第16話 「Jack-o'-lantern」
1
館内はいつものように明るくて、お歳暮ギフトセンターの案内ボードもはっきり見える。
頭上では、クリスマス装飾の準備が昨日の続きみたいに進んでいて、BGMがさらりと流れている。
エスカレーターは軽い機械音を立てて動き、どこかでレジの精算音が響いた。
私はインフォメーションカウンターに立ちながら、その一つ一つを、いつもより意識して追いかけてしまう。
昨日は、何もかもが止まっていたのに。
今日は、何もなかったみたいな顔をして、全部が当たり前のように動いている。
インフォの前を通る声の調子が、いつもと少し違って聞こえる。
昨日買えなかった商品は今日ありますか、と不安そうに聞かれる。
地下の予約品の件で連絡をもらったんですが、と控えめな声。
駐車場から出るのに一時間近くかかったんですけど、と少し怒った声。
昨日の停電の原因は何だったんですか、と探るような視線。
私は用意された案内文を胸の内でなぞりながら、一つ一つ、決められた答えを返していた。
「昨日は館内設備の不具合により、ご迷惑をおかけいたしました」
「受電設備の一部故障により通常電源が落ちましたが、非常用電源は作動しております」
「現在も設備部および業者による確認を継続しております」
「商品につきましては、各売場にて個別に対応させていただいております」
原因を曖昧にしすぎないように、でも専門用語を増やしすぎないように、言葉の加減を一つずつ確かめながら話す。
分かっているところまでを、正確に伝える。
それしかできない。
昨日と同じだ、と胸の中でつぶやく。
全部は分からない。
けれど、分かっていることだけは、きちんとお客さまに届けたいと思う。
カウンターの隣で、恵美も同じ案内を繰り返している。
問い合わせが一段落したところで、恵美が小さく息を吐いた。
「昨日より明るいのに、昨日の続きみたい」
その言い方が妙にしっくりきて、私はうなずく。
「普通に明るいって、すごいね」
恵美は視線をエスカレーターに向ける。
「動いてるだけでありがたいわ。昨日、あそこ見すぎて、今日も乗り口見ちゃう」
目が合って、二人で少しだけ笑った。その笑い声が、やっと今日が始まったみたいに聞こえた。
けれど、地下食品の話になると、カウンターまわりの空気が少し変わる。
沙織ちゃんのいる洋菓子売場では、廃棄がかなり出たらしい。
生ケーキにプリン、シュークリーム、要冷蔵の手土産。
売れなかったのではなく、売ってはいけないものを売らなかった結果だと聞いて、胸の奥がひやりとする。
「沙織ちゃん、大丈夫かな」
思わず口にすると、恵美が首をかしげる。
「朝から地下に行ったら、目が死んでた」
「そんなに?」
「廃棄より、予約品の連絡がしんどいって。お客さまは悪くないし、売場も悪くないし、でも謝るしかないって」
百貨店は、きれいなものを売る場所だ。
けれど昨日みたいな日は、売らないことも仕事になる。
その重さを、私は今さらながらに抱え直す。
2
休憩室に入ると、同期の顔が一人、また一人とそろっていく。
地下食品の洋菓子が沙織ちゃんで、真帆ちゃんは販促、奈々ちゃんは婦人靴、莉子ちゃんはデパコス。
みんなそれぞれの売場で、昨日を経験した。
大げさに盛り上がるわけでもなく、「そっちはどうだった?」と、停電の話が自然にこぼれていく。
沙織ちゃんは、目の下にうっすらクマをつくって笑った。
「廃棄も多かったけどさ、予約品の連絡が一番しんどい」
「売らなかったよりも…品質を守るために売れなかったってことよね」
その言い方が胸に刺さる。
売場を守るために、あえて手放したケーキたちが、目に浮かぶ気がした。
「温度記録を確認して、責任者が判断して、出せないものは全部下げて、それも大変だったけど」
「お客さまに謝って、代替や返金や後日対応を延々と説明する」
ショーケースの中のケーキはいつも通りきれいなのに、売ってはいけないことがあるのだと、あらためて思い知らされる。
休憩室のテーブルを囲んで、奈々ちゃんが紙コップを指先でくるくる回しながら言う。
「うちは腐るものはないけどさ、片足だけ履いたお客様がいたのよ」
「片足だけ?」と私が聞き返す。
