第15話 「非常灯」 後編
1
それから、どれくらい時間が経ったのか分からなかった。
時計を見れば、まだ一時間も経っていないのかもしれない。
けれど、非常灯の白い光の下に立ち続けていると、時間の感覚が少しずつ薄くなっていく。
館内のざわつきは、最初のような大きな波ではなくなっていた。
代わりに、細かい不安が、あちこちでずっと音を立てている。
「地下へは行けないんですか」
「会計途中の商品はどうなりますか」
「今日中に復旧しますか」
「駐車場、まだ出られないんですけど」
「予約していたケーキは、取りに行けますか」
同じように見える質問でも、お客様ごとに困っていることは違う。
急いでいる人。
小さな子どもを連れている人。
生ものを買ったばかりの人。
車を機械式駐車場に入れている人。
私は、そのひとつずつに頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしております」
「現在、売場ごとに対応を確認しております」
「係員の案内があるまで、その場でお待ちくださいませ」
言葉はもう何度も口にしているのに、少しも慣れない。
慣れてしまってはいけない気もした。
隣で、恵美が内線を取った。
「はい、総合インフォメーション前田でございます」
客前の声より、少しだけ低い。
受話器を耳に当てたまま、恵美の目だけがメモを追う。
「……はい。はい、承知しました。臨時閉店の方向で調整中、ですね。正式な放送が入るまでは、確認中でご案内します」
受話器を置いた恵美が、息を吐くより先に私を見る。
「ひより」
「うん」
「営業継続、厳しいって。まだ決定じゃないけど、臨時閉店の方向」
胸の奥が、一段だけ沈んだ。
やっぱり、と思う気持ちと、まだだったんだ、と思う気持ちが同時に来る。
レジも、エスカレーターも、エレベーターも、冷蔵ケースも、駐車場も、いつものようには動いていない。
それでも、大蔵屋が「閉める」と決めるまでは、お客様にそうは言えない。
「正式に出るまで、言わないんだよね」
「そう。聞かれても、現在確認中。復旧見込みについても、分かり次第ご案内。そこまで」
恵美は短く言って、メモの端に太い線を引いた。
その線が、今の私たちの言っていい範囲だった。
少しして、フロアマネージャーが足早にやって来た。
いつもなら落ち着いた笑顔の人が、今日は紙の束を握っている。
「インフォ、こちらお願いします。まもなく臨時閉店の館内放送が入ります。お客様には、係員の案内に従って順次ご退館いただくようにお伝えください」
フロアマネージャーが、少し声を落とした。
「通常の館内放送は落ちていますが、防災センター側の非常放送は使えます。まもなく、そちらから臨時閉店の案内が入ります」
そのとき、館内に放送が入った。
【お客様にご案内申し上げます。
ただいま館内の停電により、館内設備および駐車場設備に不具合が発生しており、安全確認のため営業を中止し、臨時閉店とさせていただいております。
ご来店中のお客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、館内は係員の案内に従って、ゆっくりとお近くの出入口までお進みください】
【また、駐車場の出庫につきましても、係員が順次ご案内いたしますので、その場でお待ちくださいますようお願い申し上げます】
いつもの柔らかい館内放送とは違う。
非常用電源でかろうじて生きているスピーカーから流れてくる声は、少し硬く、音も平たく聞こえた。
少し、上を向いて考えるような顔で、館内アナウンスを聞いていたフロアマネージャーが、こちらに向き直って言った。
「駐車場は係員対応。機械式は設備確認が済むまで出庫できない車があります。会計途中の商品は各売場で対応。食品予約品は地下食品の特設カウンターで確認中ですが、地下へのご案内はいったん止めてください」
一度に渡される情報を、必死で頭の中に並べる。
順次退館。
駐車場は係員対応。
機械式は待機。
会計途中は売場対応。
食品予約品は売場確認。
地下へは戻さない。
恵美が横から、紙を一枚引き取った。
「ひより、退館案内はあんたが前。駐車場と会計途中は私が受ける」
「分かった」
「地下に戻りたいって言われたら、止める。予約品も、売場確認中で止める」
