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第23話 「高阪さん」前編

1


早番のお昼過ぎ、休憩から持ち場へ戻る。

夏休み前で、いまのところ館内は混雑もしていない。

どちらかというと、今日はお客様も静かだ。


あたしは伝票と案内紙を揃えて、クリップの向きを直してから顔を上げた。


目に入ったのは、正面からこちらに歩いてくる男性の姿。

顔に覚えがあった。

胸の奥がひやりとした。


あ、またこの人だ。


先日から、嫌がらせのように理不尽なクレームを持ってくる。


期限切れの商品券を持ってきて、「何とかならないのか」といつまでもごねる。


そこらの商店のポイントカードだって、期限が切れたら無効だ。

百貨店なら、ごねれば通用すると思っているのだろうか。


だからって、冷たい対応はしていない。


とにかく、謝るしかないのだ。

百貨店とはそういうところだ。


「ご希望に添えず、大変申し訳ございません」


そう言って何度も頭を下げて、帰ってもらった。



その男性がまた、あたしの前に立つ。


頬と口元に「仕事の顔」を貼り付ける。

角度を決めた微笑み、いつもの声の高さ。

表情筋だけは、マニュアル通りに動かす。


「いらっしゃいませ」


あたしの声なんて聞こえていないみたいに、男の人はカウンターに片手をついた。


前に見たときより、少しだけ苛立ちをまとっている気がする。


「前回の案内の件で」


ねっとりとした声が、まっすぐこちらに落ちてくる。


「前田さんの対応について、責任者の方と話したいんですが」


心臓が一拍、遅れて喉までせり上がった。

でも、それを表に出すことだけは絶対にしない。


「上司にも報告が必要ですので、ご不快に感じられたご案内はどのような対応でしたでしょうか?」


できるだけ丁寧に、言葉を選んでうかがってみても、返ってくる話はどこか輪郭がぼやけている。


案内が間違っていた。

右側だと言われたが、自分から見ると左だった。


言葉だけ聞けば強い不満なのに、具体的な場面が頭の中でうまく再生されない。


本当にそうだろうか。

あの日の自分の説明を、心の中でなぞる。

どんなお客様に対しても、あたしは態度を変えたりしない。

言い方ひとつで印象が変わるのは知っているから、そこだけはいつも気をつけている。


それでもここで、カウンターの前で、いつまでも管を巻かれても困る。


「さようでございますか」

「大変、申し訳ございません」

「担当者をお呼びいたしますので、少々お待ちいただけますでしょうか」


いつもの声でそう告げる。


隣では、ひよりが別のお客様と笑顔で話している。

その柔らかい横顔を視界の端で確認した瞬間、男の人の目線が、ほんの一瞬だけそちらへ動いた気がした。


気のせいかもしれない。

でも、あたしの指先は内線の受話器に触れたまま、少しだけ止まった。


ごく自然な動きに見えるように、あたしは受話器を取った。


手のひらだけが、じんわり汗ばんでいるのを、自分だけが知っている。



内線を切って二分も経たないうちに、チーフが早足にカウンターへ現れた。


「お待たせいたしました」


百貨店らしい、少し低めの丁寧な声。

あたしは横に一歩下がり、男の人とチーフの間に視線の通り道を作る。


「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」

