第11話 「ひとつまみ」
1
紅葉はまだ先だと、今朝ニュースで聞いた。
昼間は、暑いと感じる日もあるけれど、朝晩は寒いと思う。
そんな今日この頃だ。
大蔵屋百貨店では「北海道旨いもの市」が、もう始まっている。
9月の平日は、まだいいほうで、本当に館内が殺気立つのは、クリスマス・お歳暮商戦の頃だろう。
そんな早番の昼休憩は、今日も恵美と一緒だ。
最初は、今使っている化粧品がいいとか悪いとかの話だった。
そこから、朝は忙しいから化粧もゆっくりできないという話になり、朝ごはんの話に移行していく。
最終的に、料理の話がいちばん長くなった。
「亮は、料理上手だよ」
今日の日替わり定食は、豚の生姜焼きに小さな小鉢に切り干し大根が少し。
お味噌汁の蓋を開けて、箸で軽く混ぜた。
「神田さんって、料理するの?」
「するよ。意外?」
「意外といえば、そうなのかな。上手だと言われたら、そう見えるかも」
よく聞いてみると、学生時代は居酒屋でのバイト、中華屋さんでバイト。
そこで、自然と覚えたのだとか。
「うちに来たときは、結構いろいろ作ってくれる」
「中華っぽいのが多いかな」
恵美は、普通に喋っているけれど、お互いの部屋を行き来していることがわかる。
「恵美は?料理しないの?」
恵美はお肉を箸でつまんで、ご飯に乗せる。
「作れないわけじゃないけどさ」
「細かいのが面倒で」
私は、お味噌汁のお椀を置いて、付け合わせのキャベツのサラダに箸を伸ばした。
「その言い方、なんか不安なんだけど」
恵美がこちらを見る。
「分量とか、切る大きさとか、火加減とか」
「なんか、面倒じゃん」
「いや、そこ大事じゃない?」
「食べられればいいでしょ」
口に入っていたご飯を飲み込んでから、お茶を飲む。
「基準が低い」
間髪を入れず、恵美が言った。
「失礼ね」
でも、笑っている。
続けて言った。
「亮の部屋は、狭くてさ」
「キッチンも小さくて、まな板置いたら本当にそれで終わり」
「物理的に無理ってことね」
「そうそう」
前に恒一さんが、カルボナーラに挑戦していた時のことを思い出して少し笑った。
「今、朝倉さんのこと考えてたでしょ」
私は、見抜かれていることを否定するように、慌てて言った。
「考えてない」
「考えた顔してる」
「してないから」
恵美には、いつも顔に書いてあると言われるけれど、絶対に当てずっぽうだと思っている。
「朝倉さん、真面目だから1グラムの誤差も許せないとか言いそう」
「うん。そうかも」
ふたりで、ちょっと笑った。
先日、恒一さんがカルボナーラを作ってくれたことを恵美に話した。
「余熱とか、ひとつまみ、手早く、とかレシピには書いてあるでしょ」
「あいまいな表現が、わかんないみたいで」
恵美は、ごちそうさまと定食のトレイを脇へずらして言った。
「真面目過ぎるんだよ」
恵美は、そう言ってから少し考えるような顔をして続けた。
「亮は、適当でもなんとかするタイプ」
「朝倉さんは、なんとかする前に原因を潰すタイプ」
私は、軽く頷いた。
「でも、また作ってくれたら嬉しいなって思う」
前に座っているのが、恵美だからか本音が漏れた。
恵美は、空になったお茶の紙コップを指でつまんで、軽く揺らした。
「言えば?また作ってって」
「そんな、簡単に言えないよ」
「なんで」
「言ったら、恒一さん、たぶん本気で調べ始めるから」
「いいじゃん」
「嬉しいけど、無理はしてほしくないんだもん」
言ってから、自分で少し恥ずかしくなった。
恵美は、案の定、にやっと笑う。
「出た。新婚」
「違うから」
「違わないでしょ」
否定したかったけれど、完全には否定できなかった。
また作ってくれたら嬉しい。
そう思ったのは、本当だったから。
2
夜中の館内は、昼間と同じ建物とは思えないくらい静かだ。
閉店後の巡回と事務処理を一通り片づけて、やっと一息つける時間。
