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第20話 「画面の外」

1


四月の朝は、もう冬の名残りよりも、窓の向こうの光の方が勝っている。

カーテンの隙間から差し込む白い光を見ながら、私はいつものように、目覚ましより少し早く目を覚ました。


キッチンからは、コーヒーの匂い。

洗面所では水が流れる音。

いつもの、うちの朝の音。


寝室の壁にかけたカレンダーに目をやる。

赤くも囲んでいない、その日付の上に、書かれた小さな「結婚記念日」という文字。

思わず、口の端が勝手に持ち上がる。


「……あ、今日で一年か」


声に出すつもりはなかったのに、ひとりごとのようにこぼれてしまう。




洗面所から戻ってきた恒一さんが、ワイシャツの袖を留めながら部屋に入ってくる。

いつも通りの、仕事前の顔。


私はベッドから起き上がって、カレンダーをもう一度見上げたまま、振り返る。


「今日で一年ですね」


彼の背中に向かって言うと、少し間を置いてから、落ち着いた声が返ってきた。


「ああ。そうだな」


鏡の前でネクタイを首にかけ、結び目を整える手つきも、いつも通り。

特別なリボンも、派手な色のネクタイもない。

紺色の、見慣れた一本。


「早かったです」


私も、クローゼットから服を取り出しながら言う。

ブラウスのボタンを留めていると、鏡越しに目が合った。


「早かったな」


それだけ。

だけど、その短い言葉の奥に、一緒に過ごした日々の重さが、小さく積み上がっているような気がした。




朝ごはんの食器を流しに運びながら、私は自分の思いを確かめる。


どこかで、もしかしたら、テーブルの上に花束が置いてあるとか、ケーキの箱が隠れているとか、そんなドラマみたいなことを期待しているのかな、と考えてみる。


でも、すぐに首を振る。


「……別に、そういうのじゃないんだよなあ」


エプロンの裾を指でつまんで、軽くため息とも笑いともつかない息を吐く。


特別なサプライズがほしいわけじゃない。

ただ、「一年経ったね」と、一緒に思い出す、その瞬間がうれしい。


さっきの短い会話だけで、もうそれは叶ってしまっているのだと気づく。




 玄関で靴を履きながら、彼が時計をちらと見て言う。


「今日は少し冷えるかもしれない。上着、持っていけよ」


「はい。ありがとうございます」


ブラウスの上に薄手のコートを羽織りながら、私はふいに、胸の奥からこみ上げてくる言葉を抑えきれなくなる。


「恒一さん」


「ん?」


ネクタイを軽く整え直していた彼が、玄関のドアの前で振り向く。

私は鞄を抱えたまま、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。


「一年間、ありがとうございました」


言ってから、すこし照れて目を伏せる。こんな改まったこと、普段は言わないのに。


けれど、彼は眉をわずかに上げて、すぐに、いつもの落ち着いた笑顔を浮かべた。


「……俺の台詞だよ」


短くそう言ってから、靴を履き終えた私の頭に、大きな手をぽんと置く。


「二年目も、よろしく」


思わず笑ってしまう。


「はい。二年目も、よろしくお願いします」


ドアを開けると、四月の朝の空気が、少しだけひんやりとして、でもどこか柔らかかった。

特別じゃない。

でも、ちゃんと記念日の匂いがする朝だと、私は思った。


駅までの道を並んで歩きながら、ふと思い出して、私はスマホのカレンダーを見る。

今日の日付の横、小さな赤い文字。


【テレビ取材対応あり 大蔵屋】


先月の終わりごろ、総務から回ってきたお知らせを、今頃思い出した。


「あ、そうだ。今日、取材の日だ」


ひとりごとのようにつぶやくと、恒一さんが、こちらを向いた。


「情報番組のやつだな。老舗百貨店の春の一日、とか何とかいう」


「はい。百貨店を支える人たち、とか、新生活シーズンの裏側、とか、そんな感じのコーナーらしいです」


自分で言いながら、少しおかしくなって笑ってしまう。

いつもの大蔵屋が、テレビの中では、きっと少しだけ立派に見えるのだろう。


彼はほんの少しだけ眉を寄せた。


「今日は動線が乱れそうだな」


その言葉に、私は思わず吹き出しそうになるのを慌ててこらえる。


「記念日より、そっちが気になりますか」


冗談めかしてそう言うと、恒一さんはネクタイの結び目を指で直しながら、少しだけ苦笑いした。


「気になる、というか……お客さんがカメラを避けて動くだろうし、エレベーター前も詰まりやすい。警備とインフォメーションの連携は、いつも以上に重要だ」


完全に仕事の顔。

私の担当部署がある一階のフロア図を、頭の中でぐるぐる回しているのが、言葉の端から伝わってくる。


その真面目さがおかしくて、そしてちょっとだけ愛おしくて、口元が緩んだ。


「大丈夫ですよ。私たち、もう一年チーム組んでますから」


軽口のつもりで言ったら、自分で言っておきながら、少しくすぐったくなる。

「一年」という言葉が、まだ新しい。


恒一さんは、いつもの落ち着いた目でこちらを見て、小さくうなずいた。


「ああ。そっちの連携は問題ないな」