「試着中にパッて照明落ちて、エスカレーターも止まってさ。高齢の方だったから、とりあえず座ったまま待ってもらって。バックヤードにも行けないし、通路の安全確認しながら靴戻すので精一杯よ」
「莉子ちゃんのところは?」と聞くと、CANMELの莉子ちゃんが、肩をすくめて笑った。
「非常灯でファンデの色なんてわかるわけないですよ」
「リップもチークも、照明あって初めて色が出るのに」
「デパコスって、商品だけじゃなくて照明込みで売ってるんだなって思い知らされました」
「昨日なんて、色を売る売場が色を失ったって感じ」
真帆がストローをいじりながら続ける。
「うちは地味に全部差し替え。館内ポスターも催事案内も、問い合わせの文言も、地下食品の予約品対応の案内もね」
「表には出ないけど、昨日の出来事を今日の言葉に直す仕事が一晩でどっさり来た感じ」
それを聞いて、私は頭の中で今日の館内放送や案内ボードを思い浮かべる。
何もなかったみたいな顔をしているその文面の裏側に、真帆ちゃんたちの徹夜に近い作業が貼りついている気がした。
みんなで顔を見合わせて、少しだけ笑った。
その笑いには、昨日の自分たちをねぎらう気持ちが、混ざっていた。
休憩室の空気が少しゆるんだところで、恵美がぽつりと言う。
「亮も遅かった」
思わず顔を上げる。
「神田さんも?」
「地下と駐車場と資材、何往復したんだか。靴、乾いてなかった」
「大丈夫だった?」
「滑ってないって言ってた」
そこで会話がいったん途切れる。
「聞いたんだ」とつい口にすると、恵美はそっぽを向いた。
「見たら分かるでしょ」
私は茶化さない。
昨日と同じように、今もそれは仕事の延長にある心配だから。
「朝倉さんは?」と聞かれて、私は少しだけ考える。
昨日の館内での姿と、家の玄関の音が頭の中で重なる。
「かなり遅かった。でも、帰ってきた」
そう答えると、真帆ちゃんが「そっか」とうなずいた。
それ以上は言わない。
昨日、大蔵屋では私たちは夫婦ではなかった。
でも、家でははっきりと「帰ってきた人」だった。
その事実だけで、十分だと思った。
3
昨日は、彼より先に帰った。
でも全然「終わった」気がしなくて、私はベッドに入るのをやめた。
大蔵屋ではまだ、恒一さんが設備確認とか、退館確認とか、地下食品や駐車場の後処理とか、防犯確認とかで動いている。
そう思うと、目が冴えてしまう。
部屋の灯りを全部消す勇気がなくて、リビングと玄関の間くらいの灯りだけを点けたまま、ソファでうとうとする。
昨日の非常灯は白くて冷たかったのに、家の灯りは少し黄色くて、やわらかかった。
でも、そのやわらかさに身を預けきれないまま、耳だけはずっと、玄関の方を向いていた。
鍵が回る音がして、胸の奥で張りつめていた何かがほどける。
「ただいま」と聞こえて、私はソファから身体を起こした。
「おかえりなさい」
恒一さんは、顔に疲れを残したまま、靴を脱ぎ、手を洗い、上着をかける。
その一つ一つの動きが、いつもより少し遅い。
「寝てなかったのか」
「寝ようとはしました」
「してないな」
「できませんでした」
短い会話の合間にも、仕事の気配がまだ抜けきらない。
「待つな」
ぽつりと落ちたその言葉に、私は小さく首を振る。
「無理でした」
それが、精一杯の本音だった。
「遅くなるって言っただろ」
「言われました」
「なら寝ろ」
「玄関の音がするまで、落ち着かなくて」
恒一さんは少し黙ってから、短く言う。
「帰った」
「はい」
「もう寝ろ」
そのぶっきらぼうな言い方に、ようやく肩の力が抜けて、急に眠気が押し寄せてきた。
4
翌日の夜、私は大蔵屋のハロウィンの催事で買ったハロウィンのランタンを出した。
催事の片隅で何となく買ったものだ。
本物の防災用品なんかじゃない、かぼちゃの形をした、ただの「かわいい灯り」。
リビングでスイッチを入れると、オレンジ色の小さな光が、テーブルの上に丸く落ちた。
「それは何だ」
キッチンから戻ってきた恒一さんが、少しだけ眉をひそめる。
「ハロウィンのランタンです」
「防災用じゃないな」
「違います。これは、かわいい用です」
「役に立つのか」
「かわいいです」
「用途が違うな」
