表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/26

第12話 「迎えに行く」

1


朝晩は冷えるようになってきた。

時々、暑いと感じる日もあるけれど、空気は乾燥していて過ごしやすい。


今日は、本当に珍しく恵美と休みが一緒になった。

そのことは、少し前から職場の中でも口の端に上ることがあった。

同時に、お互いに観たい映画が一致していた。


お互い、今はパートナーがいるけれど、シフトが合うのを待っていたら、映画は終わってしまう。


今日は、恵美と映画を観る。

女同士で出掛けるのも久しぶりだけど、恵美とはシフトは合っても休みが合うことは少ない。

だから、私はちょっとワクワクしている。




「明日、恵美と映画に行ってきます」


「新宿か」


短く返って来る声。

私は頷いた。


「うん。映画の前にちょっと、いろいろお店も見たいなって」


新宿まで行くのだから、コスメや雑貨小物も見たい。


「帰りは?」


「映画が終わるのが16時半くらいです」


「俺は早番だ」


「知ってます」

「映画が終わって、すぐ帰れば家に着くの一緒くらいかもしれませんね」


「いや、そんなこと気にしなくていい」

「ゆっくり、遊んでおいで」


私は、少し嬉しくなって、目元が緩むのがわかる。


「はい。ありがと」


そこで、会話はいったん途切れたけれど、黙ったままの横顔は心配しているようには見えなかった。



2

翌日。

少し早めに着いた私は、待ち合わせ場所の柱にもたれながら、人の流れをぼんやり追っていた。

東口の出口からあふれてくる人、エスカレーターを上がってくる人、地下通路から合流してくる人。

案内表示を目でなぞりながら、この時間帯はあっちのエレベーターが混むんだな、と職業病みたいに考えてしまう。


そんなことをしているうちに、見慣れたシルエットが人混みの向こうから手を振った。


「早いね」


恵美が近づいてきて、私の顔をのぞき込む。


「今来たところ」


「それ、待ってた人の言い方」


「ほんとに今来たもん」


「出た、もん」


肩をすくめる恵美につられて、私も笑う。

いつもの制服じゃなくて私服同士というだけで、目の前の景色までいつもより少しだけ明るく見えた。



◇◇◇


最初に目に入ったのは、色とりどりのリップとアイシャドウだった。

大蔵屋とは全然違うポップ。

棚の上に小さな試供品がずらっと並んでいて、若い子たちが楽しそうに手の甲に色をのせている。


「こういうの、大蔵屋にはあんまりないよね」


思わず口にすると、隣で恵美がふっと笑った。


「うちでやったら、客層が迷子になるわ」


「でも、色かわいい」


「値段もかわいい」


私はつい視線が値札から棚の組み方にずれてしまう。

動線、フェイスの数、アイキャッチの位置。


恵美が、目ざとく私の目の動きを見ていたようだ。


「職業病」


「恵美だって、今ポップの位置見てた」


「見てない」


「見てた顔だった」


「その返し、私の真似?」


「ちょっとだけ」


ふたりで同時に吹き出して、チープなプラスチックのテスターが、休日の女子会の小道具みたいに見えた。



コスメの次は、ポーチやハンドクリーム、ヘアクリップに靴下、スマホケース。

並んでいるだけでかわいい小物の海に、私はつい目を奪われる。


気づくと、黒や深緑のレザー調ポーチ、シンプルなカードケースに視線が止まっていた。

スーツの内ポケットから出しても似合いそうだな、なんて、無意識に恒一さんの姿に重ねている。


「今、朝倉さんに似合いそうとか思ったでしょ」


横から恵美の声が飛んできて、私はあわててカードケースを棚に戻した。


「思ってない」


「顔に書いてある」


「またそれ」


「書いてあるもん」


「恵美だって、神田さんに似合いそうなの見てた」


「見てない」


「ネイビーのやつ、手に取ってた」


