第13話 「家に帰る」
1
イチョウの葉が舞う。
今日の気温は二十二度らしい。
朝のテレビがそう言っていた。
数字で聞くと少しひんやりのはずなのに、コートの前を開けて歩くと、胸のあたりだけじんわりあたたかい。
恒一さんは当務明けで、十時に寝室へ消えた。
お風呂に入って、少しだけ私の作ったお味噌汁を飲んで、それから「おやすみ」と笑った。
私はそのあと、洗い物を片づけて、メモをポケットにねじ込んでから家を出た。
きょうの夕ご飯はもう決まっている。
きのこの炊き込みご飯と、ぶりの照り焼き。あとは、彼が好きな揚げ出し豆腐と、きゅうりの胡麻和えか酢の物。買うものは、ぶりと豆腐くらいのものだ。
そう考えると、レジかごの軽さまで想像できて、ひとりで少し笑ってしまう。
そんなことを考えながら歩いていると、数メートル先に犬が一匹、街路樹の根元の匂いをしつこく嗅ぎまわっているのが見えた。
小さすぎず、大きすぎず、やわらかそうな色の毛並み。
けれど首輪はついていても、リードはついていない。
はて、と私は立ち止まる。
周りを見回しても、飼い主らしき人影は見当たらない。
車通りは少ないけれど、この道はバスも通る。
胸がざわついて、つい犬のほうへ一歩踏み出した。
「どうしたの?」
声に出した瞬間、犬が顔を上げる。
つぶらな目がまっすぐこっちを見る。
「お母さんは? ママかな?」
自分でもおかしな聞き方だと思う。
それでも、犬は首をかしげるだけで、どこへも行こうとしない。
風が一枚、イチョウの葉を私の足もとへ落とした。
私はその黄色い葉を見つめながら、さてどうしようかと息を吸い込む。
白くてフワフワなわんこは、たぶんシーズーだろう。
鼻先をひくひくさせている横顔を見て、あ、と思う。
何度か、この道で散歩中にすれ違った子だ。
この子の人間のお母さんの顔も、ぼんやり浮かぶ。
エプロン姿で、よくしゃべる感じの人。
けれど、名前も、どのマンションかも知らない。
近所だろう、ということしかわからない。
しばらく道端に立ってみる。
わんこは、私の存在を気にしつつも、その場から動こうとしない。
五分、十分。
スマホで時間を確認しても、飼い主らしき人は現れる気配がない。
こんなところに放っておいて大丈夫だろうか。
車通りは少ないけれど、バスも自転車も通る。
急に雨が降ったり、子どもが駆け寄ったりしたら、この子はどうするのだろう。
想像しただけで、胸がきゅっとする。目を離せなくなってしまった。
私は、これからスーパーへ行くつもりでここにいる。
頭の片隅では、ぶりと豆腐と特売時間を計算しているのに、足は動かない。
少し考えて、私はその場にしゃがみこんだ。
コートの裾がアスファルトにふれる感触が、わかる。
「ねえ、少しの間うちに来る?」
わんこが、ぱちりと瞬きをする。
「お母さんを見つけないとね」
言いながら、自分の胸にも言い聞かせる。
責任の重さと、抱き上げたくなる衝動が、同じくらいの強さで押し寄せていた。
買い物をあきらめた私は、わんこを抱いて家へ戻った。
腕の中の体温が、コート越しにじかに伝わってくる。
白くてフワフワの毛並みはやわらかくて、たぶんシャンプーの匂いだろう、少し甘い香りがした。
人懐こくて従順で、抱いていても嫌がるそぶりはない。
降ろしてほしいとも言わないで、ただ私の腕に身を預けている。
さて、この子のお母さんをどうやって見つけようか。
玄関の鍵を回しながら、現実的なことが頭をよぎる。
チラシ、交番、管理人さん……。
家に入ると、わんこはすぐに床に降りて、そこら中を嗅ぎまわりはじめた。
自分の匂いがまったくない場所は、不安なのかもしれない。
私は、蓋が割れてしまった保存容器に水を入れて床に置いた。
わんこは迷わず顔を突っこんで、ごくごくと音を立てて飲む。
喉が渇いていたらしい。
リビングのローソファに腰を下ろすと、念のため古いタオルを一枚広げた。
