第21話 「お茶だけ」
1
雨が降りそうで降らない夕方。
十七時に、仕事を上がった。
ロッカールームで、ひよりと今日インフォに来たお客さんの話をしていた。
「もう、あの人出入り禁止にしてほしい」
「今度来たら、チーフに言わないとね」
とにかく、くだらないクレームを言ってくるお客さんがいる。
それも、なぜかあたしに言うのだ。
期限切れの商品券を大量に持ってきて「金返せ」だとか。
ぼろぼろの靴を「初期不良」だと言い張って、謝れとか。
それでなくても、疲れてるってのに。
3月に引っ越して、もう梅雨に入った。
台風が2つ同時に来たとかなんとかで雨が続いていたけど、今日は、今のところ雨は降っていない。
今はひよりの家とも近いので、一緒に帰ることも多い。
電車の中でぼんやりしていたら、ひよりが声をかけてきた。
「恵美」
「………」
「聞いてる?」
「なんか、疲れてる?」
「あ…ごめん」
「眠いの?」
ひよりが、あたしの顔をのぞき込む。
「疲れてるっていうか…まぁ、疲れてる」
「大丈夫?」
「ちゃんと食べて、よく寝てね」
ひよりがそう言ったところで、駅に着いた。
改札を出て、じゃあねと手を振ってひよりと別れた。
亮と一緒に暮らすようになって、生活は楽だ。
彼は優しいし、家事も手際がいい。
中でも、料理は上手だ。
何を作ってもおいしいし、後片付けまで手早い。
そんなことを考えながら、マンションの階段を上がる。
そして悶々とする気持ちのまま、部屋の鍵を開けた。
同棲スタートと同時に買った冷蔵庫には、メモが貼ってある。
作り置きのお惣菜とか、足りないものとか。
あたしが貼ったんじゃない。
食器や鍋はきれいに伏せられていて、もう乾いてる。
調味料も瓶をそろえて、整列している。
きれいにたたまれた布巾も、使いやすく収納してある。
こうしてみると、亮は結構几帳面だ。
だからと言って、彼は「自分ルール」をあたしに押し付けたりはしない。
全然、悪くない。
むしろありがたい。
だけど…
ありがたいのに、なんだか苦しい。
あたしの出る幕、なくない?
そんなことを思ってしまう自分が、また嫌だった。
「あたし、何もしてないみたいじゃん」
静かなダイニングで、ひとりでつぶやいた。
亮は、遅番でまだ帰っていない。
音のない部屋で、考えがネガティブモードに振れていくのがわかる。
ダイニングの椅子に座って、ゆっくりもたれかかる。
着替えようと思うけれど、重苦しい。
スマホを取り出して、それでも少し迷ってLINEを送った。
〈ひより、いま家?〉
〈ちょっと行ってもいい?〉
〈お茶だけ飲ませて〉
2
最近、恵美とシフトが合う時は一緒に帰ることが多くなった。
恒一さんと一緒に帰れるのは、お互いが早番の時だけだ。
そう思うと、前より帰る時間も体感的には短くなった。
男の人に言っても今ひとつわかってもらえない愚痴も、恵美となら共感しあえることも多い。
今日も電車の中では、そんな話をしていたけれど。
今日の恵美は、なんだか元気がなかった。
あのクレーマーのお客様のせいかしら。
今日は、恒一さんも夕ご飯は職場で食べるというから、私は冷蔵庫の中にあるもので適当に済ませた。
お風呂を沸かして、ダイニングへ戻るとスマホの通知音が鳴った。
〈ひより。いま、家にいる?〉
〈ちょっと、行ってもいい?〉
〈お茶だけ飲ませて〉
その三つの文を見て、私はすぐに返事をした。
〈いるよ〉
〈おいで〉
それから十分もしないうちに、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、ちょっとうつむき加減の恵美がいた。
LINEでここへ来ることは、わかっていたけど声がなんだか尖っている。
「ごめん。ほんとにお茶だけだから」
「うん」
「泊まるとかないから」
「うん」
