第22話 「ひとりで、できるもん」
1
六月の、少し湿った休みの午前。
寝室のドアをそっと開けると、薄暗い部屋の向こうで、当務明けの恒一さんが静かに寝息を立てている。
起こさないように、静かにドアを閉めて、私は足音を忍ばせて台所に戻った。
シンクの前に立つと、ふと先日恵美が来た夜のことを思い出す。
急に「今から行っていい?」そんな連絡が来て、慌てて湯呑みを出して、お茶の缶を探して、リビングのバスケットからお菓子を引っ張り出して。
あのときの私は、完全にばたばたしていた。
お茶は食器棚、湯呑みも食器棚だけれど扉が違う。
お菓子はリビングの小さい棚に置いたバスケットの中。
場所がばらばらで、私と恒一さんしかいないときは、それで困らない。
どこに何があるか、二人とも覚えているから。
でも、誰かがふっと来てくれた時。
玄関でコートを預かって、「そこに座っててくださいね」とか言いながら、台所でひとり小さく走り回る自分を思い出すと、もう少しスマートにできないかと思ってしまう。
お茶と、湯呑みと、お菓子。
あの三つが、ひとかたまりになっていたらいい。
恵美がまた「お茶だけ」って来てくれた時、キッチンの隅からそのまま持ってきて、「はいどうぞ」って、落ち着いて出せるような。
そう思った瞬間、頭の中に小さな棚の姿がふっと浮かんだ。
お茶の缶が並んでいて、その下に湯呑みが重なっていて、小さなカゴには個包装のお菓子が少し。
ずっと前にふたりで見つけたおそろいのマグも、そこに置けたら嬉しい。
あ、こういうの、欲しいかも。
胸の奥が、わくわくとしてくる。
どこに置こう。
どんな色がいいだろう。
恒一さん、こういうの、どう思うかな。
でも、これを恒一さんに言ったら、たぶん寸法を測るんだろうな。
置き場所を確認して、荷重を考えて、動線を見て。
「ここに置くと、こういう時にぶつかるかもしれない」とか、「この棚板は何キロまで耐えられる」とか、きっとそういう話になる。
それは、すごく正しい。
間違いなく正しい。
頭では分かっているのに、シンクのふちに手をついたまま、私は小さく息を吐いた。
「でもさあ……今回は、自分でやってみたいんだよね」
声に出すと、湯気みたいな気持ちがふわっと軽くなる。
この家のことって、どうしても恒一さんが先に動いてくれる。
電球も、カーテンレールも、本棚の組み立ても。
私が「あったらいいな」と思う前に、「必要だろう」と考えてくれて、静かに終わっている。
ありがたい。
ほんとにありがたい。
でも、たまには。
「たまには、私がこの家のものを作っても、いいんじゃないかなあ」
冷蔵庫のマグネットにメモを貼りながら、私は自分に言い聞かせるみたいに呟く。
お茶と湯呑みとマグカップとお菓子の棚くらい、自分で考えて、自分で決めてみたい。
どこに置いたら、私が使いやすいか。
どんな色だったら、毎日目に入るたび、ちょっと嬉しくなるか。
「ひとりで、できるもん」
口にした瞬間、自分で言っておいて、少し笑ってしまう。
できるかな。
たぶん。
ねじを余らせたり、板をさかさまにつけちゃったり、そういうことはきっとやる。
でも、それでもいい気がする。
失敗した棚が台所の隅にいたら、それはそれで、私が作った景色になる。
その景色の中に、眠そうな顔で台所に来た恒一さんが立つところまで、頭の中でそっと再生してみて、私は小さくうなずいた。
「よし。今回は、ひとりでやってみよう」
声に出して宣言すると、心の中に小さく火がついたみたいに、わくわくが広がっていった。
2
テーブルにノートとペンを広げて、私はスマホを手に取った。
「ええと……賃貸OK」
検索窓に「賃貸OK」と打ち込んで、続けて「工具不要」「100均DIY」「すのこ棚」と入れていく。
