第12話 「迎えに行く」
1
朝晩は冷えるようになってきた。
時々、暑いと感じる日もあるけれど、空気は乾燥していて過ごしやすい。
今日は、本当に珍しく恵美と休みが一緒になった。
そのことは、少し前から職場の中でも口の端に上ることがあった。
同時に、お互いに観たい映画が一致していた。
お互い、今はパートナーがいるけれど、シフトが合うのを待っていたら、映画は終わってしまう。
今日は、恵美と映画を観る。
女同士で出掛けるのも久しぶりだけど、恵美とはシフトは合っても休みが合うことは少ない。
だから、私はちょっとワクワクしている。
「明日、恵美と映画に行ってきます」
「新宿か」
短く返って来る声。
私は頷いた。
「うん。映画の前にちょっと、いろいろお店も見たいなって」
新宿まで行くのだから、コスメや雑貨小物も見たい。
「帰りは?」
「映画が終わるのが16時半くらいです」
「俺は早番だ」
「知ってます」
「映画が終わって、すぐ帰れば家に着くの一緒くらいかもしれませんね」
「いや、そんなこと気にしなくていい」
「ゆっくり、遊んでおいで」
私は、少し嬉しくなって、目元が緩むのがわかる。
「はい。ありがと」
そこで、会話はいったん途切れたけれど、黙ったままの横顔は心配しているようには見えなかった。
2
翌日。
少し早めに着いた私は、待ち合わせ場所の柱にもたれながら、人の流れをぼんやり追っていた。
東口の出口からあふれてくる人、エスカレーターを上がってくる人、地下通路から合流してくる人。
案内表示を目でなぞりながら、この時間帯はあっちのエレベーターが混むんだな、と職業病みたいに考えてしまう。
そんなことをしているうちに、見慣れたシルエットが人混みの向こうから手を振った。
「早いね」
恵美が近づいてきて、私の顔をのぞき込む。
「今来たところ」
「それ、待ってた人の言い方」
「ほんとに今来たもん」
「出た、もん」
肩をすくめる恵美につられて、私も笑う。
いつもの制服じゃなくて私服同士というだけで、目の前の景色までいつもより少しだけ明るく見えた。
◇◇◇
最初に目に入ったのは、色とりどりのリップとアイシャドウだった。
大蔵屋とは全然違うポップ。
棚の上に小さな試供品がずらっと並んでいて、若い子たちが楽しそうに手の甲に色をのせている。
「こういうの、大蔵屋にはあんまりないよね」
思わず口にすると、隣で恵美がふっと笑った。
「うちでやったら、客層が迷子になるわ」
「でも、色かわいい」
「値段もかわいい」
私はつい視線が値札から棚の組み方にずれてしまう。
動線、フェイスの数、アイキャッチの位置。
恵美が、目ざとく私の目の動きを見ていたようだ。
「職業病」
「恵美だって、今ポップの位置見てた」
「見てない」
「見てた顔だった」
「その返し、私の真似?」
「ちょっとだけ」
ふたりで同時に吹き出して、チープなプラスチックのテスターが、休日の女子会の小道具みたいに見えた。
コスメの次は、ポーチやハンドクリーム、ヘアクリップに靴下、スマホケース。
並んでいるだけでかわいい小物の海に、私はつい目を奪われる。
気づくと、黒や深緑のレザー調ポーチ、シンプルなカードケースに視線が止まっていた。
スーツの内ポケットから出しても似合いそうだな、なんて、無意識に恒一さんの姿に重ねている。
「今、朝倉さんに似合いそうとか思ったでしょ」
横から恵美の声が飛んできて、私はあわててカードケースを棚に戻した。
「思ってない」
「顔に書いてある」
「またそれ」
「書いてあるもん」
「恵美だって、神田さんに似合いそうなの見てた」
「見てない」
「ネイビーのやつ、手に取ってた」
「……ただ見ただけ」
「そういうことにしとく」
恵美がちょっと眉を寄せてこちらを見る。
「ひより、最近ちょっと意地悪になったよね」
