第17話 「お雑煮の正解」
1
元旦の朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
大蔵屋は今日だけ休みで、二日から初売り。
それなのに仕事の日みたいに胸がそわそわしている。
朝倉ひよりになって、初めての「この家のお正月」だからだ。
昨日届いた、大蔵屋で予約したふたり用の小さな三段重をテーブルに並べる。
豪華すぎないけれど、ちゃんとしたおせち。
秋からずっとインフォでおせち予約の案内をしてきた分、自分たちの分を大蔵屋でお願いできたことが、なんだかうれしい。
「あけましておめでとうございます」
向かい合って座ると、少しよそ行きみたいな声で言ってしまう。
恒一さんも、いつもより真面目な顔で「おめでとう。今年もよろしく」と返してくれる。
そのやりとりだけで、結婚したんだなって改めて思ってしまう。
「では、いただきます」
声をそろえて手を合わせてから、お重のふたを開けた恒一さんが、しばらく中を眺めてぽつりと言う。
「小さいのに、区画が多いな」
「おせちですから」
「まぁ、そういうもんか」
「そういうものです」
きっぱり答えながら、私は伊達巻と栗きんとんを別皿に避ける。
すぐさま視線が飛んできた。
「それは、除外するのか」
「除外じゃありません。配置換えです」
「配置換え?」
「伊達巻と栗きんとんは、あとでコーヒーと一緒に食べます」
「おせちから外れてるだろ」
「外れてません。デザート枠です」
そう言い張ると、新年最初のしかめ面が返ってきた。
伊達巻を別皿に避けながら説明していると、恒一さんが少し考えこむ。
「伊達巻は卵料理だろ?」
「卵料理というより、甘いカステラです」
「栗きんとんは」
「完全に和菓子です」
淡々と答えると、「……合理的だな」と、少しだけ感心したような声が返ってくる。
「でしょう?」
思わず得意げになる私の前で、黒豆がつやつやと並んでいる。
黒豆も甘いけれど、これはちゃんとおせちの中に残す。
お重の中の「まめに暮らせますように」を、デザート枠に移動させるわけにはいかない。
そう思いながら箸を伸ばすと新年早々、分類会議みたいな食卓になっているのがおかしくて笑ってしまう。
恒一さんが少しだけ考えるように眉を寄せる。
「黒豆はデザート枠じゃないんだな」
「黒豆は、おせちです」
即答すると、「基準が分からない」と真顔で返ってくる。
「私の中では明確です」
きっぱり言い切ると、じっと私とお重を見比べてから、「伊達巻がカステラで、黒豆がおせちの世界は、だいぶ特殊だと思う」と真面目に結論を出した。
その言い方がおかしくて、黒豆を噴き出しそうになるのをこらえた。
「お雑煮、そろそろできます」
「何味?」
「味噌です」
「味噌?」
「はい」
「雑煮が?」
「雑煮が」
「味噌汁ではなく?」
「お雑煮です」
そこだけは譲れないので、はっきりと言い切る。
「……味噌汁に餅が入ったものではなく?」
「違います。お雑煮専用の味です」
鍋のふたを少しだけずらして、白味噌色の汁を見せると、「味噌汁と雑煮の境界線は、黒豆と伊達巻より難しいな」と真顔でつぶやかれて、吹き出しそうになる。
新年から、境界線の話ばかりしている。
お椀を用意していると、恒一さんが鍋の中をのぞき込む。
大根。ニンジン。サトイモ。豆腐。それから焼いた餅。
「餅入りの具だくさん味噌汁では?」
「お雑煮です」
即答すると、鍋を指さしてくる。
「豆腐が入っている」
「入ります」
「サトイモも」
「サトイモは絶対です」
そこは声が少し強くなる。
「絶対なのか」
「入ってないと、お雑煮じゃないです」
胸を張って言い切ると、「必須項目が多いな」と、さっき黒豆を見たときと同じ顔でため息をつかれた。