さらに「初心者でも簡単」「貼るだけ」「置くだけ」「固定するだけ」。
自分で打っておきながら、だんだん心細くなるような単語の並びに、苦笑いがこぼれる。
動画のサムネイルには、明るい部屋と、かわいい棚と、にこにこした人たち。
再生ボタンを押すと、軽快な音楽と一緒に、手元だけ映った画面の中で、すのこがあっという間に棚になっていく。
「え、そんな一瞬で…?」
木工用ボンドを塗って、ぱたんと貼って、結束バンドでキュッと留めて。
動画の中の人は、慣れた手つきで「はい、完成でーす」と笑って見せる。
その声があまりに軽いので、思わず画面に顔を近づけてしまう。
「待って。もう一回…」
一時停止しては巻き戻し、手元のノートに「すのこ4枚」「ボンド」「結束バンド」と書き込んでいく。
矢印を引いて、「側板」「棚板」と小さくメモする。
気づけば、ページの端まで文字で埋まっていて、私はペンを止めて、ふうっと息をついた。
「……うん。これなら、私にもできるかも」
そう思ったのは、次の動画を見るまでだった。
別の動画を再生すると、画面の中で明るい声が弾んだ。
「では、ここをいい感じに合わせます」
一時停止。
「いい感じ…」
小さくつぶやいて、ノートの端にその言葉を書き込む。
いい感じ。
その言葉は、料理でよく見る「適量」に似ている。
私は適量なら分かる。
醤油を回しかけて、色を見て、味見をして、「もうちょっと」と足していく感じ。
でも、木材の「いい感じ」は分からない。
どのくらい隙間があってよくて、どのくらいならアウトなのか。
頭の中に、コンロの前で困っていた恒一さんの背中がふっと浮かぶ。
あのとき、恒一さんは「弱めの中火」に困っていた。
レシピを見ながら、「弱めって、どのくらいなんだろうな」と真剣な顔で火加減をのぞきこんでいた姿。
今なら、あれ、ちょっと分かる。
再生を進めると、今度はさらっとした声が続く。
「ここを固定します」
私はまた一時停止のボタンを押した。
固定します。
さっきより、だいぶ強い言葉だ。
「何で留めるの?どの方向から。どのくらいの力で…」
声に出してしまって、思わず苦笑する。
そこを言ってほしい。
結束バンドなのか、両面テープなのか、木工用ボンドなのか。
縦に押さえるのか、横から支えるのか。
動画の中の手はすいすい動いて、説明のないところで大事なことをやっている気がする。
一度スマホを置いて、深く息を吸った。
ここで悩んでても、棚はできない。
「…よし。とりあえず、見に行こう」
ノートをぱたんと閉じて立ち上がる。
部屋の時計をちらりと見て、寝室のドアを細く開けて覗いてみた。
まだ、静かな寝息が続いている。
「ちょっと、買い物行ってきますね」
聞こえない相手に小さく報告して、私はバッグに財布とノートを放り込んだ。
スニーカーのかかとを踏まないように足を入れて、玄関のドアノブに手をかける。
六月の湿った空気が、これから始まる「ひとりで、できるもん」に、背中を押されている気がした。
3
駅前の100円ショップに入ると、ふわっと独特の匂いがした。
洗剤と紙と、どこか木の匂いがまざったような、ちょっと落ち着かない匂い。
でも、通路を進むうちに、胸のあたりが少しずつ高鳴ってくる。
さっき、この店と同じ並びにある雑貨屋さんの棚の端っこに、三段カラーボックスが積んであった。
値札を見て、横に立ってみた。
高さも幅も、だいたい頭の中で描いたイメージに近い。
「これなら、もう完成してるし…」
小さくつぶやいて、そっと手をかけてみる。
ぐっと持ち上げようとして、すぐにやめた。
重い。
お店の中なら何とかなるけれど、このまま歩いて階段を上って、マンションのエレベーターまで運んで…想像しただけで、腕がだるくなる。
「ひとりで持って帰る自信が、ないなあ」