「そっち、って」


思わず笑ってしまう。

記念日と職場のオペレーションを、同じ「連携」で括るのが、いかにも彼らしい。


でも、たぶん、そこが好きなのだと思う。


四月の朝。

新生活の匂い。

カメラを担いだスタッフが、きっと正面玄関でうろうろしている。


「インフォメーションも、映るかもしれないですね」


「それなら、転倒だけはしないように。映像は残るからな」


「そこですか」


記念日だからといって特別な言葉はないけれど、いつもより、会話が半歩だけ近くなっている気がした。


彼がぽつりと言う。


「一周年の朝から、まあ、うちらしいな」


「はい。仕事の話してるのも、うちらしいです」


そう答える自分の声が、思ったよりも柔らかいのを感じながら、私は自動改札機にスマホをかざした。



2


通用口をくぐった瞬間、空気がいつもと違うのが分かった。

朝の大蔵屋は、まだ眠気の残る静けさが少しだけ混ざっているはずなのに、今日は最初から目が覚めている。


バックヤードを抜けてエレベーターに乗るとき、すれ違った食品の担当さんが、腕いっぱいに紙袋を抱えて小走りで行く。


「おはようございます」


「あ、おはよう。ごめんね、ちょっと急いでて」


返事も足早に、奥へ消えていった。


フロアに出ると、もっとはっきりした違いが待っていた。

ガラスケースの中は、いつも以上に商品がぎっしりと詰まっている。

棚の上の箱たちは、全員きちんと前を向いて、ラベルの文字が一列に揃っている。


通りかかった食品売場の平台は、まるで写真みたいだった。

山盛りのフルーツサンドも、お惣菜の盛り合わせも、色が交互になるように計算されていて、上から撮られることを分かっているみたいに整っている。


いつもなら、柱の陰に立てかけてある台車が、今日は見当たらない。

空き箱も、レジ横の隅にさえ一つもない。

全部、どこかに隠されてしまったらしい。


「すごい……テレビ用の大蔵屋だ」


 思わず、小さな声でつぶやく。


エスカレーター脇では、広報の人たちがクリップボードを手に集まっている。

その隣で、売場責任者の方が腕を組んで、何度も時計を見ていた。


少し離れた場所では、施設管理の制服が配管の点検口を開け閉めしている。

警備の人たちは、いつも以上に真剣な顔で出入口の方を見ていて、インカムのコードがやけに目についた。


みんな、声を潜めて話しているのに、どこかピリピリした空気が漂っている。



「おはようございます。インフォメーション、朝倉でございます」


カウンターに着いて、いつものように挨拶をしながらマイクのスイッチを確認する。

表面はいつもの大蔵屋。

だけど、その下で、たくさんの人の神経がいつもより張りつめているのが見える気がした。


そんな一日の始まりに、自分も映り込んでしまうのかもしれないと思うと、そわそわした。


開店前の音楽が流れ出す少し前。

インフォメーションカウンターに立って、いつものようにモニターを立ち上げながら、私はフロアを眺めた。


どの売場も、棚は商品で満杯。

さっきから通るたびに「撮られる準備万端です」と言っているように見える。


そこへ、隣でカウンターを拭いていた恵美が、声をひそめて近づいてきた。


「今日の大蔵屋、よそ行きの顔してる」


「テレビだもんね」


とりあえずそう返すと、恵美は肩をすくめて、カウンターの内側からフロアをのぞき込んだ。


「テレビって怖いわー。一瞬で日本中に流れるんでしょ」


「全国ネットじゃないと思うよ。たぶん」


そう言いながらも、私の背筋はさっきからいつも以上に伸びている気がする。


インフォメーションも、今日は撮影対象の一つだと聞かされている。

お客さまのご案内の様子を、後ろからそっと撮るだけらしいけれど、それでも「カメラが近くにいる」というだけで、体のどこかが緊張してしまう。


姿勢を正して、両手をきちんと前で組んでみる。

ガラスに映る自分の姿を横目で見ていると、恵美がじっとこちらを観察して、にやりと笑った。


「ひより、今日いつもより背筋伸びてる」


「いつも伸ばしてる」


すぐに否定すると、彼女は首を横に振る。


「いや、今日はテレビ用」


「テレビ用じゃないもん」


そう言い切ったはずなのに、自分でも、さっきから胸のあたりが少しだけ固いのを感じている。

頬の筋肉も、どこかぎこちない。


開店のチャイムが鳴る直前、恵美と私は揃って正面玄関へと向かった。


いつもの大蔵屋。

いつものインフォメーション。

だけど今日は少しだけ、カメラの向こうにいる誰かに見られている大蔵屋。


その中で、自分も「よそ行きの顔」をしてしまっている。

そう思うと、緊張とおかしさが胸の中で半分ずつ混ざり合った。



3


撮影が始まったのは、インフォメーションからでもすぐ分かった。


正面玄関のあたりに、見慣れない機材の影。

黒い三脚に乗ったカメラ、その横にマイクを構えた音声さん。

広報の人が、その少し前を歩きながら、番組スタッフを案内している。


ガラス越しに見ると、カメラの前を横切らないように、売場の人たちがいつもより大回りして通路を回っていた。お客様も、レンズに気づくと一瞬立ち止まって、そっと横にそれていく。


