返しそびれた鍵の行方
4月になると、寒かった冬は影を潜め、春らしい陽射しが通りを照らすようになった。
日も大分長くなったけれど、夜になればまだ肌寒い。
「ただいまぁ…」
誰も居ないとわかっていながら、玄関先でなんとなく呟いた言葉がやけに虚しい。
廊下を通って居間に辿り着けば、必ず目に入る写真立て。
未練がましいのは百も承知だけれど、そこには今もいつかの写真が飾られたままだ。
そして、その前にあるのが。
「私…持ってて良いのかな…」
使われることも、持ち主の元に戻ることも出来なくなった、鍵。
何のキーホルダーも、付いていない、裸のままの、鍵。
中堀さんからもらったまま、私の手元に残っている。
返して欲しいとも、言われなかったし、どこに返しに行けば良いのかもわからない。
毎日仕事から帰ってきては、コートも脱がないまま、暫くじっと、この鍵と睨めっこするのが、私の日課になっていた。
そうして、ぼんやりとした時を過ごす。
もう無くなってしまったことを、認めたくなくて。
メリッサと会ってから、藤代くんに事実を確認したいと願いながらも、何故だかすれ違いが多く、2人で話す機会に恵まれない。
よく思い返してみれば、タカと会ったあの夜の次の日も、藤代くんはよそよそしかった。
藤代くんは何かを隠していると思うんだけれど、それが何で、そうすることによってどんなメリットがあるというのか。
そんなことを考えている間に、なんと藤代くんが部署を異動になった。
何でも新しいプロジェクトの立ち上げメンバーの一人だそうで、大抜擢らしい。
「どうして…時間は加速するんだろう…」
漸く写真と鍵から目を外し、コートのボタンを外しながら、私は呟く。
子供の頃は時間の流れが遅くて仕方なかった。
大人になった今は、時間だけが飛ぶように流れていって、自分の心だけ置いてけぼりになっているような気分だ。
中堀さんのこと、藤代くんのこと、実家の問題。
色々考えなくてはいけないことは沢山あるというのに、そのどれにも手を付けることのできないまま、気付けば4月になってしまった。
だからといって、仕事を休んだりしたら、生活できなくなってしまう。
~♪
ルームウェアに着替えて、お湯を沸かしていると、携帯が鳴り出した。
「げ…」
慌てて表示を確認すると、実家の電話番号が表示されている。
嫌な予感しか、しない。
「………もしもし。」
迷った挙句、出ることにした。
《何!あんた、その嫌そうな声!》
同時に、母の大きな声が、私の鼓膜を突き破りそうな勢いで届く。
「別に…何か、用事??」
携帯を耳に当てながら、椅子に座った。
《用事も用事、大用事よ!あとはあんただけになったからね!!!》
―え?
余りに唐突過ぎる母の説明不足な台詞に頭が真っ白になる。
「どういうこと?」
無意識に眉間に皺を寄せながら訊くと。
《結婚相手に決まってるでしょう!お姉ちゃんもお兄ちゃんも連れてきておばあちゃんからOKもらってるわ。残るはあんただけ!よ。おばあちゃんなんか、花音にはそんな相手居ないだろうって決め付けてて、お見合い相手探しに写真を片っ端から見てるらしいわよ!》
早口で捲し立てる母と、驚きで口が利けない私。
「いい……いやいや、ちょ、ちょっと待って。6月までに連れて行けば良いって話だったよね??」
声を引っ繰り返しながらなんとか確認するけれど。
《まぁ、半年って事になってたけどね、あんた今月26になるじゃない。どうせ一緒に過ごす相手も居ないんでしょ???その時におばあちゃんの所行ってきたら?良い相手紹介してくれるかもしれないわよ!》
世界最強の母の耳には入っていないらしく、自分のマシンガントークを繰り広げている。
「そ、そんなの、わかんないでしょ…期間短くするの、やめてよ」
しどろもどろになりながら、なんとか反対の意を伝えても。
《じゃー、とにかく用はそれだけだから!できるだけ早くしなさいねっ!じゃないとおばあちゃんうるさいから!よろしくね!》
相変わらず、突然切れる通話。
「…どうしたらいいの…」
途方に暮れて一人言ちた瞬間、沸騰したお湯が、ケトルから吹き零れた。
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翌日のランチタイム。
「ご注文をお伺い致します。」