声にならないため息を飲み込んで、私はカラーボックスから手を離した。
頭の中で、もう一度あのすのこの動画を再生する。
そうだ、今日は決めてきたんだ。
すのこDIYでいくんだった。
100円ショップの木材コーナーに行くと、小さなすのこが何枚も立てかけてある。
手に取ると、思っていたより軽い。
これなら、何枚かまとめても大丈夫そう。
「すのこ…三枚、いや、四枚にしておこう」
カゴに入れて、次に薄い板を探す。
棚板にできそうな、すべすべした板。
端を指でなでて、ささくれがないか確かめる。
木工用ボンド、結束バンド、棚の表面に貼るためのリメイクシート。
動画で聞いた単語を、ひとつずつカゴに集めていく。
小さいカゴも見つけた。
ここにティーバッグや個包装のお菓子を入れたらかわいいかも、と思って、色違いでいくつか入れる。
棚の下に敷く滑り止めシートと、小さいフックも追加した。
茶こしをさげてもいいし、小さな袋のお菓子を引っかけてもいい。
そして、私は一度カゴの中身を見直す。
「…予備、買っておこう」
薄い板を一枚、すのこを一枚、そっと足す。
失敗したときに、慌ててまたここまで戻ってくる自分の姿が、ありありと浮かんだからだ。
予備を買うところが、大事。
今の私にとって、それは「ひとりで、できるもん」の保険みたいなものだ。
少し重くなったカゴを持ち上げてみる。
これくらいなら、ちゃんと持って帰れそう。
レジへ向かう足取りは、行きよりもずっと軽かった。
レジ袋を受け取ったとき、思ったよりかさばるな、と少しだけ眉が上がった。
すのこが角でカサカサ鳴って、薄い板が中で揺れる。
重くはないけれど、腕に存在感がある。
初心者だから、失敗するかもしれない。
分かっているから、予備の板とすのこを買った。
でも、失敗する前提で買うのは、負けた気がする。
最初から「きっとうまくいかない」と、自分で決めてしまったみたいで。
でも、買い直しに来る方が、もっと負けた気がする。
今日と同じように材料売り場の前に立って、「すみません、また来ました」って心の中で店内に頭を下げる自分を想像して、思わず小さく笑ってしまった。
家までの道、袋はやっぱり少し歩きにくい。
膝に当たらないように持ち直して、カラーボックスを持って帰る自分を重ねてみる。
…うん、あれよりはずっと軽い。
これなら持てる。
「ひとりで、できるもん」
信号待ちで、息にまぎれるくらいの声でつぶやく。
たぶん、まだ言葉の中身まではついてきていない。
でも、その「たぶん」が、少しずつ前に進むための踏み台みたいに思えて、私は袋をぎゅっと持ち直した。
4
玄関をそっと閉めて、靴を脱ぐ音もできるだけ小さくする。
寝室のドアを細く開けて、一瞬だけ耳を澄ます。
規則正しい寝息。
まだ、ぐっすり。
「よし…いまのうち」
小さくつぶやいて、リビングに材料を運び込む。
テーブルの上だと広げにくいから、床に新聞を敷いて、テーブルの端にすのこを立てかけた。
買った時は、材料だった。
広げてみると、急に問題集みたいに見えた。
…そのときだった。
ガタン。
思ったより大きな音がして、心臓がびくっと跳ねる。
立てかけただけのすのこが、重なり合いながら倒れたのだ。
「ちょっと、静かにしてよ…」
思わず、すのこに文句を言ってしまう。
結束バンドの袋を開けようとすれば、今度はビニールがやたらカサカサ鳴る。
慎重に指先でつまんでいるつもりなのに、やけに存在を主張してくる。
それでも、作業を始めるときは少し楽しかった。
まずはリメイクシート。
動画で見た通りに、角を少しだけはがして、板の端に合わせる。
「ここを、いい感じに…」
自分で言って、苦笑いしながら貼り進める。
けれど、シートの下に空気が入って、ぷくっとふくらんだ。
