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14/26

第14話 「非常灯」 前編

1


お歳暮の案内パネルやコートのディスプレイが、少しだけ冬を主張し始めた館内。

十一月の大蔵屋は、空気だけ先に冷たくなったみたいに、どこか落ち着かない。


インフォメーションカウンターから見えるホールには、お歳暮ギフトセンターの案内ボード。

「冬のご挨拶 承り中」の文字が、朝よりも人を集め始めている。


「お歳暮ギフトセンターは八階でございます。直通のエレベーターですと、こちら右手側をご利用くださいませ」


いつもの声のトーン。

慣れた案内をしながらも、視線だけは時々、館内装飾の準備に向かう。

吹き抜けの上階では、スタッフが大きなオーナメントをまだ箱から出している途中で、きらきらした球体がいくつもテーブルに並んでいる。


「クリスマスケーキのご予約は、地下食品売場の特設カウンターで承っております。エスカレーターを降りてすぐ左側でございます」


昼前の館内は、すでに少しざわついている。

地下食品売場へ向かう人の流れが太くなり、ベビーカーを押すお客様や、紙袋をいくつも提げたスーツ姿の男性が、カウンターの前を通り過ぎていく。


カウンターの電話回線のランプが一つ光り、私は受話器に手を伸ばす。


「お電話ありがとうございます。大蔵屋総合インフォメーション朝倉でございます」


クリスマスケーキの予約についての問い合わせ。

受話器の向こうの声に「ありがとうございます」と一つずつ相槌を打ちながら、メモに要点を書き留める。


「店頭でのご予約は十二月二十日まででございます。はい、地下食品売場の特設カウンターでございます」


受話器を置き、深呼吸を一つ。

視界の端で、ツリー用の支柱が運ばれていく。


そのときだった。

ふだんは意識しないくらい当たり前に流れていた館内BGMが、ふっと、空気から抜け落ちる。


「……あれ?」


思わず顔を上げる。

さっきまで確かに聞こえていた、軽いジャズ調のウィンターソングが途切れ、館内全体が、一瞬だけ「音の無い部屋」になったように感じる。


ざわめきだけが、やけに大きく耳に届く。

エスカレーターのモーター音、ベビーカーの車輪のきしみ、お客様同士の会話。


「BGM……止まっちゃったね」


隣で一緒に立っていた恵美が小さくつぶやく。

私は苦笑いを浮かべて、首元のスカーフを指で整えた。


「またすぐ、流れるよね」


そう言いながらも、ほんの少しだけ落ち着かない。

音楽がないだけで、さっきまでと同じ景色が違って見える。


その静けさの中で、カウンターに近づいてくるヒールの音が、いつもよりはっきりと響いた。


「いらっしゃいませ」


私は、いつもと同じように、微笑んで頭を下げた。



ふっと暗くなった、と感じたのは、天井の白い光が色を失ったからだった。

常時点いているはずのダウンライトが一斉に落ち、代わりに、壁際や通路の非常灯と誘導灯だけが白っぽく浮かび上がる。


外光が入る一階正面は、まだ薄く明るい。

けれど、エスカレーター奥の通路や、地下へ続く階段口は、緑の人型マークと細い非常灯の光だけが頼りで、いつもより遠く感じられた。


「あれ……」


「暗くなった?」


ぽつぽつと上がった声が、やがてざわつきに変わる。

インフォメーション前に、自然と人が集まり始めた。


「今、何が起きたんですか」

「停電ですか」

「エスカレーター、止まってますよ」


幾つもの問いが、重なって飛んでくる。

私は一瞬だけ息を呑んだ。

喉の奥がきゅっと固くなる。


けれど、それを表情には出さない。

胸の前でそっと手を組み替えて、口角だけをすっと引き上げる。

インフォメーションの笑顔ではなく、研修のときに何度も練習した、非常時の顔に切り替える。


「ただいま館内設備を確認しております。恐れ入りますが、係員の案内に従って、足元にお気をつけくださいませ」


一人に向けてではなく、前にいる全員に届くように。