わんこはそこを自分の場所だと決めたみたいに丸くなった。
私の脚にぴったり寄り添い、お腹をソファにつけて落ち着く。
その体温と重みがじんわり伝わってきて、胸の奥から、なんてかわいい、という言葉しか出てこなかった。
時計を見ると、昼を少し回っていた。
そろそろ起きるかもしれない、と思ったところで、寝室のドアがかすかにきしんだ。
私は振り向かないまま、足音を数える。
ダイニングを抜けないとリビングには来られないから、テーブルの椅子をかすめる気配がして、次の瞬間、入り口のところで足音が止まった。
視線だけ動かすと、恒一さんが立ち止まって、こちらを凝視している。
ソファの私と、脚にぴったりくっついている白いわんこと、その距離をはかっているみたいに。
言葉は、すぐには出てこないらしい。
やがて、彼はリビングに一歩だけ入ってきて、低い声で言った。
「…犬がいるな」
「はい」
できるだけ平静をよそおって答えると、ようやく彼の眉がぴくりと動く。
「どうした、それ」
「保護しました」
「どこで」
自分でも簡潔すぎる説明だと思う。
だけど、口から出てくるのは事実だけだった。
「どうやって、この子のお母さん探そうかと考えてました」
そう言いながら、私はそっとわんこの背中をなでる。
指先に伝わる体温が、答えを急がせる。
「首輪は」
「あります」
「どこにいた」
「このマンションの近くです」
「バス通りの街路樹の下にいたの」
「見覚えは」
「あります」
「何度か、この道で散歩してるところを見たことがあるんです」
「近所の犬か」
「たぶん」
「なら、まず周辺だな」
恒一さんは、寝起きの顔をしているのに、目だけはもう、仕事のときみたいになっていた。
2
「迷子札は」
「ありません」
短く答えるたび、恒一さんの視線がわんこに落ちていく。
「怪我は」
「たぶん、してないと思います」
彼は少し近づき、しゃがんで犬を見る。
毛並み、首輪、シャンプーのような匂い、私の脚に寄り添って離れない様子。
「嫌がったりは」
「しません。抱っこもできました」
恒一さんは、ふうと小さく息を吐いた。
「捨てられた感じじゃないな」
私は、首をひとつ縦に振る。
その言葉に、胸の奥が少しだけほっとした。
「勝手に連れて帰ってきて、よかったんでしょうか」
自分でも小さい声だと思う。
不安が、そのまま喉につかえている。
恒一さんは、少しだけ考えるように犬と私を見比べた。
「車道に出るよりはいい」
淡々とした声に、責める色はない。
「ただ、長く置くものじゃない」
現実だけをきれいに差し出されて、私はそっとうなずいた。
「ぶりと豆腐、買いに行くところだったんです」
ふと思い出して口にすると、自分でも場違いな報告みたいでおかしくなる。
恒一さんは、わんこを一度だけ見てから短く言った。
「犬が先だな」
「ですよね」
返事をしながら、献立のメモがポケットの中でしわになる音がした気がした。
夕ご飯よりも今は、この子が最優先だ。
恒一さんが、私の隣に腰を下ろした。
ゆっくりと手を伸ばして、首輪のあたりを確かめようとする。
その指先が近づいた瞬間、わんこさんは小さく身を引いて、ますます私の脚にぴたりとくっついた。
毛並みの感触が、さっきよりはっきり伝わる。
さらに恒一さんが、私の肩に軽く手を置こうとしたとたん。
「ワンッ」
短くて大きな声に、私はびくっと肩を跳ねさせた。
「え、どうしたの」
思わずわんこさんをのぞき込むと、恒一さんは真顔のまま、ぽつりと言う。
「……怒られたな」
その言い方が可笑しくて、つい笑ってしまう。
「やきもちですか?」
「一時保護の犬に牽制されるとは思わなかった」
少しだけ肩をすくめる仕草が、なんだか拗ねているように見える。
「恒一さん、嫌われてるんですかね」
「嫌われてはいない。牽制されてる」
きっぱりした声に、また笑いがこみあげてきて、私はそっとわんこさんの頭をなでた。
「まず管理人に聞く」
「はい」