指でなでて押し出そうとするけれど、別の場所がまたふくらむ。
動画では、ここで完成に近づいていた。
画面の中の板は、つるんときれいだったのに。
私の手元では、空気が暮らし始めているみたいに、そこかしこに丸い膨らみが居座っている。
すのこを立ててみる。
倒れる。
板を置いてみる。
ずれる。
手を放すと、さっきまでちょうどよかったはずの位置から、じわっと動いていく。
「ちょっと待っててってば…」
お願いしても、木は聞いてくれない。
木工用ボンドをつければ、はみ出して横ににゅっと顔を出す。
慌ててティッシュで拭くと、今度はティッシュが白く固まりそうになって、指先がべたついた。
結束バンドで締めれば、締めるほど斜めになっていく。
きゅっと締めるたびに、反対側のすのこがすこし浮いて、棚全体が「こんにちは」とでも言うみたいに前のめりになる。
「なんで、まっすぐになってくれないの…」
床にしゃがみ込んだまま、私は小さく嘆息した。
頭の中の完成図と、目の前のぐらぐらした現実。
その差が、ボンドよりねっとりと胸に張りついてくる。
固定します、って、もっとちゃんと言ってほしい。
動画の中の人はあっさり言うけれど、私の頭の中では、その一言がずっと引っかかっている。
固定とは、動かなくなることではないのか。
うちの棚は、固定されながら斜めになっている。
結束バンドはしっかり締められて、キュッと頼もしそうな顔をしているのに、その結果として棚全体が「こんにちは」と前にお辞儀しているのだ。
「…これ、固定って言っていいのかなあ」
床にしゃがみこんで首をかしげる。
だんだん、心の中で言い訳が増えてくる。
少し斜めかもしれない。
でも、床だって完全に水平とは限らない。
築年数だって、それなりに経っているし。
これは傾きではなく、個性なのでは。
「うん、個性。たぶん」
口に出すと、ちょっとだけ楽しくなってくる。
改めて棚を見つめると、真っ直ぐな柱というより、少しだけ人生に疲れた鳥居みたいな形になっている。
どこかで長いこと風雨に耐えてきました、みたいな、頼りないような、でも愛着が湧くような傾き。
「これはこれで、味がある…のかも」
自分で言って、自分で笑ってしまう。
ここで終わりにするのは悔しいけれど、せっかくなので試してみたくなる。
私は近くに置いておいた小さいカゴから、個包装のお菓子を一つ、そっとつまみあげた。
「湯呑みは、まだ怖いからね…」
さすがに陶器は試せない。
割れたら音も出るし、片づけも大変だし、何より私の心が先に折れそうだ。
その点、お菓子なら、落ちても悲鳴を上げるのは私だけで済む。
お菓子の箱がへこんで、ちょっと切ない気持ちにはなるけれど。
棚の中段あたりに、そっとお菓子を置いてみる。
一瞬、ちゃんとそこにとどまったように見えた。その瞬間。
ぐらっ。
棚全体が、小さくでもはっきりと揺れた。
鳥居が、さらに人生に迷い始めたみたいに、前後にふらっと傾く。
私は思わず、両手で支えながら小声で叫んだ。
「ちょ、ちょっと待って待って待って!」
固定されているはずの棚と、固定されていない私の心。
その両方を、なんとか持ちこたえさせようとして、私はぐらぐらする木と一緒に、小さく揺れ続けていた。
5
眠気の残る頭でも、状況だけは一瞬で理解した。
寝室のドアを開けた途端、まず耳に入ったのは、木がこすれるような小さな音と、ひよりの短い悲鳴。
次に目に入ったのは、リビングの床一面に広がった新聞紙と、その上でぐらぐらしている「何か」だった。
「怪我は」
自分でも、思ったより低い声が出たと思う。
ひよりがびくっと振り向いて、目を丸くする。
「してません」
一拍おいてからの、その返事を聞いて、肩の力が少し抜けた。
「ならいい」
それだけ言って、改めてその「何か」に目を向ける。
