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第4話 「目線の方向」

1

梅雨もそろそろ終わりに近づいているのかもしれない。


新入社員の研修と配属も落ち着いて、今日は久しぶりに定時で退勤できた。


恒一さんも早番だったけれど、帰り際に売り場でトラブルがあったらしく、帰宅は1時間ほど遅くなるとLINEが入っている。


夏至は過ぎたけれど、19時でも外はまだ明るい。


大きく膨らんだエコバッグを片手に、私はマンションのエレベーターを上がり、私たちの部屋の鍵を開けた。

玄関には、彼のスリッパが少し歪んだまま置かれていた。


今日は、パスタの予定だ。

朝のうちにそう決めて、帰りに材料も買ってきた。

トマトソースの瓶は、いつものメーカーより少しだけ贅沢なものにした。

真っ赤なラベルが、頼もしい。

エプロンをつけて、手を洗って、まな板の上に玉ねぎ。

そして、トマトソースの瓶。


「よし」


玉ねぎを切ったあと、瓶を手に取る。

蓋を掴んで、ひねる。


……開かない。


「あれ?」


力を入れなおして、もう一度。


「ん…っ」


1回手を離して、布巾を取る。

瓶の蓋に巻き付けて、深呼吸して、もう一度。


「…んんー」


手首に力を込めても、やっぱり、開かない。

指先がじんじんしてきて、変な負けん気が出てくる。

ここで、あきらめたら、なんだか悔しい。


布巾を外して、手を洗う。


「こういうのは、手をよく拭いて角度を変えると開くんだよね」


どこかで聞いたことがあったのだろうが、誰が言ったのかも覚えていない。

タオルで、指先までよく拭いて再度挑戦。


「んっ!」

「ちょっと、なんで開かないの」


小さく唸ってみても、結果は同じだった。

トマトソースは、キッチンの照明を反射しながら、びくともしない。



息切れしてきたところに、恒一さんが帰ってきたみたいだ。

全然気づかなかった。


「何と戦ってる」


キッチンの入り口に立って、こちらを見ていた。


「おかえりなさい」

「トマトソースの瓶。なかなか強敵で」


苦し紛れに言うと、彼はふっと口元だけで笑った。


「貸して」


すっと差し出された大きな手に、私は思わず瓶を抱え込む。


「もう少しで、開きそうなんです」


「開いてないだろ」


即答されて、ムッとする。

確かに開いてないけど、気持ちの問題というものがある。


「今、開くところです」


半分本気、半分は意地だ。


「じゃあ、やってみろ」


その言い方が、あまりに落ち着いていて、ぐうの音も出ない。

自分でも、眉間にしわが寄っているのがわかる。

図星を刺されると、余計に渡したくなくなるのが人間というものだ。


けれど、このまま意地を張っていても、夕ご飯の準備ができない。

パスタのお湯も沸騰しそうだ。

心の中で小さく白旗を上げて、瓶を渡す。


「……お願いします」


彼は「はい」と短く答えて片手で受け取る。

もう片方の手で、蓋を掴む。

その動きが、あまりに何でもないようで、ちょっと腹が立つ。


カコン。


乾いた音が、あっけないほど簡単に鳴った。


「え」


自分があれだけ格闘しても、びくともしなかった蓋が、一瞬で開いてしまった。


「ほら」


開いた瓶を返される。

トマトの香りがふわっと立つ。

負けた悔しさと、ほっとした安堵が同時に広がった。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


彼はいつもの調子でそう言って、寝室に着替えに行ってしまった。



ひとりでも、たぶん何とかしたと思う。

時間をかければ、きっとどうにかしていたはずだ。


でも「どうにかする」前に、差し出される手があるのは……。

少しずるいくらい、安心する。


トマトソースを鍋に移していると、着替えを済ませた恒一さんが戻ってきた。

何も言わず、シンク下の収納を開けてフライパンを取り出している。


仕事で疲れているはずなのに、その背中はいつも通りで、やっぱり頼もしい。


たかが、瓶の蓋。


今日もまた、ひとりでがんばればできることを、ふたりで分け合っていく。

それが、今の私には心地いい。



2


朝の光は嫌いじゃない。

でも、もう少し寝ていたいと思う日も多い。


ベッドから身体を起こす。