「詳しくお伺いいたします」


チーフが深くお辞儀をすると、男の人は待ってましたとばかりに口を開いた。


「この前も言ったんですけどね、前田さんの態度がね。案内もなんだか不親切で。前回も正直、納得してないんですよ」


言葉はそれらしいけど、具体的な中身はふわふわしている。


「なんかねえ、感じ悪いんだよね」

「こっちはお客として聞いてるのに、そっちの都合でしゃべってる感じがしてさ」

「説明されたけど、ぜんぜん頭に入ってこなかったよ。プロならもうちょっと分かるように言ってくれないと」


「別に大したことじゃないんだけどね。でも、百貨店ならもう少しちゃんとしてほしいよね」

「こっちも忙しい中で来てるんだからさ、もっとスムーズにいかないかなって」

「言い方ひとつなんだけどね。なんか、突き放された感じがしたんだよ」


どの場面の、どの言い方が、どう不親切だったのか。

聞けば聞くほど、靄みたいに輪郭のない不満ばかりが積み上がっていく。

「前回の具体」がないまま、「ずっと我慢してきた客」というポジションだけを取ろうとしている。



それより気になるのは、男の人の視線だった。


文句を言っているのはあたしのことなのに、目線がときどき、隣で別のお客様を案内しているひよりの方へ流れる。

何を見ているんだろう。


何とも形容しがたい、小さな違和感だけがじわりと沈んでいった。



2


お客様に笑顔で売場のご案内をする。


「こちらをまっすぐお進みいただきまして、エスカレーターで五階まで…」


いつもの仕事の声。


お客様もうなずきながら、館内のガイドを見ている。


そのとき、背中のあたりに小さく針を刺されたような気がした。

視線、みたいなもの。

気のせいかなと思いながらも、区切りのところでそっと顔を上げる。


総合インフォメーションのカウンターの前で、チーフと男の人が向かい合っていた。

さっき、恵美の前に立っていたお客様だ。


あの人だ。

この前から、恵美に何度か声を荒げていたお客様。


本当なら、話に集中しているはずのその人の目が、一瞬だけまっすぐこっちをとらえる。


胸のあたりが、理由もなくざわっと揺れた。



「…その売場の手前に、婦人雑貨がございますので」


言葉は続けながら、表情の筋肉だけは絶対に動かさない。

仕事中だから。


たまたま視線が合っただけかもしれない。

ただ見られただけ。

そう思い込もうとする。



私は少し離れた場所で、別のお客様に館内のご案内を続けていた。


「そのまま真っすぐお進みいただきますと、左手に──」


自分の声だけは、いつも通りの仕事用のトーンを保つ。

なのに、その違和感だけは、靴の中に入った小石みたいに、足元に残ったままだった。


恵美の対応について、丁寧に事情をうかがう言葉。

チーフの落ち着いた声が、カウンター前の空気を少しずつ整えていく。



3


チーフと男のやりとりを横目で見ながら、あたしは、これは違うな、ってほとんど確信していた。

口では「前田さんの案内が不親切だった」とか「分かりにくかった」とか言うくせに、その人の目は、あたしじゃない。


ひよりのほうを見ている。


ひよりが待っているお客様を手で招きながら、案内する。

ひよりが笑う。

ひよりが名札にそっと手を添えて、自分の名前を示す。

そのたびに、男の視線が、すうっとそっちへ流れていく。


あたしに文句言いに来たんじゃないの?

