詐欺師の恋
誰かが、死ぬのなんて。
慣れてる。
誰かが、居なくなるのなんて。
日常茶飯事だ。
父親だと思っていた人が、ひとり、消えれば。
また、違う人が、ひとり、来る。
それが変わると、また違う人が。
繰り返していたら、ずっと居た母親も、消えた。
俺に関わった、あの人も。
俺が帰らないまま、死んだ。
騙す人間も、次から次へと。
だから、慣れてる。
誰かがいなくなることも。
誰かが死ぬことも。
何かを、諦めることも。
そう、思ってた。
ルナに、燈真が不在だったあの日。
さっきまで隣に居たのに忽然と姿を消した、崇からの連絡を受けて。
面倒だと思いつつも、急いでルナを出たあの夜。
言われた通り、いつもの歩道橋まで足を走らせた俺の目に飛び込んで来たのは。
何故か、櫻田花音、で。
息を呑んだのも束の間。
視線が絡んだのも一瞬。
「花音!!!!」
彼女の身体が、ぐらりと傾いて。
間に合う筈はないのに。
身体が、飛ぶように動いた。
自分に科した罰も。
全部頭からとっぱらわれてしまって。
ほぼ、無意識に。
彼女の名前を呼んでしまった。
もう二度と呼ばないと心に決めていたのに。
背筋が冷やりとして。
嫌だ、と思った。
あんたが、居なくなるのだけは、嫌だって。
階段から転げるようにして落ちていく彼女までの距離が、無性に長く感じた。
中腹にある踊り場で、動かなくなった花音の傍に夢中で駆け上がり。
「はぁっはぁっ…」
乱れた呼吸もそのままにしゃがみこむけれど、一瞬、触れるのが躊躇らわれた。
だって、もし。
もし、息をしてなかったら?
確認するのが怖くて、身がすくんだ。
もし、あんたも、居なくなったら。
そう考えるだけで、目の前が真っ暗になりそうだった。
「花音…」
それでも、そんな考えをどうにか振り払い、震える声と手で、そっと触れると、彼女の頬は温かい。
意識はないようだが、口元からは、小さく呼吸しているのが感じられる。
「よかっ…」
安堵したのも束の間。
抱き起こそうとした彼女の額から鮮血が滴った。
それを見た瞬間、どうしようもない感情が暴れだす。
―嫌だ。
嫌だ、嫌だ。
最後の別れ際の彼女の姿が目に浮かぶ。
あんなに泣かせたまま。
あんたと離れたことが、今もまだ苦しくて仕方ないのに。
会いたくて、仕方なかったのに。
あんたも。
俺の前から居なくなるの?
俺だけを残して。
「大丈夫ですか!?」
はっと我に返って振り向くと、年配の女の人が、階段の途中の段から心配そうな顔をして俺を見上げていた。
「今、救急車呼びましたからねっ!!」
―そうか。
言われて、気付く。
―そんなことすら、思い浮かばないなんて。
花音の上半身を抱えたまま。
どこかぼんやりとした感情の中で、自分を罵った。
「ご家族か、お知り合いの方ですか?」
数十分後、救急車が到着すると、そんなことを訊ねられた気がするけど。
なんて答えたか、よく、覚えていない。
でも、サイレンの音を聞きながら、目を覚まさない花音の顔をじっと見つめていたのは、記憶にある。
「足を滑らしたのかしらねぇ?とにかく結構勢い良く落ちてました。」
途中から状況を見ていたらしいさっきの女の人が、花音が落ちていく様子を俺の代わりに説明してくれていたと思う。
「助かるんですか…?」
搬送先の病院が、決まった矢先。
俺は隊員に訊ねていた。
「うーん。特に大きな外傷はないように見えますが…意識が戻らない限りはなんとも。。。」
やがて、救急隊員に運ばれて行く彼女に付き添って、車内に乗り込んだ。
冷たく感じられる花音の手に、自分のそれを絡めて。
祈るような思いで。
願うような視線で。
目を閉じたまんまの、花音を見つめた。
病院、ていうのは。