カーテンの隙間から差し込む細い光の中で、部屋の埃がゆっくり浮いている。

仕事のある朝は、だいたい同じ動きの繰り返しだ。


脱衣所へ行って歯を磨く。

鏡に映る自分の顔は、いつもより疲れて見えた。

残業が、続いているからかもしれない。


寝室に戻って、クローゼットを開ける。

下のほうの引き出しを開ける。


黒い靴下が、きれいに揃っている。

下着もインナーも、迷いなく見やすく取りやすいところに収まっている。


最初は、特に気にしなかった。

朝の出勤前や仕事から帰ってから、ぼんやりしている頭では、そこまで考えが回らなかった。


けれど、ある朝ふと気づいた。


「……あれ?」


手に取った靴下の生地が、前より新しい。

薄くなりかけていた踵の感触がなくなっている。

引き出しの中を探ってみても、普段履いていたくたびれた靴下が見当たらない。


代わりに、同じ形の、同じ靴下が、数を増やして並んでいる。


「いつの間に」


もう1段下の引き出しを開ける。

インナーも、前に「そろそろ寿命だな」と思っていたものが減っていて、新しいものに置き換わっている。


自分で買った覚えはない。


「……いつ買ったんだ」


独り言みたいに漏れた声は、寝室の中でやけに響いた。


着替えて、ダイニングへ行くと、カトラリーの触れ合う音と、味噌汁の匂いがしている。

コンロの火の消える軽い音。


「靴下、買っといてくれた?」


「この前です。穴、開きかけてましたよ」


間髪入れずに返ってきた答えに、思わず苦笑する。


「見てたのか」


「洗濯したらわかりますよ」


さらりとした声に、こちらの照れくささだけが取り残される。


たかが、靴下。


靴下が揃っている。

たったそれだけで、朝の動きがひとつ減る。


「どれにしようか」と迷う時間も、古くなった靴下を避けようと引き出しの中を混ぜ返す手間もない。

寝ぼけた頭で、余計なことを考えなくて済む。


シャツには、きれいにアイロンがかかっていて、ハンガーに掛けられている。

自分でやった覚えはない。

ひとりの頃は、クリーニングに出していたが、持って行くことも取りに行くことも、今はない。

気がついたら、しなくなっていた。


「……そういうところは、よく見ているんだな」


誰にともなくつぶやいた。


テーブルには、朝ごはんが並んでいた。

焼き鮭の皿と、湯気の立つ味噌汁と、卵焼き。

テレビはついていない。

代わりに、小さく鍋を置く音が聞こえる。


ひよりのエプロンの胸元に、昨日のトマトソースの色が染まっているのが見えて、笑いそうになる。


椅子に腰を下ろしながら「ありがとう」と言った。

味噌汁をひと口飲むと、ちょうどいい温度で、身体が目を覚ます。


靴下が揃っている。

下着もインナーも迷わない場所に入っている。


自分が何とかしないと、と思う前に、必要なものが必要な場所に用意されている。


甘やかされていると言えば、たぶんそうだ。

自分でやれないわけじゃない。

やろうと思えば、いくらでもやれる。

ひとりだった頃は、それが当たり前だった。


当たり前でないものが、いつの間にか「いつもの朝」になっている。

味噌汁をもう一口飲んでから、ぽつりと言葉がこぼれた。


「……結婚してよかった。…ひよりと」


自分でも驚くくらい、自然に出た言葉だった。


向かいで箸を動かしていたひよりが、きょとんと顔を上げる。


「え?」


「何でもない」


「……聞こえましたけど」


「聞かなかったことにして」


ひよりは少し笑って、味噌汁のお椀に視線を落とした。


俺は、焼き鮭に箸を入れた。

何でもない、というには少し重い気がして、心の中でもう一度繰り返す。


結婚してよかった。


靴下一足にも、その実感が紛れ込んでいる朝だった。



3


今日は、ちょっとだけ手の込んだものを作りたかった。


休みだったし、恒一さんは当務明けで昼間は寝ていたし。


洗濯をしたり、アイロンをかけたりしていて、気づいたら14時だった。

恒一さんは、そろそろ起きてくるかもしれない。


エプロンをつけて、キッチンに立ちながら、冷蔵庫の中身と相談する。

いつもなら、フライパンひとつでできるメニューに落ち着きがちだ。

でも、休みの日くらいはもう少しがんばりたい。


ハンバーグ用のひき肉と玉ねぎを台の上に置く。

付け合わせのポテトサラダも作るつもりで、ジャガイモも転がした。