「あ、始まったね」


思わず小さな声でつぶやくと、隣の恵美も、同じ方向を見つめながらうなずいた。


私はインフォメーションから動けないので、食品フロアや新生活用品売場での撮影の様子は、直接は見えない。


けれど、広報の人が小走りで戻ってきては、誰かに耳打ちしている姿が視界の端に入る。

そのたびに、館内の空気が少しずつ動いていくのが分かる。


カウンターのすぐ近くでは、スタッフ同士の確認する声が聞こえた。


「次、食品の方に移動します」


「そのあと、新生活用品ですね」


短く交わされるその言葉だけで、頭の中にフロア図が浮かぶ。

今、カメラはあちら側にいて、これからあの通路を通って、あのエスカレーターを上がっていくのだろう。


私はマイクの位置をそっと直しながら、いつも通りの笑顔を心がける。


ここから見えるのは正面玄関と、人の流れだけ。

でも、今日の大蔵屋が「撮られている」ことは、背中側からでもはっきりと伝わってきていた。


開店直後の、お客様の自然な流れを撮りたいのだろう。

けれど、しばらく眺めていても、出入りする人の数は、いつもの平日の朝と変わらない。


カメラの後ろで、番組スタッフが広報の人に顔を寄せて、小声で何かを言う。


「もう少し、入口に人の流れがある感じで撮れますか」


広報の人が、少し困ったように眉を寄せるのが遠目にも分かった。

自然な朝の風景に、「もう少し」を足すのは、なかなか難しそうだ。


そう思って見ていると、ちょうどそのとき、感じのいい雰囲気の女性客が一人、入口から入ってきた。

コートの色も柔らかくて、手に持ったバッグも上品で、カメラの前でふわりと足を止める姿が、驚くほど画になる。


マイクが向けられても、彼女はあまり緊張した様子もなく、すっと笑った。


「やっぱり大蔵屋さんは、安心感がありますね」


はっきりとした、通る声。


「毎年、春になるとここに来たくなるんです」


その言葉は、あまりにもきれいで、まるで事前に渡された台本を読んでいるみたいだった。


でも、彼女の表情は自然で、目じりの笑いじわも、手にしたスマホも本物のお客様そのもの。


インフォメーションの内側からその光景を見ながら、私は背中がくすぐったくなるのを感じていた。

テレビの中の大蔵屋と、毎日の大蔵屋が、入口のあたりで静かに重なっている。

そんな不思議な瞬間だった。


インフォカウンターの内側で様子を眺めていると、隣の恵美が、息だけで笑いながら小声でつぶやいた。


「うまっ」


私は横目で彼女を見る。


「恵美、声」


注意しながらも、つられて口元が緩む。

恵美は「分かってるってば」という顔で、唇だけでにっと笑った。


「今の人、絶対ただのお客さんじゃないでしょ」


「分からないよ」


「いや、分かる。コメントに無駄がない」


さっきの「安心感があります」「春になると来たくなる」という言葉が、頭の中で再生される。

確かに、どこも削れないきれいなフレーズだった。


私はガラス越しに正面玄関の方をちらりと見ながら、心の中でそっとつぶやく。


台本みたいに上手なのに、表情はちゃんと「いつものお客さま」の顔をしている。



インフォメーションの中にいても、広報の人たちの会話が、途切れ途切れに耳に入ってくる。


「食品、予定より押してます」


「新生活用品は十五分後で」


「インフォ前の撮影、そのあとお願いします」


クリップボードを抱えたまま、小走りで行き来する背中を見送りながら、私は頭の中で、大蔵屋のフロア図をなぞる。


今この瞬間も、館内のどこかで「テレビ用の大蔵屋」が、順番に切り取られているのだろう。

彩りのいい平台や、春物のディスプレーや、きれいに並んだタオルたちが、十数分ずつ、画面の中の「春の一日」になっていく。


けれど、私の目の前に来るお客様は、いつも通りだった。

駐車場の場所を尋ねる人。

お買い上げ品の配送について確認する人。

はぐれたお子様との待ち合わせ場所を確認する親御さん。


テレビのカメラがどこにいても、このカウンターの前だけは、毎日の大蔵屋が途切れずに流れている。

そのことが、安心材料でもあったし、不思議でもあった。


背筋を伸ばし直しながら、テレビの中に切り取られていく大蔵屋を、インフォメーションの内側から見送った。


そして、次にカウンターへ近づいてきたお客様に、いつものように笑顔を向けた。



4


インフォメーションから正面玄関の方を見ていると、人の流れがじわじわ乱れ始めたのが分かった。


カメラに三脚、長いマイク、ケーブルを持ったスタッフ。

広報の人と、撮影協力の関係者らしき人。

本当のお客様もそこに混ざって、入口付近の通路が、いつもより狭く見える。


通ろうとしたお客様が一瞬立ち止まり、カメラを避けて横にそれる。

その横を、スタッフが機材をかばいながらすり抜けていく。

人と機材と声が、同じ場所に集まりすぎて、玄関前が詰まりかけていた。


そのとき、制服姿の背の高い人影が視界に入る。


「あ……」


巡回中の恒一さんだった。


正面玄関付近の動線を確認するみたいに、入口の外側と内側をゆっくりと見回しながら、カメラや音声さんの位置、エスカレーター前やエレベーター前の滞留を、一つずつ目で追っている。