仮眠前の、この少しだけ気が抜ける感覚には、もう慣れてしまった。
警備室の隅では、神田がカップ麺のフタを半分だけ開けて、ずるずると音を立てている。
テーブルの上には、コンビニのおにぎりの袋も転がっていた。
「ちゃんと飯、食ってるのか」
自分で言いながら、説教くさいなと思う。
「食ってますよ。ほら、炭水化物たっぷり」
神田はおにぎりの袋をひらひらさせて、続けてカップ麺のスープをすすった。
「この前も、それだっただろ」
そう指摘すると、神田は一瞬目をそらして、肩をすくめる。
「まあ……家でちゃんと作るのは、恵美さんち行ったときくらいっすね」
夜勤前の静けさの中で、カップ麺の匂いだけがやけに主張している。
「神田、お前、料理するのか」
何気なく聞いたつもりだったが、神田はあっさりとうなずいた。
「しますよ。たまにですけど」
少し意外で、少しだけ納得もいく。
「前田さんに作るのか」
俺がそう続けると、神田はカップ麺を置いて、肩をすくめた。
「恵美さんの部屋の方がキッチン広いんで」
「お前の部屋は」
「狭いっす。まな板置いたら終わります」
ああ、と喉の奥で相づちを飲み込む。
神田の部屋が、ほとんど寝るためだけの場所だと聞いていたことを思い出す。
この仕事をしていれば、その感覚はよく分かる。
帰って、風呂に入って、倒れるように寝るだけの部屋。
「中華屋と居酒屋でバイトしてたんですよ。学生の頃」
神田が、思い出したように続けた。
「最初は洗い場だったんですけど、人が足りない時に、仕込みとか、炒め物の補助とかやらされて」
「それで覚えたのか」
「ちゃんと習ったっていうより、見て覚えた感じっすね」
そう言う顔は、普段の軽さより少しだけ真面目で、意外とよく見ているやつなんだなと思う。
神田がカップ麺をすすりながら、ふと顔を上げる。
「主任は、学生の時、何のバイトしてたんですか」
視線をモニターから外して、少し考えるふりをする。
実際はもう答えは決まっている。
「引っ越し屋と酒屋」
「力仕事ですね」
苦笑いしながら、肩をすくめる。
「家から近かった。あと、ボート部だったから運動にはなった」
ボートの朝練と授業の合間にトラックに乗り、冷えた瓶を運び、段ボールを積んでは降ろした。腕と腰にだけ、変に自信のついた学生時代だったと思う。
フライパンを振るより、箱を抱える方が性に合っていた。
「料理は?」
神田が、麺を口に運びながら聞いてくる。
「覚えなかった。運ぶ方だったからな」
そう答えると、神田がぷっと吹き出して笑った。
「主任らしいっすね。ひよりさんが作ってくれるから、必要ないんじゃないですか」
茶化すようなその一言に、返す言葉を一瞬探してしまう。
モニターに視線を戻しながら、ひよりがエプロン姿で立つ自分たちの部屋のキッチンを思い出し、胸の内だけで小さくため息をついた。
前田さんの料理の話になったあたりで、神田の表情が少し和らいだ。
「恵美さんも、料理できないわけじゃないですよ」
「そうなのか」
モニターから目を離さずに相づちを打つ。
「大雑把なだけです」
「大雑把でも食えるのか」
「食えますよ」
「そういうものか」
「味見しますから」
即答だった。
その言い方が妙におかしくて、俺はそこで言葉を切る。
味見の理屈を、神田は当たり前のような顔で続けた。
「味見で補正するのか」
「そうっす。濃かったら薄めるし、薄かったら足すし」
「でも、濃いのはあんまりですね。補正がしにくいんですよ」
「なので、最初は薄めにしますね」
単純だが、筋は通っている。
「最初から正確に測ればいいだろ」
少し意地の悪い聞き方になったかと思ったが、神田は肩をすくめるだけだった。
「まあ、そういう料理もありますけど」
「家庭料理って、材料の大きさとか、鍋とか、味噌とかで変わるじゃないですか」
そこで俺は黙った。
感覚でやっている話に聞こえるが、条件が毎回違うという意味では合理的でもある。
