は、飲み会の帰りの人や買い物袋を下げた人が行き交っている。
閉店した百貨店の紙袋を抱えた人が、エスカレーターから流れる人波に紛れて降りてくる。
私はスマホの画面を確かめたり、バッグの持ち手を握り直したりする。
それでも胸の奥は静かなままで、不安はない。
ただ、彼がここに来るのを、当たり前のこととして待っていた。
何度か腕時計を見る。
そして、22時15分。
人の流れの向こうに黒いジャケットの恒一さんの姿が見えた。
勤務終わりらしい、白いシャツに、ざっくり羽織った黒の上着。
人混みの中でも、広い肩のラインですぐにわかる。
たぶん、私が見つけるよりずっと前に、彼は私を見つけていた。
そんな気がした。
背の高いその人影が、まっすぐにこちらに近づいてくる。
「待たせた」
「待ってません。今来たところ」
「嘘つけ」
「バレてます?」
「顔に書いてある」
恵美の「22時って顔に書いてある」という言葉が、頭をよぎる。
「駅で待ってると思ってました?」
「少し」
「私も、来てくれると思ってました」
「そうか」
改札の前に立ったまま、彼を見て一拍おいてから口を開いた。
「今日楽しかった」
「よかった」
短く返って来る言葉が、いつもより柔らかい。
「でも、帰る時間になったら、恒一さんのこと考えてました」
「合わせなくていいって言っただろ」
「合わせたかったの」
恒一さんが、ほんの一瞬だけ黙る。
「……そうか」
言葉にしてしまった照れくささと、それでも伝えたかった気持ちが、混ざり合う。
「早く帰りたかったわけじゃないんです。楽しかった」
「でも、そろそろ帰る時間だと思ったら、自然にあなたに会いたくなったの」
「俺も、駅ビルなら会えると思ってた」
「言ってくれたらよかったのに」
「言ったら、合わせるだろ」
「……合わせましたね」
「だろ」
家に着くと、恒一さんが上着を脱ぐより先にキッチンへ向かった。
コップに水を入れて、私の前に差し出す。
「飲め」
「ほんとに飲んでますって」
「もう一杯」
観念してコップを受け取る。明るいキッチンの灯りと、見慣れたコップと、差し出される水。
その全部が、少し心地いい。
ひと口飲んでから、ふと思い出したみたいに切り出す。
「来月、恒一さんも飲み会あるんですよね?」
「KSSの親睦会」
「飲むんですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「そういう名目の飲み会だろ」
思わず笑ってしまう。らしいなと思う。
「じゃあ、その日は私が水を出しますね」
「飲みすぎない」
「今日の私にも言いましたよね?」
「水、飲めって」
「言ったな」
「じゃあ、私も言います。水、飲んでください」
恒一さんが、ほんの少しだけ肩を落として息をついた。
「……わかった」
その返事が、なんだかうれしくて、コップの水がいつもより少しだけおいしい気がした。
エピローグ
約束したわけじゃない。そうしろと言ったわけでもない。
それでも、来月のその日、俺はたぶん、少し遅い時間にこの家へ帰ってくる。
ひよりは、きっとキッチンの灯りをつけて、水を用意している。
言葉にしなくても、そうなる気がした。
そういうことが、ひよりと暮らすようになってから、少しずつ増えている。
駅で待っていたことも、水を飲ませたことも、来月の夜のことも。
まだ、ちゃんとした約束にはなっていない。
けれど、たぶん俺たちは、そういうものを少しずつ増やしながら、夫婦になっていくのだと思う。
「シャワー、浴びるか」
そう聞くと、ひよりは一瞬だけ固まった。
それから、真っ赤な顔でこちらを見る。
「……一緒に?」
その聞き方が、あまりにも小さくて。
けれど、逃げるつもりはなさそうだったから、俺はひよりの手を取った。
「行こう」
ひよりは照れたまま、少しだけ迷って。
それでも最後には、小さく頷いた。
ひより日和 新婚編 第5話 「暗黙の了解」 おわり




