第19話 「ふたり分」
1
三月。
赤や茶色だった館内が、いつのまにか薄いピンクや若草色に変わっている。
九階の新生活フェアの案内をしながら、「カーテン売場は六階でございます」「配送カウンターは奥のエレベーター横です」とくり返すたび、少し不思議な気持ちになる。
同棲を始めて二年ちょっと、結婚して十か月だ。
今は、帰れば同じテーブルに、同じマグカップが二つ並んでいるのに、なぜか一緒に過ごした時間を確かめてしまう。
「ひより」
休憩時間に社食で向かいに座った恵美が、少し落ち着かない声で私の名前を呼ぶ。
「うん?」
「…あたし、亮と住むことにした」
一瞬、頭の中が真っ白になる。
「えっ。ほんと?」
「そんな大事件みたいな顔しないでよ」
「大事件だよ」
「やめて。照れるから」
そう言ってお茶を飲む仕草まで、なんだかいつもと違って見える。
「でも、急に決めたわけじゃないの。年明けくらいから、ちょっとずつ見てた」
「物件?」
「うん。亮の部屋は無理」
「あたしの部屋も、まあ、長くは無理。だから、新しく借りることにした」
ぽんぽん出てくる具体的な言葉に、長かったなと思ってしまった。
ちゃんと考えて、ちゃんと決めたんだ。
そう思ったら、「すごい…」と小さくつぶやく声に、自分で少し驚いた。
私は、すぐに自分たちのことを思い出した。
お互いの部屋に、ヘアゴムや歯ブラシや缶コーヒーを置いていたころ。
洗剤やシャンプーを二重に買おうとして、ふたりで「なんか変だよね」と笑ったころ。
そして、恒一さんが「新しい部屋、探す?」と言った日。
「うちも、そうだった」
「なにが?」
「どちらかの部屋に入ったんじゃなくて、新しい部屋を探したなって」
「ああ、そうだったよね」
「その方が、よかった」
恵美が、少しだけ真面目な顔になる。
「やっぱり?」
「うん。どっちかの部屋だと、たぶん、遠慮が残るから」
少しだけ先にその季節を通り過ぎた人として、言葉を選びながら、でもちゃんと伝えたいと思った。
「最初に、気にしなくていいことと、気にしてほしいことを言っておいた方がいいと思う」
自分で言いながら、ちょっとだけ照れる。
「なにそれ。結婚した人の言葉じゃん」
「たぶん… 恒一さんの受け売りだけど」
「それっぽい」
恵美が笑う。
その笑い方が、全部を茶化しているわけじゃないのが分かる。
「……まあ、ちゃんと考えないとね。ふたりで暮らすんだし」
ゆっくりと置かれた言葉に、あの日の自分たちの真剣さが重なる。
笑いながら話しているのに、それなりに自分たちも考えたことを思い出した。
「大変なこともあるかもしれないけど、楽しいよ」そう言いかけて、少しだけ迷った。
まだ、私たちだって途中だ。
だから代わりに、私は笑って言った。
「でも、楽しみだね」
2
「主任、ちょっといいっすか」
休憩室の入口でうろうろしていた神田が、ようやく覚悟を決めた顔で近づいてくる。
「なんだ」
「俺、前田さんと住むことになりました」
ずいぶん時間がかかったな、と心の中でだけつぶやく。
このところのそわそわした様子で、だいたい察してはいた。
「そうか」
「反応、薄くないっすか」
「決めたんだろ」
「はい」
「前田さんの親には挨拶したのか」
「え、そこっすか」
「そこだ」
ぴたりと固まる肩を見て、ため息を飲み込む。
仕事でも私生活でも、順番を飛ばす癖は同じだ。
けれど、こうして報告に来たこと自体は悪くない一歩だと、心の中でだけ評価しておく。
「まだ……です」
「行け」
「そんな即答で」
「同棲は本人同士の問題でもあるけどな」
「親から見れば娘の生活環境が変わる話だ。そこを飛ばすと、後で面倒になる」
「めちゃくちゃ現実的っすね」
「現実の話をしてる」
言いながら、自分でも少し味気ない言い方だと思う。
しかし、ここで甘い言葉を並べても、誰の役にも立たない。
自分が、失敗したことは教訓として後輩に教えておいた方がいい。
「家賃はどう分ける」
「半分で」
「収入は同じくらいか」
「……たぶん、俺の方が少し多いです」
「なら、折半が公平とは限らない。負担率を見ろ」
「光熱費は」
「……たぶん半分で」
「“たぶん”はやめろ」
