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第1話 「牛乳事件」

1


結婚して、名字が変わった。


高阪ひよりは、朝倉ひよりになった。

役所に婚姻届を出して、職場では何度も「朝倉さん」と呼ばれて、そのたびに少しずつ慣れていった。


左手の指輪も、最初の頃は気になって仕方がなかった。

お客様に館内を案内する時も、書類にサインをするときも、ふと視界に入るたびに胸がくすぐったくなった。


そういう、いかにも新婚らしい日々が続くのだと思っていた。


けれど、現実の新婚生活は、たぶん、もう少し生活感がある。




例えば、夜中の牛乳とか。


「……ん?」


夜中にふっと目が覚めた。

隣にいるはずの人がいない。


暗い部屋を抜けていくと、ダイニングキッチンの方から、かすかな物音がする。


冷蔵庫のドアが開いて、庫内のランプだけが、ぼうっと灯った。


「……え」


恒一さんが、無言で牛乳パックを取り出す。

そのまま、口をつけて、ごくごくと飲んだ。

飲み終わると、何事もなかったみたいに、また冷蔵庫に戻す。


「……今、なにしました?」


振り向いた彼が、きょとんとした顔をする。


「牛乳飲んだ」


「どうやって?」


一拍あいて。



「……普通に」


「普通じゃないです」


まだ、眠気の残っていた頭が、一気に覚めた。

私は、ダイニングチェアの背を持って、できるだけ落ち着いた声を出そうとした。


「コップで飲んでください」


「少しだけだった」


「量の問題じゃないです」


「コップ洗うの、面倒だった」


「洗わなくていいから!」


思わず声が大きくなった。


恒一さんは、動かない。


「いや、使ったら洗うだろ」


「だから、洗わなくていいって言ってるんです」


「それは、それで気になる」


「じゃあ、コップで飲んで、洗ってください!」


自分で言っていて、何を言い合っているんだろうと思った。

結婚して、まだそんなに経っていない。

もっと、甘い会話をしてもよさそうなものなのに。


夜中、暗いダイニングで、私は夫に、牛乳はコップで飲めと説教している。


「次からそうする」


「絶対ですよ」


暗いキッチンで、牛乳パック1本をめぐる攻防が、いったんは終結した。



2


翌日の早番。


12時ちょうどに休憩に出て、私は社員食堂の日替わり定食を受け取る。

トレーを持ち上げてあたりを見回すと、隅の方の四人掛けに、見慣れた後ろ姿があった。


恵美とその向かいに神田さん。

恵美は、今日遅番だから、ご飯を食べてから出勤なのだろう。


ふたりとも、もう食べ始めている。


「一緒にいい?」


声をかけると、恵美が顔を上げて、ニヤッと笑った。


「どうぞ、奥様」


「もう、やめてよー」


苦笑しながら、恵美の横に腰を下ろす。


向かいの神田さんは、相変わらず軽い調子で会釈してくれた。


お茶を一口飲んだところで、恵美がじっと私の顔をのぞき込む。


「なに、その顔」


「また、顔?!」


「なんか、言いたいことあるって顔」


ゆうべのことを思い出して、箸が止まる。


「なになに」


「ゆうべさぁ…恒一さんが、夜中に牛乳、直飲みしてたし」


そこまで言った瞬間、向かいから「ぶっ」と音がした。

神田さんが、お味噌汁で盛大にむせていた。


「大丈夫ですか?」


あわてて、ペーパーを差し出すと、神田さんは咳き込みながらも、何とか受け取る。


「しゅ、主任が……ですか?」


「ええ!神田さん、どう思います?」


思わず、同意を求めてしまう。


ここは、味方が欲しい。


神田さんは、箸を持ったまま、少しだけ視線を落として考え込んだ。


「……気持ちは、わかります」


「わかるんですか?!」


思わず、声が裏返る。

隣で恵美も、ピクリと眉を上げた。


「俺も、怒られたことあります」


「あるんですか?!」


「……亮」


「むっ…昔の話です」


「つい最近でしょ!」


恵美が即座に切り捨てる。


「牛乳じゃなくて麦茶。前の日に一緒に買った、2リットルの大きいやつ」


「朝起きたら、半分になってたのに、シンクにコップがなかった」


状況説明が妙にリアルだ。


「コップまで確認するんだ…」


私が、ひきつった笑いを浮かべると、恵美はふんと鼻を鳴らした。


神田さんが、小さく肩を落として言った。


「現場検証が厳しいんですよ」

「バレますよね、そりゃ」


私はお味噌汁の椀を持ち直して、こくこくと頷いた。

たぶん、私も今夜から、シンクのコップを確認してしまう。


「主任に伝えてください」


神田さんが、どこか遠い目をして言った。


「直飲みは、コップが出ていない時点でバレます」


「伝えておきます」


社員食堂のざわめきの中で、私たちのテーブルだけ、妙な連帯感で盛り上がっていた。