インフォ前の撮影に入る前に、警備としてチェックしているのだと分かる動きだった。


私はカウンターの中から、その背中を目で追いながら、小さく息を吸う。


正面玄関付近の人の流れを見ていたカメラが、ふいに向きを変えた。


レンズの先を追うと、その先にいるのは巡回中の恒一さんだった。

黒い制服に、背の高いシルエット。

姿勢が良くて、歩くたびに無駄な揺れが一つもない。


ああ、そりゃあ目立つよね、と私はカウンターの中で思う。


カメラのすぐそばで、ディレクターらしい人とカメラマンが、ひそひそ声でささやき合った。


「あの警備の方、少し撮れます?」


「主任さんですか?」


「すごく画になりますね」


その「画になりますね」という言葉が、妙にはっきり耳に残った。


確かに、画になる。

黒い制服に、高い背。

通路の真ん中で立ち止まっているだけなのに、動きに無駄がなくて、そこだけ切り取ってポスターにできそうなくらい様になる。


でも、私にとっては、毎朝見ている「いつもの背中」だった。


テレビ側が見つけた「画になる人」と、私が知っている「いつもの人」が、同じ人の中に重なっている。

そのことが、なんだか言葉にならない感覚だった。


インフォカウンターの内側で、私は姿勢を正しながら、その横顔がレンズに捉えられていくのを、こっそり見守った。


すぐそばで、KSS側の担当者も呼ばれて、ひそひそと確認が始まった。

インカムに手を添えて何かを聞き、広報の人と短く言葉を交わす。


詳しいことまでは分からない。

けれど、誰も強く止める様子はなく、数分もしないうちに、話はまとまったようだった。


少し離れた場所で、恒一さんが小さくうなずく口の動きだけが、こちらからも読めた。


「業務に支障がない範囲なら」


きっと、そう言ったのだろう。


顔を撮られることには、たぶん興味がない。

むしろ、カメラが通路をふさいで動線が乱れることの方を、ずっと気にしているはずだ。


テレビ側の「画になりますね」と、恒一さんの「業務に支障がない範囲なら」が、同じ場所で交差している。



私がインフォから見ている前で、恒一さんはまずカメラの位置を確認した。


「そこは、通路が狭くなります。撮影するなら、こちら側でお願いします」


番組スタッフはきっと「顔」を撮りたい。

でも、恒一さんの視線は一度もレンズを見ないで、ずっと「動線」を見ていた。



5


インフォカウンターの中から見ていると、テレビ側の「こう撮りたい」と、恒一さんの「こうしてはいけない」が、目に見える形でぶつかっていた。


スタッフが通路脇に、黒い機材ケースをどん、と置く。

そこは、ベビーカーや高齢のお客様が、いつもよく通るラインだった。


恒一さんは、それを見た瞬間、すぐに声をかけた。


「そこは避けてください。ベビーカーと車椅子が通ります」


スタッフの一人が、ケースに手をかけたまま振り返る。


「少しだけなんで」


言いかけたところで、恒一さんがかぶせるように、しかし声色は落ち着いたまま言う。


「少しでも、塞がります」


きっぱりした言い方なのに、感情的ではなくて、ただ事実だけを伝えているような口調だった。


スタッフ同士が目配せをして、ケースの位置をずらす。

通路の幅が、いつもの幅に戻るのが、インフォから見ても分かる。


今度は、ディレクターらしい人が一歩前に出て、恒一さんに声をかけた。


「ここをもう一度歩いてもらえますか。巡回している感じで」


きっと、さっき自然に歩いていたところを撮り逃したのだろう。

