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第10話 「朝倉さん」

1


世間の夏休みが終わって、大蔵屋百貨店も少し落ち着きを取り戻しているが、今日は日曜日だ。

季節を問わず、日曜日は忙しいことこの上ない。

気温だけは下がらず、まだまだ暑いからか、涼みに来られるだけの方も大勢いる。


大蔵屋も地下一階、地上一階、立体駐車場からの連絡通路等々には、秋の催事ポスターが並ぶ。

9月最初の催事は『敬老の日ギフトフェア』がもう始まっている。


開店から三十分。

フロアのざわめきもまだ落ち着かない時間、カウンターの電話機が軽い着信音を鳴らした。

受話器を取る。


「大蔵屋百貨店、総合インフォメーションの朝倉でございます」


少し慌てたような男性の声が耳に届く。


「あの、そちらの駐車場を使っている者なんですが、車のキーが見当たらなくて……」


メモに「車 キー 立体 南側P」と走り書きする。



隣では、活舌のよい恵美の声が聞こえている。


「九階催事場でございますね」

「本日は混雑が予想されますので、中央エレベーターより南側エスカレーターが比較的、空いていると思われます」


私は、電話対応が終わるとすぐに、顔を上げて次のお客様の対応に追われる。


赤ちゃんを抱いた若いご夫妻がカウンターに近づいてきた。


「すみません、ベビーカーって借りられます?」


私は、ふたりに向き直る。


「はい。ベビーカーのお貸し出してございますね。ありがとうございます」

「館内でご利用いただけるものをご用意しております」


そして、赤ちゃんの様子をそっと見ながら続ける。


「承りました。生後四か月から四十八か月のお子様用で、館内のみのご利用となります」


次から次へとお客様はやってきて、次から次へと質問と要望が飛んでくる。



そこへ、ひとりの男性が私に声をかけてきた。

五十歳には見えないが、四十代半ばよりは上に見える。


「すみません。昨日電話で、9階の催事場の案内表示の件で対応してくださった朝倉さんは、いらっしゃいますか?」


一瞬、言葉が詰まりそうになったが、すぐに気を取り直す。


「はい。朝倉でございます」


男性は、なんだか嬉しそうににこやかだ。


「ああ、あなたが朝倉さん」

「昨日、お伺いした件なんですがね。会計の列が伸びたときの、あれはなんていうのかな」

「ああいうのは、どなたが準備してくれるんですかね?」


「ベルトパーテーションでございますね」

「確認いたしますので、少々お待ちください」


確認して、お伝えしているうちに、十一時を少し回っていた。

向こうのほうに、恒一さんと神田さんの姿が見えた。

巡回だ。


「朝倉さんに聞くと早いですね」

「助かります」


男性は、うんうんと頷いている。


「恐れ入ります」


恒一さんと神田さんは、催事の出店業者の男性の後ろを通りかかろうとしていた。


私は顔を上げて、恒一さんと目を合わせたその時に、また男性が言葉を発した。


「朝倉さん、もう一点だけよろしいですか?」


「はい。承ります」


朝倉さんと呼ばれて、恒一さんが少し反応しているのがわかった。


神田さんが、小声で何か言っている。


「主任、呼ばれてます」


「俺じゃない」


「ですよね」



催事の出店業者の男性は、まだ話し足りないようだった。


「朝倉さん、催事期間中、また確認させていただくと思います」

「よろしくお願いします」


「承知いたしました」


そう答えると、数メートル離れたところで、恒一さんの肩がぴくっと揺れた。

神田さんも、遠巻きにこちらを見ている。


「主任」


神田さんの声が、低く聞こえる。


「今のも、たぶん違います」


「わかってる。ちょっと黙ってろ」


そう言った恒一さんの声は、いつも通りだった。


けれど、神田さんだけは、少し笑っていた。



2


一階の巡回を、一通り終えた。


今日は、日曜日で混雑が激しい。


インフォメーションで状況確認しようと立ち寄ったが、ひよりは催事場出店業者の男からの対応に追われていた。

状況確認は、神田に任せてその場から、移動しようと思ったところで、インカムで呼ばれる。