「……ただ見ただけ」


「そういうことにしとく」


恵美がちょっと眉を寄せてこちらを見る。


「ひより、最近ちょっと意地悪になったよね」


「恵美の影響かも」


「はいはい。責任転嫁」


言葉では軽く刺し合いながら、恵美の視線がまたネイビーの名刺入れに戻るのを、私は見逃さなかった。


ポーチの棚から少し離れたところで、ハンドクリームの香りを確かめていたら、恵美がふと思い出したように言った。


「昨日、亮に映画行くって言ったら、タイトル聞かれた」


「神田さん、映画見るの?」


「あんまり。たぶん、爆発するやつとか、走るやつ」


「今日の映画、たぶん爆発しないよ」


「長いって言ったら、『寝ないでくださいね』って言われた」


「神田さんっぽい」


「むかつくでしょ」


「ちょっとかわいい」


「ひよりに言うんじゃなかった」


恵美が口を尖らせるのを見ながら、そういえば、と自分の昨夜を思い出す。


上映時間を伝えたとき、恒一さんは眉をわずかに上げて、


「三時間か」


とつぶやいたあと、少し考えるみたいに間を置いてから、


「途中で冷えるな」


と言った。

爆発するかどうかなんて一言も聞かないで、私の体調と館内の冷房の心配だけするところが、いかにも恒一さんらしい。


それを思い出して、ひとりでじんわりあたたかくなっていると、恵美がじろっと私を見る。


「なに、ひとりでにやけてんの」


「にやけてない」


「顔に書いてある」


またそれだ、と心の中でだけ反論しておいた。



商業施設の大きなガラス越しに、外の曇り空が広がっている。

まだ雨は落ちてこないけれど、雲がさっきより低くなった気がした。


「夕方から雨って言ってたね」


なんとなく口にすると、隣で恵美がガラスの外をちらっと見る。


「傘、持ってきた」


「私も」


「じゃあ大丈夫でしょ」


それだけの会話で終わる。

私たちはまた室内の明るい売場に視線を戻した。



3


時計を見ると、まだ十一時半ちょっと前。

映画が長いから、今のうちにお昼を食べておきたい。


「映画、十三時半だっけ」


エスカレーターを降りながら、恵美が聞いてくる。


「うん。十三時十分くらいには映画館に着いておきたい」


「真面目」


「予約してるし、飲み物も買いたいし」


「インフォだわ」


「普通だよ」


「普通って言う人ほど、段取り組んでる」


「恵美だって、ちゃんと時間見てるじゃん」


「私は遅れたくないだけ」


顔を見合わせて笑いながら、エレベーター近くのレストランフロアに出る。

まだ行列ができる前の店に、ふたりでタイミングよく滑り込んだ。


店に入って席に案内されると、私はメニューより先に時計を見た。

映画が長いぶん、ここでちゃんと食べておかないと途中で絶対つらくなる。


「三時間って、途中でお腹鳴ったら最悪だよね」


メニューを開きながら、恵美がため息まじりに言う。


「だから、ちゃんと食べておこうと思って」


「真面目」


「映画に集中したいもん」


そう返すと、恵美が「はいはい」と笑って、ランチセットのページを指で追う。


「今日の映画、重そうだよね」


「予告の時点で重かった」


「観終わったあと、喋れるかな」


「無理かも」


口では無理と言いながら、ふたりとも少しおかしくなって笑ってしまう。


ふと、頭に浮かんでいた心配ごとを口にした。


「あの人たち、今日早番だよね」


「うん。十七時上がり」


「映画終わるの、十六時半くらいだし」


「ちょうどいいね」


言ってから、自分で「ちょうどいいってなにが」と少し照れた。



映画館に移動して、ウーロン茶を一本ずつ、ポップコーンをふたりで一箱買って、指定された席に並んで座った。

館内の照明が落ちて、スクリーンが光り始めてからの三時間、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。