言いながら、メモを取る手元をちらりと見る。
「主任、同棲って契約更新みたいっすね」
「生活の共同運用だ」
神田が分かりやすくげんなりした顔になる。
「夢がないっすね」
「夢だけで暮らすと揉める」
「うわ、重い」
「更新料、退去費用、緊急連絡先、合鍵の管理。決めておけ」
並べながら、自分でも少し言い過ぎかと思うが、どれも一度は現実に向き合うことになる項目だ。
「チェックリスト作ります」
「ああ」
そう答えた瞬間、そのチェックリストを帰ったらひよりにも見せてみようかと、ふと頭をよぎった。
ここで、神田がふっと笑う。
「でも、主任」
「なんだ」
「なんか、ありがとうございます」
思わず眉が動く。
「礼を言う前に、前田さんに確認しろ」
「はい」
まだ十分とは言えない返事だが、少なくとも状況を現実として受け止め始めた顔をしている。
こちらはあくまで実務の話をしただけだ。
それでも、背中くらいは押せたらしい。
3
恵美から、一緒に暮らすことにしたと聞いた日から数日後の休憩時間。
紙コップをくるくる回しながら、恵美がふいに言った。
「亮、うちに挨拶来たよ」
「わぁ…どうだった?」
「父親が妙に静かで、母親がお茶ばっかり足してた」
その光景が目に浮かんで、思わず口元がゆるむ。
「神田さんは?」
「背筋、見たことないくらい伸びてた」
今度は、こらえきれずに笑ってしまう。
「緊張してたんだね」
「してた。めちゃくちゃしてた」
恵美が、少しだけ嬉しそうに言う。
その「めちゃくちゃ」の中に、ちゃんと向き合おうとしていた時間が詰まっている気がした。
「最後に父親がさ、『料理はできるのか』って聞いたの」
「神田さん、上手なんでしょ?」
「亮、そこだけ即答した。『できます』って」
思わず「ふふ」と声が漏れる。
「母親がちょっと安心した顔してたのが、なんか面白かった」
情景が目に浮かんだ。
重くはないのに、ちゃんと筋を通した時間だったのが伝わってくる。
少し間を置いて、恵美が声を落とした。
「あたし、こういうの面倒だと思ってたんだけど」
「うん」
「ちゃんと来てもらったら、ちょっと安心した」
「うん」
その「安心した」の重さを、なんとなく知っている気がして、まっすぐに頷く。
「……まあ、本人には言わないけど」
「言ってあげたら喜ぶと思う」
「だから言わないの」
いつもの調子で言い切る横顔が、少しだけ柔らかく見えて、私はコーヒーを一口飲んで笑った。
4
三月下旬の休日。
駅から少し歩いた住宅街の道を、恵美と並んで歩く。
駅前には大きな商業施設があって、今日も家族連れが多い。
そこから少し離れると、古いマンションや家が静かに並んでいて、空気だけ少し落ち着く。
うちからは自転車ならすぐだけれど、歩くと「ちょっと来たな」と思う距離だ。
「ここ」
恵美が立ち止まったのは、古すぎないけれど新築でもない賃貸マンション。
二階の角部屋が、新しいふたりの2DKになる。
DKと洋室が二つ、と聞いただけで、頭の中にカーテンやテーブルの配置図が浮かんでくる。
神田さんが、マンションの入り口にいて、恵美を待っていたようだ。
神田さんは、私を見て照れくさそうに笑って言った。
「なんか、すいません」
「わざわざ」
「恵美が近くに来てくれて、私も嬉しいから」
気を使わなくていいというように、私は手を振った。
恵美が、少し息を吸ってからドアを開けた。
「わあ」
部屋に入った瞬間、声が漏れた。
白い壁とフローリングの感じが、どこか自分たちの家と似ている。
「うちと、少し似てるかも」
「なんか、暮らす想像がしやすかったんだよね」
恵美が、少し照れたように笑う。
神田さんはというと、まっすぐキッチンへ向かった。
「ここ、まな板置けるんすよ」
「そこなの?」
「大事です」
「最初に見るところ、そこ?」
「大事です」
恵美が呆れた顔をしながらも、嫌そうではない。
冷蔵庫や洗濯機、ベッドや棚といった大きなものは、朝のうちに業者が運び込んでいたようだ。
だから、神田さんだけ先に来ていたのかと納得する。
三月の繁忙期に、そこだけでも頼んでおいたのは正解ではないだろうか。
さすがは、恵美だ。