そこで、ふと頭に、ある道具の姿が浮かぶ。


フードプロセッサー。


結婚祝いのひとつとして、高校の友達からもらった物だった。

玉ねぎのみじん切りもハンバーグのタネも、一気に仕上げてくれる頼もしい味方だ。


「そういえば、最近全く使ってない……」


思い出したら、急に使ってみたくなった。

置き場所は、キッチンの戸棚の上の吊戸棚の中だ。

たまにしか使わないから、自然とそういう場所になってしまった。


私はシンクの横の隅に立てかけてある、折り畳み式の踏み台を広げた。

高さは、20センチくらいだろうか。

たぶん、子ども用だ。

洗面台での歯磨きなど、小さい子供が使うやつだ。

買った時に、袋のラベルにそう書いてあったように思う。


「ここに置いて…」


コンロの前から少し離した位置に踏み台を置いて、その上に足を乗せる。

コンロには、火はついていないし、距離もある。

頭の中で、大丈夫と安全確認をして、吊戸棚を見上げた。


もう少し背伸びをすれば、手が届く。

そう確信して、片足に体重をかけたところで、背中から低い声が聞こえた。


「なに取る」


ビクッとして振り返ると、キッチンの入り口に恒一さんが立っていた。

白いTシャツと派手な短パン姿だ。

起きたみたい。

彼は、じっとこちらを見ている。


「フードプロセッサーです。あれ、上の棚に入れてて」


笑ってごまかすみたいに言うと、彼の視線が私の足元の踏み台に動いた。


「下がってろ」


短くそう言って、彼はまな板の上に置いていた包丁をいったん下ろし、手を拭きながら近づいてくる。


「踏み台があれば取れます」


思わず言った。

実際、以前もこの踏み台を使って、自分で出し入れしていた。

届かないわけじゃない。

工夫すれば、どうにかなる。


「知ってる」


即答される。

それなら、と口を開きかけたところで、彼の声が一段低くなる。


「危ない」


言葉が、すっと差し込まれるみたいに重くなった。


危ない。


“お前には無理”と言われたわけではないのに、少しムッとする。


危なくないですと言いかけて、踏み台の上で背伸びをして、上段の棚から重い箱を引き寄せる。

そのような自分の姿を想像する。


それでも「自分でできます」は、つい言いたくなる。


彼が、踏み台を後ろへどけた。


「ちょっと」


抗議の声が出る。

彼は、それを無視するわけでもなく、淡々としていた。


「俺から見たら、十分危ない」


そう言って、吊戸棚の取っ手をつかむ。

すっと腕を伸ばしただけで、いちばん上の段の奥にあるフードプロセッサーの箱に手が届いてしまう。

その動きが、あまりにあっさりしていて、見ているこちらの肩の力が抜けた。


「あ、そこ、です」


指さす必要もないくらい、彼は迷わず箱を抱え上げる。

そして、何でもない顔でこちらに向き直った。


「ほら」


視線の高さまで下ろされた箱を見て、胸の奥で小さな負けん気がうずく。

自分だって、踏み台さえあれば届いた。

危なかったかもしれないけど、たぶんどうにかなっていた。


「……ありがとございます」


そういう声が、思っていたよりも小さくて、自分で苦笑したくなる。

少し拗ねているのが、きっとバレている。


「重いぞ」


彼が短く付け足す。


「知ってます」


そこだけは、負けたくない気持ちで答えると、彼はわずかに眉を緩めた。


「なら、待ってろ」


軽く言われてしまうと、それ以上は何も返せなかった。

私は一歩下がって、彼がフードプロセッサーをテーブルの上にそっと下ろすのを見ていた。


できないわけじゃない。

たぶん、ひとりならやっていた。

踏み台を持ってきて、背伸びして、危なっかしく箱を引き寄せて、それでもどうにかしていたと思う。


でも、今は。


私がどうにかする前に「下がってろ」という人がいる。


踏み台に足をかける前に、それを持ち上げてしまう人がいる。




フードプロセッサーのスイッチを入れると、低いモーター音がキッチンに広がった。

玉ねぎが一気に細かくなっていくのを見ながら、さっきの踏み台の位置を思い出す。


ひとりだったら、きっとあそこに立って、ぐらぐらする足元に少しだけ怖さを感じながら、大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせていたに違いない。


