第24話 「高阪さん」後編
1
エレベーターホール脇の柱を回ったところで、耳元の無線が鳴った。
「インフォ、責任者対応に切り替え。男性客一名、従業員個人への言及あり。前田への複数回接触で共有のある男性客と思われます。警備、近くに一名お願いします」
またか、と反射的に思う。
前田さんに何度か接触している男性客の話は、警備内でも共有されている。
気になった従業員の名前と顔を覚えたがる厄介なタイプは、何人か心当たりがある。
足を少し速める程度で、まだいつもの延長線上だった。
続いた報告で、空気が変わる。
「旧姓で朝倉さんを呼んでいます」
旧姓。
心臓が大きく跳ねるのがわかった。
「指輪、退勤時の様子、警備員との関係にも触れました」
無線越しでも、声が強ばっているのが分かった。
俺の中で、線引きが一気に塗り替わる。
これはただのクレームじゃない。
ひより個人への関心がそこにある。
右手で無線を押し上げる。
「こちら警備、朝倉。現在三階南側、これよりインフォに向かいます」
足音が自然と駆け足に変わっていた。
無線の報告を、頭の中で順番に並べる。
前田さんへの繰り返しの接触。
だが、これまでクレーム内容に具体性はなかった。
今回は違う。
ひよりの旧姓を知っている。
指輪の有無を見ている。
退勤時に一緒に帰る相手を確認している。
さらに、警備員との関係にまで触れた。
通常のクレームではない。
インフォ従業員個人への執着だ。
周辺人物への接触あり。
退勤動線の観察あり。
事実だけを箇条書きにしていく。
その列の途中に、「ひより」の文字が何度も浮かぶ。
朝倉ひより。
書類上の名前として頭に置いた瞬間、胸の奥が一段冷えた。
夫としての感情が、隙を突くように入り込んでくる。
ここでそれを許したら、判断を誤る。
仕事として扱わなければならない。
そう分かっていても、その名前は、ただの従業員名ではなかった。
俺は一度深く息を吸い込む。
感情を押し下げ、残った事実だけを握り直す。
対応は、警備員としての俺がやる。
夫としての俺は、今は引っ込んでろ。
インフォへ向かう足を、意識して抑える。
走らない。
早足だが乱さない。
通路の途中で、巡回中の神田と目が合う。
「インフォ後方に一人つけろ」
まず退路の確保。
すぐそばにいた別の隊員にも視線を向ける。
「客導線を塞ぐな」
野次馬を生まない。
対象だけ浮かせる。
「声はかけるな。チーフの指示待ち。対象者が動いたら共有」
短く区切って指示を出すと、無線の向こうで数人が同時に動き出す気配があった。
館内の空気が、ゆっくりこちらへ回り始める。
神田が、一瞬だけ表情を変える。
「前田さんの件っすか」
「ああ。前田さんも対象に入る」
そう告げると、神田の目に、濁った怒りが一瞬だけ灯った。
「……了解っす」
噛みしめるような返事。
こいつも、ひよりや前田さんを見てきた一人だ。
俺は歩幅を保ったまま、インフォメーションカウンターの白い天板を正面に捉えた。
男がチーフに促されるようにして、通路側へ出てきた。
別室へ移動するところらしい。
カウンターの内側には、ひよりと前田さんがいる。
通路側にはチーフ。
その少し先に、別室へ案内する警備員が一人。後方にも、もう一人ついている。
距離はあるが、男の正面に俺が入らないよう、ラインは外してあった。
それでも男は、ふと何かに気づいたように顔を上げ、こちらを一瞬だけ見た。
警戒か、敵意か、妙な「確認」の色を帯びた目だ。
俺は表情を変えない。
ただ、内心でだけ短く言葉が浮かぶ。
この男か。
「こちらでお話を伺います」
警備員の声に従って、男が通路の奥へ進んでいく。
チーフはその場に残り、男の背中を見送った。
神田は、インフォ後方に立っている。
視線は男ではなく、カウンターの内側に向いていた。
男が別室へ向かっていくのを確認してから、俺は真正面を見る。
カウンターの内側に、ひよりが立っていた。
仕事の顔をしている。
だが、顔色が少し白い。