マイクはないけれど、声を少しだけ張って、言葉を区切って伝える。


「エスカレーターは現在、安全のため停止しております。お急ぎのお客様も、階段をご利用の際は、足元にお気をつけくださいませ」


自分が分かっていることだけを、淡々と。

「停電です」とは言わない。まだ設備からの連絡は来ていない。

知らないことは、決して断言しないと、指導されたとおりに。


カウンターの内側で、指先がほんの少し震えている。

それでも、非常灯に照らされた床は、いつもと変わらない様子で、静かに白を反射していた。



2


防災センターからの連絡を受けたのは、モニターの一部が一瞬だけ暗くなったのと、ほぼ同時だった。


「館内の一部系統、電源落ちました」

「エスカレーター、全部停止入ってます」


設備担当の報告を聞きながら、俺はモニターに目を走らせる。

非常灯系統のランプがじわじわと点き始め、売場の映像が、いつもより白っぽい光に縁取られていく。


「各階、朝倉です。エスカレーター前、すぐ塞げ」


無線機に口を寄せて、短く告げる。

声を荒げる必要はない。

指示は短く、はっきり。


「乗っていたお客様の転倒確認。倒れた人がいないか、必ず見ろ」


「了解」

「三階、今確認入ります」


各階の返事が重なって入ってくる。

モニターの中で、止まったエスカレーターの踏段の上に立ち尽くす人影が見えた。

照明が落ちて、非常灯だけが浮いている。


「階段側へ誘導。停止中のエスカレーターは使わせない」


言いながら、もうセンターを出ていた。

通路は外光のある部分だけまだ明るくて、その先、奥まった通路や地下への階段は、誘導灯と非常灯の頼りない光だけだ。


「エレベーターは使わせない。籠に客がいないか確認。何号機が停止してるか防災センターに人数を上げろ」


無線に乗せる言葉を、頭の中で優先順位順に並べていく。

余計な推測や感想はいらない。

現場が今欲しいのは、やることだけだ。


「四階、エスカレーター全機停止。乗っていたお客様、よろめきはありましたが、けが人なしです」

「一階、売場係員が乗り口を塞いで、階段にご案内しています」


報告が返ってきた瞬間、胸の奥で小さく固まっていたものが、少しだけゆるむ。

今のところ、誰も怪我で運ばれていない。


「報告続けろ。お客様の誘導を最優先。何かあれば、すぐ無線で上げてくれ」


そう締めて、俺は足を速める。

非常灯に照らされた床の白さが、いつもより冷たく見えた。


エレベーターの表示盤を、一本ずつ追う。

多くの籠は停電時制御で最寄り階に着床し、扉を開けて静止している。

ドアの隙間から漏れる明かりと、人の気配を確認していく。


問題は一本だけだ。

バックヤード側の業務用エレベーター。

ランプの位置が中途半端で止まり、扉も開いていない。


「ここ、中の確認、入ってるか」


近くにいた設備担当に声をかける。

まず、状況を正確に把握する。


「中と通話できているか」

「人数は」

「体調不良者は」

「保守会社への連絡は済んでるか」


俺が投げた問いを、設備が一つずつ拾っていく。

インターホン越しの返答を聞きながら、必要な情報だけを頭の中で並べ替える。


「三人です。皆さん立っておられて、呼吸も会話も問題ないと」

「保守会社にはもう連絡済みです。到着まで二十分ほどかかると」


それを聞いて、少しだけ肩の力を抜く。

それでも、安心しきることはしない。


「近くに係員を立たせろ。声をかけ続けて。中にいる人が不安にならないように」


そう指示してから、振り返って売場側を見る。

ざわつきと不安が、背中越しに伝わってくる。


「お客様に、大丈夫ですと言い切るな」


俺は言葉を選ぶ。


「確認中です、と伝えて」


過剰な安心は、あとで裏切ることになる。

停電を軽く見るつもりは、最初からない。


でも、騒がない。

人が止まる場所、人が溜まる場所、人が転ぶ場所。

エスカレーターの乗り口、階段の踊り場、エレベーターホール。