何見てんの。

そこ、関係ないじゃん。


チーフは冷静に、「どの売り場で」「どのようなご案内でしたか」と丁寧に聞き出そうとしているのに、男の答えは相変わらずぼやけたまま。

なのに、ひよりの動きだけは、見逃すまいとするみたいに追いかけている。


そのアンバランスさが、気持ち悪い。

この人の本当の矛先は、あたしの案内じゃない。

ひよりに向けられた視線のほうが、よっぽど問題だ。


胸の中で、立ち位置が少し変わるのを感じた。

さっきまで「なんであたしばっかり」と思っていたのに、今は違う。

守らないといけないのは、クレームをつけられているあたしじゃなくて、ひよりのほうだ。


そう思った瞬間から、あたしは、ひよりをこの人の視界から外す方法を、本気で考え始めていた。



4


そのときだった。


男の人が、急にチーフの言葉を遮るように言った。


「……高阪さんは、今日はいるんですね」


男の人の低い一言が、インフォの前の空気をぴたりと止めた。


時間が、そこだけ切り取られたみたいに止まる。

すぐに誰も何も言わない。

次の言葉へ進まない、変な空白ができる。


ひより、と呼ばれることには慣れた。

朝倉さん、と呼ばれることにも、もう慣れた。


高阪。

頭の中で、ゆっくりその字面をたどる。

視線が、勝手に自分の胸元へ落ちる。

名札には、もう一年以上、当たり前のように「朝倉」と印刷されている。


なんで今、旧姓で。


館内放送が、急に遠くなった。

お客様の足音も、売場のざわめきも、薄い膜の向こう側みたいにぼやける。

自分のいる場所だけ、輪郭だけが、妙にはっきりしていく。


隣で、恵美の気配がふっと固まるのが分かる。

息を止めたみたいな、ぴんとした静けさ。

チーフの横顔だけは変わらない。

ただ、次に発した声の温度だけが、さっきまでと違って、低く静かに場をおさえにかかっているのが分かった。


その空気の変化が、じわりと肌に触れて、あ、これはただのクレームじゃない、と遅れて理解が追いついてくる。


足元が、ほんの少し遠くなった気がした。


今ここに立っている私は、朝倉ひよりだ。

名札にもそう書いてある。

それなのに、その人は、今の私ではなく、少し前の私を呼んでいる。


そのことが、言葉より先に、インフォメーションの空気を変えた。


チーフが静かな声で問い直す。


「恐れ入ります。どちらの者のことでしょうか」


男の人の視線が、はっきりと私をとらえた。


「前は、高阪さんでしたよね」



5


男の声が、ぞわりと肌に触れたような気がした。


「いつから朝倉さんになったんですか」


不気味さを隠そうともしない調子で、さらりと言う。

胸元の名札が、急に重くなる。


「指輪、前はしてませんでしたよね」


息が、喉のあたりでひっかかった。


ただの名札の読み上げじゃない。

この人は、今胸に光る金色の名札の「朝倉」を見ているんじゃない。

旧姓を知っている。

指輪がなかったころの、私を知っている。


背中のほうで、恵美が小さく動いて、また止まる気配がする。

チーフの声だけが、わずかに低くなって聞こえてくるけれど、言葉の意味がうまく入ってこない。


さっきまで遠くなっていた館内の音が、今度は逆に、全部自分に向かって押し寄せてくる。

頭の中だけが、きゅうっと細くなって、この男の言葉の端だけが、鋭く刺さって残った。


男は続けて言った。


「あの警備の人ですよね」

「よく一緒に帰ってますよね」


その瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。

旧姓。指輪。退勤の時間。恒一さん。

私が自分でも大事にしまっているいくつかの点を、この人はもう線でつないでいる。


私は、ただ笑っていただけだった。

インフォメーションのカウンターで、お客様に向ける、仕事の笑顔。

誰かひとりだけに渡したものではなくて、ここに来る人みんなへ向けた、ごく当たり前の表情のつもりだった。


けれど、その笑顔の向こう側に、勝手に自分の居場所を作ってしまう人がいる。

私の知らないところで、私の名前や指輪や、帰る時間まで拾い集めて、こうして目の前に並べてくる人がいる。


体の表面が、じわじわと冷たくなっていく。

さっきまでただの理不尽なクレームだと思っていた男の輪郭が、別のものに変わっていく音がした。



6


男の言葉が、もう完全に仕事の枠から外れていると分かったとき、足がすうっと冷たくなった。


怖い。

背中のどこかがじんわり汗ばんでいるのが分かる。

けれど、その感覚と、カウンターの内側に立つ自分を、私は急いで切り離した。


「申し訳ございません。従業員個人に関するご質問には、お答えできません。館内のご案内でしたら、別の係が承ります」


自分の声が、思ったよりきちんと出た。


震えていない。

いつもの仕事の声。

マニュアルどおりの文言。

ここから先は、私の外側だ。

そう、自分に線を引くように、心の中でもう一度、同じ言葉をなぞる。


横で、チーフの空気が変わる。

これはただの接客クレームではない、と判断した気配が、はっきり伝わってくる。


「恐れ入ります。こちらでは詳しいお話を承れません。責任者が参りますので、別室でお伺いいたします」


チーフの声は、静かで、少しだけ低い。

館内放送も、周りのざわめきも、また現実の音として戻ってくる。

私は、カウンターの内側に立つ一人の「朝倉ひより」として、この人との距離を、仕事の言葉で必死に保っていた。


これはもう、恵美へのクレームではない。

そして私は、自分がいつから見られていたのかを、まだ知らないまま立っていた。




ひより日和 新婚編 第23話 「高阪さん」前編 おわり



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