手が名札のあたりに残ったまま、指先だけが落ち着きなく動いている。
視線は男の後ろ姿を追っていない。
むしろ、見ないようにしている。
その全部を、一瞬で拾ってしまう。
腹の底から、遅れて怒りが立ち上がる。
怒るのは後でいい。
今は、守る手順が先だ。
男が別室に向かって通路を進んでいくのを確認してから、チーフと短く向き合う。
「状況を詳しく」
チーフは声を落とした
「前田への苦情としてきています。ただ、途中から朝倉ひよりの旧姓、指輪、退勤時の様子に話が移りました」
最初の一言で、やはりかと腹の温度が下がる。
「前田へのクレームは、朝倉ひよりへの接触の口実と見ます」
チーフも、すでにそこまで見ている。
俺は小さくうなずいた。
短く息を整えてから、チーフに向き直る。
「分かりました。警備案件として扱います」
声のトーンを、あくまで業務用に揃える。
「別室には責任者と総務を入れてください。本人への接触は、ここで止めます」
「本人」
言葉としてはただの対象者だが、頭の中でだけ、その輪郭がひよりの姿と重なる。
ここから先、一歩も近づけない。
それが、俺の仕事だ。
チーフとのやりとりを終え、インフォメーションカウンターに正対する。
仕事の距離を保ったまま視線だけ動かすと、ひよりと一瞬、目が合った。
仕事中の顔をしている。
けれど、その奥に「何か言いたそうな」揺れがある。
ここで近づくのは違う。
「チーフの指示で動け。一人で対応するな」
声に乗せるのは、あくまで業務上の注意だけだ。
ここから先は俺がいるから、おまえは線の内側にいろ。
ひよりは小さくうなずいた。
その仕草だけで、この状況がまだ終わっていないことも、同時に伝わってくる。
まずは、警備主任として線を引く。
その線の内側に、ひよりを戻す。
怒るのは、それからでいい。
安心は、まだ先だ。
2
連れてきたのは、バックヤード奥のお客様対応用の小部屋だ。
とはいえ、ここを完全な密室にはしない。
扉は閉めるが、外には警備員を一人立たせる。
中に入るのも、必ず複数名だ。
男には、ドアから遠すぎない位置に腰を下ろしてもらう。
逃げ道を塞ぐためではなく、動きにすぐ反応できる距離を保つためだ。
女性スタッフを一人きりで、この場に残すことはしない。
これは普通のクレーム応対ではない。
警戒を含む面談だ。
フロアマネージャーが主に話をし、総務担当が記録と書類の準備に回る。
インフォチーフは、先ほどまでの現場の経緯を補足する役だ。
男の真正面はフロアマネージャーに任せ、俺は部屋の端、ドアに最も近い場所を選ぶ。
扉の外には、もう一人警備員を立たせた。
あの警備の人、とすでに認識されている以上、前面に出れば感情を刺激するだけだ。
それでも、男の目は一度だけ、俺を探すように動いた。
視線が触れたのは、一瞬だけだった。
男は椅子に腰を下ろし、「自分はクレームを言いに来ただけだ」という顔をしていた。
背もたれに預けるでもなく、妙に「常識的な客」を演じている距離感だ。
フロアマネージャーが、いつもの丁寧な声で切り出す。
「本日は、インフォメーションでのご用件について確認させていただきます」
責めるトーンは一切入れない。
まずは確認から入る。
男は、すぐに言葉を重ねた。
「前田さんの態度が悪かったんです。案内が分かりにくかったし、客に対して、あの言い方はどうかと思って」
声だけ聞けば、よくあるクレームの一つだ。
マネージャーは淡々と質問を重ねる。
「何月何日ごろのことでしょうか」
「どちらの売場へのご案内でしたか」
「どのような言葉が不適切だったとお感じになりましたか」
問いそのものは、一般的なヒアリングの手順だ。
だが、男の答えは、そこで途切れる。
「ええと、その……少し前で」「3階の方の売場で」
日にちも、売場も、具体的な言葉も、霧の中のまま。
苦情の芯がない。
前田さんへの不満を一通り並べたあとで、男は何でもないような顔で続けた。
「でも前は、高阪さんはもっと親切でしたよ。あの人は分かりやすく案内してくれたんです」