あー。これは、全然だめだ。
形状としては棚に近い。
四角い枠組みがあって、板が渡されていて、上にはお菓子が一つ、申し訳なさそうに乗っている。
だが、棚と呼ぶには水平、垂直、安定性が足りない。
いや、足りないものが多すぎる。
結束バンドはやたらと頑張っているのに、その頑張りの方向がおかしい。
締めれば締めるほど、全体が前のめりになっている。
リメイクシートは、ところどころ空気が入っていて、触ったら「ぷに」と鳴きそうだ。
これに物を置くのは、収納ではなく実験だ。
どのタイミングで崩れるかを見る装置に近い。
ただ、何かをまとめて置きたいのだろう、ということは分かる。
小さいカゴと、リメイクシートと、やたら慎重に置かれたお菓子。
目的まで悪いとは思わない。
その発想は、ひよりらしいし、悪くないどころか、むしろよく考えられている。
でも、口に全部は出さない。
「…起きてきたら、知らない棚が立ってたら困るでしょ、と思って」
ひよりが、言い訳とも誇りともつかない声でつぶやいた。
俺はその言葉に、少しだけ口の端が上がりそうになるのを押さえながら、ぐらぐらしている鳥居みたいなそれに、もう一度視線を落とした。
「何作ってる」
「棚です」
少し間があく。
「……棚の予定です」
「予定か」
そこは事実だな、と思いながら、しゃがんで揺れを見る。
指先でそっと端を押すだけで、全体がゆらゆらと前後に迷い出す。
「これは使うな」
率直に言うと、ひよりの肩がぴくっと跳ねた。
「お菓子くらいなら大丈夫かなって」
「大丈夫ではないと思うけど」
「でも、軽いです」
「軽いものが落ちる棚は、重いものも落ちる」
口に出してから、当たり前すぎる理屈だなと思う。
だが、ここは譲れない。
「それは、そうですけど」
ひよりが、しゅんとしながらも小さく反論する。
「あと、棚が落ちる」
「棚も?」
「棚もだ」
そこで、ほんの少しだけ目を伏せる。
しょんぼりした気配が、空気ごと柔らかくしぼんだのが分かる。
否定だけで終わらせるのは、もっと良くない。
「何を置きたい?」
視線を棚からひよりに戻して、聞く。
少し驚いたように瞬きをしてから、ひよりが答える。
「お茶と、湯呑みと、お菓子です」
「来客用か」
「来客用というか……恵美がまた来た時とか」
「なるほど」
その絵は、すぐに浮かぶ。
夜にふっと立ち寄る同僚と、それを迎えるひよりの顔。
玄関でばたばたしていた理由にも、少し合点がいく。
「棚がよくない」
そこで一度、はっきり切る。
ひよりがむくっと顔を上げた。
「そこははっきり言うんですね」
「目的は悪くない」
続けると、ひよりの表情が、少しだけゆるむ。
お茶と湯呑みとお菓子をひとまとめにする発想自体は、むしろ感心するくらいだ。
問題は、今ここにあるのが「収納」ではなく「物理実験装置」に近いことだけだ。
ぐらつく鳥居みたいな棚と、その前で一生懸命な顔をしているひよりを交互に見ながら、俺はどうやって軟着陸させるかを、寝起きの頭でゆっくり探し始めた。
6
恒一さんは、まず私ではなく棚と材料を見る。
しゃがんだまま、すのこをそっと持ち上げて、裏も表も確かめる。
それから、床に並べていた薄い板やリメイクシート、カゴ、滑り止めまで、一通り目を通した。
「予備があるのか」
予備のすのこと板に視線がとまる。
「初心者なので」
少しだけ肩をすくめると、恒一さんは短くうなずいた。
「そこは正しい」
その言い方がいつも通りで、胸の奥で小さくガッツポーズをする。
褒められたわけではないけれど、完全には否定されていない感じが、ちょっと嬉しい。
「一回、ばらすぞ」
そう言って、結束バンドをカチカチと切っていく。
すのこの向きを変え、棚板にする板の位置を少し低くしていく。
「重心を下にする」