ダンボールに詰まった小物と、これからの暮らしの形だけが、まだ床のあちこちに転がっている。
午前中は、自然と役割が決まった。
恵美は服と小物のダンボールを開けてクローゼットの前に座り込み、神田さんは駐車場と部屋を行き来して、まだ残っている箱を運んでくる。
私はキッチンと洗面まわりを任されて、食器やタオルを洗いながら棚に収めていく。
シンク下にあった段ボールを開けたとき、細長いビニールの袋が目に入った。
「これ、先につける?」
「あとでよくない?」
「夜になってから困るかも」
「たしかに」
カーテンの入った袋を掲げると、恵美が笑った。
5
昼過ぎ、インターホンが鳴って、私はすぐ顔を上げた。
恒一さんだろう。
朝、帰ってきて「ちょっと寝たら行く」と聞いていた。
「恒一さん、ちゃんと寝ましたか?」
ドアを開けるなり、つい確認してしまう。
「寝た」
「何時間ですか?」
「二時間」
「それは寝たって言いません」
後ろから神田さんの笑い声がした。
「主任、当務明けなのに来てくれたんすか」
「大物は終わってるんだろ」
「はい」
「なら、段取りを見る」
相変わらずの言い方に、少しほっとする。
「段取りを見る」と言いながら顔を出してくれるのが、恒一さんらしい手伝い方だと思う。
部屋に入った瞬間、まず床をぐるりと見回した。
「段ボールは通路に置くな」
「はい」
「本の箱は積むな。下に置け」
「重いからですか」
「重い。崩れる。あとで動かせなくなる」
「主任、業者より業者っぽいっす」
「学生の頃に引っ越し屋のバイトを三年やってたからな」
さらりと言う恒一さんの横で、神田さんが半分笑いながら肩を落とす。
昔話をしようとしているわけでもないのに、段取りの良さだけが静かに証明されている。
「なんでもやってますね、朝倉さん」
恵美が感心したように言う。
「運動になると思って」
淡々と返す声に、思わず小さく笑ってしまう。
「カーテンは先につけろ。夜になってから困る」
「ひよりも同じこと言ってた」
恵美の一言で、恒一さんの視線がこちらに向く。
「受け売りです」
「言った覚えはあるな」
「やっぱり」
何でもない会話の中で、夫婦になってから積み上がった小さな習慣が、そっと姿を見せた気がした。
結局、カーテンは背の高い人がつけるのが一番効率がいい。
自分で言って、自分でカーテンをつけている後ろ姿に、少し笑ってしまった。
「主任、結局働いてるじゃないですか」
「効率の問題だ」
「そういえば」
恵美が、ふいに時計を見た。
「あたしたち、お昼食べてなくない?」
言われて、ようやく自分のお腹も空いていることに気づいた。
朝から段ボールを開けたり、洗面所のものを並べたりしていたせいで、時間の感覚がなくなっていた。
「食べてないかも」
「かもじゃなくて、食べてないわよ」
恵美が立ち上がる。
「コンビニ行こ。近くにあるか確認したかったし」
「あるよ。駅と反対側に」
神田さんが言うと、恵美が少しだけ顔を明るくした。
「そういう情報は早いのね」
「大事じゃない?コンビニ」
「まあ、大事だけど」
結局、四人で外へ出ることになった。
新居のマンションの前の道は、駅前ほど賑やかではないけれど、少し歩くと小さなクリーニング店や、古い喫茶店や、薬局が並んでいた。
「ここ、住むんだなあ」
恵美が、誰に言うでもなくつぶやく。
神田さんが、恵美の横に並んだ。
「うん」
「返事しなくていいのよ」
「いや、したくて」
「そういうの、急に言うのやめて」
恵美は前を向いたままだったけれど、耳が少し赤い気がした。
コンビニに入ると、神田さんは迷わずおにぎりの棚に向かった。
「恵美さん、鮭でいい?」
「なんで決めてんの」
「前も好きって言ってた」
「……今日はツナマヨ」
「じゃあ、鮭とツナマヨ」
「増やさない」
そのやり取りを聞きながら、私は少し笑ってしまった。
隣で恒一さんが、おにぎりを二つ手に取っている。
「恒一さん、それだけですか?」
「これで足りる」
「当務明けで、二時間しか寝てなくて、それだけですか?」
「眠いと、あまり食えない」
「じゃあ、ゼリーも買ってください」
「ゼリー?」
「食べられるものを買ってください」