姓を変える前の名前を、当たり前のように口にする。
「最近は、名前も変わってるし、なんか避けられてるみたいで」
そこに踏み込んだ瞬間、総務がすぐに線を引いた。
「従業員個人に関するご質問にはお答えできません」
「本日のご用件は、前田の案内対応についてでよろしいでしょうか」
マネージャーも同じ線をなぞる。
男の口調に、わずかな苛立ちが混ざった。
「いや、だから、高阪さんのことも関係ありますよね。あの人がいるから来たわけで」
その一言で、完全にアウトだ。
自分で言った。
前田さんの件は、入口だった。
俺は心の中で、その文を太字で囲む。
男の口調には、罪悪感らしい影がほとんどなかった。
「ただ話したかっただけです。前はもっと親切だったんです」
自分の中では筋が通っていると言わんばかりだ。
「名前が変わっていたから、気になっただけで。指輪もしていたから、あれっと思って」
そこで一度、言葉が切れる。
「あの警備の人と帰ってるのも見たから」
指先が、机の端を無意識になぞる。
その視線の先に、わずかにこちらを意識する気配があった。
俺のことを見ていた。
ひよりと帰るところを、見ていた。
それを、この男は悪びれずに口にしている。
腹の奥で、鈍い怒りが膨らむ。
だが、口は挟まない。
総務が、淡々と声を整えた。
「確認いたします」
まず前置きだけを置いてから、事実を一つずつ並べていく。
「お客様は、当館従業員の旧姓をご存じでした」
「指輪の有無に言及されました」
「退勤時の様子をご覧になっていたとお話しされました」
「また、前田への苦情を申し出ながら、朝倉ひより個人への接触を目的とする発言がありました」
言葉だけ聞けば、ただの事務的な整理だ。
それなのに、部屋の空気が一段冷たくなる。
男は、すぐに肩をすくめた。
「そんな大げさな話じゃないですよ。ただ気になっただけです。そちらが勝手に変に受け取ってるんじゃないですか」
軽く笑い混じりの声。
ここまで来ても、自分の位置が見えていない。
総務は揺れずに返す。
「当館としては、従業員の安全確保を優先いたします」
その一文で、この場の優先順位がはっきり固定された。
総務が、少しだけ姿勢を正した。
「今回の件を踏まえ、当館としては、今後のお客様のご入館をお断りいたします」
男の顔色が変わる。
「入館禁止ってことですか。そこまでするんですか。私は何もしてないですよ」
声が上ずるのを、総務はまっすぐ受け止めた。
「従業員個人への接触、待ち伏せ、退勤時の動向確認、個人情報に関するご質問は、当館として看過できません」
犯罪だとは言わない。
ただ、ここでは認めないと、施設側の判断としてはっきり示した。
総務が、用意していた念書を静かにテーブルに置く。
内容を読み上げる声も淡々としている。
今後、大蔵屋百貨店へ入館しないこと。
当館従業員個人へ接触しないこと。
朝倉ひより、前田恵美への接触をしないこと。
従業員の待ち伏せ、追跡を行わないこと。
違反した場合、当館が警察へ通報しても異議を述べないこと。
男がペンを持つ。
だが、ペン先が、紙の上で迷っていた。
迷う理由があるなら、その時点で十分だった。
「そこまで大ごとにするつもりはなかったんです」
男が、言い訳のようにこぼす。
署名を終えた紙を確認してから、総務が最後の一手を置くように口を開いた。
「本件は、所轄にも相談記録を残します。現時点で警察対応を求めるものではありませんが、再来館や接触があった場合、初回扱いにしないためです」
男の顔色が、さらに悪くなる。
「警察って、そんな……」
「再度のご来館、接触がなければ、それ以上の対応には進みません」
総務の声は終始、揺れなかった。
ここで会社が本気で線を引いたことを告げるには、それで十分だった。
「出口までご案内いたします」
言葉づかいはあくまで丁寧に。
だが、実質は退館誘導だ。
男はまだ何か言いたげに肩を動かすが、誰も隙を作らない。
俺は後ろから、その背中を見送るだけでいい。