「うん」
短いやり取りだけで、身体の向きが決まる。
私はカウンターの正面へ。
恵美は少し横へ。
二人で同じ方向を見る。
館内の空気が、一瞬だけ止まった。
それから、またざわつきが起きる。
「え、閉店ですか」
「まだ買い物途中なんですけど」
「駐車場はどうなるんですか」
「地下に荷物を置いているんです」
「予約品だけ取りに行けませんか」
予想していた声が、予想以上の勢いで押し寄せる。
私は、息を吸った。
「恐れ入ります。ただいま館内設備確認のため、順次ご退館をお願いしております。お買い物途中の商品につきましては、各売場係員がご案内いたします」
隣で恵美が続ける。
「駐車場につきましては、係員が順番に対応しております。機械式駐車場をご利用のお客様は、設備確認が済むまでお待ちいただく場合がございます」
「地下食品売場へは行けないんですか」
「現在、地下食品売場では設備確認を行っております。恐れ入りますが、お客様の地下へのご移動はいったんお控えくださいませ」
何度も頭を下げる。
何度も同じ言葉を繰り返す。
それでも、同じ言葉の中に、少しずつ違う温度を入れる。
怒っている人には、余計な説明を増やさない。
不安そうな人には、待つ場所をはっきり伝える。
小さな子どもを連れた人には、階段の位置と、係員がいることを先に伝える。
できることは少ない。
でも、少ないからこそ、間違えないようにする。
ふと、カウンターの向こうで、年配の女性が立ち止まっていた。
片手に小さな紙袋を提げて、もう片方の手で手すりの方を見ている。
階段を降りる人の流れを見て、少し不安そうにしていた。
私はカウンターを出る。
「階段までご案内いたします」
「いいんですか」
「はい。足元が暗くなっておりますので、こちらへどうぞ」
恵美がすぐに、私の方を見ずに言った。
「ひより、階段の係員まででいい。あとは、向こうに任せて」
「うん」
短く返事をして、女性を階段手前の係員のところまで案内する。
非常灯の下の床は、白くて、いつもより遠く見える。
昼間なのに、百貨店の中だけが夕方になったみたいだった。
「こちらで係員がご案内いたします。どうぞ足元にお気をつけくださいませ」
女性が、小さく頭を下げる。
「ありがとう。大変ね」
その一言に、少しだけ喉が詰まりそうになる。
大変なのは、お客様の方だ。
突然電気が落ちて、買い物も途中で、帰る道もいつも通りではない。
それでも、その人は私に「大変ね」と言った。
「ご迷惑をおかけしております」
私は、もう一度頭を下げて、インフォへ戻る。
戻る途中、館内を見渡した。
エスカレーターの前には係員が立っている。
地下へ続く階段には、警備員が一人ついている。
売場では、店員たちが商品を戻しながら、お客様に頭を下げている。
駐車場へ向かう通路には、誘導のための列ができ始めている。
大蔵屋は、営業する場所から、人を外へ出す場所に変わっていた。
それでも、誰も止まってはいなかった。
カウンターに戻ると、恵美が紙を一枚差し出してきた。
「追加。会計途中の商品、売場で一時預かり。後日対応の可能性あり。確定じゃないから、可能性ありまで」
「分かった」
「あと、食品予約品は名前と連絡先控えるって」
「地下には戻さない?」
「戻さない」
私は頷いて、メモを受け取る。
情報が、少しずつ変わる。
変わるたびに、言葉を変えなければならない。
けれど、変えてはいけないこともある。
分からないことは、分からない。
確認中のことは、確認中。
できないことを、できるとは言わない。
それだけを、何度も自分の中に戻す。
「ひより」
恵美が、小さく呼んだ。
「裏から追加の案内紙、取ってきて。こっち、あたしが受ける」
「一人で大丈夫?」
「大丈夫。あんたもすぐ戻って」
その言い方がいつもの恵美で、少しだけ安心する。
「うん。すぐ戻る」
カウンターを離れて、インフォ裏へ向かう。
表のざわつきが、背中で少しずつ遠くなる。
代わりに、バックヤードへ続く通路の静けさが近づいてくる。
普段なら明るいはずの通路も、今は非常灯だけだ。
壁も床も、色を失って見える。
手にしたメモを握り直しながら、私は足元に気をつけて進んだ。
大蔵屋の中で、明るい場所なんて、もうほとんど残っていない。