そこだけを、順番に潰していく。

それが、今の俺の役目だ。



3


インフォメーションの前には、停電直後よりも、はっきり人が増えていた。


「エスカレーターが止まってるんですけど、地下へはどう行けばいいんですか」

「エレベーターは使えないんですか」

「会計途中だったんです」

「クレジットカード、使えますか」

「地下でケーキを予約しているんです」

「駐車場って出られますか」


さっきまで「何が起きたんですか」だった声が、どんどん具体的になっていく。

私は一つずつ答えるけれど、「分からないこと」が、胸の中に小さく積もっていくのが分かった。


「ただいま確認中でございます」

「係員が順次ご案内いたします」

「足元にお気をつけくださいませ」

「お会計につきましては、各売場で確認しております」


口から出ていく言葉は、どれもマニュアルどおりだ。

それでも、目の前に溜まっていく「不安」のかたちは、ひとつずつ違って見える。


エスカレーターを指さす人、レシートを握りしめている人、駐車券を気にしている人。

私のところに集まる質問に、全部は届かない答えで、なんとかふたをしているような感覚があった。


ひんやりした指先を、カウンターの下でそっと握る。

震えないように、でも、声だけは落とさない。

「申し訳ございません。ただいま確認中でございます」と、いつもより一音一音をはっきりさせて、正面を見て言い続ける。



恵美は、客前ではきちんとした声になる。

でも、私にだけ聞こえるくらいの小さな声では、いつもの現実的なトーンだ。


「ひより、駐車場の情報、更新あった?」


「係員対応に切り替えるってところまで」


「じゃあ、そこまで。機械式のことはまだ言わない方がいい」


「うん」


短くやり取りをしてから、恵美はお客様の方へ身体を向ける。

さっきまでの小声とは別人みたいに、はっきり通る声になる。


「駐車場につきましては、現在係員が順次対応しております。恐れ入りますが、係員の案内があるまで、その場でお待ちくださいませ」


きれいな言葉が、すっと空気に乗っていく。

その背中を見ているだけで、胸のあたりに溜まっていた硬いものが、少し緩んだ。


ひんやりした指先はまだ冷たい。

それでも、恵美の声を聞いていると、自分の呼吸がいつものリズムに近づいてくる。


「大丈夫って言い切らないで、分かっているところまでを伝える」


さっき館内電話でフロアマネージャーからの指示で聞いた言葉を思い出しながら、私はもう一度、カウンターの前のお客様に向き直った。



恵美は、私より特別愛想がいいわけじゃない。

でも、情報の扱い方がうまい。

言っていいところで、きちんと止める。

分からないことを、分かるような顔で言ったりしない。


「分からないものは、分からないって言うしかないのよ。勝手に言ったら、あとでこっちが詰む」


さっきバックで小声でもらった一言を思い出す。

言い方は少し乱暴なのに、その「分からないって言っていい」という許可が、胸の奥ではっきり救いになっていた。

私は、目の前のお客様に向き直りながら、「分かっているところまで」を丁寧に区切って、もう一度、言葉を選ぶ。



私と恵美は、気づけば自然に役割を分けていた。


私は、カウンターの真正面に立っているお客様に向き合う。


「恐れ入りますが、地下食品売場へは、係員の案内に従って階段をご利用くださいませ」

「ただいまエレベーターのご利用を一時停止しております」

「お急ぎのところ申し訳ございませんが、安全確認が取れるまでお待ちくださいませ」


言いながら、顔はお客様の方を見たままにしておく。

視線を外した瞬間に、不安だけがこちらに置いていかれそうな気がするから。


その横で、恵美はひたすら「情報」を拾っている。

カウンターの内線、売場から走ってくるメモ、近くを通った係員の短い報告、どこかからか回ってきた警備の連絡。

全部を一度、恵美の中で受け止めてから、小さな声で私に渡してくれる。


「地下のレジ、一部再開って」