もう一度、同じ“絵”がほしい、という顔をしていた。


恒一さんは、ほんの一瞬だけ黙ってから答える。


「巡回は演出ではありません」


スタジオではなく、入口の通路で、その言葉が静かに響いた気がした。


スタッフがあわてて言い直す。


「雰囲気だけでいいので」


「雰囲気で巡回はしません」


言葉だけ聞くと、完全に拒否しているようにも聞こえる。

でも、表情は険しくない。

声も荒れていない。


たぶん、彼の中で「ここまでは協力できる」「ここから先は仕事を曲げることになる」という線が、はっきり引かれているのだろう。


大蔵屋としても、KSSとしても、テレビにまったく協力しないわけにはいかないのだろう。


だから恒一さんは、断るのではなく、線を引いている。

ここまではできる。

でも、ここから先は仕事ではなくなる。


その線が、遠目にもはっきり見えた。


私はカウンターの内側で、その背中を見つめながら思う。


テレビは“絵”を作りたい。彼は“安全”を見る。


恒一さんは、テレビ側に向き直って、落ち着いた声で言う。


「この時間帯なら、この動線を確認します。撮るなら後ろからにしてください。お客様の顔が入らない角度でお願いします」


テレビ側は、きっと「堅いな」と思っている。

けれど、その堅さでさえ、黒い制服とまっすぐな背筋にまとわりついて、逆にひとつの“画”になっていた。


たぶん、本人だけがそのことに気づいていない。



6


ひととおり動線の確認が終わったあと、今度は「警備の仕事紹介」として、恒一さんへの短いインタビューが始まった。


レポーターとカメラが向き合い、その真正面に恒一さん。

黒い制服に、まっすぐな姿勢。

その並びだけで、すでに番組の一コマみたいに見える。


番組側はきっと、「イケメン警備主任」のそれっぽい受け答えを期待しているのだろう。

レポーターの人の声のトーンが、少しだけ弾んでいた。


「警備の仕事で一番大切なことは何ですか?」


マイクが差し出される。


「何も起こさないことです」


恒一さんは、少しも迷わず答えた。


「トラブルを解決する仕事、というイメージがありますが」


「起こる前に減らす仕事です」


短く、はっきりとした言葉。

飾りのない説明なのに、逆にそのぶんだけ、重さがある。


レポーターが、少しだけ話題を変える。


「女性のお客様から声をかけられることも多いのでは?」


たぶん、「人気の警備員さん」みたいな流れを作りたいのだろう、と私はピンときた。


「館内案内なら対応します」


即答。


「それ以外は?」


「業務外です」


レポーターが、ほんの一瞬だけ言葉を失ったのが、マイクを持つ手の動きからも分かった。


でも、そのコメントは、使えないわけではない。

むしろ、「イケメンなのにストイックな主任さん」という、別の“おいしい絵”になっている気がする。


インフォカウンターの内側で、それを見ていた私は、胸の中で小さく笑う。


番組がほしがる「サービス精神」みたいなものには乗らないのに、仕事の線だけは一ミリもぶらさない。


そういうところが、たぶん一番、恒一さんらしい。


インフォカウンターから様子を見ていると、書類を整えるふりをしながら、恵美が低い声でつぶやいた。


「ひより、あんたの旦那、完全に素材扱いされてるよ」


思わず、振り向いてしまう。


「素材って言わないで」


自分でも、声がほんの少しだけ強くなったのが分かった。


恵美は悪気のない顔で、口元だけでくすっと笑う。


