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第2話 「大丈夫じゃない」

朝。

目を開けると、カーテンの隙間から差し込む光が、天井の白を柔らかく照らしていた。


隣には、もう誰もいない。

いつも通りの光景のはずなのに、胸のあたりが少しざわつく。


キッチンから、マグカップの当たる小さな音がした。

私は、ベッドから体を起こし、寝起きの重いまぶたをこすりながらダイニングへ向かう。


ダイニングテーブルの向こうで、恒一さんがコーヒーを飲んでいる。

シャツの袖を肘までまくり上げて、なにか書類を読んでいる。


いつもと同じ。

だけど、何かが違う。


カップを持ち上げる動きが、妙にゆっくりだ。

一口飲んでから置くまでの間が長い。


おはよう、という声も、少し低い。


「パンが焼けたから、起こそうと思ってた」


テーブルの上には、私のマグカップとトースト。

それはいつも通りなのに、バターはまだ塗られていないし、サラダもキッチンのシンクに置かれたまま、ボウルの中でしんなりしている。


「あれ?」


思わず声が漏れた。

彼は、視線だけこちらに向ける。


「どうした」


「いえ……」


どうしたのは、あなたのような気がする。

私は、椅子に座りながら、じっと彼を観察した。


コーヒーを飲むたびに、喉が小さく上下する。

そのたびに、まばたきがゆっくりで、どこかぼんやりしている。


「朝ごはん、食べないんですか?」


「あとでいい」


返事はそれだけ。

言葉の端がかすれている。


私はトーストにバターを塗りかけた手が、途中で止まった。


「……体調、悪いんですか?」


私は、バターを塗る手を止めて、顔を上げる。

恒一さんは、少し間をおいてから答えた。


「悪くない」


その答えが、余計に不安を煽る。


「ほんとに?」


「ほんと」


短い。

いつもなら、「ちょっと眠いだけ」とか、何か一言、私を安心させる一言を足してくれるのに。


私は、椅子から立ち上がってテーブルを回りこみ、彼の正面に立った。

身をかがめて、そっと額に手を当てた。


「……っ、熱い」


自分の手が、冷たいとは思わないのに、彼の額がひどく熱いと思った。


「熱ありますね、これ」


恒一さんは、少し眉をひそめて、首を横に振った。


「ない」


「あります」


「測ってない」


「だから、測ります」


リビングのテレビの横にある小さな引き出しから、体温計を取り出して戻る。

彼の手の中に、差し込むように体温計を渡した。


「はい。わきの下、ちゃんと挟んでください」


「子どもじゃないんだから」


そう言いながらも、素直にシャツのボタンを少し開けて、体温計を挟む。

その仕草さえ、いつもよりゆっくりに見える。


ピッ、という電子音が鳴るまでの数十秒が、やけに長い。

私は、椅子の背を掴んで、その音を待った。


ようやく、鳴った電子音に、ふたり同時に視線を落とす。

表示された数字を見て、やっぱり、と思った。


「37.6度」


高熱というほどじゃないけれど、明らかにいつもの彼じゃない温度だ。


「ほら、やっぱり熱あるじゃないですか」


「微熱だ」


「風邪です。それ」


「大げさだな」


口ではそう言いながらも、体温計をテーブルの上に置く動きは、力が抜けているように見えた。


私は、彼の向かい側の椅子に座りなおし、まっすぐに目を合わせる。


「今日、お休みしましょう」


「いや。出る」


淡々とした声。

けれど、その手はマグカップの持ち手を握ったまま、しばらく動かない。


「だって」


「今日、午前中に打ち合わせがある。延期できない」


「オンラインじゃダメなんですか?」


「相手の都合もある」


彼が仕事を大事にしていることは、よく知っている。