交わせなかった、のほうが近いかもしれない。


エンドロールが終わって、場内が明るくなっても、すぐには立ち上がれなかった。


「……重かったね」


「重かった」

「でも、よかった」


「うん」


それだけ言って、ふたりでゆっくり席を立つ。


映画館の扉を押してロビーに出た瞬間、ガラスの向こうが白く煙っているのが見えた。



4


空気がひんやりしている気がした。

正面の大きなガラスの向こうは、さっきよりずっと白い。

雨粒が斜めに叩きつけられていて、街全体が薄い膜越しに見える。


「うわ、思ったより降ってる」


恵美が足を止める。

同じようにガラスの前で立ち尽くしている人が何人もいて、出入口のあたりだけ人の輪ができていた。

傘を持っている人でさえ、一歩目を踏み出すのをためらっている。


私はバッグからスマホを出した。

朝の天気予報で「夕方から雨」と言っていたのは覚えている。

でも、ここまで強いとは思っていなかった。


ロック画面に、交通情報の通知がいくつも並んでいる。

一部路線の運転見合わせ。

地下鉄も安全確認で遅延。

駅構内混雑。

入場規制の可能性。


文字だけで、胸のあたりが少しきゅっとなる。

映画の余韻が、現実のざわめきに追いつかれていく音がした。


「とりあえず駅、行こ」


恵美が人の流れに合わせて歩き出そうとした瞬間、私は思わず腕をつかんだ。


「待って。駅に入らない方がいいかも」


「え?」


ガラスの向こう、地下へ続く通路の入口は、人で黒く埋まっている。

階段の途中で列が止まっていて、その先の改札のほうも流れが動いていないのが分かった。


「地下通路、人が詰まってる。改札の方も流れが止まってると思う」


「休みの日までインフォの顔しないでよ」


「でも、今は人の流れに入る方が危ないよ」


自分で言いながら、声が少し固くなっているのが分かる。

恵美は一拍だけ黙ってから、ふっと息を吐いた。


「……分かったわよ」


そう言って、素直に足を止めてくれた。


とりあえず座れる場所を探そうと、映画館のあるフロアから同じビルの通路に出た。

外に出る気にはならない。

どこかにカフェの一つや二つあるはずだと思った。


けれど、どこも人だらけだった。


映画終わりの客がそのまま流れ込んだ店。

ガラス越しに雨宿りしている人。

駅に入れずに時間をつぶそうとしている人。

スマホを見ながら立ち止まっている人と、店の前に伸びる待ち列。


「みんな考えること同じか」


恵美が、少しうんざりした声でつぶやく。


「雨が弱まるまで座りたい人、多いよね」


「カフェ、全滅?」


「もう一軒だけ見てみよう」


希望を込めて角を曲がった先のカフェも、ガラス越しに席がびっしり埋まっていた。

入口では店員さんが、「ただいま満席で、かなりお待ちいただきます」と繰り返し案内している。

私たちは顔を見合わせて、同時に小さくため息をついた。


映画館フロアを一回りして、私は人の流れから少し外れた場所を探した。

エスカレーターや出入口から離れた、広めの通路の端。壁際なら、立っているだけでもまだ落ち着ける。


「ここなら、人の流れには入らないと思う」


通路を行き交う人の線から、私たちの場所だけぽっかり外れているのを確認してから言うと、恵美が呆れたように笑った。


「もう、完全に案内係じゃん」


「癖だもん」


「出た、もん」


さっきまでのカフェ難民感が少しだけほどけて、ふたりで小さく笑う。

頭のどこかで状況を計算しながらも、その笑いに私自身も少し救われていた。


壁際に寄りかかって、ふたりでスマホを開く。

タイムラインもニュースも、さっきまでより騒がしくなっていた。


JRは一部見合わせ。

地下鉄は動いている路線もあるけれど、大幅遅延。

ホーム混雑、入場規制。

タクシー乗り場は長蛇、道路も渋滞。


「少し待てば、電車は動きそう」


画面をスクロールしながら言うと、恵美が眉をひそめた。


「でも、今駅に入るのは嫌だね」