恒一さんの声が、さっきより少しだけ仕事モードになる。
「次に、見つけた道を中心に回る」
「はい」
頭の中に、さっき歩いた道順がすぐ浮かぶ。
「犬の散歩をしている人がいれば聞く」
ここまで言ってから、彼は一拍置いて続けた。
「分からなければ交番」
「交番ですか」
思わず聞き返すと、恒一さんはうなずく。
「最終的にはな。でも、見覚えがあるなら近所で分かる可能性が高い」
淡々とした声なのに、その言葉が胸の奥にじんわり染み込んでくる。
ちゃんと道筋がある、とわかっただけで、抱えていた不安が少し軽くなった気がした。
私は脚にくっついているこの子をなでながら、小さく深呼吸をした。
リードがないことを思い出して不安になりかけたところで、恒一さんが言った。
「歩かせるな。抱いていく。急に走られると困る」
私はうなずき、そっとわんこさんを抱き上げる。
腕の中で、さっきと同じようにおとなしく体を預けてくれる。
心臓の鼓動が、私の胸の少し下あたりでとくとくと規則正しく動いている。
恒一さんは、玄関で鍵とスマホをポケットに入れ、薄手の上着を手に取ってから、ドアの方へ向き直った。
そのとき、わんこさんが私の腕の中から首だけ伸ばして、恒一さんをじっと見た。
さっき吠えた相手を、もう一度確かめるみたいに。
恒一さんも、ほんの一瞬だけ見返す。
「行くぞ」
短くそう言われて、私は腕の中の温もりを抱き直した。
「はい」
靴を履きながら返事をして、この子のお母さんにちゃんと会わせてあげよう、と胸の中でそっと約束した。
名前も家も知らない白い犬を抱いて、私たちは、自分たちの近所をもう一度歩くことになった。
3
外へ出た私たちは、まず管理人室の前で足を止めた。
私はわんこさんを抱き直し、恒一さんが先にインターホンを押す。
ドアが開き、掃除道具を持った管理人さんがこちらをのぞき込む。
「すみません。この犬、見覚えありますか」
私は慌てて補足した。
「さっき、バス通りの街路樹のところに、一匹でいたんです」
腕の中のこの子を、そっと持ち上げて見せる。
「まあ、きれいな子ねえ」
管理人さんは、目を細めて毛並みや首輪を眺める。
「このマンションの子ではないと思うけど……でも、このへんで見たことあるような気もするわね」
決定的な名前も部屋番号も出てこないまま、言葉がそこで止まる。
そうですか、と応じながら、胸の奥がひやりと冷える。
近所だと分かっているのに、手がかりが指の間からこぼれていくみたいな気になった。
管理人さんのところをあとにして、私たちはまたあの街路樹のところに戻ってきた。
「ここか」
「はい。この木の下にいました」
腕の中で、わんこさんが鼻をひくひくさせる。
でも、どこかへ駆け出したがるほどではなくて、ただ空気を確かめているみたいだった。
恒一さんは、街路樹と歩道、それから車道の方を順番に見ていく。
バス停、近くのマンション、角を曲がった先の道まで、視線でゆっくりなぞる。
「遠くから来た感じじゃないな」
ぽつりとこぼれた言葉に、私は思わず聞き返す。
「分かるんですか」
「首輪もきれいだし、疲れてもいない。ここで長くうろうろしてたなら、近所の可能性が高い」
淡々とした説明が、すっと胸に入ってくる。
「じゃあ、このあたりで聞いた方がいいですね」
「飼い主も、まずこの辺を探すだろうしな」
派手な推理なんてひとつもないのに、観察だけで道筋を立てていくその声が、とても頼もしく感じられた。
私は腕の中のこの子をそっとなで、小さく息をついた。
近くの小さな公園まで足をのばすと、ちょうど犬を連れた女性や、ベンチに座る年配の人たちがいた。
私は腕の中のわんこさんを抱き直して、一歩前に出る。
「すみません、この子、どこの子か分かりますか?」
「かわいいわねえ」「シーズーちゃんね」「このへん、シーズー多いのよ」
口々にそう言われて、少しだけ期待がふくらむ。
「見たことあるような気もするけど……」
そこで言葉が途切れて、決定的な情報は出てこない。