ぶつぶつ独り言のようにつぶやきながら、結束バンドを増やしていく手つきは迷いがない。
ボンドは「補助」と短く言って、要所だけに少量つける。
最後に、棚の下に滑り止めシートを敷き、小さいカゴをうまく組み合わせて引き出し代わりにしてしまった。
気づけば、さっきまで人生に疲れた鳥居だったものが、ちゃんと「棚」に見えている。
完成に近づいていく棚を眺めながら、胸の中は少しだけ複雑だった。
私が最初に頭の中で描いていた棚とは、もうだいぶ違う。
もっとふわっとしていて、かわいくて、「見せる棚」みたいなものを想像していたのに、恒一さんの手が入るたび、棚はだんだん「使える棚」になっていく。
恒一さんは、かわいさより先に構造を見ている。
「ここに湯呑みは置くな」
組み上がった棚の上段を指しながら、恒一さんが言う。
「どうしてですか」
「上段は揺れる。割れるものは下」
「なるほど」
「お茶は中段。軽いけど頻度が高い」
「頻度」
初めて聞く考え方に、思わず復唱してしまう。
「使うものを取りやすい位置に置く」
「棚にも動線があるんですね」
「うん」
即答してから、ふっと視線を上に上げた。
その目線の先には、何が見えているんだろうと少し気になりながら、私は自分の「かわいい棚」が、少しずつ「ちゃんとした棚」になっていくのを見つめていた。
恒一さんは、組み上がった棚を正面から見て、少しだけ首をかしげた。
「もう一段、あった方がいいな」
「え、増えるんですか」
思わず声が裏返る。今でも私には十分「棚」なのに、まだ先があるらしい。
「この高さなら、上が空く。デッドスペースになる」
「デッドスペース……」
口に出してみると、なんだか急にプロっぽい言葉に聞こえて、胸の中でその単語が転がる。
「もう一枚、板があれば減らせる」
「あります」
反射的に言うと、恒一さんの視線がこっちを向く。
「予備か」
「初心者なので」
ちょっとだけ肩を張って言うと、彼は小さくうなずいた。
「やっぱり正しい」
その一言が、思っていた以上に嬉しい。
少しは報われた気がして、私は心の中でそっと得意げに胸を張った。
7
棚の骨組みは、ほとんど全部、恒一さんの手が入った。
すのこの向きも、棚板の高さも、結束バンドの位置も、滑り止めの敷き方も。
さっきまで私が格闘していたものとは、別物みたいに落ち着いた顔をしている。
そのぶん、胸の中に少しだけ拗ねた気持ちが生まれる。
これ、もう「私の棚」じゃなくなっているんじゃないかな。
「かわいさは?」
ぽつりと聞いてみると、恒一さんは棚から目を離さずに答えた。
「リメイクシートを貼れば残る」
「そこだけ私の担当ですか」
口が勝手にとがると、ようやくこっちを見た。
「そこは俺より、ひよの方がいいと思うけど?」
「私の方が?」
「色や見た目は、お前が選んだ方がいいだろ」
その言い方があまりに不器用で、胸の中で何かがちょっと止まる。
ちゃんと、自分の役割を残してくれている。
そう思ったら、さっきまでの拗ねた気持ちが、少し照れに変わった。
私はリメイクシートを手に取って、そっと貼り始める。
すぐに、空気が入る。
ぷくっと膨らんだところを指でなでていると、横から恒一さんの視線を感じた。
「少し空気が入ってる」
「そこは見逃してください」
きっぱり言うと、彼は短くうなずいた。
「これは、小さい穴をあければいい」
「そこから空気を抜くと、目立たなくなる」
「やってみ」
言われた通りにしてみると、本当に目立たなくなった。
「すごい」
素直に感心する。
私は膨らんだ空気ごと、この棚が好きになった気がした。
完成した棚を前にしゃがみこんで、小さいカゴを一つずつ置いていく。
まずは上段の右端にカゴを並べて、そこに個包装のお菓子をぽんぽん入れていく。
