第26話 「ふたりで歩く道」最終回
新婚編も、いよいよ最終回です。
ここまでお付き合いくださった皆さま、本当にありがとうございます。
最後まで、ひよりと恒一の歩く道を見届けていただけたら嬉しいです。
1
まだまだ、暑い九月。
大蔵屋も私も恵美も、日常に戻って案内にいそしむ日々だ。
大蔵屋の一階インフォメーションには、いつもの声が戻っていた。
「催事場はどちらですか」
「ベビーカー、お借りできますか」
「駐車券はどこで押せますか」
ひとつひとつ、声の主の表情を確かめながら、言葉を返していく。
ガラスのカウンターの中には、今朝届いたばかりの落とし物の控えが並んでいる。
ペンに、子ども用の小さな帽子に、折りたたみ傘。
「お預かりしておりますよ」
そう答えられる瞬間が、少しうれしい。
隣では、恵美の落ち着いた声が、同じリズムで続いていた。
お昼ごろカウンターに、小さな青い水筒がそっと置かれた。
「子ども服のフロアで、お子さんが忘れたみたいで」
そう言っていったん去っていく売場スタッフの背中を見送り、水筒の持ち手に目を落とす。
小さな名前タグがついていた。
ひらがなで、
しみず まもる
と書かれている。
私は落とし物台帳を開き、声に出しながら書き込む。
「水筒、青色、名前タグあり……しみず、まもる様」
まもる。
いい名前だな、と思った。
落とし物台帳を閉じたところへ、恵美がちらりと顔を寄せてきた。
「明日から大阪だよね」
「うん。一泊だけど」
声に出してみると、明日という言葉が急に現実味を帯びる。
「やっとじゃん。延期のままだったやつ」
「そう。やっと」
私が返す前から、恵美の興味はもうそっちだ。
「主任、大阪の人にいじられそう」
「え?」
「だって、あの顔でしょ。絶対言われるよ」
想像して、喉の奥で笑いを飲み込む。
「……言われるかな?」
「大阪の人って、そういう印象」
「こっちっていうか、関東は思ってても言葉にしない感じ」
私がそう言うと、恵美は肩をすくめた。
「関西は、言っちゃう。でも、いいこと言ってくれるなら、いいじゃんね」
きっぱりと言い切る声が、なんだか心強かった。
想像したら、つい口元がゆるんだ。
「恒一さん、困りそう」
「困るね。絶対、真面目にお礼言うね」
「言いそう」
頭の中で、きちんと頭を下げている姿が浮かんで少し笑ってしまう。
恵美は、さらに畳みかける。
「あと、川崎から来ましたって言ったら、東京の人扱いされる」
「神奈川ですって訂正しそう」
「するね」
「でも、大阪の人からしたら似たようなもんなんだと思うよ」
「それに、職場は東京じゃん」
「ああ、なるほど」
「でも、いちいち訂正しそうな感じするよね」
カウンターの内側で、声を殺して笑う。
まだ行っていない大阪が、少し近くなった気がした。
「でも、よかったね。ちゃんと行けるんだから」
「うん」
恵美の横顔は、からかっているようで、少しだけ優しい。
「延期ってさ、消えたわけじゃないんだよね。残ってただけで」
「うん」
胸の奥で、その言葉をなぞる。
「じゃあ、楽しんできな。で、主任が大阪に負けたら教えて」
「負ける前提なんだ」
「大阪は強いよ」
ふたりで小さく笑った。
大阪は特別。
でも、浮かれすぎない。
仕事は仕事。
明日から大阪。
その響きだけで、少しだけ足元が軽くなる。
けれど、今はまだ勤務中だ。
私は背筋を伸ばし、カウンターの前に立った。
「いらっしゃいませ」
2
駅へ向かう道は、いつもと同じなのに、少しだけ色が違って見えた。
九月の朝の熱気が、まだじんわり残っている。
キャリーを引く手に伝わる振動が、胸の奥をそわそわさせた。
ふと中身を思い出して、笑ってしまう。
「また、半分くらい空いてますね」
「土産用だろ」
「覚えてたんですね」
「前もそうだった」
あのときは、見送る側だった。
今日は、その人が隣にいる。
指定席に腰を落ち着けると、車内のひんやりした空気にほっとする。
窓側の私は、流れていくホームの景色を目で追い、通路側の恒一さんは、さっそく時刻表アプリを開いていた。
「確認しなくても、もう乗ってますよ」
「到着後の動線だ」
「出ました、動線」
「必要だろ」