「うん。ホームも混んでると思う」


「映画で重くなったあとに、人混みで潰されるのは無理」


「それは嫌だね」


帰れないわけじゃない。

ただ、今このタイミングで無理に動くのは違う、と体のほうが先に判断している気がした。



ひと息ついてから、私は恒一さんとのトーク画面を開いた。

前の夜に予定は伝えてあるから、説明は短くていい。


「映画終わりました」

「雨が強くて、電車が止まってるみたいです」

「恵美と一緒にいます」

「駅にはまだ入ってません」


送信して、しばらくしてから既読がつく。

ちょうど早番終わりの時間か、退勤準備中かもしれない。


〈駅には入るな〉

〈人の流れから外れろ〉

〈場所を送れ〉


返ってきたメッセージを見て、私は思わず周りを見渡した。

もう少し外れた場所にいることを、先に自分で選んでいたのが、少しだけ心強い。


「もう、人混みから外れた場所にいます」

「場所送ります」


現在地を地図で送ると、すぐに〈それでいい。動くな〉と返ってきた。


命令口調なのに、まったく怖くない。

彼ならこう判断するだろうと分かっていた通りの言葉に、胸の奥が少しだけ落ち着いた。



恵美はしばらく黙っていたけれど、ふと視線を落としてスマホを開いた。

ちらっと横目で見ると、もう神田さんとのトーク画面が開いている。


「あとで知ったら、うるさいでしょ」


「うん」


「面倒を先に潰してるだけ」


「うん」


「なに、その顔」


「なんでもない」


素っ気なく返しながら、ちゃんと連絡するところが恵美らしいと思った。


恵美の親指が、迷いなく画面の上を動く。


「雨で電車止まってる」

「ひよりといる」

「今日、帰るの遅れる」

「無理して来なくていい」


送信の音が小さく鳴って、少ししてから画面が震えた。


〈恵美さん、今どこ〉

〈動かないで〉

〈無理はしないから〉

〈でも、迎えには行く〉


恵美はその文字列をじっと見つめて、少しだけ黙る。


「神田さん?」


「迎えに来るって」


「うん」


「無理して来なくていいって言ったのに」


「でも、来るんだね」


「……そういうとこよ」


口調は呆れているみたいなのに、拒絶の色はどこにもなかった。

心配と、安心と、少しの照れが入り混じった横顔が、近くに感じられた。



私のスマホにも、続けて通知が入る。


〈電車は動き出すかもしれない〉

〈でも、今日は迎えに行く〉

〈それまでは動くな〉


思わず、画面を二度見した。


「電車、動き出したら帰れますよ」


そう返すと、すぐに文字が並ぶ。


〈なら、まだ待て〉

〈今ホームに入るな〉

〈迎えに行く〉


私はその画面をしばらく見つめていた。

帰れないわけじゃない。

少し待てば、たぶん電車は動く。

それでも、〈今日は迎えに行く〉とはっきり書かれている。


その言葉だけが、外の雨音よりも強く、頭の中に残った。


帰れないわけではない。

それでも、迎えに行くと言われたら、もう少しここで待っていようと思えた。



5


早番終わりの十七時前、警備室のモニターには出入口付近の映像が映っていた。

ガラスの向こうは、さっきからずっと白い雨。

館内のハロウィン前のオレンジや紫の装飾が、外の暗さと妙に対照的に浮かんでいる。


出入口近くでは、傘を広げようとして立ち止まる客や、タクシーを呼ぼうとスマホを耳に当てる人。

従業員用通路でも、ロッカー前で交通情報のアプリを開いている制服姿がちらほら見える。


ロッカールームでシャツのボタンを外しかけたところで、ポケットのスマホが震えた。


〈映画終わりました〉

〈雨が強くて、電車が止まってるみたいです〉

〈恵美と一緒にいます〉

〈駅にはまだ入ってません〉


すぐに交通情報と雨雲レーダー、主要駅の混雑情報を一通り確認する。

画面のどこを見ても「平常」からは外れている。


その中で、「駅にはまだ入ってません」という一行だけが、少し息をつかせた。