ばっさり切られたみたいな言い方に、私は思わずランタンを見つめる。
確かに昨日みたいな停電には、まるで役に立たない。
でも、オレンジ色の輪っかを見ていると、胸の奥が少しだけほぐれる。
「防災用なら、ちゃんとしたライトを置けってことですよね」
そう言うと、恒一さんは黙ってうなずく。
「家にも、懐中電灯とラジオくらいは置いとけ。電池もな」
「うちは、かわいい用と、ちゃんとした用、両方いるんです」
私がそう返すと、彼は否定しなかった。
テーブルの上で、オレンジ色の小さな光が、相変わらず丸く落ちている。
昨日の非常灯とも、大蔵屋のLEDとも違う、その頼りない明かりを見つめた。
「昨日、家だったら困ると思って」
ランタンのオレンジ色を見ながらそう言うと、恒一さんは短く「そうだな」と答えた。
それから、水と電池と懐中電灯と非常食の話になる。
玄関収納、キッチンのシンク下、テレビ台の下、クローゼットの隅。
二人で家の中をぐるっと軽く確認して回る。
ちゃんとした防災用ランタンはない。
懐中電灯はあるけれど、電池が少し心もとない。
非常食は、箱の端を見たら期限が近かったり、切れていたりする。
「足りないもの、多いですね」
そう言うと、恒一さんは淡々と返す。
「買えばいい」
「一覧にします」
思わずインフォのクセでメモ帳を取り出すと、彼はテーブルのランタンをちらりと見てから言う。
「電池とランタンと水だな」
「非常食も」
「それも」
そのやり取りで、だいたい必要なものは決まった。
完璧に備えるわけではない。
昨日のことを思い出して、少しだけ安心できるくらいで、今はちょうどいい気がした。
私はテーブルの上のかぼちゃのランタンを見る。
「これは、防災用にはなりませんね」
「ならないな」
「でも、昨日の非常灯より、少しほっとします」
恒一さんも、オレンジ色の灯りをじっと見つめる。
「非常灯は、外へ出すための灯りだ」
「これは?」
「……部屋に置く灯りだろ」
「そのままですね」
「他に何がある」
思わず、ふっと笑いがこぼれる。
非常灯は、人を外へ出す。
出口を示して、早く安全な場所へ、と背中を押す灯りだ。
かぼちゃの小さな灯りは、どこにも出さない。
ただ、この部屋に、ここにいるふたりのためだけに、丸いオレンジ色を落としている。
昨日の冷たい白い灯りと、今の頼りないオレンジ色が、記憶の中でそっと並んだ。
恒一さんが、ふいに立ち上がってハンガーに掛かった上着のポケットを探っていた。
戻ってきたとき、手には小さなお菓子が乗っていた。
ハロウィン用に買ってあったのか、どこかでもらったのかは分からない。
包みの色からして、チョコレートかキャンディだ。
「これ」
「え?」
「お菓子」
「くれるんですか」
「いたずらされると困る」
一瞬きょとんとしてから、私は吹き出した。
恒一さんは「トリック・オア・トリート」とは言わない。
でも、ちゃんと意味は分かっていて、私がかぼちゃの灯りを点けているから、お菓子を出してくる。
「いたずら、しませんよ」
「分からないだろ」
「信用ないですね」
「昨日、寝ずに待ってただろ」
「それは、いたずらじゃありません」
「似たようなものだ」
理屈っぽくて、ちょっとだけ優しい言い方に、私は笑いながらお菓子を受け取る。
オレンジ色の輪っかの中で、包み紙が小さく光った。
テーブルの上で、かぼちゃの小さな灯りが揺れている。
防災用には頼りない。
停電になったら、きっと足りない。
でも、十月の終わりの部屋には、その小ささがちょうどいい気がする。
昨日の非常灯は、帰るための道を照らしていた。
今日のかぼちゃの灯りは、帰ってきたあとの部屋を、少しだけ明るくしている。
手の中で、お菓子の包みをころころ転がしながら思う。
足りないものは、明日買えばいい。
水も、電池も、ちゃんとしたランタンも。
でも今夜は、この小さな灯りでいい。
恒一さんが帰ってきて、部屋には灯りがある。
テーブルの上には、もらったお菓子がある。
昨日より、安心できる。
その小さな灯りは、十月の終わりの私たちの部屋に、ちゃんと似合っていた。
ひより日和 新婚編 第16話 「Jack-o'-lantern」 おわり