いつ来ても、苦手だ。
誰も居ない廊下。
誰も居ない待合室。
薬品の、臭い。
あの人が、死んだ時も。
確認する為に、行ったな。
死に、慣れた場所。
何度、後悔しても、遅い。
もっと早く、会いに行けば良かったのに。
何度願っても、俺は立ち止まってしまう。
俺が会いに行く価値なんか、あるかと。
そうして、いつまで経っても、前に進めない。
夜中の病院で、昼間とは違う、静けさが支配した場所で。
待合室のベンチに座って、俺は一人、自分の手を、見つめた。
さっきまでの光景がフラッシュバックして。
情けない、と思った。
誰かが死ぬのに慣れてるなんて。
ずっと自分に言い聞かせてきた嘘だって。
認めたくなかったのに。
俺は、こんなにも、弱いのに。
だから、何も抱えず、一人で居たのに。
「終わりましたよ。」
どれくらい時間が過ぎたのか。
俺は呼ばれて。
ベットに寝かされている花音の傍に行った。
病室、ではなくて、処置室、みたいな部屋に、ぽつんと置かれた簡易ベットに、花音は眠っていて。
頭や身体に、包帯がぐるぐると巻かれて、傷だらけで、痛々しかった。
「額の傷も大したことなかったですし、あとは意識が回復するのを待って、詳しい検査は明日以降になります。ただ、身体はあちこち打ってるし、腰骨は見事に折れているので、暫く入院ですね。」
「…目、覚ますんですか。」
「え?」
淡々とした医者の口調も、横に立つ看護師の様子も、切迫した雰囲気はないし、説明内容も大事には至らないと言っているようだった。
けど、俺は、そのことだけがひっかかっていて。
目を、覚まさなかったら、どうしよう。
二度と、彼女の目が、開かなかったら?
もう一度、花音が世界を見るという保証の言葉が聞きたくて。
「意識、戻るんですか…?」
穏やかな顔をして眠る、花音の表情に視線を落としながら、もう一度、質問を口にする。
「…恐らく落ちる瞬間で気を失ったんだと思いますから…そろそろ、目を覚ますんじゃないですか。」
医者が安心させるように頷いて。
目を覚ますまで、傍に居てあげてください、と。
傍らで看護師がにこりと微笑んだ。
とりあえず今日は、と、個室に移された花音。
そろそろ夜明け、の時間。
誰も居なくなった病室で、俺は椅子に腰掛けて、その寝顔をじっと見つめた。
出逢ったばかりの頃は。
彼女に触れることは、簡単な事だった。
他の女と同じように、同等の価値で、同じ立ち位置で。
だけど。
手放したくないと思ってからは、触れるのが怖くなった。
大事過ぎて。
大切にしたくて。
いつか、居なくなってしまうから。
いつか、離れなくてはいけないから。
傷つけたく、なくて。
「…、ごめん。。」
結局は、傷つける羽目になった。
こんなに、なるまで。
いつも、謝るのは、眠っている時だけ。
どうせ、届かないと分かっていながら、俺は本当に狡い男だ。
やっぱり、俺はあんたに触れる価値なんか、ないんだよ。
あんたと離れてから。
あんた以外の誰かに触ることも、出来なくなるなんて。
俺自身、予想もしてなかったよ。
「…俺はさ、弱い男なんだよ。」
灯りを落とした部屋。
俺は小さく呟く。
「自分で思ってるよりずっと、、期待してた。」
あんたと離れることにした、あの決断も。
戻らないように、二度と戻れないように、引き返すことが出来ないくらい。
あんたのことを、傷つければ。
割り切って、過去の話だと捨てられると思ってた。
そうやって、今までずっと来てたから。
それで、大丈夫だったから。
今回だって。
きっと、忘れられると思ってたんだ。
諦めることが、できるって。
俺は今まで、それを上手にやってきた。
誰かに期待することなんて、一度もしたことなかった。