「恵美の影響かも」
「はいはい。責任転嫁」
言葉では軽く刺し合いながら、恵美の視線がまたネイビーの名刺入れに戻るのを、私は見逃さなかった。
ポーチの棚から少し離れたところで、ハンドクリームの香りを確かめていたら、恵美がふと思い出したように言った。
「昨日、亮に映画行くって言ったら、タイトル聞かれた」
「神田さん、映画見るの?」
「あんまり。たぶん、爆発するやつとか、走るやつ」
「今日の映画、たぶん爆発しないよ」
「長いって言ったら、『寝ないでくださいね』って言われた」
「神田さんっぽい」
「むかつくでしょ」
「ちょっとかわいい」
「ひよりに言うんじゃなかった」
恵美が口を尖らせるのを見ながら、そういえば、と自分の昨夜を思い出す。
上映時間を伝えたとき、恒一さんは眉をわずかに上げて、
「三時間か」
とつぶやいたあと、少し考えるみたいに間を置いてから、
「途中で冷えるな」
と言った。
爆発するかどうかなんて一言も聞かないで、私の体調と館内の冷房の心配だけするところが、いかにも恒一さんらしい。
それを思い出して、ひとりでじんわりあたたかくなっていると、恵美がじろっと私を見る。
「なに、ひとりでにやけてんの」
「にやけてない」
「顔に書いてある」
またそれだ、と心の中でだけ反論しておいた。
商業施設の大きなガラス越しに、外の曇り空が広がっている。
まだ雨は落ちてこないけれど、雲がさっきより低くなった気がした。
「夕方から雨って言ってたね」
なんとなく口にすると、隣で恵美がガラスの外をちらっと見る。
「傘、持ってきた」
「私も」
「じゃあ大丈夫でしょ」
それだけの会話で終わる。
私たちはまた室内の明るい売場に視線を戻した。
3
時計を見ると、まだ十一時半ちょっと前。
映画が長いから、今のうちにお昼を食べておきたい。
「映画、十三時半だっけ」
エスカレーターを降りながら、恵美が聞いてくる。
「うん。十三時十分くらいには映画館に着いておきたい」
「真面目」
「予約してるし、飲み物も買いたいし」
「インフォだわ」
「普通だよ」
「普通って言う人ほど、段取り組んでる」
「恵美だって、ちゃんと時間見てるじゃん」
「私は遅れたくないだけ」
顔を見合わせて笑いながら、エレベーター近くのレストランフロアに出る。
まだ行列ができる前の店に、ふたりでタイミングよく滑り込んだ。
店に入って席に案内されると、私はメニューより先に時計を見た。
映画が長いぶん、ここでちゃんと食べておかないと途中で絶対つらくなる。
「三時間って、途中でお腹鳴ったら最悪だよね」
メニューを開きながら、恵美がため息まじりに言う。
「だから、ちゃんと食べておこうと思って」
「真面目」
「映画に集中したいもん」
そう返すと、恵美が「はいはい」と笑って、ランチセットのページを指で追う。
「今日の映画、重そうだよね」
「予告の時点で重かった」
「観終わったあと、喋れるかな」
「無理かも」
口では無理と言いながら、ふたりとも少しおかしくなって笑ってしまう。
ふと、頭に浮かんでいた心配ごとを口にした。
「あの人たち、今日早番だよね」
「うん。十七時上がり」
「映画終わるの、十六時半くらいだし」
「ちょうどいいね」
言ってから、自分で「ちょうどいいってなにが」と少し照れた。
映画館に移動して、ウーロン茶を一本ずつ、ポップコーンをふたりで一箱買って、指定された席に並んで座った。
館内の照明が落ちて、スクリーンが光り始めてからの三時間、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。
交わせなかった、のほうが近いかもしれない。
エンドロールが終わって、場内が明るくなっても、すぐには立ち上がれなかった。
「……重かったね」