恒一さんが美しい人なのは、私が一番よく知っている。

背が高くて、姿勢がよくて、制服姿が似合うことも、分かっている。


でも、その「顔」だけで見られている瞬間を、こうして少し離れた場所から眺めていると、胸の奥がざわざわする。


テレビの人たちにとっては、「画になる警備主任」で、「番組を構成するひとかけらの素材」なんだろう。


それが仕事だということも分かる。

分かるけれど、私には、その人は朝にネクタイを結んで、コーヒーを飲んで、今日で結婚一年になる「夫」でもある。


その二つの顔が、同じ場所で別々に映されているようで、落ち着かなかった。



7


インフォメーションと警備の連携を撮っているうちに、どこかのタイミングで、テレビ側が私と警備主任の関係に気づいたらしい。


誰かがうっかり「ご夫婦です」と口にしたのかもしれないし、事前に渡していた広報資料のどこかに書いてあったのかもしれない。


正面玄関近くで、スタッフ同士の声が、少しだけ弾んだのが分かった。


「同じ百貨店で働くご夫婦なんですか?」


「そこも少し撮れませんか」


「ご結婚されて、どのくらいなんですか?」


それを聞いた瞬間、私はカウンターの中で固まった。


横を見ると、恵美が「これは面倒な流れだ」という顔で、目だけこちらに向けてくる。


けれど、その空気を断ち切ったのは、恒一さんの声だった。


「業務と関係ありません」


即答だった。


スタッフが、あわてて言葉をつなぐ。


「でも、すごく素敵なエピソードなので」


きっと「老舗百貨店を支える夫婦の物語」みたいなテロップが、頭の中に浮かんでいるのだろう。


けれど、返ってきた言葉は同じだった。


「業務と関係ありません」


声のトーンは一定で、感情的ではない。

ただ、線だけをはっきり示すような言い方。


それ以上、テレビ側は踏み込まなかった。

少し困ったような空気が流れて、それから、話題はまた「インフォと警備の連携」に戻っていった。


カウンターの中で、私は胸の奥がじん、と熱くなるのを感じていた。


せっかくの「おいしいエピソード」を断たれた番組側は、きっと少しがっかりしているだろう。

それでも、結婚一周年の朝に、仕事中の自分たちを「夫婦ネタ」にしないでくれる人でよかった、と私は思った。


隠したのではない。

なかったことにしたのでもない。


ただ、画面に乗せなかったのだ。


それが、私にはうれしかった。



8


インフォメーション前にカメラが入ると聞いていたので、その少し前に、俺は、正面玄関からの動線を一通り見て回った。


三脚、ケーブル、機材ケース。

どれも、置き方ひとつで通路が細くなる。


ちょうどそのとき、インフォのカウンター前に、お客さんがひとり来た。


「すみません、落とし物をしてしまって」


年配の女性だった。

手に握ったバッグの口元を何度も確かめながら、不安そうにひよりのほうを見ている。


カメラはすぐ近くにいた。

レンズの黒い円が、インフォカウンターのこちら側まで意識させてくる。


けれど、ひよりはそちらを一度だけ横目で確認したあとは、きちんとお客さんのほうに身体を向けていた。


「お困りのところ、ありがとうございます。どのあたりでお気づきになりましたか」


声のトーンも、言葉の選び方も、いつもと同じだ。


最初の数秒だけ、背筋がいつもより固いように見えたが、落とし物の場所や時間を聞き、館内放送の連絡先に内線をかけるころには、カメラの存在はほとんど頭の外に追いやられているようだった。