この男には、もうひよりに届く言葉を持たせない。
男が館外へ出た瞬間、対応は一つ終わった。
けれど、終わったのは会社の手続きだけだ。
ひよりの中では、まだ何も終わっていない。
3
フロアは何事もなかったみたいに、いつもの音が鳴り続けている。
エスカレーターの手すりが回る音と、アナウンスと、遠くで子どもがぐずる声。
私は、カウンターの内側で、名札のあたりに置いた手をまだ戻せないでいた。
先ほど、バックヤードから戻ってきたチーフが言った。
「朝倉さん、ちょっとバック入っていいから」
チーフの声は、できるだけ普通の調子だった。
「ここは代わるから。お手洗い、行ってきて」
私は小さくうなずいて、「失礼します」とだけ言って、カウンターを離れる。
お客様の視線から外れる角を曲がった途端、膝から少し力が抜けた。
バックヤードのドアを閉める。
LEDの白っぽい光と、段ボールの匂いと、コピー機の待機音。
ここの空気は、さっきまで立っていた場所と、同じ建物とは思えないくらい違っている。
私はそのまま、突き当たりのお手洗いに向かった。
蛇口をひねると、水が勢いよく流れ出す。
両手を差し入れると、冷たさが骨の方までしみてくる。
さっきまで、あの人の声が、耳の奥にまとわりついていた。
「前は高阪さんはもっと親切でしたよ」
「名前が変わっていたから、気になっただけで」
鏡を見ると、制服の襟も、髪もきちんと整っているのに、顔色だけが自分のものじゃないみたいに白い。
流れていく水を見つめながら、指先に力をこめる。
冷たさを感じようとしているのに、手のひらはまだ、熱いのか冷たいのか、よく分からなかった。
ペーパータオルで手を拭いて、制服の胸元に手を戻したとき、自然と名札の上に指がいった。
「朝倉 ひより」
金色のプレートに、黒い文字。
もう一年も、毎日のように見ているはずの名前。
さっき、「高阪さん」と呼ばれたとき、一瞬だけ頭の中でこっちの名札がぐらりと揺れた気がした。
高阪ひよりと、朝倉ひより。
どちらも私なのに、どちらも少し遠い。
名札の縁をなぞる指先が、細かく震えているのが自分でも分かった。
ドアの向こうから、足音が近づいてくる。
バックヤードの床を踏む、聞き慣れたリズム。
「ひより」
呼ばれてドアを見ると、恵美が立っていた。
「交代入るから。ちょっとこっち来て」
いつもの、少しぶっきらぼうな声。
だけど、目つきは仕事のときよりも、ずっとこっちを見ている。
小さな応接用のソファが置いてある休憩スペースに連れて行かれて、私は言われるままに腰を下ろした。
座面に体重を預けた途端、支えをなくしたみたいに、背中がぐにゃりと力を失う。
恵美が、紙コップに入った水を黙って差し出した。
受け取ったけれど、すぐには飲めない。
指で縁をなぞるだけで、飲むという動作にまで、まだ気持ちが追いつかない。
「大丈夫?」
恵美がそう聞いてくる。
問い方はいつもの調子なのに、声の奥に少しだけ棘があった。
私に向いているというより、どこか別の方向に向いている棘。
私は、少しだけ笑おうとして、うまくいかなかった。
「大丈夫、って言いたいんだけど」
声にしてみると、自分でも驚くくらい、喉が乾いていた。
「うん」
恵美は、促すみたいに短くうなずく。
「ちょっと、気持ち悪い」
やっと出てきた言葉は、それだった。
怖い、より先に出てきたのが「気持ち悪い」だったことに、自分で少し驚く。
あの人の目とか、声とか、言葉の選び方とか。
全部がまとわりついてくる感じがして、からだの表面に見えない膜が貼りついてしまったみたいだ。
「そらそうでしょ」
恵美は、ため息みたいに言った。
慰めようとしている声じゃなくて、状況をそのまま認める声だった。
「怖がっていいやつよ、これは」
ぽつりと付け足された言葉が、胸の奥に落ちていく。
怖がっていい。
その言葉を聞いた瞬間、張りつめていた何かが、少しだけ緩んだ。
「でも、会社、ちゃんと動いてくれたから」