何人かに同じ質問をしても、答えは似たようなものだった。
私は腕の中のわんこさんを、ぎゅっと抱き直す。
「私、見たことあると思ったんですけど」
思わずこぼすと、隣で恒一さんが落ち着いた声を出した。
「焦るな。分かったことは増えてる」
「増えてます?」
「うちのマンションではなさそう。バス通り周辺で見覚えがある人はいる。近所の犬の可能性は高い」
「なるほど」
口から出た瞬間、すかさず低い声が返ってきた。
「なるほど、じゃない」
軽くたしなめられたみたいで、思わず笑ってしまう。
笑いながらも、不安の温度が少しだけ下がっているのを感じた。
それからも、近所に住んでいそうな人に声をかけていた。
三人目か四人目くらいで、買い物帰りらしいエコバッグを下げた近所の人が立ち止まった。
「あれ、この子、森下さんとこのモモちゃんじゃない?」
初めて出た固有名詞に、私は腕の中のわんこさんを見る。
「モモちゃん?」
呼びかけると、耳がぴくりと動いて、しっぽが小さく振れた。
胸のあたりがぱっと明るくなる。
「反応しました」
思わず顔を上げると、恒一さんが短くうなずく。
「名前は合ってるな」
買い物帰りの人が続けて教えてくれる。
「この先の角を曲がったところの、白い門のおうちよ。奥さんがよく散歩させてるわ」
白い門、という言葉だけで、なんとなくあの通りの風景が頭に浮かぶ。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げると、腕の中のモモちゃんは、相変わらずおとなしく私にもたれている。
行き先がやっとはっきりしたことで、胸の奥にふわっとあたたかいものが広がった。
ひとまず、ちゃんと帰れる。
そう思うだけで、足どりが軽くなる。
二人で教えられた家まで歩くと、小さな庭の奥に白い門が見えた。
表札には、たしかに「森下」とある。
「よかった。帰れますね」
胸がほっとゆるむ。
その勢いのままインターホンを押した。
……出ない。
少し間をおいて、もう一度押す。
それでも応答はなかった。
腕の中のモモちゃんが、門のあたりをじっと見て鼻をひくひくさせる。
知っている匂いなのだろう。
でも、中へは入れない。
「留守ですね」
そうつぶやくと、恒一さんが短くうなずいた。
「そうだな」
「どうしましょう」
「少し待つ。戻ってくるかもしれない」
門の前で少し時間を置いて、近くをぐるっと回って、もう一度戻ってきても、やっぱり静かなままだった。
「本当に森下さんちの子なんでしょうか」
不安がまた顔を出す。
「名前に反応した。場所にも反応してる。情報としては近い」
「でも、おうちに誰もいません」
「そこが分からない」
淡々とした声に、私はモモちゃんを抱き直しながら、不安を顔に出すと本当になりそうで、無理に笑った。
名前は分かった。
家も分かった。
それなのに、モモちゃんはまだ、帰る家の前で私の腕の中にいた。
4
森下さんちの門の前で、私はモモちゃんを抱いたまま動けなくなっていた。
表札も門も分かったのに、チャイムを押しても誰も出てこない。
恒一さんはしばらく門と家を見てから、静かに言った。
「もう一度、この周辺を回る。それで分からなければ交番だ」
「森下さんのおうち、分かったのに……帰せないんですね」
自分で言いながら、胸がしゅんと小さくなる。
「名前と家は分かった。前進はしてる。ただ、今は人がいない」
状況だけをきちんと並べた声に、私はうなずきながら、腕の中のモモちゃんをもう一度ぎゅっと抱きしめた。
一度、家に戻ることにした。
玄関を入ると、モモちゃんはまたきょろきょろと匂いを確かめる。
私は保存容器にもう一度水を入れて床に置いた。
喉が渇いていたのか、夢中で飲んでいる。
その様子を見ていたら、自分がお昼を食べていないことも、買い物に行けていないことも、まとめて思い出した。
「この子のごはん、どうしましょう」