こうなればいいのに、なんて、未来予想図をたてることも、なかった。
俺の将来はいつも、灰色がかってた。
なのに。
「頭では分かってても…割り切ってても…記憶が…過去に期待するってことが、あんのな。」
身体が。
思い出が。
花音を消し去るのを、邪魔する。
目が勝手に、彼女を捜してしまう。
また、どこかで。
偶然でも。
街中でも。
いつかのように。
逢える筈だと。
だから。
「目の前で、あんたが、、居なくなると思ったら…それだけで息が止まるかと思った。」
そんな風に捜すことすらも、叶わなくなるのかと。
想う事も、出来なくなるのかって。
「はぁ…ほんと、、良かった…」
ここにきて、俺はやっと、安堵の溜め息を吐いた。
飽きる事無く、また記憶を更新し、焼き付けるために、彼女を見つめて。
そして、いつかのように、その頬に触れようかと手を伸ばし。
「!」
はっと息を呑んで、俺は伸ばしかけた手を引っ込めた。
ピクリ、と彼女の瞼が動いたのに気付いたからだ。
「…さよなら。」
最後に、聞こえないくらい微かな声を置いて。
音をたてないように、腰を上げ、静かに病室を出て行く。
目を覚ますまで、居てあげたかったけど。
最初から、そんなつもりはない。
もうすぐ意識が戻る。
花音が現在に居る。
それさえ、わかれば、俺はもういい。
「―行くか。」
外に出た瞬間、花音に向けていた柔らかな眼差しを仕舞い。
代わりにきつく空を睨んだ。
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「あれー、零、帰ってきたの?」
ルナの受付が、俺を見るなり驚いたような声を上げた。
「しかも、この時間に正面から、とか、珍し…」
完全に無視する俺に、異変を感じたのか、黙り込んで道を譲る。
「あっ、零だ…」
それに準ずるように、クラブに残っている客たちも同じような反応を示し、一斉にぞろぞろと道を空けていく。
まだ、賑やかな曲が流れる中。
カウンターに着くと、いつもと変わらない風景が、そこにある。
「おっ、零じゃん!どうだった?歩道橋…」
珍しく隅に座っていた崇も、俺の顔を見て、直ぐに口を噤んだ。
「あっ、きゃぁ!お帰りー!ちょっと聞いてよ、私…」
ガシャーーーーーン!!!
「きゃああっ!!!」
傍にあった空のスツールを蹴飛ばすと、駆け寄ろうとしていた葉月が悲鳴を上げる。
悪いけど。
そんなの、俺の目には映っていない。
俺の視線の先には。
「どーいうことだよっ!?」
途中から、姿を消した筈の男。
なのに今、涼しい顔してグラスにカクテルを注ぐ、燈真の姿があった。
「…何の事?」
俺と目を合わせることはせずに、燈真はしれっとした顔でカクテルを注ぎ続ける。
「お前、自分が何したのかわかってんの?」
苛立ちを隠すことなく問うと。
「んー?なんだっけなぁ。最近物忘れがひどくって…」
「っふざけんじゃねぇよ!」
我慢できずに、カウンターの上にあった瓶を一本手にとって、他の瓶を全部薙ぎ払った。
硝子同士がぶつかりあって、激しく割れる音が鳴り響く。
同時に、何人かの悲鳴もフロアに響いた。
中の液体がカウンターの上に散らばり、床に滴る。
燈真の注いでいたグラスに当たるように倒した瓶が、当然のようにそれをかち割った。
「ひえっ」
目の前に居た客も、慌てて飛び退いて、遠巻きに見ている人々に加わる。
それでも、微動だにしなかった燈真は、注いでいたシェイカーを元の位置に戻し。
「あの、馬鹿女の為に、そんなに怒れちゃうわけ。かっこ悪。」
やっと、俺を見た時には、笑んでいた。
「っ」
俺はカウンターを飛び越えて、燈真の胸倉に掴みかかり、殴り飛ばした。
ガシャガシャーン!!!!