私が自分に言い聞かせるみたいに言うと、恵美が「そだね」とうなずく。
「チーフも総務もフロアマネも出てきてくれてたし。朝倉主任も、ちゃんといたしね」
朝倉主任。
さっき、カウンターの前で視線が合ったときのことを思い出す。
「チーフの指示で動け。一人で対応するな」
あの短い言葉の中に、仕事の注意と、別の何かが重なっていたことは、私にも分かった。
でも、それをここで口に出したら、たぶんまた涙腺のあたりが熱くなる。
「恒一さん、怒ってるかな」
ぽつりと漏れた自分の声に、自分で少し驚く。
怖かったとか、気持ち悪かったとかよりも先に、そこが気になっているのが、我ながららしいと思う。
恵美は、肩をすくめた。
「そら怒ってるでしょ。でも、今は仕事モードじゃない?」
想像がつく。
冷静に、事実を並べて、優先順位を決めていく人。
さっき、自分の旧姓や、指輪のことや、一緒に帰るところを、平然と口にされたとき、胸のどこかが氷みたいになった。
あれを今、整理しているのだとしたら。
私は、自分の両手を重ねる。
指先はまだ冷たかった。
会社は、守ってくれた。
男の人は、もう入ってこられないようにされた。
でも、私の手は、まだ冷たい。
「怖がっていいって、さっき言ったけど」
恵美が、ソファの背にもたれながら言う。
「怖がったからって、負けとかじゃないし」
「ちゃんと怖がって、ちゃんと対策して、ちゃんと守ってもらうのが正しい」
言葉の一つ一つが、少し乱暴で、でも優しい。
「……怖がっても、いい?」
自分でも驚くくらい小さな声で、私は聞き返した。
それを口にした瞬間、ようやく自分の感情として形を持った気がした。
「いい。てか、怖がっときな」
「怖がるってことは、警戒できるってことだし」
恵美が、即答する。
その速さに、少しだけ笑いそうになる。
バックヤードの時計が、ゆっくりと秒針を進めていく。
フロアからは、スピーカーを通し変わらずアナウンスが聞こえてくる。
大蔵屋百貨店は、今日も営業を続けている。
男の人は、もうここにいない。
会社は線を引いてくれた。
それでも、この冷たさがすぐに消えるわけじゃない。
私は重ねた自分の手を見下ろす。
その上に、恵美の手が、ぽん、と軽く乗せられた。
「手、洗ったよね。なら、もう大丈夫」
根拠なんてどこにもないのに、その一言が、さっき洗面台の前で流しきれなかったものを、少しずつ流していく。
完全に安心するのは、きっともっと後になる。
でも、今はまだ、ここで「怖い」と言っていていい。
そう思えたことだけは、はっきりと分かった。
4
男は退館済み。
警備室横の小さな打ち合わせスペースで、まず総務、フロアマネージャー、インフォチーフ、警備側だけがテーブルを囲んだ。
ひよりと前田さんには、後で必要な部分だけを伝える。
総務が書類を机に並べた。
「念書の写しと、入館禁止の決定です。本件は所轄にも相談記録を残しました」
俺はうなずき、警備側のメモに視線を落とす。
「防犯カメラの静止画と特徴は、今日中に警備全員に共有します。再来館時は即時連絡。インフォ周辺の巡回も増やします」
フロアマネージャーが確認するように言う。
「インフォのふたりについては?」
「朝倉ひよりと前田恵美、ふたりとも退勤時の単独行動は避けます」
自分の声が、思ったより冷静に出た。
「今日は二人とも電車通勤ですので、車ではなく同行帰宅にします」
「前田さんは神田が退勤確認、必要なら駅か自宅付近まで」
横で神田が「了解」と短く答える。
「明日以降、シフトに合わせて車通勤や送迎も検討しましょう」
総務のその一言で、当面の線が固まった。
怒りは、ここには持ち込まない。
守るための手順だけを、テーブルの上に並べていく。
一通りの段取りが決まったところで、チーフがひよりと前田さんを呼んだ。
打ち合わせの終盤で、インフォのチーフがはっきりと口を開いた。
「前田も対象から外さないでください。最初に接触されたのは前田です。朝倉ひよりへの接触の入口として使われた以上、前田も警戒対象です」