少しだけ迷ったあと、恒一さんは何も言わずに栄養ゼリーを一つかごに入れた。
そういうところは、ちゃんと聞いてくれる。
それがなんだか嬉しくて、私は自分用に選んだ梅のおにぎりをかごに入れた。
「ひよ」
「はい?」
恒一さんが、棚の下段から小さなカップのプリンを一つ取った。
「食べるだろ」
「え?」
「好きだろ」
一瞬、何も言えなかった。
たしかに好きだ。
でも、自分で取るほどではないと思って、さっき一度見送った。
「……食べます」
「なら、入れる」
当たり前みたいにかごに入れられて、胸の奥が少し甘くなる。
恵美が横から、にやっと笑った。
「奥さんの顔」
「してない」
「してる」
「してないから」
「してるわよ」
神田さんが小さく笑って、恵美のかごにチョコのついた小さなドーナツを入れた。
「なに勝手に入れてんの」
「恵美さん、これ好きでしょ」
「好きだけど」
「じゃあ」
「じゃあ、じゃない」
そう言いながら、恵美は戻さなかった。
6
休憩を挟んで、作業が再開された。
荷物が入ると、部屋が一気に狭く見えた。
空っぽのときは広く見えた2DKが、段ボールと生活用品でいっぱいになる。
恵美が、キッチンと書いてある段ボールを開けていた。
「なにこれ」
「鍋」
「鍋、多くない?」
「用途が違うんで」
「フライパンも多くない?」
「それも用途が違う」
「料理人なの?」
「恵美さんの服も多いじゃん」
「服はいるでしょ」
「鍋もいるって」
恒一さんが、冷静な声でふたりに言った。
「収納スペースは限りがある」
恵美と神田さんは、同時に黙った。
私は、恵美に笑いかけた。
「でも、暮らしてるうちに物は増えていくよ」
「ひより、いいこと言う」
「いや、増えて困ったことがあるだけ」
私は、自分たちの家を思い出した。
本やクッション、タオルもふたり分なら倍だ。
「最初から全部の置き場所を決めなくてもいいと思うよ」
恵美が振り返る。
「そう?」
「うん。うちも、何回も変えたし」
「そっか。そうよね」
「最初から完璧にしなくていいのか」
「たぶん」
「たぶん?」
「うちもまだ途中だから」
そう。まだまだ、先は長い。
「始まる感じがするね」
思わず口にしたら、「やめてよ、そういうの」と恵美が照れ隠しみたいに返す。
でも、嫌そうではない。
神田さんが部屋を見回して言った。
「なんか、まだ全然片付いてないのに、もう家っぽい」
「段ボールだらけだけどね」
「でも、ふたり分だもんな」
「……そういうこと急に言わないで」
恵美と神田さんも、ちゃんと自分たちの「ふたり分の家」を作り始めているのだと思った。
恒一さんが、空になったペットボトルを袋にまとめながら言った。
「ゴミ袋、分けといたほうがいいぞ」
「主任、余韻が…」
「明日、困るのはお前だ」
「現実が強すぎです…」
7
夜になりきる少し前、恵美たちの新居をあとにして住宅街の道を歩く。
遠くに駅前の商業施設の灯りが滲んでいて、さっきまでの段ボールの匂いが、まだ少し服に残っている気がした。
春先の夜は、やっぱり冷える。
「私たちも、新しい部屋を探してよかったですね」
「そうだな」
「どちらかの部屋に入る形だったら、少し違っていたかも」
「遠慮が残るだろうな」
「はい」
歩幅を合わせてくれる、彼をそっと見上げた。
「恵美たちも、あの部屋でよかったと思います」
「前田さんには前田さんの生活がある。神田には神田の生活がある」
「はい」
「どちらかを消すより、新しく作る方がいい」
その言葉を、胸の中でゆっくり受け取る。
「ふたり分ですね」
「そうだな」
少し歩いてから、私は横を見上げた。
「でも、恒一さん」
「なんだ」
「今日は早く寝てください」
「うん。寝る」
「本当に?」
「努力する」
「努力じゃなくて、寝てください」
「はいはい」
思わず笑うと、恒一さんも、ほんの少しだけ表情をゆるめた。
ふたり分の場所は、最初からきれいに収まるわけじゃない。
それでも、あの段ボールだらけの部屋は、もうちゃんと、始まっていた。
その始まりを、恵美とまた話せる日が、少し楽しみだった。
ひより日和 新婚編 第19話 「ふたり分」 おわり