3


その日は、早番だったので恒一さんと一緒に明るいうちに帰ってきた。

夕ご飯を食べ終えて、一息ついてリビングでお茶を飲む。


「そういえば、今日、神田さんに言いました」


「……なにを?」


「牛乳のこと」


マグカップを持ったまま、恒一さんが、ほんの少し黙る。


「神田さんも、怒られたことあるそうです」


「なんで、あいつが経験者なんだ」


低いぼやき方が、妙におかしい。


「それで、神田さんからの伝言です」


「伝言?」


「『直飲みは、コップが出ていない時点でバレます』って」


彼は、また黙る。


「……なるほど」


「納得しないでください」


「盲点だった」


「盲点じゃないです」


「でも、少しだけだった」


「量の問題じゃないです」


「コップ洗うのが、面倒だった」


「だから、洗わなくていいって言ってるんです」


「それは気になる」


話が、きれいに昨夜と同じところに戻って行く。


私は、観念したようにため息をついた。


「……じゃあ、牛乳用のコップをここに置いときますから」


立ち上がって、食器棚から透明のコップをひとつ取り出した。

そして、シンク横の小さなスペースにコトリと置いた。


「専用か」


「専用です」


「そこまですることか」


「します」


「ここなら、洗って戻すだけです」



振り向くと、恒一さんが何とも言えない顔でこちらを見ていた。


牛乳ひとつで、こんなに真剣に対策会議をする新婚夫婦ってどうなんだろうと、自分で思って、少し笑ってしまった。



「これで、解決です」


「……たぶん」


「たぶんじゃないです」


そう言うと、恒一さんは短く笑って、空になったマグカップを持って立ち上がった。


「風呂入ってくる」


「はい」



牛乳問題は、いったん解決した。


そう思った。





20分ほどして、浴室のドアが開く音がした。


私は、ダイニングキッチンで翌朝のお米をセットしていた。

背後で冷蔵庫のドアが開く音がする。

振り返った私は、思わず固まった。


恒一さんが、トランクス1枚で冷蔵庫の中を覗いていた。


しかも、さっき置いたばかりの牛乳用のコップを、ちゃんと持っている。



4


問題は、牛乳ではなかった。



恒一さんは、ちゃんとさっき置いたばかりの牛乳用コップを手に持っている。

つまり、牛乳問題に関しては、こちらの要望を聞いてくれている。

聞いてくれているのだけれど。


「……恒一さん」


「ん」


冷蔵庫の中を覗いたまま、彼は短く返事をした。


「なんか着てください」


「暑い」


即答だった。



たしかに、風呂上がりなのはわかる。

髪はまだ少し濡れていて、首筋には水滴が残っている。

でも、それとこれとは別だ。


「暑いじゃなくて」


「家だろ」


「家ですけど」


「誰もいない」


「私がいます」


そう言うと、恒一さんはようやく冷蔵庫から視線を外して、こちらを見た。


手には牛乳用コップ。

足元は素足。

そして、トランクス一枚。


新婚生活というものは、もう少しこう、甘いものだと思っていた。


指輪を見て照れたり、名字が変わったことに胸をくすぐられたり、そういう穏やかな時間が続くものだと思っていた。


けれど現実は、夜のダイニングキッチンで、夫に服を着るよう説得している。


「お前はいいだろ」


「よくないです」


「なんで」


「なんでって……」


言いかけて、言葉に詰まる。



嫌なのかと聞かれたら、嫌というわけではない。


ただ、急に視界に入ると、心臓に悪い。

しかも本人があまりにも平然としているから、こちらだけが慌てているみたいで、余計に恥ずかしい。


「とにかく、何か着てください」


「牛乳はコップで飲んでる」


「そこは合ってます」


「なら問題ないだろ」


「服の問題が発生しています」


恒一さんは、私の言葉を少し考えるように黙った。


そして、手に持っていたコップをちらりと見る。


「これは使う」


「はい。使ってください」


「洗って戻す」


「それは好きにしてください」


「服は」


「着てください」


「暑い」


「薄いのでいいです」


「面倒だな」


「結婚生活です」


自分で言って、少し笑いそうになった。




牛乳をコップで飲むこと。

風呂上がりに服を着ること。


そんなことを真剣に言い合うのが結婚生活だなんて、少し前の私なら想像もしなかった。


恒一さんは、まだ何か言いたそうにしていたけれど、結局小さく息を吐いた。


「……わかった」


そう言うと、コップを持ったまま一度寝室の方へ戻っていく。


私はその背中を見送って、ようやく息を吐いた。




別に、怒っているわけではない。

たぶん、驚いたのだ。