「ケンカしたとかじゃないし」
「うん」
「…ちょっとしただけ」
「とりあえず、入りなよ」
私は、できるだけ明るく言った。
こういう時は、冷たいお茶より熱いお茶のほうが落ち着くだろうと、熱いお茶を出した。
恵美は、湯呑みに息を吹きかけながら、神田さんの話をぽつぽつ始めた。
恵美の「ちゃんとしすぎなのよ」という言い方に、私は湯呑を持ったまま瞬きをした。
「悪い男じゃないから、余計に腹が立つのよ」と続ける声は、本気で怒っているというより、どこか自分に呆れているみたいだ。
「あたしが台所立つとさ、見てくるの」
「見てくる?」
「火、強くない?とか。包丁、気をつけて、とか」
「心配してるんだね」と口にしたとき、自分でも少し、きれいに言いすぎた気がした。
恵美は分かっている。
神田さんに悪気がないことも、自分だって洗濯も掃除もしていることも。
でも、私だって思う。
料理って、目に付きやすい。
匂いも音もして、食卓にどんと並ぶ。
だから、そこに立っていないと、自分だけ何もしていないみたいで落ち着かない。
恵美が「見張られてるみたい」とこぼしたとき、その窮屈さが胸のあたりに伝染してきた。
「神田さん、ちゃんとしてるからこそ、余計に、だよね」
私がそうまとめると、恵美は湯呑を両手でつかんで、天井を見上げた。
「そう。だからムカつくの。勝手に悲しくなって、勝手に腹立ててんの、分かってるのにさ」
言いたいことを言って、少し落ち着いたのか恵美が聞いてきた。
「ひよりたちはさ、ケンカとかしないの?」
私は湯呑をテーブルの上でくるくる回しながら考えた。
「ケンカってほどじゃないけど……あるよ」
「あるの?」と目を丸くする恵美に、少し照れながらうなずく。
「あるよ。私が勝手に待って、勝手に悲しくなった日がある」
あの日のことを思い出すだけで、手がじんわり熱くなる。
「私が早番、恒一さんが遅番の日でね」
私が切り出すと、恵美は湯呑を両手で包んだ。
「私、夕方に帰って、ご飯作ったの。ちゃんと、お味噌汁もおかずも用意して」
言いながら、あの湯気の立つテーブルが浮かぶ。
玄関の鍵が回る音を待っていた時間の長さも。
「でも恒一さん、職場で食べて帰ってきたの」
「それは腹立つ」
「うん。ちょっと悲しかった」
仕事で疲れているのも、頭では分かっていた。
それでも、ラップの曇ったお皿を前に笑おうとした自分を思うと、今でも少しだけ喉がつまる。
「言ったの?」
恵美の問いに、私は湯呑を両手で包んだまま、視線を落とした。
「半分くらいは」
「半分?」
「全部言ったら、違うところまで刺しちゃいそうだったから」
あのとき飲み込んだ言葉たちが、まだ胸のどこかに小さく残っている気がする。
恵美はしばらく黙って、湯呑のふちを親指でなぞった。
「……ひよりらしい」
ぽつりと落ちたその一言に、私は苦笑して、お茶をひと口飲んだ。
3
半分くらい。
そう言いながら、私はあの日のことを思い出していた。
その日は私が早番で、外はまだうっすら明るい時間に家に着いた。
足は重いのに、頭のどこかでは「今日、恒一さんは遅番だ」と思い出してしまう。
疲れているからこそ、温かいものを出してあげたいと思った。
自分だけ先に食べてしまってもよかったのに、鍋の火を見ているうちに「一緒に食べたい」が勝ってしまう。
時計の針が二十三時に近づくころには、お腹も空いて、まぶたも重くて、でもテーブルの上にはちゃんとおかずが並んでいた。
玄関の鍵が回る音がして、ほっとして表情も緩む。
「ただいま」
「おかえりなさい。ごはん、あります」
「食べてきた」
その一言で、時間の感覚が一瞬止まった。
お鍋から立ちのぼる湯気だけが、何事もなかったみたいにゆらゆら揺れている。
私の顔を見て、恒一さんはすぐに気づいた。
「待ってたのか」
「待ってたというか……作ったので」