仰向けに倒れた燈真に馬乗りになって。
「なんで、あいつにあんなことしたんだよっ!!!」
その首を持ち上げて、怒鳴った。
が。
「…、お前が、使いもんになんねぇからだ、よ!」
「!?」
燈真はまだへらへらと笑いながら、死んだような目で答え、手探りで散らばった破片を掴み、振り上げる。
「っつ」
咄嗟に避けたものの、頬に掠り、切れた感触がした。
「折角育てた俺の金づるが、あんなどうでもいい女に盗られてたまるかよ!」
そのまま燈真が俺に圧し掛かり、形勢がさっきと反転する。
「なぁ?お前勘違いしてない?」
燈真が俺の首を絞めながら、嘲笑う。
「お前は疫病神なんだよ。俺が拾ってやったから、今こうなれたの。」
「く…」
苦しさに顔を顰めながら、数時間前の光景が脳裏に浮かんだ。
花音の、背中を押した燈真を、俺はしっかりと見ていて。
その後反対方向に逃げたのも、知っていた。
花音のことが優先だったから、後を追わなかったけど。
なんで、今更燈真が花音に執着するのか、理由がわからなかった。
「まさか、あの女、助かった、とか言わないよね?」
燈真の顔が、一瞬曇る。
「!?」
「…マジかよ。ホントにしぶといな。」
燈真が、確実に命を狙ったのだと分かった瞬間。
憤りなんてもんじゃなく。
それ以上の感情が噴き出す。
「うっ!」
渾身の力を籠めて、燈真の体ごと蹴り飛ばすと、後ろに積み上げてあった炭酸水のストックにぶつかってさらに瓶が散らばった。
炭酸の泡が小さな爆発を起こし、ドクドクとタイルに染みこんでいく。
「あいつに何かあったら、許さない…」
倒れこんだままの体勢の燈真の胸倉を掴み、持ち上げて睨みつけると。
「…無駄だね。お前は…どうしたってそのまんまだよ。どんなに足掻いたって、普通の人間じゃないんだから」
切れた唇を舐め、燈真が搾り出すように囁く。
「愛される価値のない、人間なんだよ。愛し方も知らない癖に、どうやってあの女を守るんだよ?」
既に傷だらけな燈真は、痛みなど感じないかのように、また笑った。
「生まれてこなきゃ、良かった人間なのに。」
悪意のある、言葉は、俺の中で、いつも真実だった。
光だと信じてたものが、実は闇だったと知ったのは、もう、かなり前。
でも、引き返せない程、後のこと。
「なんでそんな簡単なこと、忘れちゃったのかな?お前の居場所は、ここ以外にないんだよ。俺はお前にそれだけのことをしてやったよ。あの女は?お前に何してくれたっていうの?」
見せかけの穏やかさはかなぐり捨てて。
「あの女と、お前とじゃ、住む世界が違うんだよ。あんな女にお前の何がわかる???俺の方がお前をわかってやれる。理解してる。」
燈真が畳み掛けるようにして俺に言い聞かせる。
「俺はこれからだって、お前に協力してやるよ。けど、あの女に関わるなら、お前は変わらなくちゃいけないだろ?でも変われるわけがない。お前の境遇は変えられない。な、考えなくても、どっちが正解か、わかるだろ?」
薄暗い部屋で。
いつか、差し出された契約。
あの時の自分は、他に何も持っていなくて。
世界にも嫌気が差してて。
放り出された履歴書、みたいに。
自分の居場所なんて、そんなものなんだって。
小さい頃、母親に空気のように扱われたみたいに。
どこに行ったって、自分の居場所なんか、ないんだって。
そう、思ってたし、信じてた。
燈真の言う通りにして、沢山の人間を騙しても。
どれも皆上辺だけの俺しか、好きじゃない。
俺も、誰も好きじゃない。
好きになんか、ならない。
あの時の母親も、そうだった。
手に入りそうで、入らないものを追いかけて、結局そのまま消えることになって。
俺も、そう。
蜃気楼みたいなもんで。
生きてるように見えるけど、死んでる。
手に入りそうで、入らない。
俺の色は、生まれた時から決まってる。
それは変わらない。
だから、俺が辿る結末も、良いもんじゃない。
誰かに愛されたい、なんて、願うことだって、生まれた時から許されなかったんだ。
言葉をかけてもらうことすらも。