最近流行りの雑穀米などを使用した健康志向の飲食店で、店のロゴが入ったエプロンを着た店員が、私達のテーブルの前に立つ。
女子に人気のあるこの店は、なるほどOLで混雑していた。
「私、日替わりの鶏唐ピリカラソースセット。小鉢はサラダで。」
向かいに座った憲子が、がっつり系を注文。
「えっと、じゃ、、私は梅とろろ昆布うどん、、単品でお願いします。」
「かしこまりました。」
店員ははきはきとした声で、注文内容を繰り返すと、奥へ引っ込んだ。
その後ろ姿を目で追う事無く、憲子が私の異変を指摘する。
「花音がうどんとか、珍しくない?どっか具合悪いの?」
「…胃の調子が、ちょっと、、ね。」
私は苦笑いで返し、それより、と憲子にしっかりと向き直る。
そして、左手の薬指を指差した。
そこには、小ぶりで上品なダイヤがくっついている。
「裕ちゃんとの話し合い、上手くいって、良かったね。」
そう言うと、憲子は照れたようにえへへと笑った。
私が藤代くんとご飯を食べて、その後タカの説教を食らった夜。
憲子は裕ちゃんと、とことん話し合ったらしい。
憲子自身は、別れることも勿論頭にあったようで。
「花音にもよく言うけどさ。駄目なら駄目でさっさと次行かないと!っていうような焦る気持ちはいつもあったんだよね。」
それでも、踏み切れない自分も居たという。
「色んなところ、全部ひっくるめてやっぱり好きだからさ。この際だから、言いたいこと全部言って、すっきりして別れれば良いかなって。」
苛々や焦燥感、相手に求めること、自分がしたいこと、今思ってること、将来のこと。
この憲子が感極まって泣いたというんだから、相当追い込まれていたに違いなかった。
そうやって全部ぶちまけたら。
何一つ口を挟まずに、全てを聞いた裕ちゃんは、憲子のことをぎゅーっと抱き締めて。
『俺は、俺が、憲子を幸せにしたいよ』
と呟いたと言う。
何度思い返しても、痺れる台詞。
「裕ちゃん、惚れるわ…」
それで、そのままプロポーズされて婚約とか。
色々羨ましすぎるんですけど。
「結局、裕ちゃんはちゃんと考えてたんじゃん。」
私はぶすくれながら、空色の湯呑みに入っている玄米茶を啜った。
「…まぁ、ね…」
憲子はそんな私を見て、物憂げな表情になる。
「で、、花音は…?」
憲子は私に気を遣って、最近私が問い質すまで裕ちゃんとのことを話さなかったばかりか、指輪すら会社には外してきていて、それを知った私は申し訳ないやら情けないやらで、落ち込んだけれど。
「婚約者募集中…」
自分で言ってて、やっぱり哀れで仕方ない。
「藤代も異動になっちゃったしねぇ。忙しそうだし。。代役にするのも嫌なんでしょ?」
私は憲子の言葉にこくりと頷いた。
「お待たせ致しました。」
そこへ、先ほどの店員が、注文した料理を運んできたので、一旦会話が途切れる。
憲子の健康的な、というか、彩り豊かなプレートに比べ、私の所へ運ばれてきた透明なスープとか、何かがすごく乏しい感じがする。
それは、今の自分たちを表わしているようだなと、珍しく内心で皮肉った。
「ごゆっくりどうぞ。」
店員がお辞儀をして背を向けると、憲子が再び口を開く。
「じゃー…さ…お見合い、してみたら?」
藤代くんの気持ちを、振り回すことはしたくなかった。
だから、婚約者を演じてくれ、なんて、冗談でも言えなかったし、実家からそういう話が来ていることも、伝えていない。
「お見合い、かぁ…」
憲子が箸を取ったのを見て、私もそれに倣う。
時間はとっくに、中堀さんと一緒に居た短い期間を追い越して、一緒に居なかった時間の方が多くなってしまった。
時の流れが、駄々をこねる子供の心を萎えさせるのと同じように。
私の中でも、手に入らないどころか、何処にいるのかもわからない人に焦がれる想いを、封印しなければならないという感情が半分位動き始めていた。
あとの半分は、自棄になっていた。
もう、どうにでもなれ、的な。
「どうせ、、誕生日に行って来いって言われてるから…おばあちゃんの所、行ってこようかな。」
どうせ、好きな人と一緒になれないんだったら、なんでもいいか、と。
「…良いと思うよ。月並みな言葉だけど、もっと良い人が見つかるかもしれないし。」
憲子はいただきます、と呟き、鶏唐にかかるソースを箸で広げた。
今は敢えて、顔を合わせない。
憲子のそんな優しさは、ちゃんと私に伝わる。
