第3話 「余熱」
1
早番とはいえ、最近はなかなか定時では上がれない。
新入社員の配属で、いろいろと手間がかかっている。
今日も結局、退勤時間は18時前だった。
17時が定時のはずなのに、でも、この時期はもう“仕方がない”に入る。
それでも、外に出てみると、ずいぶん日が長くなったと思う。
19時でも空はまだ結構明るい。
今日は、恒一さんがお休みなので、ちょっとでも早く帰りたい。
私は、マンションまでの道を早足で歩いた。
ただいま、と玄関のドアを開けた途端、ふわっといい匂いが鼻先をかすめる。
「……え?」
小さく声が漏れた。
キッチンから、じゅうじゅうと油の跳ねる音と、香ばしいベーコンの匂いがする。
「……え、ちょっと待って」
彼は料理だけは、壊滅的にできない人のはずだ。
そうめんを盛大に噴きこぼした前科だって、私は忘れていない。
そっとキッチンをのぞき込むと、恒一さんがフライパンと真剣に向き合っていた。
ベーコンがこんがり色づきはじめていて、煙が上がる寸前に見える。
「あの、恒一さん……?」
恐る恐る声をかけると、彼はちらりとこちらを見て、少し口元を緩めた。
「おかえり。疲れてるだろ。ひよは座って待ってろ」
「え、でも……」
とりあえず、着替えようと思いリビングに入った。
リビングは綺麗に片付いていて、床には髪の毛一つ落ちていない。
洗濯物は綺麗にたたまれて、ソファの横に並んでいる。
今日は、恒一さんが休みだった。
掃除も洗濯も、きっと全部やってくれたんだろう。
そこまでは、まぁわかる。
彼は、家事は何でも手際よくこなす人だ。
素早く着替えて、言われた通りにダイニングチェアに腰を下ろしてみる。
けれど、フライパンから立ちのぼる煙と、彼の手つきを見ていたら、どうにも落ち着いていられない。
べーコンが今にも黒くなりそうで、心臓に悪い。
座って待っていろと言われても、絶対に無理だ。
私は椅子からそっと立ち上がり、エプロン掛けから自分のエプロンを引っ張り出した。
「……サラダは、私が担当しますね」
なるべく自然な声を装って、彼の隣に並ぶ。
まな板と包丁を手に取ると、ようやく胸の中のそわそわが、少しだけ落ち着いた気がした。
たぶん、私は手伝いたいんじゃない。
見張りたいのだ。
恒一さんが、視線を下げて私を見る。
「口は出すなよ」
「ええ、サラダだけですから」
「ほんとか?」
「信じてください」
視線を上げて満面の笑みを彼に向けたが、目が笑っていなかったのがバレていないだろうかと思った。
レタスをちぎりながら、私は横目でフライパンを見る。
ベーコンは、まだ無事だった。
まだ、という言葉がつく時点で、かなり不安だった。
2
今日は俺が休みで、ひよりは早番。
掃除も洗濯も、買い物までは完ぺきだった。
床も拭いて、洗濯物はきれいにたたんで、冷蔵庫の中も一度全部出して整理した。
そこまでは計画通り。
晩飯も、この流れで問題なくいけるはずだった。
朝から、さんざんネットでレシピを漁った。
自分でできそうなものの、条件ははっきりしている。
材料が少ないこと。
工程が短いこと。
一皿で完結すること。
洗い物が増えないこと。
合理的に考えて、その答えがカルボナーラだった。
卵とチーズとベーコンとパスタ。
これだけだ。
鍋とフライパンがあればいい。
手順も読む限りはシンプルだ。
そう思って選んだのに。
いざ、レシピを開いてみると、途中から様子がおかしくなった。
ベーコンは「適量」
塩も「ひとつまみ」
卵とチーズを混ぜたボウルには「手早く和える」
火を止めてからは、「余熱で仕上げる」
「……適量って、なんだ」
声に出しても答えるやつはいない。
グラムで書けないのか。
なぜ途中で数字を捨てる。
「ひとつまみ」も人によって指の大きさが違う。
そんな曖昧な単位で塩加減を任されては困る。
警備計画でいきなり「このあたりは雰囲気で配置してください」と書かれているようなものだ。
「手早く」も信用ならない。
具体的に何秒以内なのか。
20秒なのか、1分なのか。
人間の早いは個人差が大きすぎる。
極めつけは「余熱で」
それはもう、レシピとしても責任を放棄しているようにしか見えない。
火を止めるタイミングも、混ぜ続ける時間も、全部こっちに丸投げだ。
料理というやつは、なぜいちばん失敗しそうなところで突然、感覚頼みになるのか。
理解に苦しむ。
フライパンの上でベーコンがじゅうじゅう音を立てる。
いい匂いはしているが、それが成功の証拠なのか、ただ焦げかけているだけなのか、俺にはまだ判断ができない。