だから、簡単に「休んで」というのは、わがままなのかもしれないと一瞬ためらう。


それでも、目の前の顔色は、素直に「いってらっしゃい」と送り出せるものではなかった。


いつもより、少し白く見える。

目の下にはうっすらと影。

額には、見ているだけで伝わってくるような熱っぽさ。


「行ける顔じゃないです」


気づいたら、その言葉が口からこぼれていた。

ちょっと、震えた声だったかもしれない。


恒一さんは、驚いたように目を瞬いたあと、ふっと目をそらす。

窓の外に視線を向けて、深く息を吐いた。


窓から差し込む朝の光が、その横顔の輪郭を白く見せている。

それが、どこか心細げに見えて、胸がきゅっと痛くなった。


マグカップの中で、揺れるコーヒー。

短くて、長い沈黙が彼と私の間に広がる。


彼がなんと答えても、今日は絶対に引かないと、心の中で決めながら。


「……打ち合わせだけは出る」


やっぱり、そう来た。


私は冷めかけたコーヒーを見つめながら、今日は絶対に引かないと決めた。



2


恒一さんは、どう見ても出勤する気でいる。


さっき体温を測って、37.6度

どう考えても仕事に行く数字じゃないのに、シャツのボタンを留めようとしている。


「着替えるから」


少しだるそうな声。

その途中で、小さな咳がこぼれた。


「……っ、ゴホ」


短く1回だけ。

でも、その1回で、私の胸のざわざわは一気に大きくなる。


「今の何でもない咳じゃないと思う」


「たまたまだって」


むすっとした声で言い返してくるけど、その声自体がいつもと違う。

少し掠れていて、低い。

喉が痛そうな声だった。


「声も変です」


「そうか?」


「そう。いつもよりひどく低いです」


言いながら自分でも少し盛ったな、と思う。

でも、この人は少し大げさに言わないと、認めてくれない。


私の視線の先で、彼は上着を取ろうとしている。


「警備の人が倒れたら困ります」


彼のシャツを掴んで、私は言った。

自分でも少し強めな声だとわかる。


「倒れない」


「倒れそうな人はみんなそう言います」


恒一さんは、ほんの一瞬だけ目を細めて、私を見る。

その視線に、むきになっている自分が映りこんでいる気がした。


「今日、人が足りない」


その一言に、現場の空気がそのままリビングに流れ込んでくるみたいだった。


知っている。

最近ずっと忙しくて、シフトもギリギリなのを。


でも。


「風邪をうつしたらもっと困りますから」


譲れない。

震えそうになる声を押さえ込んだ。


短い沈黙。

壁の時計の針の音が、やけに大きく聞こえて、耳に刺さる。


恒一さんは、視線をテーブルの上に落とした。

さっきまで握っていた上着をゆっくりと置く。


この人が黙るときは、たいてい何かをちゃんと考えているときだ。

周りの人にどう影響するかを。


恒一さんは「……携帯」小さくつぶやいて、ポケットからスマホを取り出した。


「早く連絡してください」


「言われなくてもするよ」


画面に表示された「神田亮」という名前に、私は心の中でそっと手を合わせた。


コールが数回。


―おはようございます。神田です


「朝倉だ」


静かなダイニングに電話越しの声が漏れ聞こえる。


―主任。……なんか、声おかしいですよ


さすが、神田さん。

心の中で全力で頷く。

私は、テーブルの下でこぶしを握る。


「うるさいな」


いつも通りの返し方。

その声にも、かすかな咳が混じる。


―熱は?


神田さんに熱はあるのかと聞かれて「37.6度」と答える、恒一さん。


―それ、普通に発熱ですね。来なくていいですよ


「今日、人が足りないだろ」


―だからって、倒れそうな主任に来られても困ります

―こっちはこっちで何とかしますから


心の中で、大きく拍手する、私。


―奥さん、横にいます?