言葉を選ぶ間もなく、俺は即答していた。
「外しません」
そこだけは、迷いようがない。
横にいた神田の顔が、一度だけきゅっと硬くなる。
「……了解です」
短い返事に、噛み殺した怒りが混ざっていた。
神田が何に対して怒っているのかも、もう説明はいらなかった。
5
チーフに呼ばれて、ひよりと一緒に警備室で今後の説明を受けた。
必要な説明を聞き終えて警備室を出ると、亮が横に並んだ。
「恵美さんの退勤、俺が確認するから」
「はいはい。警備対象ですもんね」
わざと軽く言うと、亮は笑わなかった。
「バックヤード移動のときも、周辺見るし、明日以降、シフト合う日は、俺の車で一緒に帰るから」
「……そこまで?」
「そこまで」
即答だった。
その声が、いつもの少し軽い亮の声と違っていて、あたしは返す言葉を一瞬なくした。
「便利な仕事だね。堂々と心配できて」
冗談に逃げるみたいに言うと、亮の眉が少しだけ寄った。
「便利とかじゃない。そんなんじゃない」
「心配してる?」
「してる」
いつもなら、少し照れて、間を置いて、それから「……まあ」とか言うくせに。
今日は、逃げなかった。
「あの男、恵美さんを使ったんだ」
低い声だった。
「使った?」
「ひよりさんに近づくために、恵美さんに絡んだ。前田さんの対応がどうとか言いながら、本当はひよりさんを見てた」
亮の言葉に、さっきの男の視線を思い出す。
あたしに文句を言いながら、あたしを見ていなかった目。
ひよりの方へ流れていった、あの気持ち悪い視線。
背筋の奥が、少し冷える。
「……あたしは、ついでってこと?」
口に出してから、自分でも思ったより嫌な声だった。
亮はすぐに首を振った。
「ついでじゃない」
「でも、狙いはひよりだったんでしょ」
「だから余計に腹が立つ」
亮が、まっすぐこっちを見た。
「恵美さんを、踏み台みたいに使ったんで」
その言い方があまりに真面目で、胸の奥が変に詰まった。
「踏み台って」
「違うか?」
「……違わないけど」
笑って流そうとしたのに、うまく笑えなかった。
ひよりが本命だったなら、あたしはもう外れていい。
どこかで、そんなふうに思いかけていた。
でも、チーフも、主任も、亮も、誰もそうは言わなかった。
チーフは朝倉さんにはっきり言ってくれた
『最初に接触されたのは前田です』
『前田も対象から外さないでください』
その言葉が、今になって胸の中で少し重くなる。
「あたし、ついでじゃないんだ」
ぽつりとこぼすと、亮はすぐに言った。
「当たり前だ」
「警備として?」
「警備としても」
少し間があいた。
「……俺としても」
その言葉に、今度こそ顔が熱くなる。
「そこは仕事だけって言いなさいよ」
「無理だって」
即答だった。
「今、それ言う?」
「今だから言ってる」
亮の声は、まだ少し硬い。
「いつだって、恵美さんは平気そうな顔する」
「でも、俺は知ってる。平気じゃないよね?」
言い返そうとして、できなかった。
平気なわけがない。
あの男に直接旧姓を呼ばれたのはひよりだ。
指輪のことを見られていたのも、帰るところを見られていたのも、ひよりだ。
でも、あたしだって怖かった。
自分の名前を口実にされて、文句の相手にされて、それなのに本当は見られていなかった。
あたし越しに、ひよりを見ていた。
それが、気持ち悪かった。
「……平気じゃないかも」
小さく言うと、亮の顔が少しだけ変わった。
怒っている顔だった。
でも、その怒りはあたしに向いていない。
「じゃあ、平気なふりしなくていいよ」
「仕事中はするよ」
「仕事中は、俺も仕事する」
「じゃあ、仕事じゃない時は?」
聞いた自分の声が、少しだけ甘えたみたいで嫌になる。
亮は、ほんの少しだけ息を吸った。
「仕事じゃない時は、俺が迎えに行く」
「……毎回?」
「必要なら毎回」
「大げさ」
「大げさで終わればいい」
その言葉に、胸の奥が少しだけほどけた。
茶化そうと思った。