色とりどりの袋が見えて、楽しくなる。
中段には、お茶の缶を。
よく使う緑茶を真ん中に、隣にほうじ茶、その横にカフェイン少なめのもの。
ラベルの色のバランスを見ながら、ちょっとだけ位置をずらす。
下段には、湯呑み。
直接置くのは冷たくてかわいくない気がして、小さな布を敷いた。その上に、普段使いの湯呑みを二つ、少し間をあけて並べる。
最後に私と恒一さんのマグカップも置く。
布の柄と陶器の色が合ってきて、棚全体が少し可愛くなってきた気がした。
「これ、私も作ってますよね」
思わず確認すると、横で見ていた恒一さんがうなずく。
「作ってる」
「ほんとですか」
「材料を買った。目的を決めた。見た目を決めた」
「構造は?」
「俺」
「そこが大きいです」
「大きいな」
あまりにも素直な返事がおかしくて、でもうれしくて。
私は完成した棚をもう一度眺めて、小さく満足の息をついた。
8
完成した棚を、キッチンとリビングのあいだの壁際に置いてみる。
思っていたより収まりがいい。
高さも、幅も、この家の空気にちゃんと混ざってくれている感じがした。
中段のお茶は、手を伸ばすとすぐ届く。
下段の湯呑みは、布の上で安定して並んでいる。
上段のお菓子のカゴも、思っていた以上に可愛い。
これなら、恵美が来た時にすぐ出せそうだ。
ふと、頭の中に最初に作ったあの斜めの棚が浮かぶ。
あのまま使っていたら、たぶん最初に落ちるのはお菓子で、次に棚で、最後に私の自信だったな、と少し苦笑する。
隣で恒一さんが、そっと棚を揺らして確認する。
横から、前から、軽く力をかけてみて、それでも棚はもう揺れない。
「これならいいと思う」
短くそう言われて、笑顔になる。
「売れますか」
つい冗談を言ってみると、すぐに返ってきた。
「売らない」
「分かってます」
分かっているけれど、世界で一つだけの「ひよりと恒一さんの棚」がここにあると思うと私は棚と、その横顔を、もう一度そっと眺めた。
完成した棚をふたりで眺めながら、私はぽつりと口を開いた。
「ひとりで、できるもん、の予定だったんですけど」
隣で腕を組んでいた恒一さんが、間髪入れずに言う。
「ひとりではできてないな」
「かなりですか」
「うん。ほとんど」
即答に、思わずむっとする。
「そこまで言わなくても」
「ただ、サポートはしてたな」
「しました。材料を買いました」
「ああ」
「リメイクシートも貼りました」
「空気は抜いたしな」
「そこは見逃してください」
「見逃す」
そのやりとりがおかしくて、口元がゆるむ。
「あと、応援しました」
そう付け足すと、彼は少しだけ目を細めた。
「それは聞こえていた」
「待って待って待ってって棚を応援してたな」
「寝てたんじゃないの?」
「途中から起きてた」
胸の奥が、かあっと熱くなる。
「起きてたなら、助けてくれたらいいのに」
精一杯の抗議をすると、彼は棚から目を離さないまま、静かに言った。
「楽しそうだったからな」
その一言が、ずるい。
恥ずかしいのに、うれしい。
ひとりで、できるもん、の予定はかなり崩れた。
でも、ふたりで作ったこの棚に、名前でも付けたい気分だった。
私は視線をごまかすように、お菓子のカゴをそっと整えた。
エピローグ
「次、恵美が来たら出せますね」
並べ終えた湯呑みとお菓子を見ながらそう言うと、隣からすぐ声が返ってくる。
「棚ごと倒すなよ」
「もう倒れません」
胸を張って言い切ると、少し間があいてから、静かな一撃が落ちてきた。
「最初のは倒れた」
図星すぎて、思わず視線をそらす。
「そこはもう、掘らないで」
「うん。たぶん」
「たぶんじゃなくて」
顔を見られないように、わざと棚の方を向いたまま言う。
「はいはい」
ひより日和 新婚編 第22話 「ひとりで、できるもん」 おわり