あいつらしい判断だと思うと同時に、そこでまだ動かずにいることに、少しだけほっとする。


「駅には入るな」

「人の流れから外れろ」

「場所を送れ」


送信してすぐ、ひよりから現在地の地図が返ってきた。

新宿三丁目付近。映画館のある商業施設の中。

駅からは近いが、メインの流れから少し外れた位置だと分かる。


「それでいい」

「動くな」


指先が勝手に打っていた。


ひよりは、ちゃんと危ない流れから外れている。

誰かに言われたわけじゃなく、自分でそう判断したのだろう。

そのことはよく分かる。


だが、だからといって放っておいていい理由にはならない。

人混みと、止まりかけの交通と、この雨の中に、ひよりを「分かっているから」で一人置いておく気にはなれなかった。


神田がロッカーの前でスマホをにらんでいた。

いつもの軽い口元が、今日は少しだけ固い。


「神田」


「はい」


顔を上げた目にも、落ち着きが足りない。


「前田さんか」


「そうです。恵美さん、ひよりさんと一緒にいるって」


「場所は」


「新宿三丁目の方っすね。映画館のあるビル」


「ひよりと同じだな」


神田は画面を握りしめたまま、一歩前に出た。


「行きます」


「走るな」


反射的に口が動く。


「いや、走りませんけど」


「焦るな」


「……焦ってないっす」


「焦ってる顔だ」


そこで神田は、口をつぐんだ。

その沈黙の長さが、言葉よりよく状況を物語っていた。


神田の肩が、わずかに前に出ている。

昔のこいつなら、そのまま勢いで飛び出していただろう。


「前田さんに、無理はしないと返したんだろ」


「返しました」


「なら、その通りにしろ」


一拍置いても、神田の目の奥にはまだ急ぎたい色が残っている。


「でも、迎えには行きます」


「それも返したんだろ」


「返しました」


「なら、行くぞ」


「主任も?」


「ひよりもいる」


「ですよね」


小さく息を吐いた神田の肩が、さっきよりわずかに下がった。

前田さんを不安にさせないために無茶はしない、その線だけは守れる顔になったのを確認してから、ロッカーを閉めた。



車で行く選択肢は、最初からなかった。

俺も神田も普段は電車通勤だし、この雨で道路は渋滞、タクシー乗り場も長蛇の列だと、さっき館内のモニターで見ている。


スマホで交通情報を確認する。

全線が完全に止まっているわけではない。

一部路線は大きく遅れているが動いている。

地下鉄も安全確認で止まったり動き出したりを繰り返している。



動いている線を乗り継げば、新宿までは行ける。

問題は、どの駅で降りれば、あいつらのいる場所まで早くたどり着けるかだった。


新宿駅の大きな改札やホームに、ひよりを入れたくはなかった。

俺たちは大蔵屋側から、まだ動いている路線を選んで近くまで行く。

駅の混雑がひどければ、最後は地上を歩けばいい。

傘はある。

靴は濡れるが、それでいい。


隣で画面をのぞき込んでいた神田が言う。


「車の方が早くないですかね」


「この雨で道路は動かない」


「ですよね」


「タクシー乗り場も詰まってる」


「ですよね」


「電車の方がまだ読める」


「読めます?」


「車よりはな」


そう返して、動いている線と混雑状況を照らし合わせながら、ふたりのいるビルに、いちばん出やすい駅を選んだ。


スマホに〈電車、動き出したら帰れますよ〉と文字が並ぶ。

思わず眉が寄った。


動き出したから安全とは限らない。

駅に人が溜まっている。ホームも改札も危ない。

雨で足元も悪い。

映画を三時間観たあとで、ひよりはきっと思っているより疲れている。


「なら、まだ待て」

「今ホームに入るな」

「迎えに行く」


指が迷いなく動いた。


帰れないから迎えに行くのではない。

帰ろうと思えば帰れる状況だからこそ、今は動くなと言う必要がある。


ひよりは大丈夫だと言うだろう。

それでも、大丈夫かどうかを決めるのを、今日だけは彼女に任せない。