料理は、経験値か。
なら、経験しないと増えない。
仮眠室に向かう廊下を歩きながら、ふとそんなことを考える。
計って、運んで、決められた段取りをこなしてきた自分とは、少し違う世界の話のようで、ひよりの台所での動きを、もう少しよく見ておけばいいのかもしれないと思った。
3
今日は、お休み。
恒一さんは当務明けで、もうすぐ帰ってくる。
お風呂を沸かして、朝ごはんを準備する。
ずいぶん涼しくなってきたので、夏よりはマシだろうけど。
二十四時間勤務って、辛いと思う。
当務明けに、私が早番で家にないとき、彼はひとりで食べて、ひとりで寝る。
だから私が休みの日くらいは、ちゃんとしてあげたい。
炊飯器のアラームが鳴ったと同時くらいに、鍵の回る音がした。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「お風呂、沸いてますよ」
そんなやり取りができるのも、そんなに多くない。
結婚しても、シフトは超えられない壁だ。
恒一さんが、寝てから買い物に行った。
特売日なのか野菜が安い。
きのこ類も買っておく。
お肉は…なんにでも使えそうなスライスにした。
夕ご飯のメニューは、決まってない。
彼が当務明けの今日は、軽い夕ご飯がいいかもしれない。
朝、帰ってきた彼は疲れた顔をしていたから。
彼の好きな揚げ出し豆腐はどうだろう。
お豆腐は、冷蔵庫にあったはずだ。
でも、揚げ出し豆腐って、軽いのかしら。
そんなことを考えながら、エコバッグを持つ手に力を入れた。
昼を過ぎたころ、洗濯物をリビングでたたんでいたら、恒一さんが起きてきた。
「あ、おはようございます」
「ん…おはよう」
「今日は、夕ご飯、軽めにします?」
「炊飯器とか、レンジに頼って楽に作るとか」
恒一さんは、ローソファに足を立てて座り、まだ眠そうな目で洗濯物を見ていた。
「時間のない日は、それでいいけど」
私は、うんうんと頷く。
「でも、時間がある日は、基本を知っている方がいい」
「基本?」
「うん。料理の基本」
少し驚いた。
「また、作るんですか?」
「前は、カルボナーラだった」
「うん」
「今回は、基本的なやつ」
笑いそうになって、慌てて口元を引き締める。
恒一さんは大真面目だった。
「じゃあ、豚汁とかどうですか?」
「基本なのか」
「超基本です」
「教科書レベルです」
4
教科書レベル。
ひよりはそう言った。
豚汁が、料理の教科書レベルなのかどうか、俺には判断がつかない。
ただ、前回のカルボナーラよりは、名前からして家庭料理らしい。
「まず、手を洗ってください」
「そこからか」
「そこからです」
ひよりに言われて、素直に洗面所へ向かった。
当務明けで帰ってきて、風呂に入って、寝た。
起きた時には、頭の奥に残っていた重さも少し抜けていた。
時間はある。
時間のない日は、炊飯器でも電子レンジでも、使えるものを使えばいい。
それは合理的だと思う。
けれど、時間がある日に基本を知らないままでいるのも、違う気がした。
神田は言っていた。
料理は、味見で補正するらしい。
濃かったら薄める。
薄かったら足す。
材料の大きさ、鍋、味噌で変わる。
感覚の話に聞こえるが、条件が毎回違うなら、補正が必要なのは分かる。
問題は、その補正の基準がどこにあるのかだ。
手を洗ってキッチンへ戻ると、ひよりが冷蔵庫から野菜を出していた。
大根。
にんじん。
ごぼう。
長ねぎ。
きのこ。
豚肉。
それから、豆腐。
「揚げ出し豆腐にしようか迷ってたんですけど、今日は豚汁に入れます」
「揚げ出し豆腐は、軽いのか」
「それを考えてました」
「結論は」
「軽くはないかもしれないです」
「だろうな」
「でも、揚げ出し豆腐は、ちょっと食べたかった」
そう返すと、ひよりが少し笑った。
まな板と包丁が出される。
包丁を持つと、ひよりが隣からこちらを見上げた。