少し時間を置いて、今度はベビーカーを借りに来た若い夫婦が、カウンターの前に立った。


「段差の少ないルートをご案内いたしますね」


ひよりは館内図を広げ、エレベーターの場所と混雑しやすい時間帯を簡潔に説明する。

地図を指さす指先が、お客さんと同じ高さになるよう、自然に身をかがめていた。


その様子を、カメラは横から静かに追っている。

レンズの中心が、ひよりの横顔と、お客さんの手元と、館内図の上を往復しているのが分かる。


だが、ひよりの視線の先に、レンズは入ってこない。


目の前の人の不安をほどくこと。

荷物の多い親子連れが、なるべく疲れずに移動できる道筋を探すこと。

彼女が見ているのは相変わらず、そちら側だ。


その崩れなさを見ていると、インフォメーションもまた、百貨店の安全と安心を支える場所なのだと、あらためて思う。


自分の立ち位置は、インフォカウンターから少し離れた通路だ。

エレベーター前とエスカレーター前の滞留がないか、撮影機材が通路を塞いでいないかを確認するには、ここが一番いい。


だから、インフォ前の撮影に「立ち会っている」というよりは、あくまで「その時間帯の巡回ルートとして含めている」という意識でいる。


それでも、目の端に入ってくる。


カウンターの内側で、お客さんと目線を合わせて話すひより。

少し前までレンズを気にしていたはずなのに、今はすっかり「対面している相手」に集中している。


撮影スタッフは、その様子を黙って撮っていた。

余計な演出も、やり直しもない。

ただ、そこにある「いつもの仕事」を記録するだけのカメラの動きだ。


それなら、こちらとしても特に口を挟むことはない。

動線さえ確保されていれば、問題はない。


むしろ、こうして撮られる分には悪くない、とさえ思う。


大蔵屋を支えているのは、ディスプレーや売場だけではない。

インフォメーションのカウンターで、毎日「初めて来たお客様」と向き合っている人間も、その一人だ。


少し離れた場所から、その姿を見ながら、今日の番組タイトル「老舗百貨店の春の一日」という言葉を思い出す。


その一日の中に、「インフォメーションの朝倉ひより」もちゃんと含まれていることを、カメラ越しに残してもらえるなら、それは悪くない記録だと、俺は思った。



9


夕方が近づくころ、カメラと機材が一つずつ正面玄関から運び出されていった。

広報の人たちの表情が、目に見えてゆるんでいく。


「本日の撮影、以上で終了です。ご協力ありがとうございました」


そうアナウンスが入ると、売場の空気も少しずつ「いつもの顔」に戻っていった。

きっちり前を向いていた商品が、ところどころ補充で動き始め、隠されていた台車や箱も、そっと持ち出される。


テレビ用にきれいに整えられていた空気が、少しずつほどけていく。

大蔵屋が、画面の中の「春の一日」から、また毎日の「営業中」に戻っていく。


恵美が、カウンターの内側でほっと息をついた。


「テレビって、半分くらい段取りなんだね」


「百貨店も、半分くらい段取りじゃない」


思わずそう返すと、自分で言いながら、少しおかしくなる。

売場のレイアウト、スタッフの配置、開店と閉店の時間。全部、段取りで決まっていく。


ちょうどそのとき、通路を巡回していた恒一さんが、インフォ前を通りかかった。


「段取りが悪いと事故になる」


当たり前のようにそう言って、少しだけこちらを見る。


恵美が笑いながら肩をすくめた。


「主任は全部そこに着地しますね」


私もつられて笑う。


テレビ用の大蔵屋も、いつもの大蔵屋も、結局は段取りと安全の積み重ねでできている。

その当たり前みたいな結論を、夕方の光の中で、改めて感じた。



10


帰りに寄ったスーパーの袋をテーブルに下ろすと、どっと肩が重くなる。

