第25話 「重いもの」
1
「高阪さん」の件から三週間、私は当たり前のように恒一さんの車の助手席に座っている。
あの事件以来、私の出退勤はずっと恒一さんの運転になっていた。
インフォメーション後方には、必ず警備の人が一人立つようになった。
目に見える変化が増えるたびに、あの日のことを思い出して、ぞくっとすることもあった。
恒一さんはこの警戒期間のあいだだけ当務を外れて、日勤寄りのシフトに変わった。
もちろん、全部が恒一さんの都合というわけじゃない。
警備上の判断で、合理的な配置換えなのだと頭ではわかっている。
それでも、私のそばに彼がいる時間が増えたという事実が、どうしようもなく心強い。
この三週間、私たちはいつもよりずっと一緒に出勤して、一緒に帰った。
渋滞する朝の道路を並んで眺めることも、閉店後の街のネオンの中をゆっくり走ることも増えた。
怖い思いをしたはずなのに、ふと気づくと「今日はどんな話をしながら帰ろう」と考えている自分がいる。
そのことに気づくたび、少しだけ救われた気持ちになる。
「この通勤も、あと一週間ですね」
朝の光を見ながらぽつりと言うと、ハンドルを握ったままの恒一さんが答える。
「予定ではな。再来館も接触もないし、来週から通常体制に戻る」
「そうですね」
それきり少し黙ってから、胸の中で転がしていた言葉を出してしまう。
「ちょっと、残念です」
「一緒に行けなくなるのが?」
思っていたより普通に聞き返されて、私は少しだけ驚いた。
「はい。一緒に出勤するの、楽しかったので」
本当は「すごく」って言いたかったけど、やめておいた。
「怒られるの、分かってますけど」
「怒らないよ」
恒一さんは前を向いたまま、少しだけ口元を緩めた。
「俺も、毎朝ひよと一緒なのは悪くなかった」
その一言が嬉しくて、窓の外へ顔を向ける。
「でも、警戒期間は終わった方がいい」
「それは、もちろんです」
「楽しかったことまで、なかったことにする必要はないけどな」
「はい」
「楽しい」という言葉を、私はもう手放したくなかった。
怖いことのあとに、こんなふうにふたりで並んでいられる朝があることを、ずっと覚えていたいと思った。
2
インフォには、相変わらず後方に警備の人が立っている。
最初のうちは、背中に視線を感じるたび、あの日の冷たい空気を思い出していた。
けれど三週間も経つと、その存在も少しずつ「風景」の一部になってきた。
私はいつも通り、案内をする。
いつも通りのお客様に笑う。
ちょっと面倒そうな言い方をしてくる人もいるけれど、ただの「案内に納得しにくいお客様」くらいにしか見えない。
そういう一件が終わったあと、隣で恵美が小声でささやく。
「今の、旧姓出たら即チーフ案件だったね」
思わず吹き出しそうになる。
「旧姓は出てないよ」
「じゃあ今回はセーフ」
「判定が雑」
ふたりで目を合わせて小さく笑い合う。
そんな風に返せる自分に、少し驚く。
私がツッコむと、恵美はさらに畳みかける。
「旧姓、指輪、退勤時間。三点セット出たら即終了」
「セット販売みたいに言わないで」
「不審者三点セット」
「やめて、笑っちゃうから」
声を殺して肩を震わせていると、恵美が少しだけ真面目な声音になる。
「まあ、もうない方がいいけどね」
「うん。ない方がいい」
私も素直にうなずく。沈みかけた空気を、恵美がすぐに持ち上げる。
「でも、来たらチーフ。帰りは主任。重いものは車。完璧」
その完璧なルートに、私は今度こそ笑ってしまいそうになって、慌てて口元を押さえた。
恵美は、笑わせてくれるけど、恵美だって怖かったはずだ。
理不尽なクレームで、粘着されていたんだから。
それでも恵美は、私の前ではいつも先に笑ってくれる。