「重かった」
「でも、よかった」
「うん」
それだけ言って、ふたりでゆっくり席を立つ。
映画館の扉を押してロビーに出た瞬間、ガラスの向こうが白く煙っているのが見えた。
4
空気がひんやりしている気がした。
正面の大きなガラスの向こうは、さっきよりずっと白い。
雨粒が斜めに叩きつけられていて、街全体が薄い膜越しに見える。
「うわ、思ったより降ってる」
恵美が足を止める。
同じようにガラスの前で立ち尽くしている人が何人もいて、出入口のあたりだけ人の輪ができていた。
傘を持っている人でさえ、一歩目を踏み出すのをためらっている。
私はバッグからスマホを出した。
朝の天気予報で「夕方から雨」と言っていたのは覚えている。
でも、ここまで強いとは思っていなかった。
ロック画面に、交通情報の通知がいくつも並んでいる。
一部路線の運転見合わせ。
地下鉄も安全確認で遅延。
駅構内混雑。
入場規制の可能性。
文字だけで、胸のあたりが少しきゅっとなる。
映画の余韻が、現実のざわめきに追いつかれていく音がした。
「とりあえず駅、行こ」
恵美が人の流れに合わせて歩き出そうとした瞬間、私は思わず腕をつかんだ。
「待って。駅に入らない方がいいかも」
「え?」
ガラスの向こう、地下へ続く通路の入口は、人で黒く埋まっている。
階段の途中で列が止まっていて、その先の改札のほうも流れが動いていないのが分かった。
「地下通路、人が詰まってる。改札の方も流れが止まってると思う」
「休みの日までインフォの顔しないでよ」
「でも、今は人の流れに入る方が危ないよ」
自分で言いながら、声が少し固くなっているのが分かる。
恵美は一拍だけ黙ってから、ふっと息を吐いた。
「……分かったわよ」
そう言って、素直に足を止めてくれた。
とりあえず座れる場所を探そうと、映画館のあるフロアから同じビルの通路に出た。
外に出る気にはならない。
どこかにカフェの一つや二つあるはずだと思った。
けれど、どこも人だらけだった。
映画終わりの客がそのまま流れ込んだ店。
ガラス越しに雨宿りしている人。
駅に入れずに時間をつぶそうとしている人。
スマホを見ながら立ち止まっている人と、店の前に伸びる待ち列。
「みんな考えること同じか」
恵美が、少しうんざりした声でつぶやく。
「雨が弱まるまで座りたい人、多いよね」
「カフェ、全滅?」
「もう一軒だけ見てみよう」
希望を込めて角を曲がった先のカフェも、ガラス越しに席がびっしり埋まっていた。
入口では店員さんが、「ただいま満席で、かなりお待ちいただきます」と繰り返し案内している。
私たちは顔を見合わせて、同時に小さくため息をついた。
映画館フロアを一回りして、私は人の流れから少し外れた場所を探した。
エスカレーターや出入口から離れた、広めの通路の端。壁際なら、立っているだけでもまだ落ち着ける。
「ここなら、人の流れには入らないと思う」
通路を行き交う人の線から、私たちの場所だけぽっかり外れているのを確認してから言うと、恵美が呆れたように笑った。
「もう、完全に案内係じゃん」
「癖だもん」
「出た、もん」
さっきまでのカフェ難民感が少しだけほどけて、ふたりで小さく笑う。
頭のどこかで状況を計算しながらも、その笑いに私自身も少し救われていた。
壁際に寄りかかって、ふたりでスマホを開く。
タイムラインもニュースも、さっきまでより騒がしくなっていた。
JRは一部見合わせ。
地下鉄は動いている路線もあるけれど、大幅遅延。
ホーム混雑、入場規制。
タクシー乗り場は長蛇、道路も渋滞。
「少し待てば、電車は動きそう」
画面をスクロールしながら言うと、恵美が眉をひそめた。
「でも、今駅に入るのは嫌だね」
「うん。ホームも混んでると思う」
「映画で重くなったあとに、人混みで潰されるのは無理」