それでも、完全な暗闇ではなかった。
白い非常灯が、細く、通路の先を照らしている。
その先へ、私は歩いていく。
2
インフォ裏の通路は、表の売場よりもずっと静かだった。
静か、と言っても、音がないわけではない。
遠くから聞こえる館内放送。
どこかで鳴る内線。
台車の車輪が床をこする音。
無線機の短い声。
ただ、表のように、お客様の声が重なって押し寄せてくる感じはなかった。
その分、非常灯の白さが余計に目立つ。
壁際の非常灯は、普段なら気にしたこともないくらい小さな光なのに、今は通路の奥を細く照らしている。
明るいというより、暗闇にならないように、ぎりぎり踏みとどまっている光だった。
私は、手にしたメモをもう一度見る。
追加の案内紙。
会計途中の商品。
食品予約品。
駐車場。
機械式。
地下へは戻さない。
頭の中で順番に並べ直しながら、足元に気をつけて進む。
普段なら何も考えずに歩ける通路なのに、今日は一歩ごとに床の色を見てしまう。
白っぽい光のせいで、段差も、角も、少し遠く見える。
曲がり角の先から、低い声が聞こえた。
「駐車場出口、列を二つに分けるな。一列で流せ」
思わず足を止める。
声だけで分かった。
恒一さんだ。
次の瞬間、角の向こうから、無線機を手にした恒一さんが現れた。
濃紺の制服の肩に、非常灯の白い光が薄く乗っている。
いつもより顔の陰影が強く見えて、表情はほとんど変わらないのに、少しだけ遠い人みたいに見えた。
恒一さんも、私に気づいて足を止める。
「インフォは」
最初に出てきた言葉がそれだった。
「大丈夫です。こちらで案内しています」
そう答えてから、自分の声が少しだけ仕事用のままだと気づく。
でも、今はそれでよかった。
恒一さんの視線が、私の手元のメモに一瞬落ちる。
「退館案内か」
「はい。追加の案内紙を取りに行くところです。会計途中の商品と、食品予約品の件で」
「地下には戻すな」
「聞いてます」
短い会話の間にも、恒一さんの無線機から声が漏れる。
『主任、駐車場、出口側に人溜まってます』
恒一さんは無線機に目を落とさず、すぐ返す。
「出口前に係員を立たせろ。バーゲート前で止めるな。詰まる」
『了解っす』
神田さんの声だった。
恒一さんはそれを聞いてから、私を見る。
「無理するな」
言われた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ緩みそうになった。
でも、緩めてしまうと、表に戻ったときに声が揺れそうな気がした。
だから私は、少しだけ顎を引いて答えた。
「仕事中です」
恒一さんは、ほんの一拍だけ黙った。
それから、いつもの低い声で言う。
「知ってる」
その一言だけで、十分だった。
大丈夫かと何度も聞かれるより、ずっと落ち着いた。
心配していないわけではない。
でも、今ここで私の仕事を止めない。
それが、恒一さんらしかった。
「あなたは」
言いかけて、言葉を選び直す。
「地下、大丈夫ですか」
「床が濡れてる」
「滑りますか」
「滑る」
「……気をつけてください」
「分かってる」
短い返事。
でも、その靴のつま先に、少しだけ水の跡がついているのが見えた。
ズボンの裾にも、薄く汚れがついている。
思わず、もう一言だけ出そうになった。
滑ってませんか。
大丈夫ですか。
怪我してませんか。
でも、飲み込む。
今、彼は私の夫ではなく、警備主任としてここにいる。
私は、朝倉恒一の妻ではなく、インフォメーションの係員としてここにいる。
だから、言えることだけを言う。
「戻ります」
「ああ」
すれ違うとき、肩が触れるほど近くはなかった。
手も伸ばさない。
足も止めない。
けれど、非常灯の白い光の中で、ほんの一瞬だけ、恒一さんの気配が近くにあった。
それだけで、通路の先が少し見えた気がした。
案内紙の置いてある棚まで行き、必要な分を取る。
紙の端が、指先に少し冷たかった。
表へ戻る途中、もう一度だけ振り返る。
彼は、すでにこちらを見ていなかった。
無線機に短く答えながら、地下へ続く通路の方へ歩いていく。
「朝倉です。地下食品、追加で段ボールを回してください。通路を狭めないように」
その背中を見て、私は小さく息を吐いた。
大蔵屋の中で、今、夫婦でいられる場所はほとんどない。