〈九階催事場から警備主任へ。会場内、会計の列が伸びてきています。〉

〈人の流れの確認と列の整理、お願いします〉


「神田!」

「九階だ」


インフォメーションで、前田さんに状況確認をしていた神田が振り返り「了解」と答えた。




九階に上がった途端、空気の密度が一段違うのがわかった。


呼び込みの声、包装待ちの列、配送伝票を書き込む客、試食を勧める声。

それぞれが、勝手な動きをしているため、その狭間に人の流れが詰まり始めている。


一列だけ妙な方向に伸びていて、その先頭がエスカレーター前を塞ぎかけていた。

さっき一階で何度もひよりに動線を聞いていた業者の男が、現場を何とかしようとベルトパーテーションを動かしかけているが、この階全体の流れまでは見えていない。


全体を一度だけ見渡し、必要な手順を頭の中で並べ替える。


「最後尾札、壁側へ移してください」


声をかけると、業者の男がはっとしてこちらを見る。


「会計列は、柱の内側で折り返します。エスカレーター前は空けてください」


ベルトパーテーションの位置を手で示しながら続ける。


「こちら側は通路にします。商品台は少し下げられますか」


担当者が「はい」と返事をして平台を押し戻すと、細いながらも一本、人が抜けられる筋が見えてくる。

雑踏のうねりが、ほんの少しだけ素直な流れに変わった。


指示を出し終えるより早く、横にいた神田が一歩前へ出た。


「最後尾、こちらです。お並びのお客様、少し壁側へお願いいたします」


低めの通る声で繰り返しながら、ベルトパーテーションを壁寄りに引いていく。

客が素直に体の向きを変え、詰まっていた人の塊がじわりと崩れていくのが見えた。


さっきから落ち着かない様子で周りを見回していた業者の男性も、こちらの意図をつかんだらしい。

ひよりに何度も導線を聞いていた、あの顔だ。


「こちらのスタッフを一人、列整理に回します」


そう言って、自分の売り場の若いスタッフを呼び寄せる。

声の掛け方も、客との間合いも悪くない。

少し押しが強いところはあるが、現場で手を止めない人間だ。


「では、こちら側の通路はお任せします」


そう告げると、短く「はい」と返事をした。

雑然としていた九階が、ようやく売場の顔に戻り始める。


しばらくの間、人の流れを確認して、エスカレーター付近で見ていた。


すると、さっきの催事出店業者の男が近付いてきた。


「助かりました。やっぱり百貨店の方は違いますね」


「警備です」


そう返すと、男は一瞬きょとんとしてから、慌てて表情を直した。


「ああ、失礼しました。警備の方でしたか」


「通路と安全の確認はこちらで見ています」


最低限だけ付け足すと、男はちらりと周囲の列と通路を見回し、何か納得したようにうなずいた。

この人も、このフロアをきちんと回そうとしている。

同じ方向を見ている相手だと、ようやく認識してくれたらしい。


その男が一階で何度も呼んでいた「朝倉さん」と、俺を結びつけている様子はなかった。


神田が、上りエスカレータのほうからこちらに来て言った。


「主任、こちら終わりました」


「わかった」


神田が、少しだけ笑いを含んだ声でこちらを見る。


「今日は、朝倉さんが大活躍ですね」


「仕事しろ」


「してます」


その軽さに、わずかに肩の力が抜けた。



3


九階催事場の混雑対応が一段落したころ、インフォメーションの内線が鳴った。

受話器を置いた恵美が、私ともう一人のスタッフに向き直る。


「九階催事場、現在混雑しております。敬老の日ギフトフェアへお越しのお客様には、南側エスカレーターをご案内ください、だって」


私たちも、案内の言い方を少し変える。


「九階敬老の日ギフトフェアへお越しのお客様は、南側エスカレーターをご利用くださいませ」


そう案内を統一していると、恵美が小さくため息まじりにつぶやいた。


「九階、だいぶ混んでるみたいね」


「日曜日だもんね」


南側エスカレーターへの案内を意識しながらお客様を見送っていると、見覚えのあるスーツ姿がカウンターに近づいてきた。


「朝倉さん、先ほどはありがとうございました。九階、だいぶ落ち着きました」