「恒一さん、料理なのに警備みたいな顔してます」
「刃物を扱う。警戒は必要だ」
「それはそうですけど」
「最初は何を切る」
「大根からにしましょうか。食べやすい大きさで」
手が止まった。
「食べやすい大きさ」
「はい」
「誰にとってだ」
ひよりが、少しだけ困った顔をした。
いや、困ったというより、また始まったと思っている顔だ。
「私たちにとって、です」
「そこまで厳密じゃなくていいです」
「基準が曖昧だ」
「大きすぎると火が通りにくいし、小さすぎると煮崩れるんです。だから、食べる時に困らなくて、火が通りやすいくらい」
なるほど。
「火の通りと、食べる時の都合か」
「そうです」
「それを最初から言えばいい」
「レシピは、そこまで書いてくれないんです」
「不親切だな」
「家庭料理なので」
ひよりは、なぜかそれで通ると思っている。
家庭料理。
便利な言葉だ。
言われた通り、大根を切る。
厚すぎないように。
薄すぎないように。
ひよりが横から「それくらいで大丈夫」と言う。
大丈夫。
それもまた、数値ではない。
けれど、ひよりの声が落ち着いているので、そのまま切った。
「つまり、これがうちの『食べやすい大きさ』か」
「そう。うち基準です」
「店が変われば基準も変わるな」
「うん。でも、この家ではこれでいきます」
ひよりの言い方は、あいまいなようでいて、意外と筋が通っている。
世界中の「食べやすい大きさ」の定義を決める必要はなくて、うちの基準を共有できればそれでいいらしい。
ごま油の瓶を手に取ったところで、また引っかかる言葉が出てきた。
「じゃあ、お鍋にごま油少々です」
「少々」
「はい」
「どのくらいだ」
ひよりが、やっぱりという顔で笑う。
「鍋の底に、薄く膜が張るくらいです」
そう言って、実際にボトルを傾けてみせる。
とろりと油が落ちて、底にうっすら広がる。
「これが、うちの少々です」
「数値化できないのか」
「できないことはないですけど、たぶん毎回ちょっと変わります」
合理的なような、そうでもないような答えだが、少なくとも視覚的な基準は得た。
具材を炒めているうちに、今度は塩の番が来る。
「塩、少々」
「少々とひとつまみの違いはなんだ」
ひよりが実演してみせる。
「少々は、親指と人差し指。ひとつまみは、親指と人差し指と中指です」
「指が一本増えるのか」
「そうです」
「思ったより物理的だな」
「これは重要なのか」
「重要です。しょっぱくなるかならないかの境目なので」
「これが、ひとつまみです」
ひよりの指先から、白い粒が鍋に落ちた。
たったこれだけで味が変わるらしい。
数字にすれば、たぶん一グラムにも満たない。
それなのに、ひよりは真面目な顔で「境目」と言った。
料理は、細かい。
そして、思ったより危うい。
境目と言われると、少し真剣になる。
やがて問題の「適量」がやってくる。
味噌の項目に、そう書いてある。
「味噌、適量」
「その適量とは、具体的に」
「まず大さじ山盛り一杯くらい入れてみて、あとは味見で決めます」
ひよりが、落ち着いた手つきで味噌を溶かす。
香りは悪くない。
だが、ここで終わりではないらしい。
小皿に具と汁を少しよそい、俺に差し出してくる。
「味見お願いします」
一口含んで、少し考える。
だしも味噌も感じるが、どこか心もとない。
「……薄いな」
「じゃあ、もう半分足してみます」
味噌を足し、もう一度味見する。
さっきより、舌に残る厚みが増えた。
「これなら、悪くない」
「じゃあ、今日の適量はこれです」
今日の、という言い方がまた引っかかる。
「明日は違うのか」
「具の量とか、水加減とか、味噌の種類でも変わるので」
その言葉に、夜勤の警備室を思い出す。
神田が、当たり前のように言っていた。
濃かったら薄めるし、薄かったら足す。
家庭料理は条件が毎回違う。
「味見で補正しますから」