「それは嫌だね」
帰れないわけじゃない。
ただ、今このタイミングで無理に動くのは違う、と体のほうが先に判断している気がした。
ひと息ついてから、私は恒一さんとのトーク画面を開いた。
前の夜に予定は伝えてあるから、説明は短くていい。
「映画終わりました」
「雨が強くて、電車が止まってるみたいです」
「恵美と一緒にいます」
「駅にはまだ入ってません」
送信して、しばらくしてから既読がつく。
ちょうど早番終わりの時間か、退勤準備中かもしれない。
〈駅には入るな〉
〈人の流れから外れろ〉
〈場所を送れ〉
返ってきたメッセージを見て、私は思わず周りを見渡した。
もう少し外れた場所にいることを、先に自分で選んでいたのが、少しだけ心強い。
「もう、人混みから外れた場所にいます」
「場所送ります」
現在地を地図で送ると、すぐに〈それでいい。動くな〉と返ってきた。
命令口調なのに、まったく怖くない。
彼ならこう判断するだろうと分かっていた通りの言葉に、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
恵美はしばらく黙っていたけれど、ふと視線を落としてスマホを開いた。
ちらっと横目で見ると、もう神田さんとのトーク画面が開いている。
「あとで知ったら、うるさいでしょ」
「うん」
「面倒を先に潰してるだけ」
「うん」
「なに、その顔」
「なんでもない」
素っ気なく返しながら、ちゃんと連絡するところが恵美らしいと思った。
恵美の親指が、迷いなく画面の上を動く。
「雨で電車止まってる」
「ひよりといる」
「今日、帰るの遅れる」
「無理して来なくていい」
送信の音が小さく鳴って、少ししてから画面が震えた。
〈恵美さん、今どこ〉
〈動かないで〉
〈無理はしないから〉
〈でも、迎えには行く〉
恵美はその文字列をじっと見つめて、少しだけ黙る。
「神田さん?」
「迎えに来るって」
「うん」
「無理して来なくていいって言ったのに」
「でも、来るんだね」
「……そういうとこよ」
口調は呆れているみたいなのに、拒絶の色はどこにもなかった。
心配と、安心と、少しの照れが入り混じった横顔が、近くに感じられた。
私のスマホにも、続けて通知が入る。
〈電車は動き出すかもしれない〉
〈でも、今日は迎えに行く〉
〈それまでは動くな〉
思わず、画面を二度見した。
「電車、動き出したら帰れますよ」
そう返すと、すぐに文字が並ぶ。
〈なら、まだ待て〉
〈今ホームに入るな〉
〈迎えに行く〉
私はその画面をしばらく見つめていた。
帰れないわけじゃない。
少し待てば、たぶん電車は動く。
それでも、〈今日は迎えに行く〉とはっきり書かれている。
その言葉だけが、外の雨音よりも強く、頭の中に残った。
帰れないわけではない。
それでも、迎えに行くと言われたら、もう少しここで待っていようと思えた。
5
早番終わりの十七時前、警備室のモニターには出入口付近の映像が映っていた。
ガラスの向こうは、さっきからずっと白い雨。
館内のハロウィン前のオレンジや紫の装飾が、外の暗さと妙に対照的に浮かんでいる。
出入口近くでは、傘を広げようとして立ち止まる客や、タクシーを呼ぼうとスマホを耳に当てる人。
従業員用通路でも、ロッカー前で交通情報のアプリを開いている制服姿がちらほら見える。
ロッカールームでシャツのボタンを外しかけたところで、ポケットのスマホが震えた。
〈映画終わりました〉
〈雨が強くて、電車が止まってるみたいです〉
〈恵美と一緒にいます〉
〈駅にはまだ入ってません〉
すぐに交通情報と雨雲レーダー、主要駅の混雑情報を一通り確認する。
画面のどこを見ても「平常」からは外れている。
その中で、「駅にはまだ入ってません」という一行だけが、少し息をつかせた。