けれど、それが寂しいとは思わなかった。
恒一さんが自分の場所に戻っていく。
私も、自分の場所へ戻る。
それでよかった。
白い非常灯の下を、私はインフォメーションへ急ぐ。
走らないように、でも、足を止めないように。
表のざわつきが、また近づいてくる。
カウンターの向こうで、恵美が一人でお客様に頭を下げているのが見えた。
「お待たせしました」
私が戻ると、恵美はちらりとこちらを見た。
「遅い」
「ごめん」
「案内紙」
「持ってきた」
恵美はそれを受け取ると、すぐにお客様の方へ向き直った。
私も、カウンターの前に立つ。
非常灯の白い光は、まだ消えていない。
通常の明るさには、まだ戻らない。
それでも、さっきより少しだけ、声は出しやすかった。
「お待たせいたしました。食品予約品につきましては、お名前とご連絡先をお伺いし、売場より順次ご案内いたします」
分かっていることを、分かっているところまで。
私はもう一度、インフォメーションの顔に戻った。
3
お客様の数が、少しずつ減っていった。
最初は波のように押し寄せていた声が、少しずつ細くなり、やがて、ぽつぽつと残る問い合わせだけになる。
それでも、館内が静かになったわけではない。
売場では、まだ誰かが動いている。
階段には係員が立っている。
駐車場へ向かう通路には、最後まで案内が続いている。
地下食品売場からは、台車の音と、人の声が時々上がってくる。
大蔵屋はもう、営業している百貨店ではなかった。
けれど、閉まったあとも、まだ終わってはいなかった。
インフォメーションカウンターの上には、メモが何枚も重なっていた。
会計途中の商品。
後日連絡。
食品予約品。
駐車場。
機械式。
忘れ物。
地下へ戻れないお客様への案内。
一つずつ確認して、終わったものに小さく線を引く。
線を引いても、その向こうで誰かがまだ対応していることは分かっている。
「食品予約品、こっちの分は売場に渡した」
恵美が、控えた名前と連絡先の紙をまとめながら言った。
「ありがとう」
「駐車場はまだ少しかかるって。機械式がね」
「うん」
「会計途中の商品は、売場預かり。後日連絡。そこまではもう案内していいって」
「分かった」
恵美の声にも、少し疲れが混じっていた。
けれど、最後まで崩れない。
お客様の前に立つときだけではない。
こうして紙をまとめる手つきにも、恵美の仕事の顔がある。
「ひより」
「うん?」
「水、飲んだ?」
そう聞かれて、初めて喉が渇いていることに気づいた。
「……飲んでない」
「飲みなさいよ。声、最後かすれてた」
「恵美も」
「あたしは飲む」
そう言って、恵美はカウンターの下からペットボトルを出した。
私も、自分の水を取り出して、少しだけ口に含む。
水はぬるかった。
それでも、喉を通ると、身体の中のどこかがやっと動き出した気がした。
「電気って偉大ね」
恵美が、さっきと同じようなことをまた言った。
「うん」
「あと、人間って、電気が止まると急に走りたがるのね」
思わず、少しだけ笑ってしまう。
「恒一さんにも言われそう」
「言われるでしょうね。走るな、って」
その言い方があまりにも似ていて、私は小さく笑った。
恵美も、ほんの少しだけ口元を緩める。
その瞬間だけ、いつもの大蔵屋に戻ったような気がした。
すぐに非常灯の白さが目に入って、まだ戻っていないことを思い出す。
「じゃ、あたし、売場にこれ渡してくる」
恵美が書類を持ち上げる。
「一人で大丈夫?」
「大丈夫。もうお客様もほとんどいないし。あんたはフロアマネージャーにこっちの控え渡して」
「うん」
恵美は歩き出しかけて、ふと足を止めた。
「ひより」
「なに?」
「さっき、ちゃんと立ってたわよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「え?」
「インフォ。ちゃんと立ってた」
そう言うと、恵美はそれ以上説明せず、書類を持って売場の方へ行ってしまった。
私は、その背中を少しだけ見送った。
胸の奥に、遅れて温かいものが落ちてくる。
ちゃんと立ってた。
それは、褒め言葉というより、確認みたいだった。
恵美らしい、短くて、少し乱暴で、でも嘘のない言葉。
私はメモをそろえ、フロアマネージャーへ控えを渡した。