「大阪では、少し疑った方がいいかもしれません」
「何を」
「動線を」
そこでようやく、恒一さんが少しだけこちらを見る。
「今度は、一緒ですね」
「そうだな」
窓に映った自分の顔が、少しだけ赤く見えた。
新大阪から地下鉄を乗り継いで、なんばへ向かった。
頭上の看板も、並ぶ店も、どこかお祭りみたいで胸が躍る。
「ここ、見てるだけでも楽しいですね」
ステンレスの光と陶器に囲まれて、つい声が弾んだ。
「道具が多いな」
「道具屋筋ですから」
「名前の通りか」
恒一さんは、観光客というより、すっかり買い物モードだ。
「このフライパンは重いな」
「そこから見るんですね」
「振るなら重心は重要だろ」
「料理人みたいです」
「まだ初心者だ」
私は、真面目にフライパンを見ている彼の横顔に見とれていた。
美しい人は、道具屋筋でも美しい。
フライパンを見比べていた恒一さんの横に、店のおばちゃんがずいっと入り込んできた。
「兄ちゃん、手ぇ大きいなぁ。料理するん?」
「最近、少し」
「少し、いう顔ちゃうわ。きっちり量る顔や」
「……量ります」
「ほら当たった」
思わず吹き出しそうになって、口元を押さえる。
おばちゃんの視線が、今度は私にくる。
「奥さん、ええなぁ。こんな男前が料理してくれるん?」
「まだ練習中です」
「練習中でその顔やったら、本番どうなるん」
「……顔は関係ありますか」
恒一さんが、真面目に困っている。
「あるある。男前はだいたい得する」
「恒一さん、真面目に聞かなくていいです」
つい、割り込むように言ってしまった。
おばちゃんがケラケラ笑う。
「まあ、ふたりでおいしく食べるのが一番や。ほな、長く使えるやつ選び」
差し出されたフライパンが、急に特別なものに見えた。
「奥さんも可愛らしいやん。ええ夫婦やなぁ」
「いえ、そんな」
反射的に否定しながら、頬がじんわり熱くなる。
「照れんでええがな。旅行か?」
「はい。一泊だけですけど」
「ええなぁ。いっぱい買うて帰り」
言葉のひとつひとつが、からっとしていて、まぶしい。
私は恥ずかしくて、でも笑っていた。
隣で恒一さんは、いつもの調子で頭を下げる。
「ありがとうございます」
表情は淡々としているのに、どこか処理が追いついていない気配が伝わってくる。
さっきまでただの道具だったフライパンが、思い出の色をずっと残してくれる気がした。
店を出た途端、さっきまでより空気が軽く感じて、私はつい笑ってしまった。
「恵美の予想、当たりました」
「何が」
「大阪の人にいじられるって」
「いじられたのか」
「いじられてました」
「褒められただけだろ」
「大阪では、褒めるのといじるのが近いのかもしれません」
納得しきれない顔で、恒一さんがフライパンの袋を持ち直す。
「処理が難しい」
「処理しようとするからです」
「どうすればいい」
「笑えばいいと思います」
少し間があってから、
「……努力する」
と真面目に返ってきて、今度はこらえきれずに吹き出した。
新しいフライパンが、なんだかうれしい。
道具屋筋の通りは、まだまだにぎやかだった。
店先から声が飛び、知らない人の笑い声が混じる。
大阪は、強い。
恵美の言葉を思い出して、私はまた少し笑った。
3
時間的に夕ご飯というには、早いかもしれない。
でも、旅行だ。
遅い時間に、また何か食べたっていい。
「ここ、入ってみませんか」
暖簾の向こうから、ソースと出汁の混じった匂いが流れてくる。
「混んでるな」
「おいしいのかもしれません」
「根拠は」
「匂いです」
恒一さんの問いに、胸を張って答える。
カウンター席に通されると、目の前には大きな鉄板と、手際よくコテを動かす店主さん。
その横、ひとつ空けた席には、すでにビールを片手にした常連らしいおっちゃんが座っている。
グラスを置いた拍子に、ふと横目でこちらを見た。
視線の先が、恒一さんにまっすぐ向かっているのが分かって、私は小さく息をのんだ。
お冷やをひと口飲んだところで、隣から声が飛んできた。
「兄ちゃんら、どっから来たん?」
恒一さんは、落ち着いた声で答える。
「川崎です」
「川崎? 東京かいな」
「いや、違います」