「先に食べればよかっただろ」
「そうなんですけど」
正しいことを言われているのは分かる。
早番のあとに作って、二十三時まで待って、これから一人で食べて片付けるのは、確かにきつい。
けれど、それだけじゃなかった。
「きついとかじゃなくて、作りたかったの」
喉の奥からやっと出てきた言葉に、自分でも驚く。
私も半分しか言えない。
恒一さんも、きっと半分しか言っていない。
テーブルの上の冷めかけたお味噌汁が、言えなかった残り半分みたいに見えた。
本当は、もっと言いたいことがあった。
連絡してほしかったとか、待っていた時間まで、いらなかったみたいにされた気がしたとか。
でも、そこまで言ったらきっと「責めている」に変わってしまう。
仕事で疲れて帰ってきた人にぶつけるには、あまりに棘が多すぎる。
たぶん、恒一さんも同じだ。
無理して倒れたらどうする、とか。
続けられないことを習慣にするな、とか。
本当は言いたいはずだ。
でも、そこまで言われたら今度は私の気持ちがぺしゃんこになる。
だからお互い、半分で止める。
沈黙が少しだけ続いて、私は顔を上げた。
「恒一さんの気持ちも、分かります」
自分でも驚くくらい、まっすぐな声が出た。
「でも、私の気持ちが、宙に浮いたままになるのは悲しいです」
その言葉のあとで、恒一さんの動きがふっと止まる。
次の瞬間、肩をぐっと引き寄せられて、胸の中に押しこまれた。
「悪かった」
たったそれだけなのに、張りつめていたものがいっぺんにほどけて、視界がにじんだ。
「泣くな」
頭の上から落ちてきた声に、胸の奥がきゅっとなる。
「あなたが泣かせたのよ」
「……そうだな」
「泣くなって言われても、もう涙出てます」
「困る」
「困ってください」
抱きしめられたまま、少し間があいた。
心臓の音と、シャツ越しの体温だけが近い。
「親父に、泣かすなって言われてる」
その一言に、涙のまま少し笑ってしまう。
「言われてなかったら、泣かすの?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ、どういう話ですか」
「……今、反省してる話だ」
理屈のこね合いみたいな応酬に戻りながらも、腕の力はさっきより強い。
ちゃんと分かってくれていることも、分かってもらえなくて苦しくなる瞬間があることも、両方抱えたまま続いていく会話なんだと思った。
「次から、食べて帰る時は連絡してください」
抱きしめられたまま、胸のところで声が少し震えた。
「分かった」
「私も、待つ時は言います」
「待たなくていい」
「そこは、私が決めるから」
「……分かった」
「不満そう」
「不満じゃない。心配してる」
「それは分かってます」
「ならいい」
「よくない」
「難しいな」
「うん。難しいです」
こんなやり取りを続けながら、腕のあたたかさだけはずっと変わらない。
この人はたぶん、これからも私を心配して、私はこれからも勝手に待ったり、勝手に悲しくなったりするのだと思う。
その日のご飯は、ラップをして冷蔵庫にしまった。
冷たくなったお味噌汁とおかずは、翌日の朝ごはんになって、いつもより静かな食卓に並んだ。
5
恵美は、私がそこまで細かく思い出していたなんてわかっていない。
「で、どうなったの?」
「次から、食べて帰る時は連絡することになった」
「現実的」
「うん。現実的に終わった」
そう言うと、恵美がちょっと笑う。
「ひよりたちのケンカ、静かすぎる」
「そうかな」
「うん。うちならもっと、うるさい」
その言い方は少し自慢みたいで、少しだけ羨ましそうでもあった。
私は少し冷めた急須のお茶を、ふたつの湯呑に足した。
私と恒一さんでも、すれ違う時はある。
それでも、半分ずつ言って、言いすぎる前に止まって、また戻ってこられる。