それでも、ひよりが帰ってくるまでには何とか形にしたい。
曖昧な指示に文句を言いながら、俺はレシピの画面を何度もスクロールしていると、玄関の鍵が開く音がした。
ひよりが帰ってきた。
ベーコンは、まだ焦げていない。
部屋も片付いている。
洗濯物もたたんだ。
ここまでは、問題ない。
「ただいま」
「おかえり。疲れてるだろ。ひよは座って待ってろ」
そう言ったのに、数分後、ひよりはエプロンをつけて隣に立っていた。
「……サラダは、私が担当しますね」
どう見ても、サラダを作りたい顔ではなかった。
見張る顔だった。
「口は出すなよ」
「ええ、サラダだけですから」
信じろと言う目をしている。
ただし、目が笑っていない。
俺はフライパンに視線を戻した。
ベーコンは、まだ無事だった。
まだ、という言葉が頭に浮かんだ時点で、たぶん状況はあまりよくない。
3
恒一さんの隣で、私はサラダ担当という名目でまな板の前に立つ。
レタスを1枚ずつちぎりながら、できるだけフライパンを見ないようにしてみる。
せっかく、忙しい日に合わせて夕ご飯を作ってくれているのだから。
今日は口出ししない。
言わない。何も言わない。
そう、心の中で何度も唱えながら、私はレタスをボウルに落としていく。
でも、その決意とは裏腹に、隣のフライパンから伝わってくる熱が、どう考えても尋常じゃない気がする。
油の跳ねる音が、さっきから少しずつ鋭くなっている。
あのベーコンは、そろそろあぶない。
そう思っても、私はレタスをちぎる。ちぎる。ひたすらにちぎる。
それでも、視線はどうしても横に流れてしまう。
ベーコンはきれいなきつね色を通り越して、縁が少し黒くなりかけている。
「……火、止めました?」
気づいたら勝手に口が動いていた。
しまったと思った時にはもう遅くて、恒一さんがわずかに目を細めて、苦笑とも呆れともつかない顔をする。
「ひよ、口出ししたな」
「……しました」
素直に認めるしかない。
だって、危なっかしくてハラハラするから。
このまま黙って見ていたら、ベーコンが真っ黒になってしまいそうだ。
フライパンの中身と、レタスだらけのボウルを交互に見て、ようやく私は、これはどうもカルボナーラだと理解する。
レトルトのパスタソースじゃ、ダメだったのかな。
あれなら湯せんかレンジで済んだのに、と一瞬だけ頭をよぎるけれど、すぐに打ち消した。
恒一さんは、気持ちの出し方はとことん不器用だけれど、手先が不器用だとは思っていない。
書類でも工具でも、一度覚えた手順は正確にこなす人だ。
だからきっと、誰かにちゃんと習えば、料理だってすぐに上達するはずだ。
ただ、目の前にあるのは、ネットのレシピ。
「適量」とか「ひとつまみ」とか「余熱で」とか、そういう言葉は、きっと経験者向けだ。
私は、もう一度レタスをちぎりながら、小さく息をついた。
「じゃあ、火を止めるタイミングだけ……一緒に見てもいいですか」
それくらいなら、口出しではなくて、共同作業だと信じたい。
恒一さんは、フライパンから目を離さないまま、少しだけ眉を寄せた。
「それは、口出しじゃないのか」
「共同作業です」
「都合がいいな」
そう言いながらも、彼は少しだけ場所を空けてくれた。
4
パスタの茹で時間をにらみながら、俺はフライパンの火を弱めた。
ベーコンから出た脂が、底で静かに揺れている。
そこで茹で汁を少しだけ加えると、じゅっと音がして、白く濁った泡が出た。
茹で上がったパスタをざっと湯切りして、フライパンに移す。
ベーコンの脂と茹で汁を絡めながら、トングで持ち上げて落とす。
レシピの画面には、ここで「火を止める」と書いてある。
卵とチーズを混ぜたボウルは、すでに脇で待機している。
俺は一度、深く息を吸ってからコンロのスイッチを消した。
火は消えた。
だが、フライパンは明らかに熱い。
それでも、レシピは言う。
「余熱で仕上げる」
「……信用してみるか」
自分に言い聞かせるようにつぶやいて、俺は卵液をフライパンに流し入れた。
とろりとした黄色が、パスタの上を覆っていく。
トングで混ぜる。
手早く、手早く、と頭の中で繰り返しながら、必死に全体を絡めた。
その瞬間、フライパンの底から違和感が伝わってくる。
トングの先が、ところどころ引っかかる。
卵が部分的に固まり始めていた。
「…………」
腕が止まる。
「………固まった」
思わず口から漏れた声に、隣でサラダを作っていたひよりが、そっと覗き込んでくる。
「少し、ですね」
「少しじゃない」
どう見ても、ところどころスクランブルエッグだ。
俺の中でイメージしていたカルボナーラとは、だいぶ違う。