「神奈川県です」
ほとんど反射で訂正している。
おっちゃんは気にも留めない。
「東京みたいなもんやろ」
「一緒や一緒。こっちから見たら、東京も神奈川も一緒や」
「東京じゃないです」
鉄板の向こうから、店主が笑いながら口を挟んだ。
「兄ちゃん、細かいなぁ」
「そこは、別です」
私は、箸をまだ持っていないのに、もう笑いをこらえていた。
おっちゃんがグラスを傾けて、改めてじっと恒一さんを見る。
「東京の人はシュッとしてるわぁ」
「神奈川です」
真顔で返す声が、じわじわツボに入る。
「まだ言うてる」
おっちゃんの一言で、とどめを刺されて、つい肩を震わせてしまった。
おっちゃんは、改めてじっと恒一さんを見た。
「しかし兄ちゃん、男前やなぁ」
「……恐縮です」
少しだけ間をあけて、きちんと頭を下げる。
「俳優さんか?」
「警備です」
「警備かいな。そら安心やわ」
鉄板の向こうから、店主さんも乗ってくる。
「警備の人がそんな顔して立ってたら、悪いことする人も帰るわ」
恒一さんは、真面目に眉を寄せた。
「顔は関係ないです」
「ほら、真面目や」
店主の言葉に、おっちゃんが笑い、私もとうとう耐えきれず吹き出してしまう。
大阪では、男前いじりも仕事の話も、きれいに同じ鉄板の上で混ざっていくんだと思った。
おっちゃんの視線が、今度は私に向く。
「ほな、隣は奥さんか?」
「はい」
反射的にうなずいた瞬間、心臓がどきんと跳ねた。
「なんや、奥さんもべっぴんさんやん。ええ夫婦やなぁ」
固まったまま、かろうじて声を絞り出す。
「いえ、そんな」
「照れんでええがな。笑ろた顔がええわ」
一気に顔が熱くなって、視線の行き場をなくす。
おっちゃんは勝手に続ける。
「うちの嫁さんもな、昔はまだマシやったんやけどな」
「……」
「今はもう、一升瓶みたいな顔して寝とるわ」
「一升瓶……」
恒一さんが、真顔でその単語だけ拾う。
「恒一さん、そこ拾わなくていいです」
小声でつぶやいたら、鉄板の向こうで店主が吹き出した。
店主さんが、コテを動かしながらぴしゃりと言う。
「あんた、また奥さんの悪口言うて。そんなんやから家で口きいてもらわれへんねん」
「悪口ちゃうわ。愛情表現や」
「愛情表現は本人に分かるように言いな」
「本人に分かるように……」
隣で恒一さんが、なぜか少し考え込む。
「恒一さん、覚えなくていいです」
思わず慌てて口を挟んだ。
目の前の鉄板で、店主さんが手際よく仕上げてくれたお好み焼きが、湯気を立てて目の前にすっと置かれる。
コテで小さく切って、一口。
「おいしい……」
思わずこぼれた声に、すかさず隣から飛んでくる。
「奥さん、ええ顔して食べるなぁ」
その瞬間、恒一さんの視線を、少しだけ横から感じた。
「してます?」
「してる」
途端に、口の中のソースの熱さまで意識してしまう。
おっちゃんが、ビールを揺らしながら笑う。
「兄ちゃん、ちゃんと見とき。嫁さんがうまそうに食べてる顔は大事やで」
「はい。見てます」
恒一さんが、当たり前みたいな顔で言うので、今度は私が困る番だ。
「見なくていいです」
「見たらええねん。見られてるうちが花や」
店主さんの一言に、とうとう笑い声がこぼれた。
おっちゃんはビールを揺らしながら、ふっと真顔になった。
「まあでも、兄ちゃんとこは大丈夫や」
「そう見えますか?」
「奥さん、よう笑てる」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「嫁さんが笑う家は、大丈夫や」
その言葉が、じんわり残ったところで、鉄板の向こうから店主さんが刺す。
「あんた、たまにはええこと言うやん」
「たまには余計や」
私は、笑いながらソースの香りを吸い込んだ。
店を出ると、ソースの匂いの残る風が頬をなでた。
「大阪、強いですね」
「強いな」
「認めた」
「何回言っても、流される」
「流し方が秀逸だ」
いかにも恒一さんらしいまとめ方に、また笑ってしまう。
「川崎は東京じゃないって、何回言いました?」
「三回」
「数えてたんですか」
「川崎は東京じゃないと、わかってもらわないと」
前に恒一さんがひとりで来た大阪。