私の中の「お雑煮チェックリスト」が、どうやら彼の想定より細かいらしい。
新年早々、朝ごはんの正式名称をめぐってここまで議論することになるとは思わなかったけれど、ちょっと楽しい。
サトイモをそっと沈めながら、ついでのように話す。
「高阪家では、子どものころからこれが普通だったんです。横浜生まれですけど、ママが関西の方で。お正月はずっと味噌仕立てのお雑煮でした」
大学生くらいになってから、友だちに「雑煮はすましだよ」と言われて、人生で二回目くらいに衝撃を受けたことも。
「うちは、すましだった気がする」
恒一さんが、自分の実家のお雑煮を思い出すように言う。
「お餅は?」
「角餅。焼いてたと思う」
「具は?」
「鶏肉、大根、ニンジン、青菜……きのこもあったかもしれない」
「かもしれない」
思わず同じ言葉を返すと、「正月の朝に、具材を分析して食べてなかった」と、少しむっとしたような、照れたような声。
そこでふっと笑ってしまう。
私は子どものころから、ずっと分析しながら食べていたのかもしれない。
恒一さんが、鍋の中でやわらかくなった餅をじっと見つめる。
「餅は煮たら崩れないのか」
「元旦から実験しないでください」
「確認だ」
「お正月は確認より、穏やかさ優先です」
少しだけ睨むふりをして、お椀によそう。
白味噌色の汁に、具材と餅が顔を出す。
テーブルに並べて、向かい合って座る。
「どうぞ」
高阪家式の味噌雑煮を前に、私のほうが少し緊張している。
恒一さんは、何も言わずに一口食べた。
「どうですか」
問いかける声が、思ったより小さくなる。
「うまい」
短くそう言ってから、もう一度お椀の中を見ている。
「あなたの知ってるお雑煮と違うでしょ」
「違う」
「変じゃない?」
「変じゃない」
いつもの調子で即答されて、胸の奥が少しだけほどける。
「じゃあ?」
「高阪家の正月の味だろ」
その言葉に、箸を持ったまま少し黙り込んでしまう。
「……今は、朝倉家です」
やっとそれだけ返すと、朝倉さんはもう一口食べてから、淡々と告げる。
「じゃあ、朝倉家の一種類目だな」
その言い方が、想像していたよりずっとあたたかくて、少し恥ずかしくなった。
湯気の向こうで、静かな元旦の朝がゆっくり始まっていく。
2
食後、ふたりで近所の小さな神社へ初詣に出かけた。
大きな有名神社ではなくて、地元の人がぽつぽつとやって来るくらいの、こぢんまりした神社。
去年は結婚準備で、こういう時間がほとんどなかったな、と息を白くしながら思う。
手袋の中で、恒一さんの手を少し探してみると、ちゃんと握り返してくれた。
お参りのあと、おみくじを引いた。
私はいつも通りさらっと読み進める。
恒一さんは、やっぱり真面目に一行ずつ目で追っている。
「待ち人、来る」
声に出して読んだところで、つい笑ってしまう。
「もう来てますね」
「誰が」
「私です」
「そうか」
あっさり納得された。
「そこ、納得するんですね」
おみくじの紙を持ったまま、恒一さんが眉間にしわを寄せる。
「旅行、控えよ」
急に真顔になった。
「大阪は延期か」
「そこまで従わなくていいです」
「神社の指示だろ」
「おみくじは業務命令じゃありません」
きっぱり返すと、今度は別の行を指さす。
「争いごと、控えよ」
「今日、雑煮の件で争ったな」
「争ってません。確認です」
「味噌雑煮の正当性を主張された」
「お雑煮です」
思わず言い返した瞬間、「ほら」と淡々と勝ちを宣言されて、つい笑ってしまう。
新年早々、神社の境内で味噌雑煮の判定をめぐって言い合っている夫婦。
我ながら平和だなと思う。
それでも恒一さんは、最後まで真面目に全文を読み終えてから、おみくじをきちんと結び所に結んだ。
私はその横顔を少し離れたところから見上げる。
風に揺れる白い紙と、その前に立つ背の高い人。