なのに。
「…あいつは…」
燈真を持ちあげる手に更に力を籠めて、視線をぐっと近づけた。
目に涙をいっぱい溜めて、懸命に言葉を紡ぐ、花音の姿がチラついた。
―あの鳥の色は、そのままで良いんです。
「自分が何かした、なんて、思ってすらいないよ。」
「だろ??だから―」
「けど、俺は救われてた。」
理解してくれたのかと勘違いした燈真の言葉の続きを、言わせなかった。
「…んだよ、それ。あんな女どこにだっているだろ!?」
俺の中で―。
物事は、いつもgive and takeで成り立っている。
してあげた分、返してもらう。
返された分、してあげる。
無償のものなんて、どこにも、何一つ、なかった。
でも。
花音は、違ってた。
俺はあんたに、何もしてやれてないのに。
突き放しても。
本当の俺を知っても。
花音は、いつも。
与え続けてくれた。
それが、俺を何度も救ってくれたなんて。
あんたは―。
「燈真には、わからないだろうね…けど、今度あいつに近づいたら、」
言いながら、燈真をきつい目で睨み据えた。
「お前の全てを潰すから。」
―気付いてないだろうけど。
そのまま、燈真から手を放すが、燈真は動かない。
「―俺はもう二度と、ここには戻らない。」
俺は立ち上がって、親指で頬の血を拭い、契約終了を告げる。
それは、燈真に二度と会わないということと、ルナへの別れを意味していたから。
暫く誰も何も言わず。
俺は、悄然として俯く燈真に、ゆっくりと背を向けた。
「―あの女んトコにいくわけ?」
ふいに、じっと床を見つめていた筈の燈真が、忌々しげに声を掛ける。
「……いや。」
俺は振り返らないまま、首を振った。
歩き出せば、パキン、とガラスの砕ける音が、いやに大きく響いた。
そのままの俺でいいと。
花音は言ってくれたけど。
俺はやっぱり。
臆病過ぎて。
あんたに笑ってて欲しい、と願いはしても。
幸せに、なんて、できそうにないから。
そんな自信、ないから。
近づけば。
今回みたいに、傷つけてしまうのが、怖いから。
今更、出て行って、どうにかしようなんて、思わない。
ルナを出て行くまで。
誰も、俺に話しかける事無く。
俺も、誰のことも見なかった。
静かな、静かな道。
そこらじゅうに散らばっている、キラキラ光るモノ。
それを見つめ。
歩きながら。
ただ。
ずっと前に、初めてここに足を踏み入れた時のことを、なんとなく思い返していた。
いつしか家のようになっていたこの場所で。
どれくらいの年月を過ごしただろう。
あの時と同じように、俺は何も持たずに。
来た時と同じように、出て行く。
これから何処へ行くとも決まってない。
けど、ここには居られない。
長く居過ぎた場所。
俺と居ると、燈真も。
―あいつにも、良くないから。
「疫病神、か―」
ルナの外に出た瞬間、俺を出迎えた大きな月を見て、笑った。
少し掠っただけの、頬の切り傷が、やたら痛く感じるのは、気のせいか。
=========================
髪の色を。
「櫻田さん??」
黒く染めたのは。
「はい…怪我の具合、どうですか。」
昨夜、付き添ったのが、俺だと一致しないように。
花音に、わからないように。
「安心してください。怪我はひどいですけど、意識もしっかりしてますし、治療すれば良くなりますよ。大部屋に移動になりましたから、そこから上がって、顔見に行かれたらいかがですか?」
ナースステーションで、年配の看護師を呼び止めて尋ねると、親切に勧めてくれたが俺は首を横に振った。
「いや…時間がないので。これだけ、、渡してもらえませんか?」
花屋で見つけた、彼女にそっくりの花は。
懺悔のつもりか、と訊かれれば、そうなのかもしれないと答えるだろう。
容態を聞く口実か、と訊かれても。
同じように、そうかもしれないと言うだろう。
でも本当は、ただ、勝手に足が向いた。
そうしたい、と思った。
それが、正解だ。
人目を避けるようにして、裏口から出た所で、停めておいた車に寄りかかっている人物を発見。