いつものように、「便利な彼氏」とか、「警備員って得」とか言おうと思った。
でも、今日はできなかった。
「あんた、怒ってる?」
聞くと、亮は目をそらさなかった。
「怒ってる」
「ひよりのことで?」
「それも」
「それも?」
「恵美さんのことでも」
言葉が、胸の真ん中に落ちた。
「俺の彼女を、あんなふうに使われて、怒らないわけない」
一瞬、息が止まった。
彼女。
何度も言われたことがあるはずなのに、今日はその言葉がやけに重い。
「……そういうこと、バックヤードで言わないで」
「今、人いないから」
「そういう問題じゃない」
そう返す声が、自分でも少し弱い。
亮は、困ったように笑った。
「じゃあ、帰りにもう一回」
「言わなくていい」
「言います」
「いらない」
「いるから」
いつものやり取りに戻りかけて、少しだけ息ができた。
怖さは消えない。
背中の奥には、まだあの視線が残っている。
それでも、あたしは一人で帰らなくていい。
業務として。
警備対象として。
そして、たぶん、それだけじゃない理由で。
「じゃあ、帰りはお願いします」
そう言うと、亮はいつもの少しゆるい顔に戻って、でも声だけは真面目なまま答えた。
「はい。お任せください」
「そこは信じてる」
亮が一瞬だけ目を丸くした。
それから、ほんの少し笑った。
6
勤務終了が近づくころ、私はなんとかカウンターに戻っていた。
声も笑顔も、形だけならいつも通りに出せる。
けれど、頬の筋肉が動くより、胸のどきどきのほうが一拍早い。
「ありがとうございました」「右手奥でございます」「エレベーターはあちらです」
口は勝手に仕事を続けるのに、その後ろに、薄い膜のようなものが一枚はりついたままだ。
「朝倉さん、今日は主任と一緒に出て」
「前田さんも神田くんと一緒に出るから」
退勤前、チーフがそう言った瞬間、胸の中で何かがかすかに鳴った。
守ってもらっている。
そう思う一方で、そこまでしないといけないことが、私に起きたんだ、とも思う。
従業員通用口で、恒一さんが待っていた。
恒一さんは硬い顔をしていた。
まだ、仕事中の顔。
私を見る目は優しいけれど。
「帰るぞ」
「はい」
あの男の人には、退館してもらったみたいだけど警察に引き渡されたわけじゃない。
今回のことを逆恨みして、私や恵美がひとりでいる時を見計らっている可能性だってある。
そう思うと、怖い。
恒一さんは、従業員通用口を先に出て、周囲を確認している。
そして、私を建物側に寄せるようにして歩いた。
途中で振り返り、後ろも少し気にしている。
駅へ向かうあいだ、何度も後ろを振り返りたくなる。
見ない、と決めても、肩だけがこわばっていく。
隣を歩く恒一さんは、きっと気づいている。
「後ろは見なくていい」
「……見てました?」
「見そうになってた」
この言い方が、いかにも恒一さんだ。
私は少し黙ってから、胸の奥の言葉を出す。
「見たら、いる気がして」
「いない。確認してる」
大丈夫、とは言わない。
ただ「確認してる」とだけ言う。
それが、私の知っている恒一さんだ。
駅にはいつもと同じように人がいるのに、その人混みが今日は少し怖い。
男がいるわけじゃない。
それでも、誰かの視線がどこかから刺さってくるような気がして、足元ばかり見てしまう。
恒一さんは、私をホームの端には立たせない。
さりげなく柱側や壁側へ寄せて、電車の中でもドア付近を避けて、自分が人の流れの側に立つ。
その動きに、言葉よりも先に「守られている」が伝わってくる。
いつもと同じ帰り道なのに、恒一さんの確認がひとつ増えるたび、今日のことがもう一度形になる。
本当にあんなことがあったのだと、安心と怖さが同時に押し寄せてくる。
家の玄関のドアが閉まり、鍵の音が小さく響いた。
ざわざわと耳の奥で鳴っていた雑音が、少しだけ遠くなる。
家に着いて、ようやく息が深く入った。
「……ご飯」
「今日はもう、何もしなくていい」
「でも……」
「あとで俺が買ってくる」
「ひよは何もしなくていい」