さっき、私にに何度も導線を聞いていた業者さんだ。

私はカウンター越しに軽く会釈する。


「警備の方で対応したと聞いております」


そう答えると、男性は少し首を振った。


「いや、朝倉さんが案内を整理してくださったおかげでもあります。一階で案内を変えてもらうだけで、上の流れが違いますね」


業者さんの言葉に、思わず返事に詰まる。

仕事を褒められるのはうれしいけれど、カウンターの内側では、あまり個人的に受け取りたくない。


「恐れ入ります。館内で共有して対応しておりますので」


できるだけやわらかく、一歩だけ下がる言い方を選ぶ。

私だけの手柄じゃない、とちゃんと伝えたかった。


それでも業者さんは、さらりと続けてきた。


「朝倉さんは、どちらの部署でも通用しそうですね」


業者さんは、ひと呼吸おいてから、少し意味ありげな口調になった。


「催事が終わる前に、一度、改めてお話しできればと思っています」


その言い方に、胸の奥がかすかにざわつく。

けれど、ここはカウンターの内側だ。

私はいつもの仕事用の笑顔を崩さない。


「催事に関するご相談でしたら、いつでも承ります」


できるだけ波風を立てない言い回しで、そっと線を引く。

業者さんは、ふっと口元だけで笑った。


「ええ、そうですね。催事に関することも含めて」


含みを持たせた一言に、どこまで本気なのか測りかねて、思わず伝票用のボールペンを握り直す。

私の苗字の「朝倉」の先に、九階の警備主任の顔がよぎったことは、もちろん口には出さない。



4


催事場の混雑対応を終えて一階に戻ると、インフォの前に、また彼の姿があった。

ひよりの前に立ち、当然のようにその名前を呼んでいる。


俺が、近くを通るとちらりと業者の男と目が合った。

足を止めたくなる衝動を、主任としての理性で押しとどめる。


催事期間中なら、インフォとのやり取りが多くなるのは当たり前だ。

用件があるのも分かっている。


それでも、同じ業者が何度も、あんなふうにひよりの名前を口にするのは、耳のどこかに小さく引っかかる。


耳に飛び込んできたのは、あからさまな称賛の言葉だった。


「本当に助かっています」

「うちにもこういう対応のできる方がいてくだされば――」


業者としての社交辞令だと頭では分かる。

それでも、彼がひよりを褒めるたび、胸のどこかが小さくささくれる。


名刺入れに手をかける仕草で、空気の色が変わるのを感じた。


「もし今後、百貨店以外のお仕事にご興味があれば」


一語一句、はっきり聞こえる距離だ。


だが、今は勤務中で、ここは俺の持ち場でもある。

主任として線を越えるわけにはいかない。


カウンターを凝視したくなる視線を辛うじて押し留めて、カウンター越しのひよりがどう返すのかを、ただ静かに見極めようとしていた。


主任として。


夫としての感情は、その少し後ろに押しやったまま。


その前で、ひよりはごく自然に線を引いた。


「大変ありがたいお話ですが、勤務中ですので、個人的に名刺をお預かりすることはできません」


声はいつも通り柔らかい。


「お仕事に関するご相談でしたら、当館を通してお願いいたします」


必要な言葉だけを、きちんと置いていく。

相手を立てながら、越えてはいけない一線は踏ませない。


ああ、これが、ひよりの仕事なんだな。


胸の中で、静かにそう呟く。

俺の知らないところで積み上げてきた接客の矜持そのものだ。


夫としては何も口を挟まない。

ただ、インフォのカウンター越しに、その小さな背中を、少し誇らしく見守るだけだった。



業者は、名刺入れからそっと手を離した。


「これは失礼しました。つい、仕事柄、良い方を見ると声をかけたくなりまして」


ひよりは、少しだけまぶたを伏せてから、いつもの声で答える。


「ありがとうございます」


それで会話は、きれいに終わった。


名刺は渡らない。

ひよりの前にあった境界線も、乱れない。


そして彼はその場を離れた。




その少し後、俺も別件で九階に向かうことになった。

導線確認を兼ねて歩いていると、エレベーター前でちょうど彼と鉢合わせる。


「先ほどは失礼しました。九階も少し落ち着きました」