「…お前、なんでいんの。」
若干驚いていたが、不機嫌さを装って訊ねると。
「ライター忘れちゃったんだよねぇ……というわけで、火、貸してくんねぇ?」
崇がにやりと笑っていつかの台詞を吐いた。
「……吸えない癖に。」
「…バレてたか」
馬鹿にしたように笑う俺に崇が素直に頷く。
「カノンちゃん、、大丈夫なの?」
情報屋の崇のことだ。
昨晩の出来事といい、俺の暴れた原因を、全て知り尽くしているようだった。
「………大丈夫っぽい」
「会いに行けばいいのに。」
曖昧な答えに、崇が呆れたように呟いた。
「藤代、だっけ。あいつのことにも、燈真が絡んでたんだぜ。何言われたかしんねぇけどさ、もう、いいんじゃないの?」
ジャケットのポケットに手を突っ込み、目を伏せて無言でいる俺に、なおも崇が促す。
春らしい穏やかな日差しが、辺りを暖かく照らす。
それが、俺にとっては、眩しい。
「カノンちゃんはさ、昨日、空生と話したいって言ってたよ。それで、お前に会いに行ったんだ。」
「―え?」
崇の不可解な電話の意味を、俺は知らず。
色々あって、訊く余裕もなかったから。
初めて聞く話に、思わず顔を上げた。
「日本語、わかるよねぇ?カノンちゃんは、お前をまだ信じてるんだぜ?」
「・・・」
昨晩、ほんの僅か、絡んだ花音の目は、どこか必死で。
「…無理だよ。」
それを振り払うかのように、俺は頭を振って、運転席のドアに手を掛けた。
「じゃ、なんで、ここに来るわけ。」
崇が苛立った様子で、試すように俺を見た。
俺は仕方なく小さく溜め息を吐き、崇の目を見返す。
「……数が、揃うまで。」
「―は?」
目を点にした崇を押しのけ、車に乗り込む。
「え、ちょっと!待てって!まだ話終わってねぇって!」
慌てて窓をバンバンと叩く崇に構わず発車させると。
「おわっ、まじ、あぶねぇっ。しんじらんねぇっー!!!」
わぁわぁと騒ぐ崇の雄叫びが聞こえて、小さく笑った。
―花を届けるようになって、7日目。
「あら。こんにちは。櫻田さんに?はいはい、ちゃんと届けますね。」
最初の頃は、名前を聞き出そうとしたり、会ったらいいのにとしきりに勧めてみたりして、お節介を焼いた看護師達も、俺の顔に馴染んできたらしい。
御礼を伝え、回れ右をすると、俺は裏口に向かった。
時間帯をばらばらにしているのも、間違っても花音と鉢合せにならない為だ。
同じ時間だと、送り主に疑問を感じた花音に待ち伏せされる可能性も、なくはない。
外に出ると、陽が傾き始めていた。
嫌だな、と思う。
その下を歩くのが、苦痛だ。
光があるから、人はモノを見ることができる。
光があるから、色が変わる。
そんな陽の光は、俺にとって、眩しい。
あの人も、花音も。
俺には眩し過ぎて、並んだら消えてしまいそうだ。
自分が見てきたものが、本当の色じゃないと知るのが、怖い。
もしくは。
黒で塗りつぶしてしまいそうで、怖い。
―早く、帰ろう。
そう、思いながら、足を速めた瞬間だった。
「空生っっ!!!!」
俺の名前を呼ぶ、声に。
全身が、固まった。
俺の思考が、止まる。
なんで。
という文字だけが、頭を支配する。
どうして、わかるんだろう。
「お花っ!!ありがとう!!!!!あのっ、、、、」
後ろ姿、だけで。
「あのっ、私、やっぱりっ!!」
あれだけ間近で俺を見た看護師だって、見破れないのに。
毎日見てたって、気付かないのに。
人違いかも、しれないのに。
なんで、そんな確信を籠めて。
「どうしようもなく貴方が好きですっ!!!」
俺だって、わかるんだろう。
「貴方がこないだ私に言ったことは、信じませんから!!!!」
今まで誰も。
「私は【空生】が言った事を信じてますっ!!!」
『俺』を見つけてくれる人なんか、居なかったのに。
「私、期待していいですかっ!?貴方がまだ、私のことを好きになる可能性があるって、思ってていいですかっ!?」
そんな真っ直ぐに。
「待ってても、良いですか?!」
俺なんかを見ないで。