「駐車場、係員誘導に切り替え」

「エレベーター、表側は全部停止中」


断片的な情報が、私の耳元にだけ落ちてくる。

それを、お客様に伝えていいところまで言葉にして、正面に返す。


恵美が背中を支えてくれているみたいで、さっきまで胸の奥で冷えていたものが、少しだけ温度を取り戻していくのを感じた。


「地下食品、冷蔵品は一部販売止めるって」


耳元で、恵美がメモを見ながら小さく言う。


「全部?」と、思わず聞き返してしまう。


「全部とは言ってない。だから、そこは言わない」


「うん。ご予約品は売場確認、だよね」


「そう」


そのとき、カウンター前から声が飛んだ。


「冷蔵品はもう買えないんですか」


反射的に「全部止まっておりまして」と言いかけて、喉の奥で言葉がつかえる。

横から、恵美の低い声がすっと入る。


「商品により対応が異なります。各売場で確認しておりますので、係員の案内をお待ちくださいませ」


その続きを、私はすぐにつなぐ。


「ご予約品につきましても、売場へ確認いたします。恐れ入りますが、お名前とご予約の売場をお伺いしてもよろしいでしょうか」


二人の声が、ひとつの対応みたいにつながる。

言い過ぎそうになったところを、恵美がさりげなく止めてくれたことに気づいて、胸の奥が少し熱くなる。


「分からないことは、分からないって言っていい」


さっきの言葉が、今はちゃんと支えになっている。

私はお客様の目をまっすぐ見て、分かっているところまでを、ゆっくりと言葉にしていった。




少し声の大きなお客様が、カウンターにまっすぐ歩いてきた。

会計途中だったと話していたスーツ姿の男性だ。


「さっき現金なら買えるって聞いたんですけど。こっちは急いでるんです」


真正面からぶつかってくるような視線に、思わず背筋が伸びる。


「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。現在、売場ごとに対応を確認しております」


できるだけ丁寧に言葉を選ぶ。

けれど、男性の眉間の皺は、そのままだ。


「じゃあ、いつ分かるんですか」

「駐車場代はどうなるんですか」

「商品は取り置きできるんですか」


矢継ぎ早に飛んでくる質問に、胸の奥がきゅっと縮む。

今すぐ全部に答えたい。

「大丈夫です」と言ってしまいたい。


でも、今の私には分からないことばかりだ。

勝手な約束をして、あとで守れなかったとき、お客様の怒りはもっと大きくなる。

頭では分かっているのに、目の前の苛立ちに、喉の奥の言葉が絡まる。


「……現在、駐車場と売場の対応を確認しておりまして」


それ以上が、うまく続かない。

カウンターの下で握りしめた指先に、冷たい汗がじわっと滲んだ。


私が言葉を探しているその横で、恵美が一歩だけ前に出た。

カウンターから身を乗り出すわけではなく、本当に半歩ぶんだけ前へ。


「恐れ入ります。現時点でこちらからご案内できますのは、各売場で対応確認中というところまででございます。確認が取れていない内容をお伝えすることはできません」


言い方は丁寧だ。

でも、その中に一本、はっきりとした線がある。


「ここから先は言えません」と、静かに伝えているような声。


男性はまだ不満そうで、眉間の皺も消えない。

それでも、「……分かりました」と小さく吐き出して、ほんの少しだけ引いた。


横でそのやり取りを見ながら、私は恵美の「強さ」を見ていた。

お客様をねじ伏せているんじゃない。

勝手な約束をして、あとで誰かを困らせないように、ちゃんと止まっている。


さっきまで「ちょっと乱暴」と思っていた言い回しも、その奥にある慎重さも、今は一緒に見える。

こんなふうに線を引けるのが、恵美なんだ。



インフォメーション前のざわつきの向こうから、制服の警備員が一人、まっすぐこちらに向かってくるのが見えた。

神田さんだ。

駐車場か地下から上がってきたばかりなのか、肩口に少しだけ外気の冷たさを残しているように見える。


