表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/26

第22話 「ひとりで、できるもん」

1


六月の、少し湿った休みの午前。

寝室のドアをそっと開けると、薄暗い部屋の向こうで、当務明けの恒一さんが静かに寝息を立てている。

起こさないように、静かにドアを閉めて、私は足音を忍ばせて台所に戻った。


シンクの前に立つと、ふと先日恵美が来た夜のことを思い出す。

急に「今から行っていい?」そんな連絡が来て、慌てて湯呑みを出して、お茶の缶を探して、リビングのバスケットからお菓子を引っ張り出して。

あのときの私は、完全にばたばたしていた。


お茶は食器棚、湯呑みも食器棚だけれど扉が違う。

お菓子はリビングの小さい棚に置いたバスケットの中。

場所がばらばらで、私と恒一さんしかいないときは、それで困らない。

どこに何があるか、二人とも覚えているから。


でも、誰かがふっと来てくれた時。

玄関でコートを預かって、「そこに座っててくださいね」とか言いながら、台所でひとり小さく走り回る自分を思い出すと、もう少しスマートにできないかと思ってしまう。


お茶と、湯呑みと、お菓子。

あの三つが、ひとかたまりになっていたらいい。

恵美がまた「お茶だけ」って来てくれた時、キッチンの隅からそのまま持ってきて、「はいどうぞ」って、落ち着いて出せるような。


そう思った瞬間、頭の中に小さな棚の姿がふっと浮かんだ。


お茶の缶が並んでいて、その下に湯呑みが重なっていて、小さなカゴには個包装のお菓子が少し。

ずっと前にふたりで見つけたおそろいのマグも、そこに置けたら嬉しい。


あ、こういうの、欲しいかも。


胸の奥が、わくわくとしてくる。

どこに置こう。

どんな色がいいだろう。

恒一さん、こういうの、どう思うかな。


でも、これを恒一さんに言ったら、たぶん寸法を測るんだろうな。

置き場所を確認して、荷重を考えて、動線を見て。

「ここに置くと、こういう時にぶつかるかもしれない」とか、「この棚板は何キロまで耐えられる」とか、きっとそういう話になる。


それは、すごく正しい。

間違いなく正しい。

頭では分かっているのに、シンクのふちに手をついたまま、私は小さく息を吐いた。


「でもさあ……今回は、自分でやってみたいんだよね」


声に出すと、湯気みたいな気持ちがふわっと軽くなる。

この家のことって、どうしても恒一さんが先に動いてくれる。

電球も、カーテンレールも、本棚の組み立ても。

私が「あったらいいな」と思う前に、「必要だろう」と考えてくれて、静かに終わっている。


ありがたい。

ほんとにありがたい。

でも、たまには。


「たまには、私がこの家のものを作っても、いいんじゃないかなあ」


冷蔵庫のマグネットにメモを貼りながら、私は自分に言い聞かせるみたいに呟く。

お茶と湯呑みとマグカップとお菓子の棚くらい、自分で考えて、自分で決めてみたい。

どこに置いたら、私が使いやすいか。

どんな色だったら、毎日目に入るたび、ちょっと嬉しくなるか。


「ひとりで、できるもん」


口にした瞬間、自分で言っておいて、少し笑ってしまう。

できるかな。

たぶん。

ねじを余らせたり、板をさかさまにつけちゃったり、そういうことはきっとやる。

でも、それでもいい気がする。


失敗した棚が台所の隅にいたら、それはそれで、私が作った景色になる。

その景色の中に、眠そうな顔で台所に来た恒一さんが立つところまで、頭の中でそっと再生してみて、私は小さくうなずいた。


「よし。今回は、ひとりでやってみよう」