最後の案内を終え、カウンターの上を片づける。
館内に残っているお客様は、もうほとんどいない。
出入口の向こうには、普通に明るい外の街が見えた。
信号は動いている。
隣のビルの窓も明るい。
コンビニの看板も、いつも通り白く光っている。
大蔵屋だけが、まだ非常灯の中にいた。
そのことが、少し不思議だった。
外の世界は止まっていない。
でも、ここでは、たくさんのものが止まって、たくさんの人が動いている。
カウンターを離れて、バックヤードへ向かう。
勤務が終わったわけではない。
でも、インフォとしての大きな山は越えた。
通路の奥では、まだ台車の音がしていた。
段ボールを引きずる音。
誰かが「そこ、濡れてます」と言う声。
無線機の短い返答。
その中に、聞き慣れた低い声が混じる。
「通路を狭めるな。段ボールは壁側に寄せてください」
恒一さんだった。
私は足を止める。
非常灯の下で、恒一さんは地下へ続く通路の手前に立っていた。
制服の裾が少し乱れていて、靴のつま先が濡れている。
ズボンの裾には、段ボールの細かい繊維のようなものがついていた。
昼前に見たときより、ずっと現場の人の顔をしている。
恒一さんが、私に気づく。
「終わったのか」
「インフォは、だいたい」
「そうか」
その短いやり取りだけで、少し肩の力が抜けた。
私は、彼の足元を見る。
「地下、そんなに大変だったんですか」
恒一さんは、自分の靴を少しだけ見下ろした。
「床が濡れてた」
「滑りました?」
「滑ってない」
「よかったです」
言ってから、さっきも似たようなことを聞いたと思い出す。
でも、やっぱり聞かずにはいられなかった。
恒一さんが、私を見る。
「お前は」
「インフォは、ずっと明るかったです」
そう言ってから、少しだけ笑う。
「非常灯だけでしたけど」
恒一さんは、ほんの少し目を細めた。
「立ってたな」
恵美と同じことを言われて、胸の奥がまた少し熱くなる。
「仕事ですから」
そう答えると、恒一さんはいつもの低い声で言った。
「知ってる」
その一言で、今日何度も言った「仕事中です」が、やっとほどけた気がした。
もう、お客様の前ではない。
けれど、完全に家に帰ったわけでもない。
まだ大蔵屋の中で、まだ非常灯の下で、まだそれぞれの仕事の途中にいる。
それでも、ほんの少しだけ夫婦に戻る。
「帰れそうですか」
「まだだな」
「ですよね」
「お前は先に帰れるなら帰れ」
「待っててもいいですか」
恒一さんは、少しだけ黙った。
「長くなるかもしれない」
「じゃあ、少しだけ待ちます」
「無理するな」
「今日は、そればっかりですね」
そう言うと、恒一さんは困ったようでもなく、笑うでもなく、いつもの顔で私を見る。
「必要だから言ってる」
その言い方が恒一さんらしくて、私は小さく頷いた。
「分かってます」
通路の向こうで、また誰かが恒一さんを呼んだ。
「朝倉主任、こちらお願いします」
恒一さんはそちらへ視線を向ける。
「行く」
「はい」
返事をして、私は一歩下がった。
今度も、手は伸ばさない。
引き止めもしない。
恒一さんは自分の場所へ戻っていく。
私は、少し離れた壁際に立ち、邪魔にならないところでその背中を見る。
非常灯は、明るくはない。
普段の照明とは比べものにならない。
売場のきらきらした飾りも、お歳暮の案内パネルも、ケーキの写真も、今は色を失っている。
それでも、完全な暗闇にはならない。
案内する人がいる。
誘導する人がいる。
床に段ボールを敷く人がいる。
冷凍庫を開けないように守る人がいる。
分かることだけを、何度も伝える人がいる。
電気が消えたら、大蔵屋はただの建物になるのだと思っていた。
でも、違った。
電気が消えたあとも、人がいる。
声を出す人がいる。
止める人がいる。
待つ人がいる。
その小さな動きが、暗くなった建物の中で、細い灯りみたいにつながっている。
私は、非常灯の白い光を見上げる。
明るくはない。
でも、そこにある。
その下で、私は今日、インフォメーションに立っていた。
恒一さんは、地下と駐車場の間を動いていた。
夫婦ではなく、それぞれの仕事をする人として。
それでも、同じ大蔵屋の中で。
非常灯の下で。
ひより日和 新婚編 第15話 「非常灯」後編おわり