今は、その「大丈夫、大丈夫」を言わなくていい。


できないわけじゃない。

でも、無理しなくていいことが、少しずつ増えていく。


私が見上げていた場所を、恒一さんは、違う目線で見ていた。



4


健康保険証って、たまにしか出番がないくせに、いざという時に限って見つからない。


その朝も、まさにそれだった。


出勤前、着替えてから、ふと思い出す。

今日は、会社で健康診断の書類を出さないといけなかった。

保険証のコピーを同封するように言われていたのに、昨夜は疲れてそのまま寝てしまったのだ。


「保険証…どこやったっけ」


独り言みたいにつぶやきながら、リビングの棚を開ける。

以前までは財布に入れっぱなしにしていたが、結婚してからは「大事なものはここにまとめましょう」と、どこかに定位置を作ったはずだ。


その「どこか」が、きれいに抜け落ちている。


書類用のトレイ、カゴ、棚の引き出し。

見当をつけて順番に開いていくが、出てくるのは光熱費の明細やら、古いレシートやら。

目的のものは、なかなか姿を見せない。


リビングの棚の前で、少しだけ眉間にしわを寄せていたとき、背中側から声が飛んできた。


「それ、青いファイルです」


振り向くと、キッチンで朝食の準備をしていたひよりが、小さいフライパンを持ったままこっちを見ていた。


「青い……?」


「下の段の、右から2つ目」


促されるままに視線を棚に戻す。

言われた通りの場所に、薄い青色のファイルが立てかけてあった。

見ていたはずなのに、完全に視界から抜け落ちていた。


開いてみると、保険証のコピー、年金関係の書類、家電の保証書、クレジットカードの案内…日付ごとにクリアポケットにまとめられて、きれいに収まっている。


「……いつまとめた」


思わず、ファイルを持ったまま聞いた。


ひよりはちょっと考えて言った。


「入籍してから……1週間くらいして?」


キッチンから、当たり前みたいな声が返って来る。


「言えよ」


「言いましたよ。たぶん」


たぶん。

そこで、うっすら記憶がよみがえる。

晩飯の支度を手伝いながら「書類、青いファイルに入れておきますね」と言われたような気がする。

ニュースを見ていて、半分聞き流したような気もする。


「そうか」


自分で自分に苦笑しながら、保険証のページを探す。

クリアポケットの中に、きちんとコピーが挟まっていた。

必要な書類も一式揃っている。


探す手間が、丸ごとなくなった。


最近、今まで意識していなかったことに、気がつく。





数日前も。

歯磨きをしていて、洗面台の鏡の前に立って、ふと違和感があった。


「あれ?まだあった?」


いつも使っている歯磨き。

新品だ。

昨夜、そろそろ切れそうだなと思っていた記憶がある。


何気なく鏡の裏の収納を開けると、いつもの場所に同じ歯磨きの予備が1本、新しく並んでいた。

隣には洗顔料の予備。

下の段には、洗濯洗剤の詰め替え用が、まだ封を切られていない状態で立っている。


「…………」


声にならない感想がのどの奥で止まる。


「いつの間に」


独り言みたいなつぶやきは、今度は誰にも拾われない。

ひよりはもう出勤していて、部屋には自分ひとりだった。


歯磨きしながら、最近のことを思い出していた。


靴下。

あの朝、揃えられた黒い靴下の列に気づいた時のこと。

古いものがいつの間にか姿を消して、新しい靴下が何足も並んでいた。


書類。

青いファイル1冊で、ばらばらだった紙が全部片付いていること。


洗剤や歯磨き。

切れそうだと思った頃には、当たり前のような顔で新しいものが置いてあること。