声に出して宣言すると、心の中に小さく火がついたみたいに、わくわくが広がっていった。



2


テーブルにノートとペンを広げて、私はスマホを手に取った。


「ええと……賃貸OK」


検索窓に「賃貸OK」と打ち込んで、続けて「工具不要」「100均DIY」「すのこ棚」と入れていく。

さらに「初心者でも簡単」「貼るだけ」「置くだけ」「固定するだけ」。


自分で打っておきながら、だんだん心細くなるような単語の並びに、苦笑いがこぼれる。


動画のサムネイルには、明るい部屋と、かわいい棚と、にこにこした人たち。

再生ボタンを押すと、軽快な音楽と一緒に、手元だけ映った画面の中で、すのこがあっという間に棚になっていく。


「え、そんな一瞬で…?」


木工用ボンドを塗って、ぱたんと貼って、結束バンドでキュッと留めて。

動画の中の人は、慣れた手つきで「はい、完成でーす」と笑って見せる。

その声があまりに軽いので、思わず画面に顔を近づけてしまう。


「待って。もう一回…」


一時停止しては巻き戻し、手元のノートに「すのこ4枚」「ボンド」「結束バンド」と書き込んでいく。

矢印を引いて、「側板」「棚板」と小さくメモする。

気づけば、ページの端まで文字で埋まっていて、私はペンを止めて、ふうっと息をついた。


「……うん。これなら、私にもできるかも」


そう思ったのは、次の動画を見るまでだった。


別の動画を再生すると、画面の中で明るい声が弾んだ。


「では、ここをいい感じに合わせます」


一時停止。


「いい感じ…」


小さくつぶやいて、ノートの端にその言葉を書き込む。


いい感じ。


その言葉は、料理でよく見る「適量」に似ている。

私は適量なら分かる。

醤油を回しかけて、色を見て、味見をして、「もうちょっと」と足していく感じ。

でも、木材の「いい感じ」は分からない。


どのくらい隙間があってよくて、どのくらいならアウトなのか。

頭の中に、コンロの前で困っていた恒一さんの背中がふっと浮かぶ。


あのとき、恒一さんは「弱めの中火」に困っていた。

レシピを見ながら、「弱めって、どのくらいなんだろうな」と真剣な顔で火加減をのぞきこんでいた姿。

今なら、あれ、ちょっと分かる。


再生を進めると、今度はさらっとした声が続く。


「ここを固定します」


私はまた一時停止のボタンを押した。


固定します。


さっきより、だいぶ強い言葉だ。


「何で留めるの?どの方向から。どのくらいの力で…」


声に出してしまって、思わず苦笑する。

そこを言ってほしい。


結束バンドなのか、両面テープなのか、木工用ボンドなのか。

縦に押さえるのか、横から支えるのか。

動画の中の手はすいすい動いて、説明のないところで大事なことをやっている気がする。


一度スマホを置いて、深く息を吸った。

ここで悩んでても、棚はできない。


「…よし。とりあえず、見に行こう」


ノートをぱたんと閉じて立ち上がる。

部屋の時計をちらりと見て、寝室のドアを細く開けて覗いてみた。

まだ、静かな寝息が続いている。


「ちょっと、買い物行ってきますね」


聞こえない相手に小さく報告して、私はバッグに財布とノートを放り込んだ。

スニーカーのかかとを踏まないように足を入れて、玄関のドアノブに手をかける。

六月の湿った空気が、これから始まる「ひとりで、できるもん」に、背中を押されている気がした。



3


駅前の100円ショップに入ると、ふわっと独特の匂いがした。

洗剤と紙と、どこか木の匂いがまざったような、ちょっと落ち着かない匂い。

でも、通路を進むうちに、胸のあたりが少しずつ高鳴ってくる。