あいつらしい判断だと思うと同時に、そこでまだ動かずにいることに、少しだけほっとする。
「駅には入るな」
「人の流れから外れろ」
「場所を送れ」
送信してすぐ、ひよりから現在地の地図が返ってきた。
新宿三丁目付近。映画館のある商業施設の中。
駅からは近いが、メインの流れから少し外れた位置だと分かる。
「それでいい」
「動くな」
指先が勝手に打っていた。
ひよりは、ちゃんと危ない流れから外れている。
誰かに言われたわけじゃなく、自分でそう判断したのだろう。
そのことはよく分かる。
だが、だからといって放っておいていい理由にはならない。
人混みと、止まりかけの交通と、この雨の中に、ひよりを「分かっているから」で一人置いておく気にはなれなかった。
神田がロッカーの前でスマホをにらんでいた。
いつもの軽い口元が、今日は少しだけ固い。
「神田」
「はい」
顔を上げた目にも、落ち着きが足りない。
「前田さんか」
「そうです。恵美さん、ひよりさんと一緒にいるって」
「場所は」
「新宿三丁目の方っすね。映画館のあるビル」
「ひよりと同じだな」
神田は画面を握りしめたまま、一歩前に出た。
「行きます」
「走るな」
反射的に口が動く。
「いや、走りませんけど」
「焦るな」
「……焦ってないっす」
「焦ってる顔だ」
そこで神田は、口をつぐんだ。
その沈黙の長さが、言葉よりよく状況を物語っていた。
神田の肩が、わずかに前に出ている。
昔のこいつなら、そのまま勢いで飛び出していただろう。
「前田さんに、無理はしないと返したんだろ」
「返しました」
「なら、その通りにしろ」
一拍置いても、神田の目の奥にはまだ急ぎたい色が残っている。
「でも、迎えには行きます」
「それも返したんだろ」
「返しました」
「なら、行くぞ」
「主任も?」
「ひよりもいる」
「ですよね」
小さく息を吐いた神田の肩が、さっきよりわずかに下がった。
前田さんを不安にさせないために無茶はしない、その線だけは守れる顔になったのを確認してから、ロッカーを閉めた。
車で行く選択肢は、最初からなかった。
俺も神田も普段は電車通勤だし、この雨で道路は渋滞、タクシー乗り場も長蛇の列だと、さっき館内のモニターで見ている。
スマホで交通情報を確認する。
全線が完全に止まっているわけではない。
一部路線は大きく遅れているが動いている。
地下鉄も安全確認で止まったり動き出したりを繰り返している。
動いている線を乗り継げば、新宿までは行ける。
問題は、どの駅で降りれば、あいつらのいる場所まで早くたどり着けるかだった。
新宿駅の大きな改札やホームに、ひよりを入れたくはなかった。
俺たちは大蔵屋側から、まだ動いている路線を選んで近くまで行く。
駅の混雑がひどければ、最後は地上を歩けばいい。
傘はある。
靴は濡れるが、それでいい。
隣で画面をのぞき込んでいた神田が言う。
「車の方が早くないですかね」
「この雨で道路は動かない」
「ですよね」
「タクシー乗り場も詰まってる」
「ですよね」
「電車の方がまだ読める」
「読めます?」
「車よりはな」
そう返して、動いている線と混雑状況を照らし合わせながら、ふたりのいるビルに、いちばん出やすい駅を選んだ。
スマホに〈電車、動き出したら帰れますよ〉と文字が並ぶ。
思わず眉が寄った。
動き出したから安全とは限らない。
駅に人が溜まっている。ホームも改札も危ない。
雨で足元も悪い。
映画を三時間観たあとで、ひよりはきっと思っているより疲れている。
「なら、まだ待て」
「今ホームに入るな」
「迎えに行く」
指が迷いなく動いた。
帰れないから迎えに行くのではない。
帰ろうと思えば帰れる状況だからこそ、今は動くなと言う必要がある。