胸が焼け焦げてしまいそうに、苦しくなるから。
顔を顰めて、動こうとしない足を叱り、一歩踏み出すと。
「ま、待って!まだっ、まだっ、あるんですっ!!伝えたいことが!!!」
慌てたような声が、降ってくる。
顔なんか、見えなくても。
あんたが見える。
きっと、頬を朱く染めているだろう。
「傍に居る時よりも!空生が居ない方が、私にはよっぽど苦しいってことをっ!!知っててください!!!」
「あと!!!!お養父さんからの伝言預かりました!!!」
『私が』
『君に逢って』
『幸せだったのと同じように』
『君が幸せであるようにと、いつも願ってる』
「っつ…」
勘弁してくれよ。
なんだよ、それ。
キラキラ光るあんたらが。
なんで、俺なんかにそんなこと言うんだよ。
あんたと俺とじゃ、住む世界が違うのに。
幸せ、なんて言葉は。
俺の中にないのに。
まるで、俺が。
生きてる意味があるみたいに。
存在価値が、あるみたいに。
「私は貴方にこれ以上傷付いて欲しくないっ!!!!」
花音の震える声が、枯れてくる。
お願いだから。
俺なんかの為に泣かないで。
俺はいくら傷付いてもいいから。
あんたさえ、笑っていてくれれば。
もう、あんたの泣き顔は見たくないんだよ。
「―あーあ、バレたらもう来れないな…」
ただただ、地面に落ちる自分の影を見つめ。
一人言ちた。
渡したバラの数は、14本。
あと6日すれば、26本揃ったのに。
「やっぱ、柄じゃないことは、するもんじゃない」
いつか聞いた、彼女の生まれた日。
その日まで、通ったら。
それで、さよなら。
そのつもりだったのに。
頭の中が、こんがらがっていて。
花音が言った言葉に、動揺が隠せない。
「泣きそうな面、してんじゃねぇよ。」
病院の裏門を出ると、崇が気怠い顔をしながら、また車に寄っかかっていた。
「…なんで、お前、いんだよ。」
顔を背けて、内心うんざりした。
正直今崇の相手をする心の状況じゃない。
「どーすんの、カノンちゃんにあんなこと言わせて。」
鈍感な崇は容赦なく直球。
「聞いてたのかよ。悪趣味だな。」
「ばっ、ちげーよ!あれだけでかい声で叫んでれば、大体の人間は聞こえてるわ!」
話題を逸らせば、いつも通りの崇が垣間見れる。
「俺、お前とはダチだと思ってるから。」
直ぐにコホン、とワザとらしく咳払いすると、崇は真剣な顔に戻った。
「空生が後悔しないように、最後の忠告。俺ならではのとっておき情報。」
「はいはい」
気のない返事をして、車に乗り込もうと、俺は崇の脇を通り抜ける。
西日が、眩しくて、思わず目を細めた。
「カノンちゃん、結婚しちゃうらしいよ?」
「――――」
ドアに掛けた手が、止まった。
「なんでも、カノンちゃんのおばあちゃんってのが、相当な金持ちらしくてね?結婚相手を勝手に決めて、無理矢理お見合いさせるみたいだぜ。」
青い香りを連れて、吹く風。
それ以外は、全て静止したように、感じた。
呆然としている俺に、崇が首を傾げて見せる。
「空生は、それでいいわけ?」
いつも。
絡みつくしがらみや、障壁を臆することなく飛び越えてきてしまう、アルバトロス。
それは、まだ近くにいるのか、それとも遠くなったのか。
この手は、まだ、届くのか。
欲しいものを、欲しいと。
言って良いよなんて。
誰も教えてくれなかった。
当たり前のようにあるものなんて、何一つ無かった。
愛し、愛されることの意味すらも。
知らないから、それで良いと思ってた。
そのことに、自分が、憧れに近い想いを抱いていることすら、気付かなかった。
いや、それすらも、許されないと感じてた。
そんな俺に。
人は愛されたいと願う生き物なんだと。
それは、当たり前のことなんだよと。
教えてくれたヒトは、たった一人。
そのままの俺で。
そのままの俺が。
良いんだよと教えてくれたヒトも、一人。
夜明けの時間の、息の仕方も。
解けないままでいたあの人との結び目を、緩めてくれたのも。
俺が、欲しいと想うのも。
たった、ひとりだけ。