それでもひよりは、真面目な顔で頷いた。
「食べられます」
そこはもう慰めてほしいところだが、評価の基準がまず「食べられるかどうか」なのは、彼女らしい。
「これはカルボナーラ?」
自分でもよくわからなくなって、つい口に出す。
ひよりはフライパンの中をじっと見てから、慎重に言葉を選ぶみたいに答えた。
「カルボナーラ……もどき?」
その妙に正直な判定に、俺はしばらく固まった。
ベーコンはぎりぎり焦げてはいない。
卵も、完全にぼそぼそと言うほどではない。
なんとか、カルボナーラの名を名乗れなくもない、境界線の上にいる。
俺はフライパンを見下ろしながら、真顔で結論を出した。
「……余熱は信用できない」
ひよりがぷっと噴き出した。
「余熱は悪くないと思います」
「悪い。少なくとも説明不足だ」
「料理としては失敗だ」
レシピに書いてあることが悪いのか、自分の感覚が悪いのか、その両方なのか。
とりあえず、次回からは余熱という言葉を、もう少し疑ってみようと思った。
5
テーブルの上には、湯気の立つカルボナーラもどきと私の担当したサラダ。
見た目は、少し卵が炒り卵っぽくなっている。
レストランで出てくる、あの滑らかなソースとはだいぶ違うけれど、ベーコンの香りはとてもいい。
フォークで一口分巻き取って、恐る恐る口に運ぶ。
ベーコンの塩気と、チーズの風味が、ちゃんとパスタに絡んでいる。
卵がところどころ固まっているのはわかるけれど、味そのものは決して悪くない。
「……おいしいです」
素直な感想を言うと、向かいの恒一さんが、少し眉をひそめた。
「無理しなくていい」
「無理してないです」
もう一口、今度は少し多めに巻き取って食べる。
やっぱり、ちゃんとおいしい。
少なくとも、私ひとりの自炊より、よっぽどまともだ。
「これは、多分失敗だ」
静かな声でそう言うので、私はフォークを持ったまま首をかしげる。
「でも、作ってくれたからおいしいです」
事実なのでそう言うと、彼はあからさまに納得のいかない顔になった。
「それは評価基準が料理じゃない」
「新婚の夕ご飯なので」
そう言って笑うと、恒一さんは言葉を失ったように私を見て、それから小さく息を吐いて視線をそらした。
お皿の上のカルボナーラもどきを見つめる横顔が、さっきまでフライパンと格闘していたときよりも柔らかくなっている気がして、私はまたひと口、フォークを口に運んだ。
6
「新婚の夕ご飯なので」
そう言ったあと、少し空気がやわらかくなる。
「……でも、次はもう少しうまくやりたい」
恒一さんが、お皿の上のパスタを見つめたままぽつりと言う。
「今日のも十分おいしいですよ」
「ひよの基準ではな」
「ひより基準は大事ですよ?」
そう返すと、彼は小さく息を吐いて、諦め半分みたいな微笑を浮かべた。
その顔を見ながら、私はちょっと迷ってから口を開く。
「じゃあ、次は……一緒に作りましょう」
「一緒に?」
「はい。レシピの「適量」とか「余熱」とか、ふたりで文句言いながら」
冗談っぽく言うと、恒一さんは目を瞬かせて、私のほうを見た。
「……ひよは、俺のカルボナーラに、まだ付き合うつもりか」
「カルボナーラもどきから、本物のカルボナーラに進化させましょう」
彼は視線をそらして、照れ隠しみたいに水のグラスを口に運んだ。
「じゃあ、そのうち第2回をやるか」
「第2回カルボナーラ大会、ですね」
「名前を付けるな」
そう言いながら、声はさっきより柔らかい。
「テーブルの上の、少し炒り卵っぽいカルボナーラもどきを見て、私はそっと笑う」
たぶん、味だけで言えば「大成功」とは言えないのかもしれない。
でも、新婚の夕ご飯としては、ちゃんと満点だと思っている。
次のカルボナーラも、その次も、こうやってふたりで少しずつおいしくしていけばいい。
そう思いながら、私はもう一度フォークを手に取った。
エピローグ
料理としては、たぶん失敗だった。
それでも、ベーコンの香りは悪くなかったし、味そのものも壊滅的というほどではなかった。
カルボナーラもどきとしては、ぎりぎり合格点かもしれない。
ひよりは、最初のひと口から最後のひと口まで、ずっと笑って食べていた。
余熱は信用できない。
適量も信用できない。
レシピの「ひとつまみ」や「手早く」も、俺の性格とは決定的に相性が悪い。
ただ、ひよりの「おいしい」は信用してもいいと思った。
新婚の晩飯のテーブルで、そう思えただけでも、今日のカルボナーラもどきは悪くない失敗だったのかもしれない。
ひより日和 新婚編 第3話 「余熱」 おわり