ひよりは大丈夫だと言うだろう。
それでも、大丈夫かどうかを決めるのを、今日だけは彼女に任せない。
隣で神田のスマホがまた震えた。
画面を見て、やっと少し笑う。
「なんだ」
「来なくていいって怒られてます」
さっき送っていた文面は知っている。
〈動かないで〉
〈無理はしないから〉
〈でも、迎えには行く〉
その返事だろう。
「来るなとは書いてないんだろ」
神田の親指が一瞬止まる。
「……そうっすね」
「なら行け」
「主任、そういうとこ見ますよね」
「見えるところに書いてある」
「それ、恵美さんに言ったら怒られますよ」
「言わない」
「無理して来なくていい」は、突き放しではなく心配だ。
そこに「でも来るんだろうな」と諦め半分で期待しているのも、文面の外側ににじんでいる。
それを確認できたことで、神田の肩からさっきまでの焦りが少し抜けていくのが分かった。
私服に着替えて、神田と並んで警備室を出る。
神田は少し前のめりで歩きたがっているが、俺は歩幅を速めるだけで走らない。
通用口に近づくにつれて、雨音が強くなる。
出入口付近では従業員たちも足を止めていて、誰かが「電車、まだ遅れてるらしいよ」とこぼす声が聞こえた。
短くうなずくだけで通り過ぎる。
外へ出る前に、神田が傘を開きながら言う。
「けっこう降ってますね」
「だから、あいつらを動かすな」
「はい」
「こっちが行く」
「はい」
雨は強くて、駅までの道のりはいつもより時間がかかる。
それでも、もう行くと決めている。
雨の向こうに、駅の灯りがぼんやり滲んでいた。
神田が少し先に出ようとして、俺はその肩を軽く押さえた。
「走るな」
「分かってます」
分かっている顔ではなかった。
それでも、足は止まった。
迎えに行く。
そう決めた以上、焦って事故を増やすわけにはいかない。
俺たちは傘を開き、雨の中へ出た。
6
私と恵美は、映画館のある商業施設の通路の壁際に立っている。
雨音はさっきから変わらず強くて、ガラス越しの外は白いままだ。
人の流れは、少し前とは変わってきていた。
駅へ向かおうとする人。
諦めたように上のフロアへ戻っていく人。
電話しながら立ち止まって、足だけ落ち着きなく動かしている人。
私は、さっきから何度目か分からない交通情報のアプリを開く。
一部路線が運転再開。
ただし大幅遅延。
ホーム混雑。
入場規制は一部継続。
駅に入ってしまえば、たぶん帰れる。
でも、まだ「安全」とは言いにくい。
今あの流れに入ったら、たぶん疲れる。
濡れるし、押されるし、乗れたとしても車内はきっと混んでいる。
映画の余韻も、雨の音も、人のざわめきも、全部が少しずつ体に積もってきている。
画面を見つめながら、胸のどこかで、さっき届いた「迎えに行く」という文字だけを、何度も静かになぞっていた。
恵美もスマホを見ている。
神田さんから「今、向かってる」「あと少しかかりそう」と連絡が入ったらしい。
恵美が画面を見たまま言った。
「動き出したみたい」
「うん。でも、まだ混んでるね」
「今なら帰れなくはないんだろうね」
ガラスの向こう側を見ながら、恵美がつぶやく。
「うん」
少し間があく。
「でも、動くなって言われたし」
「うん」
「……なんか、腹立つ」
「腹立つの?」
「腹立つ。正しいから」
「分かる」
「分かるの?」
「うん。分かる」
言うことを聞くのは、ちょっと悔しい。
でも、その通りにしていれば大丈夫だと思えてしまうあたりが、余計に腹立たしくて、そして心強かった。
仕事中なら、自分で状況を見て、お客様を誘導する側にいる。
でも今日は休みで、私は客でも従業員でもなく、ただ映画を観に来ただけの一人だった。
それでも、つい人の流れを見て、危ない場所を避けて、立つ場所を選んでしまう。
その判断を、恒一さんは否定しなかった。