唐突な一言に、私はビクッとする。

恒一さんの横顔が、ゆっくりこちらを向いた。


「ああ、今日は、休みだからいるけど」


私と目が合う。

目をそらしたくなくて、私はそのまま見つめ返した。


―ですよね。じゃあ、なおさら休んで看病してもらってください


看病。


「お前な……」


―とりあえず、ゆっくり休んでください。

―現場は回しますんで


心の中で、「ありがとうございます」と、何度も頭を下げる。




恒一さんは、ソファの背もたれにもたれかかるみたいに、椅子にぐったり座りこむ。


「……休めってさ」


「はい。ちゃんと聞いてました」


私は、テーブルの下で、こっそりと小さくガッツポーズをする。

顔には出さない。

出したら、たぶんすぐバレる。


「不本意だ」


むすっとした声。

でも、さっきより少しだけ肩の力が抜けている。


「とりあえず、寝てください」


「寝るほどじゃない」


その頑固さが、この人らしくて、愛おしい。


「寝てください」


視線を合わせたまま、逃げ道を塞ぐように笑って見せる。


「せっかくお休みもらえたんだから」

「ちゃんと治して、明日からまた頑張ってもらわないと困ります」


恒一さんは、観念したみたいに長く息を吐いてから、ゆっくり立ち上がる。


「……ちょっとだけ寝る」


「はい。ちょっと長めに寝てください」


今日は1日、この人をちゃんと守る日。


私は、自分でそう決めた。



3


静かな寝室のカーテンを半分だけ閉めた。

スポーツドリンク、体温計、薬、冷たいタオル。

ベッドサイドを見て、私は小さく頷いた。


「そんなに要らない」


布団の中から、低い声がする。


「要ります」


きっぱり言い返す。


「ひよ」


「はい」


「本当にそこまでしなくていい」


「さっきも聞きました。何回言われてもします」


そう言って、タオルをそっと額に乗せる。

冷たさに、彼のまぶたがわずかに震えた。


改めて、体温を測ると38度を超えていた。


少ししてから、ぽつりとこぼれる。


「そんなに近くにいたら、うつる」


真面目な声で言われて、ちょっと笑いそうになる。

私は、そのままベッドの端に腰を下ろした。


「大丈夫ですよ」


「大丈夫じゃない。夫婦でもうつる」


「そこは現実的なんですね」


「うつるなら、もう、うつってますよ。夜中のうちに」

「夫婦ですから」


思わず笑いながら言うと、彼は布団をぐいっと引き上げて、鼻のあたりまで隠した。

まるで、防御壁みたいに。


「……これで、距離を取った」


「そんな布団1枚で、防げます?」


「防げる」


即答する彼が、なんだかかわいくて、胸の中の何かを掴まれた気分だった。


「じゃあ、その距離を保ったまま、水はちゃんと飲んでください」


グラスを手渡すと、布団の中から片手だけ出てくる。

指先が少し熱くて、受け取るときにほんの一瞬、私の指と触れた。


うつるの風邪だけじゃない気がする。


「……ひよまで寝込んだら困る」


「その時は、その時ですから」



見つめすぎていたのか、ふいに目が合った。


「……そんなに見るな」


「心配だから」

「近くにいるほうが、安心します」


彼を安心させたいと言えばいいのに、口から出てきたのは自分の気持ちだった。


「……俺が安心しない」

「そんな近くで、ずっと見てられると」


そこで言葉が切れて、彼はもう少し布団を引き上げた。

鼻の上まで隠れて、その目がさっきより赤い。


「落ち着かない」


「じゃあ、ちょっとだけ離れて、ちゃんと見てます」


「結局見てるのか」


「私の旦那さんが、風邪で寝込んでるのに」


自分で言っておいて、少し恥ずかしくなった。


「……“俺の”じゃなくて?」


「あなたのだけじゃなくて、私の」

「こういうときくらい、そう思わせて?」


彼の喉がごくりと鳴った。


「熱あるときに、そういうこと言うな」

「うなされる」



「……ひよ」


「はい」


「ちょっと、静かにしてろ」


「うるさかった?」


「うるさい」


間髪入れずに返されて、思わず笑った。


でも、そのあと、少し間を置いてから、ぽつりと続きが落ちた。


「……でも、どっか行くな」


「行きません」


即答すると、彼はようやく、少しだけ安心したようにまぶたを閉じた。


「ここにいます。ちゃんと見てますから」


さっきと同じ言葉を、今度はそっとした声で繰り返した。


今日1日は、この人のそばで、好きなだけ「私の旦那さん」だと思っていよう。


風邪はうつるかもしれない。

それでも、そばにいたいと思う気持ちは、もう止められなかった。



4


洗ったお米に、水を多めに、弱火でゆっくり火にかける。

湯気と一緒に、柔らかいにおいが立ちのぼる。


塩をひとつまみ。

迷って、もうひとつまみ。


「濃すぎませんように……」


一応味見をして、大丈夫。たぶん。


浅漬けをほんの少しと、スポーツドリンクをトレイに乗せて、寝室へ入る。