さっき、この店と同じ並びにある雑貨屋さんの棚の端っこに、三段カラーボックスが積んであった。

値札を見て、横に立ってみた。

高さも幅も、だいたい頭の中で描いたイメージに近い。


「これなら、もう完成してるし…」


小さくつぶやいて、そっと手をかけてみる。

ぐっと持ち上げようとして、すぐにやめた。

重い。

お店の中なら何とかなるけれど、このまま歩いて階段を上って、マンションのエレベーターまで運んで…想像しただけで、腕がだるくなる。


「ひとりで持って帰る自信が、ないなあ」


声にならないため息を飲み込んで、私はカラーボックスから手を離した。

頭の中で、もう一度あのすのこの動画を再生する。

そうだ、今日は決めてきたんだ。

すのこDIYでいくんだった。



100円ショップの木材コーナーに行くと、小さなすのこが何枚も立てかけてある。

手に取ると、思っていたより軽い。

これなら、何枚かまとめても大丈夫そう。


「すのこ…三枚、いや、四枚にしておこう」


カゴに入れて、次に薄い板を探す。

棚板にできそうな、すべすべした板。

端を指でなでて、ささくれがないか確かめる。

木工用ボンド、結束バンド、棚の表面に貼るためのリメイクシート。

動画で聞いた単語を、ひとつずつカゴに集めていく。


小さいカゴも見つけた。

ここにティーバッグや個包装のお菓子を入れたらかわいいかも、と思って、色違いでいくつか入れる。

棚の下に敷く滑り止めシートと、小さいフックも追加した。

茶こしをさげてもいいし、小さな袋のお菓子を引っかけてもいい。

そして、私は一度カゴの中身を見直す。


「…予備、買っておこう」


薄い板を一枚、すのこを一枚、そっと足す。

失敗したときに、慌ててまたここまで戻ってくる自分の姿が、ありありと浮かんだからだ。

予備を買うところが、大事。

今の私にとって、それは「ひとりで、できるもん」の保険みたいなものだ。


少し重くなったカゴを持ち上げてみる。

これくらいなら、ちゃんと持って帰れそう。

レジへ向かう足取りは、行きよりもずっと軽かった。


レジ袋を受け取ったとき、思ったよりかさばるな、と少しだけ眉が上がった。

すのこが角でカサカサ鳴って、薄い板が中で揺れる。

重くはないけれど、腕に存在感がある。


初心者だから、失敗するかもしれない。

分かっているから、予備の板とすのこを買った。

でも、失敗する前提で買うのは、負けた気がする。

最初から「きっとうまくいかない」と、自分で決めてしまったみたいで。


でも、買い直しに来る方が、もっと負けた気がする。

今日と同じように材料売り場の前に立って、「すみません、また来ました」って心の中で店内に頭を下げる自分を想像して、思わず小さく笑ってしまった。


家までの道、袋はやっぱり少し歩きにくい。

膝に当たらないように持ち直して、カラーボックスを持って帰る自分を重ねてみる。

…うん、あれよりはずっと軽い。

これなら持てる。


「ひとりで、できるもん」


信号待ちで、息にまぎれるくらいの声でつぶやく。

たぶん、まだ言葉の中身まではついてきていない。

でも、その「たぶん」が、少しずつ前に進むための踏み台みたいに思えて、私は袋をぎゅっと持ち直した。



4


玄関をそっと閉めて、靴を脱ぐ音もできるだけ小さくする。

寝室のドアを細く開けて、一瞬だけ耳を澄ます。

規則正しい寝息。

まだ、ぐっすり。


「よし…いまのうち」


小さくつぶやいて、リビングに材料を運び込む。

テーブルの上だと広げにくいから、床に新聞を敷いて、テーブルの端にすのこを立てかけた。