今はふたりで歩いて、知らないおっちゃんに笑わされている。
あのとき、いつか一緒にと言ってくれた大阪を、今、ふたりで歩いている。
活気と笑いに包まれた街の夜は、まだこれからだった。
「明日は迷わず帰れそうですか」
「帰りは動線を確認してある」
「大阪を信用してます?」
「半分だけ」
私はまた笑った。
やっと、叶ったふたりでの旅行は、忘れないだろうと思った。
4
一泊二日の大阪旅行は、あっという間の時間だった。
マンションのエレベーターの中で、ちらりと見たスマホの時間は二十時を過ぎていた。
恒一さんと帰ってきた部屋は、暗かったけれどふたり一緒なら暗くても寂しくない。
私たちの部屋に「ただいま」と、声をかけた。
ダイニングテーブルに、ひとつずつ荷物を並べていく。
大阪土産と、職場用の箱菓子と、恵美と神田さんへの包み。
最後に、道具屋筋で買ったフライパンを取り出すと、つい笑ってしまった。
「これを見るたびに、あのおばちゃん思い出しそうです」
「きっちり量る顔、か」
「当たってましたね」
「否定はできないな」
新しいフライパンを早速明日から使ってみよう。
フライパンをテーブルに置きながら、思い出し笑いがこみ上げる。
「川崎は東京じゃないって、三回言ってましたね」
「訂正はしとかないと」
そう言いながら、恒一さんも半笑いだ。
「でも、最後まで東京扱いでした」
「訂正が通らなかった」
「大阪は強いですね」
「強烈だ」
笑いが落ち着いたあと、ふとおっちゃんの言葉が浮かぶ。
嫁さんが笑う家は、大丈夫や。
胸の奥で、そっとその一文をなぞりながら、もう一度フライパンに視線を落とした。
荷ほどきがひと区切りついた頃、テーブルの上のスマホが小さく震えた。
電話ではなく、メッセージの通知音。
恒一さんが画面を開いて、しばらく黙る。
「どうしました?」
たずねると、視線を落としたまま答えが返ってきた。
「大学のボート部の連中が、長野で集まるらしい」
「長野ですか」
その地名だけで、部屋の空気がほんの少し変わった気がした。
画面を見つめたまま、恒一さんがぽつりと言う。
「実家にも寄れるな」
その一言に、胸がきゅっとなる。
「一緒に帰るか」
視線が、そっとこちらに向いた。
緊張はする。
でも、嫌ではない。
大阪は、ふたりで行った旅行。
長野は、恒一さんの実家に、妻として一緒に帰る場所だ。
「行きたいです」
自分でも驚くくらい、迷わずそう答えていた。
「恒一さんは、飲み会ですよね」
「夕方から少しな」
「少し、で済みますか」
「……たぶん」
思わず笑ってしまう。
「その間、お義母さんとお話できますね」
「何を話すんだ」
「恒一さんの小さい頃の話とか」
「聞くほどの話じゃないと思うけど?」
「それは私が決めますから」
声に出した途端、緊張と楽しみがいっしょに胸の中で動き出した。
キャリーケースは空になったのに、家の中には、持ち帰ったものがいくつも増えていた。
新しいフライパン。
お土産の箱。
それから、まだ日付の決まっていない長野の予定。
旅行は終わったのに、楽しみにすることは、少し増えていた。
5
大阪から戻った翌日、私はいつも通り大蔵屋の制服に袖を通した。
紙袋には、職場用の箱菓子と、恵美への小さなお土産。
開店準備が一段落した頃、インフォのカウンターに恵美と並んで立つ。
「で、主任、大阪に負けた?」
待ってましたと言わんばかりの顔だ。
「本人は認めてないけど、たぶん負けてた」
「やっぱり」
ふたりで笑う。
お好み焼き屋さんの話をすると、恵美はすぐ納得した。
「やっぱり、川崎は東京扱いだった」
「まあ、大阪から見たらそうでしょ」
「恒一さん、三回訂正してたけど」
「負けてる」
きっぱり言われて、また笑いがこみ上げる。
紙袋から、もうひとつの包みを取り出す。
「これ、恵美に」
「ありがとう。いいなぁ、ちゃんと行けて」
「うん」
素直にうなずくと、恵美も優しい顔になった。
「次は長野?」
「うん。まだ予定だけだけど」
「予定があるっていいね」
その一言に、インフォのカウンターの上で、これから先の季節まで少し明るくなった気がした。
落とし物台帳の端に、青い水筒の記録が残っていた。