「起きられそうですか?」


そっと声をかけると、恒一さんはゆっくりとまぶたを上げて、枕に寄りかかるようにして体を起こした。


「おかゆ、どうですか?」

「食べられそうですか?」


「食欲ない」


即答。


胸が少し沈んだ。

けれど、そのあとに続いた。


「少しなら」


その少しで十分だった。


「じゃあ、少しだけでも」


トレイごと、そうっと、渡した。


彼はゆっくりと一口すくって、息を吹きかけてから口へ運んだ。


「……味、大丈夫ですか?」


「ちょうどいい」


短い言葉なのにほっとする。


器の半分くらい食べたところで、ふっと手が止まる。


「これくらいでいい」


「はい。無理しなくていいです」


トレイを受け取り、ベッドサイドにいったん置いた。

振り返ると、もうまぶたが重そうだった。


「眠い?」


「うん……」


その一言が、いつもよりずっと無防備で、頼りない。


「おやすみなさい」


冷たくしたタオルを額に乗せると、彼は何も言わずに目を閉じた。


呼吸がゆっくりと深くなっていく。


いつもは、まっすぐ立って、強く頼れる背中を見せてくれる人が。


そんな人でも、体調を崩すときもある。

当たり前のことなのに、目の前で見ると、少し怖くて、それでもひどく愛おしい。


ベッドの脇に、浅く腰かけてしばらく寝顔を眺めていた。


休日が、こうやって終わっていくのも悪くない。

そう思いながら、私は寝室のドアをそっと閉めた。



***



目を開けると、部屋は夕方の色になっていた。


カーテン越しの光がオレンジ色で、外の音もどこかやわらかい。


熱っぽさは、だいぶ薄くなっている。

喉も、朝ほど重くない。


上体を起こそうとしたところで、ドアが開いた。


「起きました?」


ひよりが顔をのぞかせる。


「少し楽になった」


そう答えると、彼女はほっとした顔で笑った。


「熱、あとで測りましょうね」

「でも、まだ今日は動かないでくださいね」


「今日、休みだったのに」


「休みでしたよ」


あっさり認められて、胸の奥がざわつく。


「悪かった」


結局、その一言しか出てこない。


「なにが?」


「せっかくの休日、俺の看病でつぶして」


「つぶれてないです」


きっぱり。


「私、今日一日、あなたのそばにいられて幸せだった側なので」


真正面から言われて、言葉が喉につかえる。


「役得でしたよ?」


「役得」


「いつも、強そうなあなたが、弱いところも見せてくれた日ですから」

「こんな休日も、たまにはいいなって」


ひよりは、ベッドサイドのグラスやペットボトルを整えながら続ける。


「予定とか全部置いといて“恒一さんの1日”だけ見てられる日ってないもの」


休みをつぶしたと思っていたのは、どうやら俺だけだったらしい。


「今日はもう私に任せて、ゆっくり休んでください」


「任せてばかりだ」


「じゃあ、次にふたりで元気な休日は、どこか連れて行ってください」


顔を上げると、まっすぐな目がこっちを見ていた。


「車に乗って海とか、山とか。どこでも」


その光景が、ぼんやり頭に浮かぶ。


「……考えとく」


「はい。約束ね?」


そんなに、可愛く笑ったら「約束だ」としか言えない。


今日は、彼女に任せて、もう少し休もう。


次にふたりで休めるときには、布団の中じゃなく、どこか遠くへ連れて行こう。


そんなことを考えながら、もう一度枕に頭を預けた。



エピローグ



その日の夜、リビングの明かりを消して、私は寝室のドアをそっと開けた。

しばらくしてから、かすかにシーツのこすれる音がした。

私は、ベッドのそばまで、歩み寄った。


「ひよ、また近づくな。うつる」


「また言う?もう熱も下がってるのに」


わざと拗ねた声を出すと、薄暗がりの向こうで、彼が小さく息を吐いた。


「心配かけた」


「心配するのは、私の仕事」


「仕事、ね」


「そうです。私、あなたの妻ですから」


最後の一言は、ベッドの縁に手を置きながら、胸を張って言った。


彼は困ったように、でもどこか安心したように目を細めて、枕もとの方に手を伸ばしてくる。


私は、その手に指先だけそっと触れさせた。


「……そうか」


いつもの短い返事。

けれど、その指先が、私の指をほんの少しだけ握り返した。


「明日は、もう大丈夫だ」


「今日は、大丈夫じゃなかったです」


「……そうだな」


ようやく認めたその声が、少しだけ悔しそうで、優しかった。


大丈夫じゃない日も、ある。

そんな日は、ちゃんと休んで、ちゃんと誰かに心配されればいい。


それが夫婦なら、なおさら。


私は彼の指先を握り返して、静かな寝室の中で、もう一度だけ思った。


この人は、私の夫なのだ。




ひより日和 新婚編 第2話 「大丈夫じゃない」 おわり



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