隣で神田のスマホがまた震えた。

画面を見て、やっと少し笑う。


「なんだ」


「来なくていいって怒られてます」


さっき送っていた文面は知っている。


〈動かないで〉

〈無理はしないから〉

〈でも、迎えには行く〉


その返事だろう。


「来るなとは書いてないんだろ」


神田の親指が一瞬止まる。


「……そうっすね」


「なら行け」


「主任、そういうとこ見ますよね」


「見えるところに書いてある」


「それ、恵美さんに言ったら怒られますよ」


「言わない」


「無理して来なくていい」は、突き放しではなく心配だ。

そこに「でも来るんだろうな」と諦め半分で期待しているのも、文面の外側ににじんでいる。

それを確認できたことで、神田の肩からさっきまでの焦りが少し抜けていくのが分かった。



私服に着替えて、神田と並んで警備室を出る。

神田は少し前のめりで歩きたがっているが、俺は歩幅を速めるだけで走らない。


通用口に近づくにつれて、雨音が強くなる。

出入口付近では従業員たちも足を止めていて、誰かが「電車、まだ遅れてるらしいよ」とこぼす声が聞こえた。

短くうなずくだけで通り過ぎる。


外へ出る前に、神田が傘を開きながら言う。


「けっこう降ってますね」


「だから、あいつらを動かすな」


「はい」


「こっちが行く」


「はい」


雨は強くて、駅までの道のりはいつもより時間がかかる。

それでも、もう行くと決めている。


雨の向こうに、駅の灯りがぼんやり滲んでいた。

神田が少し先に出ようとして、俺はその肩を軽く押さえた。


「走るな」


「分かってます」


分かっている顔ではなかった。

それでも、足は止まった。


迎えに行く。

そう決めた以上、焦って事故を増やすわけにはいかない。


俺たちは傘を開き、雨の中へ出た。



6


私と恵美は、映画館のある商業施設の通路の壁際に立っている。

雨音はさっきから変わらず強くて、ガラス越しの外は白いままだ。


人の流れは、少し前とは変わってきていた。

駅へ向かおうとする人。

諦めたように上のフロアへ戻っていく人。

電話しながら立ち止まって、足だけ落ち着きなく動かしている人。


私は、さっきから何度目か分からない交通情報のアプリを開く。


一部路線が運転再開。

ただし大幅遅延。

ホーム混雑。

入場規制は一部継続。


駅に入ってしまえば、たぶん帰れる。

でも、まだ「安全」とは言いにくい。


今あの流れに入ったら、たぶん疲れる。

濡れるし、押されるし、乗れたとしても車内はきっと混んでいる。

映画の余韻も、雨の音も、人のざわめきも、全部が少しずつ体に積もってきている。


画面を見つめながら、胸のどこかで、さっき届いた「迎えに行く」という文字だけを、何度も静かになぞっていた。



恵美もスマホを見ている。

神田さんから「今、向かってる」「あと少しかかりそう」と連絡が入ったらしい。


恵美が画面を見たまま言った。


「動き出したみたい」


「うん。でも、まだ混んでるね」


「今なら帰れなくはないんだろうね」


ガラスの向こう側を見ながら、恵美がつぶやく。


「うん」


少し間があく。


「でも、動くなって言われたし」


「うん」


「……なんか、腹立つ」


「腹立つの?」


「腹立つ。正しいから」


「分かる」


「分かるの?」


「うん。分かる」


言うことを聞くのは、ちょっと悔しい。

でも、その通りにしていれば大丈夫だと思えてしまうあたりが、余計に腹立たしくて、そして心強かった。



仕事中なら、自分で状況を見て、お客様を誘導する側にいる。


でも今日は休みで、私は客でも従業員でもなく、ただ映画を観に来ただけの一人だった。

それでも、つい人の流れを見て、危ない場所を避けて、立つ場所を選んでしまう。


その判断を、恒一さんは否定しなかった。

その上で、動くなと言った。




時間がじわじわ過ぎていく。

雨は弱まったように見えて、またすぐ強くなる。