どれも、生活が止まらないためには必要なものなのに、ひとつひとつは、細かすぎて気づかないまま通り過ぎそうなことばかりだ。




出勤前のリビングに意識を戻して、俺はさっきの青いファイルをもう一度取り出した。


青いファイルのページをめくっていく。

家電の保証書もメーカー別にまとめられていた。

エアコン、冷蔵庫、オーブンレンジ。

購入日のレシートまで、一緒にクリアポケットに入っている。


「ここまでやるか…」


感心とも、呆れともつかない声が漏れる。




自分の手は、高い棚には届く。

重いものは持てるし、緩んだネジを固く締めることだってできる。

踏み台なしで吊戸棚に手が届くのは、自分のほうだ。


でも、こういうところは、ひよりのほうがすっと先に手が届いている。


なくなりそうなものに気づくのも、書類の行き先を決めるのも、靴下の寿命を判断するのも。

生活が、止まらないようにするための、小さくて、目立たないところ。


そこに気づいて、勝手に動いて、いつの間にか終わらせてしまう。

「気が利く」とか、そんな軽い言葉で言ってしまうには、少し違う気もする。

それよりもっと、生活の芯に近い部分で、支えてもらっている感じがする。


青いファイルを棚に戻して、扉を閉める。


誰かと一緒に暮らすというのは、こういうことなんだろう。


高いところの箱を下ろす手と、見えないところを整える手。

どちらか一方だけでは、たぶん足りない。

自分が届く場所と、ひよりが届く場所。


その重なりが、この部屋の「普通」を作っている。



5


夕ご飯の支度をしながら、ダイニングテーブルの横を通るたび、椅子のことが少しだけ気になっていた。


座ると、わずかに揺れる。

座面の下あたりで、何かがカタカタと鳴る。

倒れそうなほどではないし、座れないわけでもない。

ただ、あれ?と思う程度のぐらつき。


言うほどでもないかな、と放置して、もう何日か経っていた。


「煮込みにしようかな」

「いや、やめとこ。赤ワインが足りない」


恒一さんが、お風呂から上がって、こちらへ来る。


Tシャツは真っ赤だ。ちゃんと着ている。

誰かのアメリカ土産だと言っていた。

前面のプリントがひどく派手だ。

アメリカ製なら恒一さんでもサイズが余裕だ。


「暑い」と言いながら、冷蔵庫の缶ビールを空けて飲んでいる。


そのまま、彼がダイニングチェアに腰を下ろす。

その瞬間、小さな軋みがダイニングに響いた。


ギシ、と椅子が鳴る。


私は、コンロの火を弱め、ちらりと振り返った。


「これ、緩んでるな」


彼が椅子の背もたれに軽く体重をかけながら言う。

視線は座面の下、脚の付け根に落ちていた。


「わかります?」


思わず聞き返してしまう。

私が気になっていたのは、本当にわずかな違和感だったのに。


「座ればわかる」


あっさりと返される。


彼は、一度立ち上がり、椅子を持ち上げて逆さにした。

座面をテーブルに乗せて、脚を上に向ける。

その動きがあまりにも慣れていて、私はコンロの前に立ってじっと見つめてしまう。


「工具箱どこだっけ」


「玄関横の小さい収納庫」


私が答え終わる前に、彼はもう玄関のほうに足を向けていた。



「ここか」


椅子の脚と座面をつなぐ金具のあたりに指をあてて、軽く揺らす。

カタカタと小さな音がする。


「ちょっと動いてます?」


「うん。ネジ緩んでる」


彼はそう言って、迷いなくドライバーを差し込んだ。

金具の向きを確認して、ぐっと力を込めて回している。


「何日か前から、ちょっと気になっていたんです」


私は、コンロの火をさらに小さくしながら、ぽつりと言った。


「言えばいいだろ」