カウンターの少し横で足を止めると、まず恵美に視線を向けた。


「前田さん、駐車場、精算機止まってます。係員対応に切り替えました」


仕事中の声だ。

柔らかさより、情報が先に来る。


「出庫は?」


「順番に出してます。バーゲートは手動です。機械式は設備確認が済むまで触れません」


短く必要なところだけを渡して、黙る。

恵美はすぐに頷いた。


「了解。ひより、駐車場はそこまで案内」


「うん」


私は正面のお客様の方へ身体を向け直す。


「駐車場につきましては、現在精算機が停止しており、係員によるご案内に切り替えております。出庫は順番に係員が対応いたしますので、その場でお待ちくださいませ」


神田さんは、私には特に何も言わない。

その距離の取り方が、今はむしろ安心だった。


神田さんが一歩下がろうとしたとき、恵美がふと足元を見る。

靴のつま先が、うっすら濡れている。ズボンの裾にも、点々と汚れ。


「……地下行ったの」


問いかけは小さいけれど、すぐ分かる言い方だ。


「うん」


「滑ってないでしょうね」


「滑ってない」


「ならいい。仕事戻って」


会話はそれだけ。

一瞬、神田さんの口元が笑いそうになったのを、私は見た。

けれど、すぐに表情を戻して、「はい」とだけ答え、通路へ向き直る。


恵美が神田さんを引き留めたり、甘い言葉をかけたりすることはない。

それでも、濡れた靴と裾の汚れにちゃんと気づいて、「滑ってないでしょうね」と確認する。


その横で、私はふたりを見ているけれど、茶化さない。

今はそういう時間じゃないことが、空気で分かる。

インフォ前に溜まっている不安と同じくらい、ここには「仕事中」の緊張があった。


私は視線をお客様に戻し、いつもの言葉を繰り返す。

でも胸のどこかで、恵美が誰をどう気にしているのかを、静かに知ってしまった気がしていた。



私は、前に並んでいるお客様に向き直った。


隣で、恵美が小さく頷く。


「機械式駐車場をご利用のお客様は、設備確認が済むまでお待ちいただいております」


さっき神田さんから入った情報が、そのまま言葉になっていく。

さっきまで「分かりません」としか言えなかったところに、少しだけ具体的な案内が足された。


それでも、まだ全部は分からない。

どのくらいで復旧するのか、今日中に終わるのか、レジはどこまで動くのか。

お客様が本当に知りたいことの、いちばん先までは届かない。


その不完全さを抱えたまま、私は声を出す。


「ご迷惑をおかけしております。分かり次第、順次ご案内いたします」


今の自分の役目は、「全部を知ること」じゃない。

分かったことを、分かった瞬間に、できるだけ正確にお客様へ渡すこと。

その間に立つのが、インフォメーションの仕事なんだと、胸の中で静かに言い聞かせる。


不安も迷いもゼロにはならない。

それでも、言葉を止めないことだけは、私がここでできることだと思った。


目の前の人が次にどこへ行けばいいか。

何を待てばいいか。

何がまだ確認中なのか。


それを伝えることなら、できる。


非常灯の白い光の下で、私はカウンターに立ち続ける。



問い合わせが一瞬だけ途切れた。

けれど、水を飲む暇もない。

喉の渇きも、今は後回しになっている。


隣で、恵美が小さく息を吐いた。


「……ほんと、電気って偉大ね」


「うん」


「レジも、駐車場も、エスカレーターも、全部止まるんだもん。人間、急に手作業になるのね」


「でも、みんな動いてる」


「そうね」


恵美が、少しだけ私を見る。


「ひより、大丈夫?」


「怖いより、分からないことが多い方が困る」


「分かる。だから、分かってるところだけ言えばいいのよ」


「うん」


そのタイミングで、またお客様が近づいてくる気配がした。

二人は同時に顔を上げる。


「いらっしゃいませ」


非常灯の白い光の下で、私はもう一度、声を整える。



4

挿絵(By みてみん)