つい口にすると、恒一さんが即答する。
「分からないものは食べさせるな。水だけでいい」
「はい」
現実的な一言に、変にほっとする。
私はローソファに腰を下ろし、飲み終えたモモちゃんをそっと隣に呼んだ。
ぴたりと体を寄せてきて、また私の脚にくっつく。
「この子のおうちに帰さないと」
心の中でそう繰り返しながら撫でていると、モモちゃんはさらに体重を預けてくる。
恒一さんが近づくと、さっきほどではないけれど、じっと見上げた。
「まだ牽制してるな」
「覚えてるんですね」
「余計なことは覚えなくていい」
少しだけ口元がゆるんだ声に、私もつられて笑ってしまった。
笑いながらも、この温もりをちゃんと返さなきゃ、と胸の奥でそっと思っていた。
外に出ると、イチョウの黄色が朝より濃く見えた。
風も少し冷たくなっている。
昼間は二十二度で、コートの前を開けて歩けるくらい暖かかったのに、夕方になるとちゃんと秋だ。
私は、午前中には開けていたコートの前を片手で少し寄せる。
もう片方の腕には、相変わらずモモちゃんの体温がある。
「日が落ちる前に、もう一周する。だめなら交番」
恒一さんがそう決めてくれて、私は素直にうなずいた。
「はい」
この時点で、ふたりとも少し疲れている。
足も腕も重い。
それでも、大きな事件ではないと分かっているからこそ、静かな焦りだけがじわじわと胸の中に広がっていく。
腕の中の小さな重みを抱き直しながら、今度こそちゃんと帰ろうね、とモモちゃんの耳のあたりに心の中でそっと話しかけた。
もう一度、森下さんちの前を通る。
白い門も表札も変わらないのに、インターホンはやっぱり静かなままだ。
その周辺をゆっくり歩く。
小さな庭のある家、灯りの入った門灯、玄関先の鉢植え。
どこかの台所からは、夕飯の匂いがふわっと流れてくる。
帰宅する人の足音も増えてきて、さっきまでとは違う街に見えた。
「このへん、午前中と全然違って見えますね」
思わずこぼすと、隣で恒一さんが短く答える。
「人が帰ってくる時間だからな」
腕の中のモモちゃんの体温と、家々の灯りが、なんだか一緒にあたたかく感じられた。
小さな庭のある家の前を通りかかったとき、ちょうど玄関のドアが開いた。
中年の男性がウィンドブレーカーを羽織りかけて出てくる。
片手にはスマホ。
顔つきは、明らかに焦っている。
もしかして、と思う。
でも確証はない。
胸の鼓動が少しだけ早くなる。
「すみません、この子、知りま――」
声をかけかけたところで、その人がこちらを見て叫んだ。
「あ! それです!!」
思わず固まる。
言われた「それ」に、腕の中のモモちゃんを見下ろす。
「あ、いや、その子です!」
慌てて言い直した男性の頬が、少し赤くなる。
モモちゃんはというと、まるで合図を理解したみたいに、私の腕の中でしっぽをぶん、と大きく振った。
胸の奥に、一気にあたたかいものが広がっていく。
男性はモモちゃんを見た途端、ふっと肩の力が抜けた。
顔から、さっきまでの焦りがすうっと消えていく。
「あああ、すみません。三浦といいます」
「森下さんご一家、旅行中で。うちで預かってたんです」
ほっとした声が少し震え気味に続く。
「家内が、ちょっと目を離したすきに。もう探しに出てて」
「私も会社を早退して、今から探しに行こうとしてたところで」
その言葉を聞いた瞬間、背筋がひやりとした。
もし誰にも見つけてもらえなかったら、と考えてしまう。
私の腕の中で、無邪気にしっぽを振っているこの子を見下ろした。
恒一さんは、そんな私の動揺とは別に、いつもの落ち着いた声で言う。
「怪我はしていないと思います。水は飲ませました。食べ物は与えてません」
淡々とした報告が、やけに頼もしい。
三浦さんは何度も頭を下げながら、「ありがとうございます」と繰り返した。
私はモモちゃんの体温を感じながら、ようやくちゃんと「帰れた」んだと、胸の奥で静かに安堵した。