その上で、動くなと言った。
時間がじわじわ過ぎていく。
雨は弱まったように見えて、またすぐ強くなる。
通路の人は減ったり増えたりして、カフェの待ち列もまだ短くならない。
「亮、傘ちゃんと持ってるかな」
恵美が、小さくこぼす。
「持ってると思うよ」
「持ってなかったら馬鹿じゃない?」
「心配してる?」
「してない」
「してる顔だった」
「……その返し、私の真似しないで」
「ごめん」
言葉では突っぱねていても、さっきから何度も画面を見ている指先が、ちゃんと神田さんのことも気にしているのを知っていた。
スマホが震えて、画面に通知が並ぶ。
「近くまで来た」
「その場所から動くな」
恒一さんから。
少し遅れて、恵美のスマホにも神田さんからメッセージが入る。
「もうすぐ着く」
「動かないで」
「どんだけ動かしたくないの」
恵美が、半分あきれた声で言う。
「でも、言われると動かないでいようって思う」
「ひよりは素直だからね」
「恵美も動いてないよ」
「私は、合理的に待ってるだけ」
「うん」
「なに、その優しい顔」
「なんでもない」
素直とか合理的とか、言い方はいろいろあるけれど。
ふたりとも、ちゃんと「迎えに来る」を信じて待っている。
7
通路の向こうに、見慣れた背の高さが二つ見えた。
ふたりとも傘を持っていて、肩や髪に細かい水滴がついている。
走ってきたわけではないのに、ここまで急いできたことが、濡れた靴と息の上がり方で分かった。
神田さんは少しだけ荒く呼吸を整えていて、恒一さんは落ち着いているけれど、目だけはまっすぐ私を探していた。
目が合った瞬間、体のどこかの力がふっと抜ける。
「動かなかったな」
「動くなって言われたので」
「それでいい」
それだけ言って、恒一さんは私の顔をじっと見る。
どこか濡れていないか、疲れていないか、怖がっていないか。
何も言わないのに、そっと触れられているような視線だった。
彼を見て、ほっとした気持ちと心配をかけたという気持ちが零れ落ちた。
「大変だったでしょう」
上を向いて、視線を合わせる。
「大変じゃない」
「だって、雨強いです」
「だから来た」
通路の壁際で立っていると、すぐ隣で神田さんが恵美の前に立った。
「ごめん、遅くなった」
「謝るとこじゃないでしょ」
「じゃあ、迎えに来た」
「見れば分かる」
「うん」
恵美は、神田さんの肩がしっかり濡れているのを見上げる。
「無理して来なくていいって言ったのに」
「無理はしてない」
「濡れてるじゃん」
「雨なんで」
「そういうこと言ってんじゃない」
神田さんは、少しだけ笑った。
「怒ってる?」
「怒ってる」
「でも、来るなとは言われてない」
恵美が、一瞬だけ黙る。
「……ほんと、そういうとこ」
「うん」
表情は呆れているのに、その立ち位置から動かない恵美を見ていると、怒っていることも、その下にちゃんと安心していることも、どちらも本当なんだと思えた。
雨が少し弱まったころ、恒一さんが周りを見て「行くぞ」と短く言った。
私たちは駅へ向かう人の流れに入る。
さっきとは違って、恒一さんが前を見て歩き、少し後ろで神田さんが振り返りながらついてくる。
そのあいだを、私と恵美が並んで歩く。
派手なことは何も起きない。
ただ、ひとりで帰るはずだった道を、迎えに来てくれた人たちと一緒に歩いていく。
駅へ向かう通路は、まだ人が多かった。
それでも、さっき見た人の流れとは違って見えた。
前を歩く恒一さんの背中と、隣で小さく文句を言いながら神田さんの袖を見ている恵美がいる。
帰れなかったわけじゃない。
帰ろうと思えば、たぶん帰れた。
それでも、迎えに来てくれた人と歩く帰り道は、雨の音まで少しだけやさしく聞こえた。
ひより日和 新婚編 第12話 「迎えに行く」 おわり