揚げ物のお惣菜とサラダ、レンジで温めるだけのスープ。

それから、小さなカップのプリンがふたつ。


記念日らしい外食でも、華やかなディナーでもない。

でも、今日はもう、それで精一杯だ。


「一周年なのに、テレビ取材の日でしたね」


プリンを冷蔵庫に入れながら言うと、ダイニングの椅子に腰を下ろした恒一さんが、ネクタイをゆるめて一言だけ返す。


「忘れないだろ」


「そうですね」


揚げ物を温めて、簡単に並べて、ふたりで黙々と箸を動かす。

疲れているときの沈黙は、気まずさではなくて、同じ方向を向いている感じがするから不思議だ。


少しお腹が落ち着いたところで、私はプリンのビニールをぺりっとはがしながら、前から聞きたかったことを口にした。


「恒一さん、テレビに映ったら、人気出ますね」


事実を述べただけのつもりだったけれど、自分で言っておいて、くすぐったくなる。


「困るな」


間髪入れずに返ってきた。


「困るんですか?」


「業務に支障が出る」


真顔でそう言うから、思わず吹き出してしまう。

たぶん本気でそう思っているのだろうけれど、「人気が出る」ことに対する自覚がまったくないところが、この人らしい。


スプーンでプリンをひと口すくって、口に運ぶ。

甘さで少し気持ちがゆるんだところで、私は小さく息を吸った。


「私も、少し困ります」


自分の声が、思ったよりも静かに響いた。


もし本当に、テレビを見た誰かが「あの警備さん、かっこいい」と言い出したら。

今日、大蔵屋の正面玄関で聞いた「画になりますね」という言葉を、街のどこかでもっとたくさん聞くことになったら。


それを想像すると、胸のどこかがそわそわする。


プリンのカップが半分くらいになったところで、恒一さんがふっとこちらを見る。


「なんで」


さっき私が言った「少し困ります」に対しての、「なぜ」だと気づくまで、一拍かかった。


スプーンを皿の上に置いて、少しだけ考える。


「画面の中のあなたを、知らない人がたくさん見るから」


言葉にしてみると、自分でも少しだけ恥ずかしい理由だ。

でも、そこが一番ひっかかっているところだった。

恒一さんは、短く息を吐いて、しばらく黙る。


「俺はここにいる」


やがて、それだけを言った。


「はい」


返事は、それしかなかった。


画面の中で、黒い制服を着て、「何も起こさないことです」と言っている人と、今ここでプリンのカップを片手に椅子に座っている人が、同じ人だという事実。


結婚一年目の答えみたいなものは、派手な言葉じゃなくて、たぶんこの一行なのだと思う。


テレビの中の人じゃなくて、画面の外で、同じ家に帰ってきて、目の前に座っている人。


それを確認したくて、私はもうひと言だけ、勇気を出した。


「私は、画面の外のあなたが好きです」


自分で言っておいて、顔が熱くなる。

けれど、言わないまま一周年を終わらせるのは、もっともったいない気がした。


「そうか」


朝倉さんは、それだけ。


大きなリアクションも、甘い言葉もない。

ただ、いつもより少しだけ、目元の力が抜けて、表情がやわらぐ。


その変化が分かるくらいには、一年一緒に暮らしてきたのだと思う。


私はもう一度スプーンを手に取って、残りのプリンをすくう。


テレビでは、まったく別の番組が賑やかに流れている。

けれど、私にとっていちばん大事なのは、どの画面にも映らない、この部屋の中の景色だった。


特別な料理も、花束もない一周年の夜。

けれど、今日の大蔵屋と、テレビと、そしてこの人と一緒に迎えた一年を、きっとずっと忘れないだろうと思った。




ひより日和 新婚編 第20話 「画面の外」 おわり



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