恒一さんは、怒っている。
怒っているのは、分かっている。
でも今は、その怒りに触れるのも、私の怖さに触れるのも、少し早い気がした。
今朝までの私に戻るには、まだもう少し時間がかかりそうだった。
7
翌勤務日の朝から、私の出退勤は恒一さんの車に変わった。
KSSが確保している駐車スペースに車を停めて、一緒に従業員通用口から中に入った。
インフォメーションカウンターでは、後方に警備がひとり常駐となった。
たぶん、フロアの巡回も増えていると思う。
カウンターに立つと、後方にいる警備員の姿が視界の端に入った。
安心するはずなのに、そのたびに、昨日のことが本当にあったのだと思い知らされる。
それでも、誰も私に「普通にしろ」とは言わなかった。
私の周りで、いろんなことが変わった。
しばらくは、警戒期間として続くということだった。
夕方、仕事が終わって車に乗り込む。
車が走り出して、3つ目の信号を超えたあたりで、やっと私は彼に聞いた。
「怒ってますか」
聞いた瞬間、自分でも少し怖くなった。
恒一さんは、すぐには答えなかった。
ハンドルを握る手が、ほんの少しだけ強くなる。
「怒ってる」
短い声だった。
「仕事として、ですか」
「それもある」
ウインカーの音が、車内に小さく響いた。
「でも、それだけじゃない」
恒一さんは前を見たまま、低い声で続けた。
「あの男が見ていたのは、従業員としての朝倉ひよりだけじゃない」
「お前の名前も、指輪も、帰る時間も、俺と帰っていることも見てた」
一つずつ言われるたびに、胸の奥が冷たくなる。
「俺の妻を、勝手に見て、勝手に意味をつけて、勝手に近づこうとした」
そこで、声が少しだけ低くなった。
「腹が立たないわけがない」
息が止まるかと思った。
怒っている。
本当に、怒っている。
でもその怒りは、私に向けられていない。
私を怖がらせた人に向いている。
私の笑顔を、勝手に自分のものにしようとした人に向いている。
「お前は悪くない」
恒一さんが言った。
「笑ったことも、案内したことも、仕事をしたことも、何も悪くない」
「悪いのは、そこに勝手な意味をつけた相手だ」
胸の奥に、詰まっていたものが揺れた。
「でも……明日も、ちゃんと笑えるかは、まだ分からないです」
「笑えなくてもいい」
すぐに返ってきた。
「戻る速度まで、お前が責任を持つ必要はない」
それから、少し間を置いて。
「怖いなら、怖いままでいい」
「そのぶん、俺が怒ってる」
その言葉に、目の奥が熱くなった。
怖いままでいい。
自分を責めなくていい。
無理に笑わなくていい。
その全部を、恒一さんが私の代わりに線で囲ってくれている気がした。
「仕事でも、ひより自身まで渡す必要はない」
恒一さんは、いつものように前を見たまま言う。
「お前は、客のものじゃない」
「大蔵屋のものでもない」
少しだけ、こちらを見る。
「俺の妻だ」
胸の奥で、何かが崩れた。
甘い言葉ではなかった。
たぶん、恒一さんにとっては、ただの事実確認だったのだと思う。
でも、その事実が、今の私には必要だった。
私は、怖かった。
まだ怖い。
明日も、同じようにカウンターに立てるかも分からない。
それでも、私は一人ではなかった。
会社が線を引いてくれた。
チーフが止めてくれた。
恵美が気づいてくれた。
そして恒一さんは、警備主任としてではなく、夫として怒ってくれている。
「しばらくは、行きも帰りも一緒だ」
「……はい」
「不便か」
首を横に振る。
「安心します」
それから、少しだけ声を落とした。
「でも、まだ少し怖いです」
「うん」
否定しない返事だった。
大丈夫だとも、忘れろとも言わない。
ただ、怖いままの私を、そのまま隣に置いてくれる。
車は、夜の道をゆっくり進んでいく。
私を見ていた誰かの視線ではなく、
私を守るために怒っている人の横顔が、隣にある。
そのことが、息をする場所を少しだけ私に返してくれた。
ひより日和 新婚編 第24話 「高阪さん」後編 おわり