『主任、神田です』


無線から神田の声が入ったのは、業務用エレベーター前に係員を一人立たせた直後だった。


『地下食品、確認入りました』


無線の向こうで、神田の声が少しだけ息を含んでいた。


「状況」


『店頭の冷蔵ケース、止まってます。食品部が冷蔵食品とパック飲料、生鮮食品を下げ始めてます。あと、バックヤード、冷凍庫前の床が濡れてます』


「滑るか」


『滑ります』


「段ボールを敷かせろ。台車を走らせるな。お客様を地下へ戻すな」


『もう言ってます』


「そうか」

「混雑は」


『まだあります。昼前なんで、けっこう人います』


返事が早い。

神田はこういう時、余計なことを言わない。

普段は少し軽いところもあるが、現場に入ると必要なものだけを拾ってくる。


「そのまま地下に残れ。俺も行く」


『了解』


無線を切って、地下へ向かう階段に足を向けた。


非常灯だけの階段は、いつもより段差が浅く見える。

明るさが足りないだけで、人は一段を見誤る。

急げば転ぶ。

立ち止まれば、後ろが詰まる。


「階段は右側通行で流せ。下りと上りを混ぜるな」


近くの係員に声をかけると、相手は少し強張った顔で頷いた。


「はい」


「声を出し続けてください。黙ると、お客様が自分で判断する」


それだけ言って、地下へ降りる。


一階とは、空気が違った。


非常灯の白い光が、食品売場の床に細く伸びている。

普段なら明るすぎるくらいのショーケースが沈黙していて、ガラスの中の惣菜やケーキだけが、妙に取り残されたように見えた。


売場のあちこちで、店員が商品を下げている。


「店頭の冷蔵食品とパック飲料、いったんバックへ下げます」

「チーズは温度記録取って」

「アイスは厳しいです」

「冷凍庫、開けないでください。開けると温度上がります」


声が重なる。


俺は、商品の判断には入らない。

それは食品部と売場責任者の仕事だ。

売れるか、売れないか。

廃棄するか、保留にするか。

そこに警備が口を出す場面ではない。


俺が見るのは、人の足元と、動く場所だ。


「主任」


冷凍食品売場の奥から、神田が手を上げた。

近づくと、床の色が少し変わっているのが分かった。水だ。


冷蔵設備の下から出た水が、通路側へ薄く広がっている。

見た目には大した量ではない。

だが、こういう薄い水が一番滑る。


そのすぐ横を、台車を押した従業員が通ろうとしていた。


「止まってください」


声をかけると、台車の車輪がきしんで止まる。


「そこ、滑ります。台車は通路を変えてください」


「でも、これ、急いで下げないと」


「商品より先に足元を見てください」


相手が息を呑む。

強く言いすぎたかもしれない。

だが、ここで一人転べば、通路はもっと止まる。


神田が横から段ボールを持ってきて、濡れた床に敷き始めた。


「主任、こっちも濡れてます」


「範囲を広げろ。人が踏むところ全部だ」


「了解っす」


近くの食品部の社員が、メモを片手に走りかける。


「走らないでください」


その人は、はっとしたように足を止めた。


「すみません」


「急ぐなら、歩幅を小さくしてください。暗いです」


非常灯は、明るく見えて、影が濃い。

いつもなら見える床の段差も、濡れたところも、台車の車輪止めも、全部が見えにくくなる。


奥の冷凍庫の前で、誰かが扉に手をかけた。


「その扉、必要があるまで開けないでください」


振り返った若い店員が、困った顔をする。


「中の確認を」


「確認する人を一人に絞ってください。何度も開ければ、その分温度が上がります」


食品部の責任者が、すぐに頷いた。


「温度記録係を決めます。開閉は最小限で」


「お願いします」


そこまで言ってから、一歩下がる。


商品の命令系統に入りすぎない。

俺がやるのは、判断ではなく、事故を減らすことだ。


『一階インフォより、駐車場の問い合わせ増えています』


無線に別の声が入る。


続けて、神田がこちらを見る。


「主任、駐車場、俺行きますか」


「行け。精算機とバーゲートの状況を確認。機械式は設備確認が済むまで触らせるな」


「はい」


「インフォにも情報を落とせ。出庫できるか、できないか。そこだけでいい。余計な見込みは言うな」


神田が一瞬だけ頷く。


「了解っす」


踵を返して走りかけた神田に、俺は短く言った。


「走るな」


神田はぴたりと止まり、少しだけ肩をすくめる。


「……歩きます」


それでいい。


神田が階段の方へ向かっていくのを見送ってから、もう一度、地下食品売場を見渡す。


豆腐のケース。

牛乳の棚。

ケーキのショーケース。

氷の入った箱。

普段なら、ただ商品として並んでいるものが、今は全部、時間との勝負になっている。


それでも、人の方が先だ。


通路を空ける。

床を濡れたままにしない。

お客様を戻さない。

台車を走らせない。

冷凍庫の扉を無駄に開けさせない。


一つずつ潰していく。


できることは、派手ではない。

けれど、今ここで必要なのは、派手なことではなかった。


「バックヤード入口、段ボール追加してください」


声を出すと、近くの従業員が「はい」と返事をした。


非常灯の白い光の中で、人の影だけが忙しく動いている。

電気が落ちた大蔵屋は、いつもの大蔵屋ではない。


それでも、誰かが止めて、誰かが運んで、誰かが記録を取り、誰かが通路を空けている。


店は止まっているのに、人だけが動いている。


俺は濡れた床の端を避けて、もう一度、無線機を握った。


「朝倉です。地下食品、足元悪い。お客様を地下へ戻さないでください。各階、階段誘導を継続。駐車場情報は神田が確認中」


短く区切って、最後に付け加える。


「けが人を出すな」


それが、今いちばん優先することだった。



ひより日和 新婚編 第14話 「非常灯」前編おわり 後編に続く


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