たぶん、それが恵美なりの戻り方なのだと思う。
「で、今日の昼、社食行くよ」
「急だね」
「急じゃない。重いもの会議」
「会議?」
「車通勤終了前に何を買うべきか、重要議題でしょ」
3
昼休みの社食は、いつも通りざわざわしている。
トレーに乗った定食と味噌汁と小鉢と、今日はプリン。
席に着いたところで、恵美がトレーを置きながら言う。
「車通勤もあと一週間かあ」
「うん」
お味噌汁をひと口飲むと、恵美がすぐ本題を投げてくる。
「じゃあ今のうちに重いもの買っときなよ」
「重いもの?」
「米、牛乳、洗剤、水。車があるうちにいっときな」
「買い出しリストが主婦だね」
「新婚なんだから主婦でしょ」
そう言われて、少し笑ってしまう。言葉にされると、くすぐったい。
「恵美も車通勤でしょ?」
「やっぱり、重いもの今のうちに買ってるの?」
「当たり前でしょ。家の中まで運んでもらえるんだもん」
「神田さん…」お疲れ様です…と心の中でつぶやいた。
恵美はスプーンでプリンをすくいながら、さらに続ける。
「でも車通勤ってさ、飲んで帰れないのが致命的よね」
「恵美、そんなに仕事帰りに飲んでたの?」
「飲むかもしれない自由がなくなるのが問題なの」
「自由の規模が小さい」
「小さい自由、大事でしょ」
くだらないようで、妙に納得してしまう。
プリンの甘さみたいに、口の中に小さい自由の話が残った。
「じゃあ、来週から自由だね」
私が言うと、恵美はプリンをすくいながら、すぐさま乗ってくる。
「そう。警戒期間終了、飲酒可能期間開始」
「言い方」
ふたりで吹き出して、ちゃんと笑える。
この三週間、早く笑えるようにならなきゃとは思わなかった。
無理に元気を出さなきゃとも、誰からも言われなかった。
みんなが先に守ってくれて、怖かったことを、なかったことにしなくていいと示してくれた。
そのおかげで、気がついたら私は、いつもの社食で、いつもの恵美と、こうして冗談を言い合って笑っていた。
4
「恒一さん、帰りにスーパー寄ってもいいですか」
退勤後の車の中でそう言うと、信号待ちのタイミングで、運転席から声が返ってくる。
「何を買う」
「重いものです」
「範囲が広いな」
思わず笑いながら、昼休みに恵美に言われたことを話し始める。
「社食で恵美に、車通勤が終わる前に米と牛乳と洗剤を買っておいた方がいいって言われました」
「前田さんは合理的だな」
「あと、車通勤だと飲んで帰れないのが致命的だそうです」
「それは合理的か?」
「小さい自由が大事だそうです」
「前田さんらしい」
フロントガラスの向こうを見つめたまま、朝倉さんが少しだけ笑う。
その横顔を盗み見ながら、私は胸の中で、重いものリストと、小さい自由の話と、この三週間の帰り道の景色を、そっと並べてしまう。
どれも、もうすぐ「特別」から「思い出」に変わっていくのだと思うと、ほんの少しだけ名残惜しかった。
「私は、飲むよりお米を買いたいです」
自分で言っておいて、ちょっと生活感が出すぎたかなと思う。
けれど恒一さんは、信号が変わるのを待ちながら、少し笑った。
「ひよらしいな」
「褒めてます?」
「褒めてる」
その返事がおかしくて、ふっと笑いがこぼれた勢いで、胸の奥にあった言葉も滑り出てしまう。
「この三週間、一緒に帰れるの、嬉しかったです」
今度は「少し」をつけなかった。
恒一さんは一瞬だけ私を見て、すぐに前へ視線を戻す。
「俺も」
あまりにすんなり返ってきたので、今度は私の方が言葉に詰まった。
「不謹慎かなとも思ったんですけど」
「何が?」
「怖いことがあったのに、楽しかったなんて」
「怖かったことと、一緒に帰れて嬉しかったことは別だろ」