ドライバーを回す手を止めずに、彼が答える。


「言うほどでもないかなって」


少し座り心地が悪いだけの椅子なんて、ひとり暮らしのときは「まぁ、こんなもんか」で終わっていた。


「言うほどでもないことの方が、生活では気になる」


私はその言葉に、手を止めた。


「…そうですか?」


「そうだろ」


彼は淡々とした口調で続ける。


「椅子が壊れそうとか、床に穴が開いたとか、そういうのはさすがに気づくし、誰だって何とかしようとする」

「けど、座ればちょっと揺れるとか、ドアが少しだけ引っかかるとか、洗面所の電球が暗いとか」


彼は最後のネジを回し切ってから、ふっと息を吐いた。


「そういう『言うほどでもない』が積み重なると、毎日ちょっとずつイラつく」


ひとり暮らしの部屋でも、小さなストレスに目をつぶってやり過ごしていた日々を思い出す。


「そこまで気にしてくれるんですね」


ほんの少し、笑いながら言った。


瓶の蓋を代わりに開けてくれた時も、高い棚から重いフードプロセッサーを取ってくれた時も、彼はこんな顔をしていた気がする。


「よし」


「座ってみてもいいですか」


エプロンの裾を抑えながら、恐る恐る腰を下ろす。


椅子は何事もなかったみたいに、しっかり私を支えてくれた。

さっきまで感じていた微妙な不安定さがすっかり消えている。


「…全然違いますね」


「だろ」


瓶の蓋も、高い棚の箱も、椅子のぐらつきも。


自分ひとりだったら、きっと「言うほどでもない」で片づけていた。

時間をかければ、どうにかできる。

少し我慢すれば、生活は回る。


でも今は、その「少しの我慢」を、わざわざ抱え込む必要がなくなっている。


小さな面倒を、先に拾ってくれる人が隣にいる。


「やっぱり、言えばよかったですね」


「次から言えよ?」


コンロの火を少し強くしながら、私は心の中で頷いた。


こんな風に生活の小さな不便を一緒に拾っていく。

それだけで、この部屋は昨日より、暮らしやすくなる。



エピローグ


夜のリビングに、マグカップから立つ湯気がゆらゆらと揺れていた。

テレビは消えていて、流れているのは冷蔵庫のコンプレッサーの音とたまに外を走る車の音だけ。


食後のお茶をひと口飲んで、ふと言った。


「今日、いろいろ助かりました」


向かいで、マグカップを持っていた恒一さんが、少し首を傾げる。


「椅子か?」


「椅子も、フードプロセッサーも、蓋も」


言いながら、自分でも結構あるなと思って、笑ってしまう。


彼は、少し考えるみたいにして言った。


「こっちも、靴下助かってる。書類とかも」


「靴下?」


「朝、探さなくて済む」


その言い方が、なんだか真顔でおかしくなる。


「そんなに助かってました?」


「かなり」


即答されて、声を立てて笑ってしまった。


「じゃあ、お互いさまですね」


そう言うと、彼も小さく笑う。


「蓋と靴下?」


「地味ですね」


「でも、生活だろ?」


マグカップをテーブルに戻す小さな音が、妙に心地よく響いた。

こんな地味なやり取りが続いていくことを、きっと私は、これから先もずっと大事にしていく。


ひとりでもなんとかなることでも、ふたりだと少し楽になる。

私では届かないところに恒一さんが手を伸ばして。

恒一さんが気づかないところに私が手を伸ばして。


目線の方向が違うから、この部屋は少しずつ暮らしやすくなる。


そうやって暮らしていくことを、夫婦というのかもしれない。





ひより日和 新婚編 第4話 「目線の方向」 おわり


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