第5話 火の粉が舞う
文化祭まで、あと三日。
準備室は戦場だった。
模造紙が床に広がり、ペンキの匂いが漂い、
誰かが常に「プリンター止まった!」と叫んでいる。
莉帆は、ホワイトボードの予定表を書き換え、深く息を吐いた。
「誰か、ブラバンのリハ時間の確認は終わってる?
演劇部の照明チェックは、もう済んだ?」
声は出ている。手も動いている。
それなのに、胸の奥のざわつきだけが消えない。
放課後、昇降口で大和とすれ違った。
いつもなら、見つからないように手を振ってくれる。
目が合えば、ほんの一瞬だけ笑う。
今日は、視線が合わなかった。
大和は、莉帆を見ることもなくそのまま通り過ぎた。
「……え?」
気づかなかった?
それとも――避けられた?
胸の奥が、きゅっと細くなる。
休み時間に目が合いそうになっても、すぐ逸らされる。
偶然かもしれない。忙しいだけかもしれない。
そう思おうとするたび、余計に意識してしまう。
(怒ってる……?)
(私、何かした……?)
***
夜。
机に資料を広げたまま、スマホが震える。
画面に表示された名前に、一瞬ためらう。
「……もしもし?」
少し明るい声を作る。
数秒の沈黙。
「……莉帆」
低くて、静かで、どこか遠い。
「最近さ」
変な胸騒ぎが起こる。
「麻丘といつも一緒にいるって、本当?」
一瞬、言葉の意味を拾えなかった。
「え?」
「文化祭の副委員長」
「それは……実行委員の仕事で一緒にいるだけだよ」
(やっぱり、噂が広がっていたんだ)
焦りが先に立つ。
「でも、毎日、二人で帰ってるって……」
声は荒くない。ただ、硬い。
遅くなった日は駅まで送ってもらったこともある。
資料を抱えていたから。暗かったから。自然な流れで。
でも、それをどう言えばいいのか、うまくまとまらない。
「本当に何もないよ。心配しすぎだって」
軽く笑おうとしたのに、声が震えた。
沈黙。
遠くで誰かが笑う音がする。
「……俺はさ」
ぽつりと落ちる。
「秘密の存在だから」
胸がどくんと鳴る。
「文句言う権利もないんだよね」
「そんなことないよ!」
思わず強くなる。
「莉帆が誰と仲良くしてても、俺は何も言えない」
淡々としているのに、奥がひりついている。
「だって、俺たち……付き合ってること、誰にも言えないし」
自分が決めた“秘密”で、大和を追い詰めている。
そう思った瞬間、息が浅くなった。
「俺は……ほんとに莉帆の彼氏なんだよな?」
「当たり前でしょ」
呼吸が止まる。
今は忙しいから。
冷やかされるのが、怖いから……。
言い訳なら、いくらでも思いつくのに。
「……文化祭が終わるまで待って」
やっと、それだけ絞り出した。
沈黙が続く。
「ねえ、何か言ってよ」
「……わかった」
その声は、どこか無機質な機械音のように聞こえた。
布団にもぐると、涙があふれ出す。
何か言ってよ、なんて――耐え切れずに、責めてしまった。
自分のせいなのに。
自分が言い出した“秘密”なのに。
涙が止まらない。
(このまま別れることになっても、誰にも気づかれない……)
そんな最悪のことが頭をよぎり、慌てて打ち消した。
***
翌朝。
まだ、誰も来ていない文化祭準備室。
美愛が、莉帆の顔を覗き込む。
「目のクマ、炭谷と何かあった?」
思わず下のまぶたを手で隠した。
「言ってみ、聞くから」
莉帆は、昨夜のことを、ポツリ、ポツリと話し始めた。
大和との電話のこと。
副委員長との噂のこと。
美愛は黙って聞き、ため息をつく。
「莉帆」
珍しく真剣な声。
「ちゃんと向き合わなきゃダメだよ」
「うん……文化祭が終わったらちゃんとする」
「炭谷、限界きてるよ」
言い切られて、何も返せない。
「もう、火の粉があちこちに飛んでいる」
美愛が、莉帆をじっと見据える。
「放っておくと、周りが全部、火の海になるよ」
「そんな……脅かさないでよ。今は、ほんとに忙しくて……」
また言い訳が口をつく。
胸の奥に、小さな火の粉が落ちた気がした。
美愛は何も言わない。
ただ、その横顔は少しだけ厳しい。
文化祭まで、あと二日。
火は、もうすぐそばまで迫っている。
今なら、まだ間に合うかもしれない。
それでも――
莉帆は目を逸らした。