買った時は、材料だった。

広げてみると、急に問題集みたいに見えた。


…そのときだった。


ガタン。


思ったより大きな音がして、心臓がびくっと跳ねる。

立てかけただけのすのこが、重なり合いながら倒れたのだ。


「ちょっと、静かにしてよ…」


思わず、すのこに文句を言ってしまう。

結束バンドの袋を開けようとすれば、今度はビニールがやたらカサカサ鳴る。

慎重に指先でつまんでいるつもりなのに、やけに存在を主張してくる。


それでも、作業を始めるときは少し楽しかった。

まずはリメイクシート。

動画で見た通りに、角を少しだけはがして、板の端に合わせる。


「ここを、いい感じに…」


自分で言って、苦笑いしながら貼り進める。

けれど、シートの下に空気が入って、ぷくっとふくらんだ。

指でなでて押し出そうとするけれど、別の場所がまたふくらむ。


動画では、ここで完成に近づいていた。

画面の中の板は、つるんときれいだったのに。

私の手元では、空気が暮らし始めているみたいに、そこかしこに丸い膨らみが居座っている。


すのこを立ててみる。

倒れる。


板を置いてみる。

ずれる。


手を放すと、さっきまでちょうどよかったはずの位置から、じわっと動いていく。


「ちょっと待っててってば…」


お願いしても、木は聞いてくれない。

木工用ボンドをつければ、はみ出して横ににゅっと顔を出す。

慌ててティッシュで拭くと、今度はティッシュが白く固まりそうになって、指先がべたついた。


結束バンドで締めれば、締めるほど斜めになっていく。

きゅっと締めるたびに、反対側のすのこがすこし浮いて、棚全体が「こんにちは」とでも言うみたいに前のめりになる。


「なんで、まっすぐになってくれないの…」


床にしゃがみ込んだまま、私は小さく嘆息した。

頭の中の完成図と、目の前のぐらぐらした現実。

その差が、ボンドよりねっとりと胸に張りついてくる。


固定します、って、もっとちゃんと言ってほしい。

動画の中の人はあっさり言うけれど、私の頭の中では、その一言がずっと引っかかっている。


固定とは、動かなくなることではないのか。

うちの棚は、固定されながら斜めになっている。

結束バンドはしっかり締められて、キュッと頼もしそうな顔をしているのに、その結果として棚全体が「こんにちは」と前にお辞儀しているのだ。


「…これ、固定って言っていいのかなあ」


床にしゃがみこんで首をかしげる。

だんだん、心の中で言い訳が増えてくる。


少し斜めかもしれない。

でも、床だって完全に水平とは限らない。

築年数だって、それなりに経っているし。

これは傾きではなく、個性なのでは。


「うん、個性。たぶん」


口に出すと、ちょっとだけ楽しくなってくる。

改めて棚を見つめると、真っ直ぐな柱というより、少しだけ人生に疲れた鳥居みたいな形になっている。

どこかで長いこと風雨に耐えてきました、みたいな、頼りないような、でも愛着が湧くような傾き。


「これはこれで、味がある…のかも」


自分で言って、自分で笑ってしまう。

ここで終わりにするのは悔しいけれど、せっかくなので試してみたくなる。

私は近くに置いておいた小さいカゴから、個包装のお菓子を一つ、そっとつまみあげた。


「湯呑みは、まだ怖いからね…」


さすがに陶器は試せない。

割れたら音も出るし、片づけも大変だし、何より私の心が先に折れそうだ。

その点、お菓子なら、落ちても悲鳴を上げるのは私だけで済む。

お菓子の箱がへこんで、ちょっと切ない気持ちにはなるけれど。


棚の中段あたりに、そっとお菓子を置いてみる。