私が何でもうまくやっているわけじゃないと分かって、恵美が少しほっとしたように肩の力を抜いた。
それが伝わってきて、私もどこか救われた気がした。
恵美の声を聞きながら、ふっと昔の自分を思い出す。
昔の私は、喧嘩なんてできなかった。
嫌だと言う前に、相手の顔色を見ていた。
悲しいと言う前に、自分が悪かったことにして、全部飲み込んで、そのまま終わらせていた。
だからこそ、恵美が「腹立つ」とはっきり言えることも、神田さんにちゃんと文句を言えることも、私には少し眩しく見える。
言葉にしてぶつかって、それでも同じ部屋に帰っていけるふたりが、羨ましくて、頼もしい。
私は湯呑のぬくもりを指で確かめながら、恵美の横顔を見つめた。
そんな恵美の隣で、自分も少しずつ変われている気がした。
「ほかには? もっとないの?」
恵美が興味津々で聞いてくる。
「もっと?」
「小さいやつ。腹立ったとか、嫌だったとか」
「……お風呂上がりに、上を着ないまま冷蔵庫を開けてたこと」
「それ、なに。詳しく」
真夏のお風呂上りに、暑いからとトランクスだけで、冷蔵庫の牛乳を飲もうとしていた時の話を軽くしたら、
恵美は声を立てて、笑っていた。
もちろん、牛乳専用コップを持った状態だったことも。
6
二十三時前、玄関の鍵が回る音がして、私は椅子から腰を上げた。
ドアが開く気配と一緒に、外の湿った空気がふっと入り込んでくる。
「お邪魔してます」
恵美が小さく背筋を伸ばした。
靴音が止まって、しばらくしてから低い声がした。
「前田さんか」
聞きもしないし、詮索もしない。
ただ、いつもの勤務表をめくるみたいな調子で名前を確認して、それきりだ。
「お茶、足りるか」
廊下からそう聞かれて、私は「大丈夫です」と返す。
恵美は、ちょっとだけ気まずそうに私を見ると、空気を変えるみたいに口を開いた。
「朝倉さん、ひよりとケンカします?」
ダイニングに入ってきた恒一さんが、ネクタイをゆるめながら少し考える。
「ケンカというほどのものはないかな」
「出た。そういう言い方」
「何が?」
「ひよりから聞きました。ご飯の話」
「……どこまで聞いた」
「半分くらいです」
「ならいい」
そのやり取りを聞きながら、お茶を足した。
抱きしめられたところの話は、きちんと胸の中だけにしまっておいた。
「あと、半裸冷蔵庫事件も聞きました」
いきなり爆弾を投げるみたいに言われて、私の手が止まった。
「事件じゃない」
リビングの方から、即座に低い声が飛んでくる。
「名前ついてますよ」
「つけるな」
恵美の悪戯っぽい笑い声に、思わず口元がゆるむ。
私がちょっと笑ったのを見て、恵美はさらに続けた。
「でも朝倉さんも折れるんですね」
「折れてはいないと思うけど」
「じゃあ何ですか」
「冷蔵庫を開ける前に一枚着れば済む話だった」
「それを折れたって言うんですよ」
恵美と恒一さんの掛け合いを聞きながら、あの日の光景がまた頭に浮かぶ。
自分の中で「ここまでは嫌だ」と線を引いて、半分だけ言葉にして、それでもちゃんと聞いてもらえたこと。
恵美が、少し安心したように笑っているのが横顔から伝わってくる。
私は、タイだけ外してダイニングに戻ってきた恒一さんの湯呑をテーブルに置いた。
そして、恒一さんがぽつりと言った。
「小さい不満は、小さいうちに処理した方がいい」
それが、あとで神田さんに向けられる言葉になるなんて、このときの私はまだ知らない。
ただ、湯気の向こうで少しだけ柔らかくなった恵美の横顔を見て安心した。
7
遅番で帰ったら、部屋は真っ暗だった。
「……あ」
「なんで?うそ」
テーブルの上のスマホが光って、ようやくLINEに気づいた。
メッセージを開くと、「ひよりんちに行く」とだけあって、時間はもうだいぶ前だ。
マズい、マズい。
ひよりさんちってことは、主任の家じゃん!