今年もこの人と暮らしていくのだと思うと、胸の奥がほんのりあたたかくなる。
去年は、忙しくて息をつく間もなかったお正月。
今年はやっと、ふたりの足で近所の神社に来て、一緒におみくじを引いて、こうして笑っている。
「帰りましょうか」
並んで鳥居をくぐると、冷たい空気の中で、指先だけがじんわりあたたかい。
3
翌日の一月二日、大蔵屋百貨店は初売り営業を迎えた。
正面玄関には、開店前からもう大勢の人が並んでいる。
大蔵屋は初売り。
ガラス越しに見える福袋の紙袋と、マフラーにうずまったお客さまの列は毎年圧倒される。
館内は朝から賑やかだ。
福袋、セール、特設売場、エスカレーターの列。
昨日の元旦の静けさとは、まるで違う世界に戻ってきたみたいだ。
インフォメーションも、朝からずっと忙しい。
「福袋売場は何階ですか」
「整理券はどこですか」
「紳士靴の福袋はまだありますか」
「食品の福袋は地下ですか」
「トイレはどこですか」
一件ずつ、できるだけ笑顔を崩さずに答えていく。
声を出すたびに、喉の奥が少しずつあたたまっていく感じがする。
今日からまた、大蔵屋の一年が始まる。
そこへ、少し慌てた様子の女性のお客さまが駆け込んでくる。
「すみません、夫とはぐれまして」
私はすぐに仕事の顔になる。
「お連れ様でございますね」
「はい。福袋を持ったまま消えました」
「お召し物は?」
「紺のダウンです」
「特徴は?」
「福袋を三つ持ってます」
ひと呼吸だけ、言葉が止まる。
「……本日、該当される方が多いかもしれません」
自分で言いながら、どうしてもそう答えるしかなくて、心の中でそっと頭を下げる。
隣で応対を聞いていた恵美が、カウンターの下でメモをいじりながら、下を向いて笑いをこらえているのが視界の端に入って、私も口元が少しだけ緩んだ。
さらにいくつか特徴をうかがう。
「身長は?」
「普通です」
「髪型は?」
「普通です」
なかなか絞り込めない。
「お持ちの福袋は、どちらの売場のものでしょうか」
「たぶん、食品と紳士靴と……本人も分かってないと思います」
心の中で「ですよね」とつぶやきつつ、館内放送の準備を進めていると、ほどなくしてそれらしき男性がインフォ前に現れた。
両手に福袋。
さらにもう一つ、なぜか肩にもかけている。
「福袋の列だと思って並んだら、トイレの列でした」
開口一番そう言われて、奥さまが呆れた声を上げる。
「なんで気づかないの」
「みんな袋持ってたから」
恵美が横で小さく肩を震わせているのが分かる。
私は仕事の顔を保つのに必死だった。
初売りの日の、大蔵屋らしい再会だと思う。
***
福袋の列は、開店前からすでに長蛇だった。
ロープを張っても、前へ前へと詰めようとする人がいる。
声をかけて、少し戻して、また進まれて。
列の端で、神田が露骨に肩を落とした。
「主任、福袋って人をあそこまで走らせるんすね」
「走らせるな」
間髪入れずに返す。
「走ってます」
「止めろ」
「止めてます」
「止まってないだろ」
「気持ちは止めてます」
「身体を止めろ」
神田の返事が雑になってきたので、少しだけきつめに言う。
言いかけた「無理っす」が、俺の顔を見て喉の奥に引っ込むのが分かった。
「声、もっと前に飛ばせ。走る前に声をかけろ」
人の波と福袋の山。
その間を、ロープと声と視線でどうにか保つ。
二日の朝から、今年もこれが始まったなと思う。
福袋の列、エスカレーター前、地下食品の混雑。
視線を動かすたび、人と袋と声が絶え間なく流れていく。
初売りの大蔵屋は大変だ。
けれど、あの日の停電のときとは、まるで質が違う。
騒がしい。
人が多い。
それでも、照明がついている。
レジが動いている。
エスカレーターも、何事もなかったように上下を往復している。