落ち着いた声で、当たり前みたいに言われる。
「不便だった分、いいことがあってもいい。怖かっただけで終わらなくて、よかったんじゃないか」
私は窓の外に目を向けながら、小さくうなずいた。
怖かった日々の中で見つけたものを、もう少しだけ大事にしてもいい気がした。
5
スーパーに入った途端、私はカートを押しながら遠慮なく重いものを入れていく。
米、牛乳、洗剤、ペットボトルのお茶、じゃがいも、玉ねぎ。
カゴの底から順調にずっしりしていくのを見て、隣を歩く恒一さんが言う。
「本当に重いものばかりだな」
「車なので」
「来週から電車だからか」
「はい。警戒期間の有効活用です」
「言い方」
よく考えたら、重いものも重要だけれど、嵩張るものも重要じゃないだろうか。
水はやっぱり、ケースで買うのがいい気がする。
でも、待って。
車通勤は、まだ1週間続くんだった。
明日は、ミネラルウォーターの箱買い。
調味料は、どうだっただろう。
帰って確認しないといけない。
「……何を考えてる」
「明日は水を箱で買えますね」
「明日も寄るのか」
「まだ一週間あります」
「警戒期間を買い出し強化週間にするな」
一通り重いものを入れて、会計を済ませた。
立体駐車場まで、恒一さんがお米を持ってくれた。
牛乳や洗剤の入ったエコバッグは私が持つ気でいた。
「それも重いから、貸して」
「このくらい持てます」
「持てるのと、持たせるのは別」
「じゃあ、私は何を持てばいいですか」
「卵」
「責任重大ですね」
「割るなよ」
「重さより緊張します」
パック卵をそっと胸に抱えながら、私は彼の背中を追いかけた。
6
玄関から運び込んだ袋を、ふたりで分担してほどいていく。
私はキッチンに立って、買ってきたものを一つずついつもの場所へ。
牛乳を冷蔵庫に入れる。
洗剤を洗面所に置く。
米をシンク下の定位置にしまう。
そして、さっきまで大事に抱えていた卵を、そっと冷蔵庫の棚に滑り込ませる。
全部ちゃんと収まったのを確認して、ふうっと小さく息を吐いた。
怖かったことが、なかったことになったわけではない。
あの日の感触も、音も、今もちゃんと胸の奥に残っている。
でも、この三週間は、怖かっただけでもなかった。
重いものを一緒に運んで、くだらないことで笑って、同じ玄関から一緒に帰ってくる時間が、静かに積み重なっていった三週間でもあったのだと、キッチンに立ちながら思った。
生きていれば、いろんなことがある。
私は、ちょっと不器用でぶっきらぼうで、でも素敵で誠実で優しい人と結婚して幸せな日々を送っている。
だけど、嫌なことも思いがけないことも、外からはやってくる。
それでも、どんな時でも。
牛乳は減るし、洗剤は切れる。
お米は重いし、ミネラルウォーターはもっと重い。
そういう当たり前のものを、恒一さんと一緒に持って帰れることが、今は嬉しかった。
「来週から、重いものはどうしますか」
冷蔵庫の扉を閉めながら聞くと、恒一さんはシンク下に米袋を収めてから、こちらを見た。
「休みの日に、一緒に買いに行けばいい」
「一緒の休み、ありますか」
「あとで確認する」
「じゃあ、重いものはその日にします」
「買い物のために休みを合わせるのか?」
「大事です」
真面目に答えると、恒一さんは小さく笑った。
「そうだな。大事だな」
その返事が嬉しくて、私はまた少し笑った。
怖かったことは、まだ消えない。
でも、今日買ってきたものは、明日の暮らしに必要なものばかりだった。
重いものを、ふたりで持って帰る。
それだけのことが、今の私には、ちゃんと日常が戻ってきた証拠みたいに思えた。
ひより日和 新婚編 第25話 「重いもの」 おわり