今まで見えていなかった生活の細かいところが、結婚した途端に次々と見えるようになっていく。



牛乳の飲み方。

コップを洗うかどうか。

風呂上がりに何を着るか。

どれも小さなことなのに、一緒に暮らすとなると、急に無視できないことになる。



しばらくして、恒一さんが戻ってきた。

今度は黒いTシャツを着ている。

髪はまだ濡れたままで、さっきより少しだけ不満そうな顔をしていた。


「これでいいか」


「はい」


「暑い」


「ありがとうございます」


「礼を言うことか」


「言います」


恒一さんは、納得していない顔のまま冷蔵庫を開けた。



今度は、牛乳パックを取り出して、ちゃんとコップに注ぐ。


その一連の動作を、私は黙って見守った。


牛乳が白くコップに満ちていく。


彼はそれを一息に飲み干すと、空になったコップを持ってシンクへ向かった。


「置いといていいですよ」


「洗う」


「明日の朝でもいいです」


「気になる」


やっぱり、そこは変わらないらしい。



水の音がして、恒一さんが丁寧にコップを洗う。

牛乳を直飲みする人なのに、使ったコップを放置するのは嫌なのだ。

その基準がよくわからなくて、私は思わず笑ってしまった。


「なに」


「いえ」


「笑ってるだろ」


「ちょっとだけ」


「牛乳でここまで言われるとは思わなかった」


「私も、結婚して最初の生活ルールが牛乳になるとは思いませんでした」


「最初か」


「最初です」


「他にもあるのか」


「今、増えました」


「服か」


「はい」


恒一さんは、洗ったコップを水切りに伏せて、少しだけ考えるようにした。


「牛乳はコップで」


「はい」


「風呂上がりは、何か着る」


「はい」


「……細かいな」


「そういうものです」


「そうか」


その短い返事が、なぜかおかしかった。



文句を言いながらも、結局ちゃんと聞いてくれる。

不満そうな顔をしながら、Tシャツを着て戻ってくる。

そういうところが、この人らしい。


私は炊飯器の予約を確認して、キッチンの明かりを落とした。



リビングへ戻る途中、シンク横に置かれた透明のコップが目に入る。

さっきまでは、ただのコップだった。

でも今は、我が家の新しい決まりごとの証拠みたいに見えた。



結婚して、名字が変わった。

左手には指輪があって、職場では少しずつ朝倉ひよりに慣れてきた。

でも、家の中で夫婦になっていくというのは、たぶん、こういうことなのだ。




牛乳はコップで飲む。

風呂上がりは何か着る。

使ったコップを洗うかどうかで、また少し言い合う。

そんな小さなことを、ひとつずつ増やしていく。


「ひよ」


先にリビングへ行った恒一さんが、こちらを振り返った。


「寝るぞ」


「はい」


返事をして、私はもう一度だけシンク横のコップを見た。



朝倉ひよりになってから、最初に増えた夫婦の決まりごとは、牛乳用のコップと、風呂上がりのTシャツだった。






エピローグ




翌朝。


警備室の奥にあるロッカールームに入ると、神田がいた。


ロッカーを開けてワイシャツに袖を通しながら、昨夜、冷蔵庫の横に置かれた小さなコップを思い出す。


牛乳ひとつに、あそこまで真剣に対策を考えられるとは思っていなかった。


「主任、昨日の牛乳の件、どうなりました?」


隣のロッカーで制服に着替えていた神田が、思い出したように声をかけてきた。


「専用コップができた」


上着に袖を通しながら答えると、神田が手を止める。


「進展してるじゃないですか」


鏡越しに、やれやれと肩をすくめる自分が映る。


「服の件も増えた」


「……何やったんですか」


ボタンを留める手が、少し鈍る。


言うべきか迷って、結局、事実だけを口にした。


「風呂上がりに、牛乳を飲んだ」


「……服は?」


「着てなかった」


短い沈黙。

ロッカールームの換気扇の音だけが、やけに大きく聞こえる。




「それは、主任が悪いです」


「そうか」


ロッカーの扉を閉める金属音が響いた後、神田が言った。


「……まぁ、専用コップで済んでよかったですね」


昨夜、真剣な顔でコップの置き場所を決めていたひよりの姿が、思い出される。


牛乳1本で、こんなに怒って、心配して、段取りまで組んでくる俺の嫁さんは、本当に可愛いと思う。


「……そうだな」


襟を軽く整えて、ロッカールームを出る。


開店前の忙しない廊下の空気が、まとわりついた。



今日、帰ったら、コップで飲む。

服も、着る。


それだけのことなのに、なぜか帰るのが楽しみだった。








ひより日和 新婚編 第1話 「牛乳事件」 おわり



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