モモちゃんをそっと三浦さんに渡すと、その腕の中でぴたりと落ち着き、うれしそうにしっぽを振った。
その様子を見て、やっと胸の奥で言葉になる。
ああ、この人は知っている人なんだ。
そう思えて、全身から力が抜けるようにほっとした。
三浦さんはモモちゃんを見ながら、何度も頭を下げた。
「本当に助かりました。家内にもすぐ連絡します。森下さんにどう言えばいいかって、もう……」
少し言葉が崩れているのが、逆に切実で胸に響く。
「見つかってよかったです」
私がそう言うと、隣で恒一さんが落ち着いた声で続けた。
「迷子札がなかったので、森下さんにも伝えておいた方がいいかもしれません」
「そうします。絶対そうします」
首輪に連絡先を、と提案されて、三浦さんは勢いよくうなずいた。
名前も家も分かったのに帰れなかったモモちゃんは、ようやく、知っている人の腕の中に戻った。
私は空になった腕を、少しだけ持て余した。
5
三浦さんに何度も頭を下げられて、私たちはその家の前を離れた。
背後では、三浦さんがどこかに電話をかけている。
「見つかった。うん、大丈夫。今、戻ってきた」
そんな声が、風にまじってほんの少しだけ聞こえた。
ああ、本当に解決したんだ、と胸の奥で静かに実感する。
腕の中は、さっきまで確かにあった重みがなくなって、少しだけ持て余すような心許なさが残った。
急に軽くなったはずなのに、その軽さになかなか慣れない。
歩き出してすぐ、私はぽつりと言った。
「ちゃんと帰れてよかったですね」
「そうだな」
恒一さんの短い相づちに、胸の奥がもう一度ほっとする。
「預かってる子がいなくなったら、怖いですよね」
「かなり焦るだろうな」
さっきの三浦さんの顔を思い出して、私はうなずいた。
「すぐ探しに出てた。悪い人じゃないだろ」
「はい。だから余計に、見つかってよかったです」
空になった腕がまだ少しさびしいのを感じながら、代わりにコートの前をぎゅっと寄せた。
さっきまで腕の中にいた重みを思い出しながら歩いていると、ふと口が動いた。
「モモちゃん、もう怒りませんね」
「そうだな」
少し並んで歩いたところで、恒一さんが自然な動きで私の手を取る。
指先が絡んだ瞬間、私は思わず顔を上げた。
「今なら怒られない」
低い声でそう言われて、顔がじんわり熱くなる。
「怒られるから、繋がなかったんですか?」
「何度も吠えられたからな」
「新婚なのに」
「犬には関係ないだろ」
「あります。たぶん」
そう返すと、指先に入る力がほんの少しだけ強くなった。
夕方の冷えた風の中で、つながれた手だけが、確かにあたたかかった。
手をつないだまま、私たちはマンションの方へ歩いていく。
夕方から夜に変わりかけていて、門灯やマンションの窓にぽつぽつと灯りがともりはじめている。
買い物袋を下げた人、犬の散歩をする人。
今日一日歩き回った道が、朝とは少し違って見えた。
「このへん、知ってるようで、知らないことが多いですね」
そう言うと、恒一さんが横目で前を見たまま答える。
「住んで、もうすぐ二年か」
「でも、今日は少し知りました。モモちゃんのことも、森下さんのことも、三浦さんのことも」
「犬の名前からか」
「大事です」
きっぱり言うと、つながれた手のあたたかさが、優しく広がった。
手をつないで歩いていたら、ふいに現実が戻ってくる。
「あ」
「なんだ」
「ぶりと豆腐、買ってません」
「そうだったな」
ちゃんと分かっていたみたいな声に、思わず苦笑いがこぼれる。
「炊き込みご飯はできます」
「豆腐はない?」
「揚げ出し豆腐は、明日です」
「今日は」
「あるもので」
そう宣言する。
今日一日、いろいろあったけれど、家に帰ればいつものダイニングが待っている。
その当たり前が、嬉しい。
モモちゃんはモモちゃんの家へ帰った。
私たちは、私たちの家へ帰ってきた。
それだけのことが、今日は少しだけ、特別に思えた。
ひより日和 新婚編 第13話 「家に帰る」 おわり