しみず まもる様。受け渡し済。
その名前に一瞬だけ目を留めて、私はそっとページを閉じる。
顔を上げれば、もう次のお客様が立っている。
今日も、忙しい一日になりそうだ。
◆◆◆
翌朝の玄関で、恒一さんの背中に鞄のストラップがかかる音を聞く。
「長野の手土産、帰ったら考えましょうね」
「分かった」
ネクタイの結び目を整える横顔は、もう仕事モードだ。
「お義母さんに聞きたいことも考えておきます」
「聞くほどのことなんかないって」
そう言って笑う恒一さん。
「それは私が決めますから」
靴を履き終えた恒一さんが、私を見る。
それから、ふいに声を落とした。
「ひよ」
結婚してから、あまり呼ばれなくなった呼び方だった。
だから、その二文字だけで、顔を上げる前から胸が跳ねた。
「はい?」
顔を上げた瞬間だった。
「愛してる」
言葉の意味が胸に届くより先に、恒一さんが少し屈んで、私にキスを落とした。
「……いってらっしゃい」
やっとそれだけ言うと、恒一さんはドアノブに手をかける。
出ていく直前、こちらを振り返って、ほんの少しだけ口角を上げた。
にやり、というには静かで。
でも、確かに、勝ったみたいな顔だった。
「行ってくる」
扉が閉まったあと、しばらくその言葉の余韻を味わった。
特別な日が終わっても、暮らしは続いていく。
お土産を持って仕事に行って、帰ったら次の話をする。
それが、今の私の毎日だ。
そして、これからも泣いたり笑ったりしながら、長い時間をふたりで歩いていく。
いつものように、仕事へ出かけた恒一さんの背中を思い出して、私は小さく笑った。
今日も、ちゃんと頑張ろうと思った。
エピローグ
駅前広場の空気は、少し冷たくて澄んでいた。
買い物袋を片手に歩く彼女の足元で、銀杏の葉がかさりと鳴る。
街路樹はまだ緑を残しながら、ところどころ黄色く縁どられている。
ベンチのそばで、小さな水筒がころんと転がった。
彼女がはっとして拾い上げると、持ち主らしい男の子が立ち尽くしている。
「落としましたよ」
声をかけると、男の子は目を丸くして固まった。
その肩をかばうように、若い母親が駆け寄ってくる。
「すみません。ありがとうございます」
「いえ」
深く頭を下げた後、母親はふわりと笑った。
その笑い方が、秋の光を跳ね返すみたいで、彼女には少しまぶしく見えた。
少し離れたところから、背の高い男の人の低い声がした。
たぶん、この子の父親なのだろう。
「衛」
男の子がぱっと振り向く。
母親がその背に手を添えるようにして言う。
「衛、ありがとうは?」
男の子は小さく口を開いた。
「ありがと」
彼女は思わず笑ってしまう。
「どういたしまして」
それだけのやりとりで、母親と男の子はその人もとへ戻っていく。
父親らしい男の人は、何も大げさなことはしない。
ただ当然のように男の子の水筒を受け取り、母親の荷物も自然に持った。
彼女は、その三人の後ろ姿を見つめる。
いい家族だな、と彼女は思う。
そう思った途端、胸の奥が、きゅうと痛んだ。
色づき始めた街路樹の下を、彼女はもう一度歩き出した。
ひより日和 新婚編 第26話 「ふたりで歩く道」最終回 おわり
ここまで『ひより日和』を読んでいただき、本当にありがとうございました。
本編から始まり、日常編、婚約編、新婚編。
ひよりと恒一の歩みを、最後まで見届けていただけたことを、とても嬉しく思います。
ですが、ふたりの物語はこれで終わりではありません。
**『ひより日和 スペシャル』**として、これからも時々番外編をお届けする予定です。
第一弾は、episode ZERO(全4話)。
7月21日より連載開始予定です。
朝倉恒一と、ひよりが出会う前の時間。
本編では語られなかった出来事や、それぞれが歩いてきた道を描く、少し特別なお話になります。
そして現在、新しい物語**『紅葉便り』**も準備を進めています。
『ひより日和』と同じ世界を舞台にした、新しい主人公による物語です。
こちらも、公開できる日を楽しみに待っていただけたら嬉しいです。
これからも『ひより日和』、そして新しい物語を、どうぞよろしくお願いいたします。