インフォ前を通りかかると、ひよりがいつもの制服で、次々とお客さまに案内をしていた。
忙しそうだが、顔は明るい。
大変でも、明るい大蔵屋は、やっぱり大蔵屋だ。
そんなことを、警備服のポケットに手を入れながら、ほんの一瞬だけ思う。
婦人服売り場の福袋が人気らしく、人が詰まっているとの無線を受け、すぐに仕事に引き戻された。
4
初売り勤務を終えて、家に帰る。
コートを脱いだ瞬間、全身から一気に力が抜けた。
大蔵屋の一月二日は、やっぱり予想通りに慌ただしかった。
元旦に開けたおせちは、少し残っている。
おせちとは、少しずつ残るものだと、子どものころからなんとなく思っている。
黒豆と数の子と、少し崩れた昆布巻き。
残りものたちを、小皿にそれぞれ並べ直す。
キッチンでは、鍋に火をかける。
雑煮も、少しだけ作り直すことにした。
白味噌の香りが立ち上るころ、テーブルに腰を下ろした恒一さんが、鍋のほうをちらりと見る。
今度は恒一さんも、サトイモがないと何かが足りないような顔をしている。
「サトイモ、入れますね」
「必須項目だからな」
当然だと言わんばかりの口調が、ちょっとおかしい。
「覚えました?」
「朝倉家の一種類目だろ」
元旦の朝と同じ言葉に、なんだか嬉しくなった。
お椀にサトイモを一つ多めに入れながら、私は少し笑った。
食後、予定通りに伊達巻と栗きんとんを出す。
元旦の朝に別皿に避けておいた分と、残りのおせちから少し足して、コーヒーを淹れる。
湯気の立つマグカップと、甘いお皿。
テーブルの上が、急に喫茶店みたいになる。
恒一さんが、まず伊達巻を一口食べて、少し考えこむ。
「卵料理として考えなければ合う」
「だからデザートだって言ったじゃないですか」
「カステラだな」
「でしょう?」
今度は栗きんとんを味わってから、きっぱりと言う。
「栗きんとんは和菓子だ」
「でしょう?」
ここまでは完全に私の勝ちだと思う。
「黒豆は?」
「おせちです」
「そこは変わらないのか」
「変わりません」
即答すると、恒一さんがわずかに口元を緩める。
私もつられて笑ってしまう。
二日の夜のリビングで、甘いものとコーヒーと、どうでもいい分類の話。
今年のお正月も、きっとこういうふうに毎年積み重なっていくのだと思う。
お正月らしいことを、全部きちんとできたわけではない。
おせちは少し残った。
雑煮の正解も一つではなかった。
おみくじには旅行を控えよと書かれた。
初売りでは、福袋のお父さんが迷子になった。
今年はこの家でお正月をした。
去年のお正月には、まだこの名前ではなかった。
朝倉ひよりとして迎えるお正月は、これが初めてだった。
高阪家の味だった味噌のお雑煮が、今日からこの家の味の一つになる。
恒一さんの実家のすましのお雑煮も、いつか作ってみればいい。
伊達巻をデザートにするかどうかも、黒豆をどこに置くかも、きっと少しずつ決まっていく。
正解は、最初からあるわけではない。
二人で何度もお正月を迎えながら、増えていくものなのだと思う。
「来年は、長野の家のお雑煮も作ってみますか」
「覚えてない」
「じゃあ、お義母さんに聞きます」
「それが正確だな」
「でも、サトイモは入れます」
「混ぜるのか」
「朝倉家ですから」
そう言うと、恒一さんは少しだけ考えて、コーヒーカップをそっと置いた。
「じゃあ、来年の課題だな」
「はい」
テーブルの上には、少し残ったおせちと、伊達巻の皿と、栗きんとん。
湯気の残るコーヒー。
そして、今年初めてこの家で作った、お正月の匂いが、まだ薄く漂っている。
お雑煮の正解は、まだ一つではない。
けれど、今日の味は、ちゃんとこの家の一つ目になったのだと、胸の奥でそっと思った。
ひより日和 新婚編 第17話 「お雑煮の正解」 おわり