業者が軽く笑いかけ、俺も主任の顔で短く返す。


「催事、好評ですね」


「先ほどは、インフォメーションの朝倉さんにも失礼なことをしてしまいまして」


開口一番、業者からそんな言葉が出る。


「でも、本当に助かっています。ああいう方がいてくださると、現場としてはありがたい」


俺は、ごく普通の調子で返した。


「妻が」


一瞬、相手の足が止まる。


「……奥様、ですか」


「はい」


短くうなずくと、業者は目を丸くした。


「え、あのインフォメーションの朝倉さんが、朝倉主任の奥様でいらっしゃるんですか」


九階のざわめきの中、その驚きだけが、やけにくっきりと耳に残った。

俺はただ、少しだけ口元を引き締めて見せる。

それ以上は、何も足さないまま。


業者は、額にうっすら汗をにじませながら頭を下げた。


「いや、失礼しました」

「それでは、主任からも奥様にご検討いただけるよう、お口添えを……」


仕事熱心なのは分かる。

ひよりを評価してくれているのも伝わる。

だからこそ、ここで曖昧にはしない。


「妻の意思ですので」


一拍置いて、はっきりと言う。

声の調子はあくまで普通に。

けれど、そこから先は動かないという線だけは、崩さない。


業者もすぐに察したように、肩の力を抜いて笑った。


「ですよね。失礼しました」


それで、この話は終わりだ。

九階のざわめきが、またいつもの仕事の音に戻っていく。


九階、南エレベーター横で、動線整理をしていた神田が近寄ってきた。


神田が横で、まだ少し笑っている。


「何だ」


「いえ」


「言えよ」


「奥さん、だいぶ評価されてましたね」


それは分かっている。

見ていれば分かる。


分かっているからこそ、少しだけ面白くない。


そう思ったことは、もちろん神田には言わなかった。



エピローグ


夕食を終えて、お茶を飲みながら、私はなんとなくマグカップの縁を指でなぞっていた。

頭の隅には、まだあの業者さんの声が残っている。

でも、わざわざ自分から切り出すほどのことでもない気がして、口は閉じたまま。


「あの業者の人、夕方も来てたな」


先に、恒一さんが言った。


「見てたんですか」


思わず身を乗り出すと、彼はマグカップを持った手を少しだけ上げて、


「何回も呼ばれてたから」


そこで一拍置いて、


「朝倉さん、朝倉さん」


わざと、インフォで聞いたままの調子で繰り返す。


「私です」


ちょっとむくれて言うと、すぐに返ってきた。


「知ってる」


その一言が、胸の奥にぽんと落ちる。


「……少し、気にしてます?」


恐る恐る聞いてみると、彼は視線をそらさずに短く答えた。


「少しな」


その正直さがおかしくて、思わずからかう。


「珍しいですね」


すぐさま、低い声が返ってくる。


「珍しくはない」


お茶の湯気を眺めながら、今日のことを思い出す。

あの業者さんが名刺入れに触れた手。


「もし今後、百貨店以外のお仕事にご興味があれば」という言葉。


ちゃんと断ったけれど、少しだけ胸の奥に引っかかっている。


「スカウトみたいなことを言われました」

「でも、行きませんよ」


「分かってる」


恒一さんは、淡々とした声で返してから、少しだけ間を置いた。


「ただ、向こうがそう思うのは分かる」


「どういう意味ですか」


思わず問い返すと、彼はマグカップを置き、まっすぐにこちらを見る。


「お前の仕事は、見ていれば分かる」


その一言に、顔が一気に熱くなる。


沈黙が落ちる。



私は迷った末に、そっと口を開く。


「朝倉さん」


ふいに呼ばれて、彼が顔を上げる。


「インフォの?」


少しだけ口元が緩んで、


「それとも、警備の?」


「私のです」


自分でも驚くくらい小さな声で続けた。


「私の朝倉さん」


そう言うと、恒一さんは、仕事中には見せない、柔らかい顔でふっと笑った。


その笑顔を見ているだけで、今日のざわつきが、静かに溶けていく気がした。




ひより日和 新婚編 第9話 「朝倉さん」 おわり



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