あの時は感覚の話だと思っていたが、今、鍋の前に立つと、これはむしろ合理的な対応に思える。
事前に決めた数値より、その場その場で修正していくやり方だ。
「……ようやく分かった」
論理的には。
でも、場所と道具が変われば同じようにできるかどうかは断言できない。
「何がですか」
「神田の言っていたこと」
ひよりが不思議そうに首をかしげる。
説明するのは少し気恥ずかしくて、俺は鍋の中をのぞき込みながら、ごく小さな声で付け足した。
「適量は、先にどこかに書いてある数字じゃないんだな」
「うちの味に合わせて、その都度決めるものなんだと思ってな」
ひよりは一瞬きょとんとしてから、ゆっくり笑った。
鍋から立ちのぼる湯気の向こうで、その笑顔が、いつもより近く感じた。
5
「お味噌入れたら、もう沸騰させるのはよくないです」
「理由があるのか」
「お味噌って、発酵食品じゃないですか」
「沸騰させると、香りが飛んじゃうらしいです」
「せっかくのお味噌のいいところが、ちょっともったいないっていうか」
「なるほど」
恒一さんは、一応納得した顔をしている。
鍋の火を弱めて、ふたりで少しだけ中をのぞき込んだ。
大根も、にんじんも、きのこも、豚肉も、ちゃんと豚汁の顔をしている。
ただ、ご飯と豚汁だけでは、少し物足りない。
私は冷凍庫を開けて、鮭の切り身を取り出した。
「これ、今、大蔵屋でやってる『北海道旨いもの市』で買ったんですよ」
「これも焼きましょう。こっちは文明の利器で」
コンロの中央にあるグリルに、凍ったまま鮭を並べる。
「凍ってるぞ」
恒一さんが、すぐに心配そうな声を出した。
「うん。大丈夫」
「ちゃんとこの中で溶けて、焼けますから」
「そうなのか」
恒一さんは「へぇ」と小さく言って、グリルの中をのぞき込んでいる。
「そこは信用するんですね」
「機械には説明書がある」
「料理にもレシピはありますよ」
「曖昧なことを書いてるだろ」
「家庭料理なので」
そう返すと、恒一さんは少しだけ笑った。
食卓に、豚汁とご飯と鮭の切り身を並べる。
せっかくなので、漬物も小皿に出した。
豚汁は、恒一さんがよそってくれた。
お椀の中の大根は、少しきれいに揃いすぎている。
にんじんも、きのこも、なんとなく整列しているみたいだった。
でも、そんなことはどうでもよかった。
この豚汁は、恒一さんが作ってくれた。
「いただきます」
ふたりで向かい合って、箸を取る。
湯気の立つお椀を両手で持って、ひと口飲んだ。
お味噌の香りがして、野菜の甘さがあって、豚肉の味もちゃんと出ている。
「おいしい」
本当においしくて、そう言った。
恒一さんは、すぐに私を見た。
「ほんとか?」
「はい」
「ほんとに。うちの味です」
そう言った瞬間、恒一さんが少し固まった。
さっき、台所で彼が言った言葉だったのかもしれない。
私は聞いていなかったけれど、彼の顔を見て、なんとなくそう思った。
恒一さんも、お椀を持ってひと口飲んだ。
少し間がある。
「……うまいな」
なんだか、嬉しそうだった。
その顔を見ていたら、私まで嬉しくなる。
豚汁がおいしいことよりも、恒一さんがもう一度作ろうと思ってくれたことが嬉しかった。
「また、作ってください」
そう言うと、恒一さんは少しだけ眉を上げた。
「失敗してもか」
「失敗しても」
「しょっぱくなっても?」
「その時は、お湯を足します」
「薄かったら」
「お味噌を足します」
「味見で補正か」
「そうです」
恒一さんは、少し考えるように黙った。
それから、お椀の中を見て、低い声で言った。
「……なら、作る」
その返事が嬉しくて、私はもう一度、豚汁を飲んだ。
ひとつまみ。
少々。
適量。
レシピには、まだ曖昧な言葉が残っている。
でも、その曖昧なところを、ふたりで少しずつ決めていけるなら。
それはたぶん、料理だけの話ではないのだと思った。
ひより日和 新婚編 第11話 「ひとつまみ」 おわり