一瞬、ちゃんとそこにとどまったように見えた。その瞬間。


ぐらっ。


棚全体が、小さくでもはっきりと揺れた。

鳥居が、さらに人生に迷い始めたみたいに、前後にふらっと傾く。

私は思わず、両手で支えながら小声で叫んだ。


「ちょ、ちょっと待って待って待って!」


固定されているはずの棚と、固定されていない私の心。

その両方を、なんとか持ちこたえさせようとして、私はぐらぐらする木と一緒に、小さく揺れ続けていた。



5


眠気の残る頭でも、状況だけは一瞬で理解した。


寝室のドアを開けた途端、まず耳に入ったのは、木がこすれるような小さな音と、ひよりの短い悲鳴。

次に目に入ったのは、リビングの床一面に広がった新聞紙と、その上でぐらぐらしている「何か」だった。


「怪我は」


自分でも、思ったより低い声が出たと思う。

ひよりがびくっと振り向いて、目を丸くする。


「してません」


一拍おいてからの、その返事を聞いて、肩の力が少し抜けた。


「ならいい」


それだけ言って、改めてその「何か」に目を向ける。


あー。これは、全然だめだ。


形状としては棚に近い。

四角い枠組みがあって、板が渡されていて、上にはお菓子が一つ、申し訳なさそうに乗っている。

だが、棚と呼ぶには水平、垂直、安定性が足りない。

いや、足りないものが多すぎる。


結束バンドはやたらと頑張っているのに、その頑張りの方向がおかしい。

締めれば締めるほど、全体が前のめりになっている。

リメイクシートは、ところどころ空気が入っていて、触ったら「ぷに」と鳴きそうだ。


これに物を置くのは、収納ではなく実験だ。

どのタイミングで崩れるかを見る装置に近い。


ただ、何かをまとめて置きたいのだろう、ということは分かる。

小さいカゴと、リメイクシートと、やたら慎重に置かれたお菓子。


目的まで悪いとは思わない。

その発想は、ひよりらしいし、悪くないどころか、むしろよく考えられている。


でも、口に全部は出さない。


「…起きてきたら、知らない棚が立ってたら困るでしょ、と思って」


ひよりが、言い訳とも誇りともつかない声でつぶやいた。

俺はその言葉に、少しだけ口の端が上がりそうになるのを押さえながら、ぐらぐらしている鳥居みたいなそれに、もう一度視線を落とした。


「何作ってる」


「棚です」


少し間があく。


「……棚の予定です」


「予定か」


そこは事実だな、と思いながら、しゃがんで揺れを見る。

指先でそっと端を押すだけで、全体がゆらゆらと前後に迷い出す。


「これは使うな」


率直に言うと、ひよりの肩がぴくっと跳ねた。


「お菓子くらいなら大丈夫かなって」


「大丈夫ではないと思うけど」


「でも、軽いです」


「軽いものが落ちる棚は、重いものも落ちる」


口に出してから、当たり前すぎる理屈だなと思う。

だが、ここは譲れない。


「それは、そうですけど」


ひよりが、しゅんとしながらも小さく反論する。


「あと、棚が落ちる」


「棚も?」


「棚もだ」


そこで、ほんの少しだけ目を伏せる。

しょんぼりした気配が、空気ごと柔らかくしぼんだのが分かる。


否定だけで終わらせるのは、もっと良くない。


「何を置きたい?」


視線を棚からひよりに戻して、聞く。

少し驚いたように瞬きをしてから、ひよりが答える。


「お茶と、湯呑みと、お菓子です」


「来客用か」


「来客用というか……恵美がまた来た時とか」


「なるほど」


その絵は、すぐに浮かぶ。

夜にふっと立ち寄る同僚と、それを迎えるひよりの顔。

玄関でばたばたしていた理由にも、少し合点がいく。