通路の人は減ったり増えたりして、カフェの待ち列もまだ短くならない。


「亮、傘ちゃんと持ってるかな」


恵美が、小さくこぼす。


「持ってると思うよ」


「持ってなかったら馬鹿じゃない?」


「心配してる?」


「してない」


「してる顔だった」


「……その返し、私の真似しないで」


「ごめん」


言葉では突っぱねていても、さっきから何度も画面を見ている指先が、ちゃんと神田さんのことも気にしているのを知っていた。



スマホが震えて、画面に通知が並ぶ。


「近くまで来た」

「その場所から動くな」


恒一さんから。

少し遅れて、恵美のスマホにも神田さんからメッセージが入る。


「もうすぐ着く」

「動かないで」


「どんだけ動かしたくないの」


恵美が、半分あきれた声で言う。


「でも、言われると動かないでいようって思う」


「ひよりは素直だからね」


「恵美も動いてないよ」


「私は、合理的に待ってるだけ」


「うん」


「なに、その優しい顔」


「なんでもない」


素直とか合理的とか、言い方はいろいろあるけれど。

ふたりとも、ちゃんと「迎えに来る」を信じて待っている。



7


挿絵(By みてみん)


通路の向こうに、見慣れた背の高さが二つ見えた。

ふたりとも傘を持っていて、肩や髪に細かい水滴がついている。

走ってきたわけではないのに、ここまで急いできたことが、濡れた靴と息の上がり方で分かった。

神田さんは少しだけ荒く呼吸を整えていて、恒一さんは落ち着いているけれど、目だけはまっすぐ私を探していた。


目が合った瞬間、体のどこかの力がふっと抜ける。


「動かなかったな」


「動くなって言われたので」


「それでいい」


それだけ言って、恒一さんは私の顔をじっと見る。

どこか濡れていないか、疲れていないか、怖がっていないか。

何も言わないのに、そっと触れられているような視線だった。


彼を見て、ほっとした気持ちと心配をかけたという気持ちが零れ落ちた。


「大変だったでしょう」


上を向いて、視線を合わせる。


「大変じゃない」


「だって、雨強いです」


「だから来た」



通路の壁際で立っていると、すぐ隣で神田さんが恵美の前に立った。


「ごめん、遅くなった」


「謝るとこじゃないでしょ」


「じゃあ、迎えに来た」


「見れば分かる」


「うん」


恵美は、神田さんの肩がしっかり濡れているのを見上げる。


「無理して来なくていいって言ったのに」


「無理はしてない」


「濡れてるじゃん」


「雨なんで」


「そういうこと言ってんじゃない」


神田さんは、少しだけ笑った。


「怒ってる?」


「怒ってる」


「でも、来るなとは言われてない」


恵美が、一瞬だけ黙る。


「……ほんと、そういうとこ」


「うん」


表情は呆れているのに、その立ち位置から動かない恵美を見ていると、怒っていることも、その下にちゃんと安心していることも、どちらも本当なんだと思えた。



雨が少し弱まったころ、恒一さんが周りを見て「行くぞ」と短く言った。


私たちは駅へ向かう人の流れに入る。

さっきとは違って、恒一さんが前を見て歩き、少し後ろで神田さんが振り返りながらついてくる。

そのあいだを、私と恵美が並んで歩く。


派手なことは何も起きない。

ただ、ひとりで帰るはずだった道を、迎えに来てくれた人たちと一緒に歩いていく。


駅へ向かう通路は、まだ人が多かった。

それでも、さっき見た人の流れとは違って見えた。

前を歩く恒一さんの背中と、隣で小さく文句を言いながら神田さんの袖を見ている恵美がいる。


帰れなかったわけじゃない。

帰ろうと思えば、たぶん帰れた。


それでも、迎えに来てくれた人と歩く帰り道は、雨の音まで少しだけやさしく聞こえた。





ひより日和 新婚編 第12話 「迎えに行く」 おわり



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