急いで上着を羽織って外に出る。
夜風が少し冷たくて、胸のあたりがざわざわする。
朝倉さんちのマンションに着いてインターホンのボタンを押すと、スーツ姿の主任がドアを開けてくれた。
「主任」
「神田?」
「恵美さん、こっち来てますか」
「うん」
短くそう答えられて、なんだか自分の情けなさが一気に押し寄せてくる。
「迎えに来ました」
部屋に通されると、恵美さんはダイニングの椅子に座っていて、俺を見た瞬間ふいっと視線をそらした。
「迎えに来なくても、帰ったし」
人前だからか、声が少し強い。
「でも、俺が迎えに来たかったんで」
それしか言えなくて、自分でも歯がゆい。
恵美さんは何も言わず、湯呑をいじる手だけが小さく動いた。
その沈黙が、さっきまでここで何かがあったことを物語っている気がして、心臓に悪い。
「怒ってるんじゃないの?」
恵美さんが、湯呑をいじりながらこっちを見ないで言う。
「怒ってます」
だけど、そこで引いたら絶対後悔する気がした。
「じゃあ、なんで来たのよ」
「怒ってても、恵美さんに帰ってきてほしいんで」
自分で言っておいて、必死だなと思う。
けど、嘘じゃない。
変な静けさが落ちて、ひよりさんが湯呑を口に運ぶ仕草だけが目に入る。
「前にも言いましたけど」
「なにを」
「俺には、恵美さんしかいないんで」
口に出した瞬間、部屋の空気が一段階熱くなった気がした。
恵美さんの耳まで真っ赤になって、「そういうこと、ここで言うな」と小さくにらんでくる。
ひよりさんは笑いをこらえて俯いていて、主任は横目で見るとあきれた顔だった。
でも、少しだけ感心しているようにも見えた。
恥ずかしいし、穴があったら入りたい。
それでも、来てよかったと胸の奥で思った。
8
そこからは、私はほとんど口を挟まずに、ふたりのやり取りを聞いていた。
「……あたしも、言い方きつかった」
「はい」
「そこは、はいだけで流して」
「はい」
「料理が嫌なわけじゃないの。助かってるし」
「はい」
「でも毎日ちゃんとされると、あたしもちゃんとしなきゃって思って、しんどいの」
「台所で見られると、見張られてるみたいで嫌」
神田さんが、少しだけ口を開きかけて……閉じた。
「うん。台所で口出ししない」
「ほんとに?」
「言いたくなっても、黙ってるから」
「黙ってられる?」
「……努力します」
「努力じゃなくて、して」
「はいはい、分かりました」
恵美が、ようやく少し笑った。
「その言い方、ちょっと腹立つ」
恵美がむくれた声で言う。
「でも、分かりました」
「なら、いい」
そこで、恒一さんの低い声が落ちる。
「担当を決めるなら、例外も決めておけ」
神田さんが苦笑した。
「また共同運用っすか」
「生活だからな」
私の頭の中で、自然と整理されていく。
料理と洗い物は、基本は神田さん。
恵美は洗濯と掃除。
ただし、できない日はちゃんと言う。
パンで済ませていい日もある。
服は捨てない。鍋も捨てない。収納を考える。
「なんか、急に具体的」
恵美がぽつりと言って、少し笑う。
神田さんも「まあ、そのくらいで」と照れたように頭をかいた。
ふたりの暮らしが、さっきより少しだけ形を持ったものに見えて、ちょっとほっとした。
恵美が、私を見てすっきりしたように言った。
「お茶、ありがと」
恵美は椅子から腰を上げて言った
「うん」
「今度は、ケンカじゃないときに来る」
「うん。来て」
そう言って私も立ち上がる。
玄関を出るふたりを恒一さんと見送った。
9
ひよりたちの家を出て、並んで夜道を歩く。
六月の湿った風が、足もとからまとわりついてくる。
駅前の灯りが遠くににじんで、アスファルトが鈍く光って見えた。
「……迎えに来てくれて、ちょっと嬉しかった」
自分でも、歩き出してしばらくしてからじゃないと言えなかった。
横を見ると、亮がこっちを見ている。
「ちょっとだけ?」
「ちょっとって言ってるでしょ」
それきり少し沈黙が落ちて、踏切のほうから電車の音が聞こえた。
「あたし、帰りたくなかったわけじゃないの」
「うん」
「でも、一人で帰るのも、なんか負けた気がして」
「じゃあ、迎えに行ってよかった」
「……うん」
その「うん」が、思っていたより素直に出て、自分で少し驚く。
横で亮が、あまり調子に乗らない声で言う。
「次も迎えに行くから」
「次がある前提にしないで」
「ない方がいいけど」
「……でも、あったら来て」
「うん」
六月の湿った風がまだ重いのに、胸のなかは、軽くなった気がした。
10
ふたりが帰ったあと、玄関のドアが閉まる音がして、部屋に静けさが戻る。
テーブルの上には湯呑みが四つ。
私はそれをひとつずつ重ねて、流しに運んだ。
「近くに住んでるって、いいですね」
シンクの前でそう言うと、背中のほうから返事がくる。
「また来るぞ」
「来てもいいです」
「お茶っ葉、買っておくか」
「はい。少しだけ、いいのにしましょう」
食器を洗いながら、ふと気づく。
この家に帰ってくるのは、私たち二人だけ。
でも、少しだけ休んでいく人がいてもいい。
仕事でくたびれた日や、誰かに話を聞いてほしい夜に、ふっと寄り道できる場所になってもいい。
そう思えるくらいには、この部屋も、私たちの家になっていた。
ひより日和 新婚編 第21話 「お茶だけ」 おわり