「棚がよくない」


そこで一度、はっきり切る。

ひよりがむくっと顔を上げた。


「そこははっきり言うんですね」


「目的は悪くない」


続けると、ひよりの表情が、少しだけゆるむ。

お茶と湯呑みとお菓子をひとまとめにする発想自体は、むしろ感心するくらいだ。

問題は、今ここにあるのが「収納」ではなく「物理実験装置」に近いことだけだ。


ぐらつく鳥居みたいな棚と、その前で一生懸命な顔をしているひよりを交互に見ながら、俺はどうやって軟着陸させるかを、寝起きの頭でゆっくり探し始めた。



6


恒一さんは、まず私ではなく棚と材料を見る。

しゃがんだまま、すのこをそっと持ち上げて、裏も表も確かめる。

それから、床に並べていた薄い板やリメイクシート、カゴ、滑り止めまで、一通り目を通した。


「予備があるのか」


予備のすのこと板に視線がとまる。


「初心者なので」


少しだけ肩をすくめると、恒一さんは短くうなずいた。


「そこは正しい」


その言い方がいつも通りで、胸の奥で小さくガッツポーズをする。

褒められたわけではないけれど、完全には否定されていない感じが、ちょっと嬉しい。


「一回、ばらすぞ」


そう言って、結束バンドをカチカチと切っていく。

すのこの向きを変え、棚板にする板の位置を少し低くしていく。


「重心を下にする」


ぶつぶつ独り言のようにつぶやきながら、結束バンドを増やしていく手つきは迷いがない。

ボンドは「補助」と短く言って、要所だけに少量つける。

最後に、棚の下に滑り止めシートを敷き、小さいカゴをうまく組み合わせて引き出し代わりにしてしまった。


気づけば、さっきまで人生に疲れた鳥居だったものが、ちゃんと「棚」に見えている。


完成に近づいていく棚を眺めながら、胸の中は少しだけ複雑だった。

私が最初に頭の中で描いていた棚とは、もうだいぶ違う。

もっとふわっとしていて、かわいくて、「見せる棚」みたいなものを想像していたのに、恒一さんの手が入るたび、棚はだんだん「使える棚」になっていく。


恒一さんは、かわいさより先に構造を見ている。


「ここに湯呑みは置くな」


組み上がった棚の上段を指しながら、恒一さんが言う。


「どうしてですか」


「上段は揺れる。割れるものは下」


「なるほど」


「お茶は中段。軽いけど頻度が高い」


「頻度」


初めて聞く考え方に、思わず復唱してしまう。


「使うものを取りやすい位置に置く」


「棚にも動線があるんですね」


「うん」


即答してから、ふっと視線を上に上げた。

その目線の先には、何が見えているんだろうと少し気になりながら、私は自分の「かわいい棚」が、少しずつ「ちゃんとした棚」になっていくのを見つめていた。


恒一さんは、組み上がった棚を正面から見て、少しだけ首をかしげた。


「もう一段、あった方がいいな」


「え、増えるんですか」


思わず声が裏返る。今でも私には十分「棚」なのに、まだ先があるらしい。


「この高さなら、上が空く。デッドスペースになる」


「デッドスペース……」


口に出してみると、なんだか急にプロっぽい言葉に聞こえて、胸の中でその単語が転がる。


「もう一枚、板があれば減らせる」


「あります」


反射的に言うと、恒一さんの視線がこっちを向く。


「予備か」


「初心者なので」


ちょっとだけ肩を張って言うと、彼は小さくうなずいた。


「やっぱり正しい」


その一言が、思っていた以上に嬉しい。

少しは報われた気がして、私は心の中でそっと得意げに胸を張った。



挿絵(By みてみん)



7


棚の骨組みは、ほとんど全部、恒一さんの手が入った。

すのこの向きも、棚板の高さも、結束バンドの位置も、滑り止めの敷き方も。

さっきまで私が格闘していたものとは、別物みたいに落ち着いた顔をしている。


そのぶん、胸の中に少しだけ拗ねた気持ちが生まれる。

これ、もう「私の棚」じゃなくなっているんじゃないかな。


「かわいさは?」


ぽつりと聞いてみると、恒一さんは棚から目を離さずに答えた。


「リメイクシートを貼れば残る」


「そこだけ私の担当ですか」


口が勝手にとがると、ようやくこっちを見た。


「そこは俺より、ひよの方がいいと思うけど?」


「私の方が?」


「色や見た目は、お前が選んだ方がいいだろ」


その言い方があまりに不器用で、胸の中で何かがちょっと止まる。

ちゃんと、自分の役割を残してくれている。

そう思ったら、さっきまでの拗ねた気持ちが、少し照れに変わった。


私はリメイクシートを手に取って、そっと貼り始める。

すぐに、空気が入る。

ぷくっと膨らんだところを指でなでていると、横から恒一さんの視線を感じた。


「少し空気が入ってる」


「そこは見逃してください」


きっぱり言うと、彼は短くうなずいた。


「これは、小さい穴をあければいい」

「そこから空気を抜くと、目立たなくなる」

「やってみ」


言われた通りにしてみると、本当に目立たなくなった。


「すごい」


素直に感心する。


私は膨らんだ空気ごと、この棚が好きになった気がした。


完成した棚を前にしゃがみこんで、小さいカゴを一つずつ置いていく。

まずは上段の右端にカゴを並べて、そこに個包装のお菓子をぽんぽん入れていく。

色とりどりの袋が見えて、楽しくなる。


中段には、お茶の缶を。

よく使う緑茶を真ん中に、隣にほうじ茶、その横にカフェイン少なめのもの。

ラベルの色のバランスを見ながら、ちょっとだけ位置をずらす。


下段には、湯呑み。

直接置くのは冷たくてかわいくない気がして、小さな布を敷いた。その上に、普段使いの湯呑みを二つ、少し間をあけて並べる。

最後に私と恒一さんのマグカップも置く。


布の柄と陶器の色が合ってきて、棚全体が少し可愛くなってきた気がした。


「これ、私も作ってますよね」


思わず確認すると、横で見ていた恒一さんがうなずく。


「作ってる」


「ほんとですか」


「材料を買った。目的を決めた。見た目を決めた」


「構造は?」


「俺」


「そこが大きいです」


「大きいな」


あまりにも素直な返事がおかしくて、でもうれしくて。

私は完成した棚をもう一度眺めて、小さく満足の息をついた。



8


完成した棚を、キッチンとリビングのあいだの壁際に置いてみる。

思っていたより収まりがいい。

高さも、幅も、この家の空気にちゃんと混ざってくれている感じがした。


中段のお茶は、手を伸ばすとすぐ届く。

下段の湯呑みは、布の上で安定して並んでいる。

上段のお菓子のカゴも、思っていた以上に可愛い。

これなら、恵美が来た時にすぐ出せそうだ。


ふと、頭の中に最初に作ったあの斜めの棚が浮かぶ。

あのまま使っていたら、たぶん最初に落ちるのはお菓子で、次に棚で、最後に私の自信だったな、と少し苦笑する。


隣で恒一さんが、そっと棚を揺らして確認する。

横から、前から、軽く力をかけてみて、それでも棚はもう揺れない。


「これならいいと思う」


短くそう言われて、笑顔になる。


「売れますか」


つい冗談を言ってみると、すぐに返ってきた。


「売らない」


「分かってます」


分かっているけれど、世界で一つだけの「ひよりと恒一さんの棚」がここにあると思うと私は棚と、その横顔を、もう一度そっと眺めた。


完成した棚をふたりで眺めながら、私はぽつりと口を開いた。


「ひとりで、できるもん、の予定だったんですけど」


隣で腕を組んでいた恒一さんが、間髪入れずに言う。


「ひとりではできてないな」


「かなりですか」


「うん。ほとんど」


即答に、思わずむっとする。


「そこまで言わなくても」


「ただ、サポートはしてたな」


「しました。材料を買いました」


「ああ」


「リメイクシートも貼りました」


「空気は抜いたしな」


「そこは見逃してください」


「見逃す」


そのやりとりがおかしくて、口元がゆるむ。


「あと、応援しました」


そう付け足すと、彼は少しだけ目を細めた。


「それは聞こえていた」

「待って待って待ってって棚を応援してたな」


「寝てたんじゃないの?」


「途中から起きてた」


胸の奥が、かあっと熱くなる。


「起きてたなら、助けてくれたらいいのに」


精一杯の抗議をすると、彼は棚から目を離さないまま、静かに言った。


「楽しそうだったからな」


その一言が、ずるい。

恥ずかしいのに、うれしい。


ひとりで、できるもん、の予定はかなり崩れた。

でも、ふたりで作ったこの棚に、名前でも付けたい気分だった。

私は視線をごまかすように、お菓子のカゴをそっと整えた。



エピローグ


「次、恵美が来たら出せますね」


並べ終えた湯呑みとお菓子を見ながらそう言うと、隣からすぐ声が返ってくる。


「棚ごと倒すなよ」


「もう倒れません」


胸を張って言い切ると、少し間があいてから、静かな一撃が落ちてきた。


「最初のは倒れた」


図星すぎて、思わず視線をそらす。


「そこはもう、掘らないで」


「うん。たぶん」


「たぶんじゃなくて」


顔を見られないように、わざと棚の方を向いたまま言う。


「はいはい」




ひより日和 新婚編 第22話 「ひとりで、できるもん」 おわり



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