「…うん、ありがと。」
でも、その言葉を受け容れることは、心が拒否してしまう。
―あんなに好きな人には、きっともう二度と逢えない。
それは、私の中で確信に近い程強く感じている。
あの人が帰ってきてくれるなら、何年でも待っていられると思う。
だけど、もう。
どんなに待ったって、あの人はここには来ない。
そして、自分も。
いつか、王子様が迎えに来てくれるなんて、夢を見られる程。
子供じゃなくなってしまった。
現実が、いつも不条理の上に成り立っていることなんて、とっくに気付いている。
自分の思い通りに運ぶことなんて、滅多にない。
ましてや、他人の心となれば、尚更だ。
頭では理解できていても。
ココロが痛い。
ひりひりと、痛い。
いつかはかさぶたになって、治るのだろうか。
その為には、辛くても前に踏み出さないといけない。
「おばあちゃんの選ぶ人ってどんなんだろう。」
ふと、口にした疑問に。
「どんな人が良い?」
憲子が理想を訊ねた。
「んー…そうだなぁ…」
考えるフリをすれば、心が寄り添って離れようとしない、たったひとりの人物の面影が頭をちらつく。
「…優しい、人が良いなぁ…」
それを振り払って、なんとか答えて。
憲子の返事を待たずに、伸び始めたうどんを啜った。
けど。
あの人だって、十分過ぎる程、本当は優しいことを、私は知っている。
それを、多分誰よりも、間近で見てしまったから。
何度振り払っても、結局はあの人に行き着いてしまう。
堂々巡りだ。
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「うわ、とと…」
会社を出て直ぐに、春風が強めに駆け抜けたせいで、私の首に巻いていたストールが解かれる。
必死で掴もうとしたが、結局飛ばされ、街路樹の幹に引っかかった。
「あー、ツイてない」
走る気はとっくにないので、私は溜め息と共にとぼとぼと街路樹まで歩く。
「?」
そこへスーツの足が登場し、かがんだかと思うと、ストールを拾った。
「あ…」
誰かと思い、視線を上にあげると、飯山が立ってこちらを見ていた。
ぞくりと鳥肌が立ったのを感じる。
「コンバンワ。中堀とは相変わらず上手く行ってんの?それとも藤代に完璧に乗り換えた?」
飯山は手にしたストールを手首に巻きつけ、にやにやと笑った。
その向こうには、おぼろ月が光を放っている。
春風にしては生温い風が、気味悪い。
私はごくりと生唾を飲み込んだ。
「…拾ってくださって、ありがとうございます。」
飯山の問いには応えず、差し出されたストールを受け取ろうと手を伸ばす。
が。
「っ?!」
「まぁ、待てって。」
引っ込められたストールに、思わず眉間に皺を寄せると、飯山が宥めるような口調で、空いている片手を挙げて見せた。
会社帰りの人間が、ちらほらと行き交う中、私達は暫くお互い見つめ合う。
入社当時、飯山の事は、面倒見の良い、お調子者の先輩としか映らなかった。
けれど実際は、結構な遊び人で、悪い噂もなくもない。
というのは、大半は、風の噂くらいなもので、事実と結びつく話はどうしてか無かったからだ。
怪しいのはわかっていた。
気をつけなさい、との言葉もあった。
それでも、そのままの関係に甘んじたのは、私がただ単に寂しかったからだった。後も先も考えていなかった。
飯山自体も、同類の人間だった。
どうして離れたかと訊かれれば。
ただ、何もかもが、致命的に合わなかったと答えるしかない。
飯山は、人をモノとしか思わないこともしばしば。
関係を持つ女は不特定多数。
だから、飯山と付き合っていたのは、ほんの一週間、とか。
その程度だったんじゃないだろうか。
付き合う、付き合わないという言葉自体、そもそも無かった。
自然消滅に近い。
なのに、顔を合わせば、飯山はやたらかまって来るのだ。
安い女として。
「なぞなぞ、しよーぜ。」
飯山の目は、いつだって、死んだような瞳をしていた。
見ているようで、何も映っていないかのような。
「―え?」
不可解な飯山の誘いに、眉間の皺はそのままに、訊き返す。
幼稚園児じゃあるまいし、ここでなぞなぞって。
動揺する私を余所に、飯山は片手をポケットに突っ込むと、更に口角を上げた。
「櫻田の新しい男の噂話を、再加熱するように仕向けた人間は、誰でしょーか?」
「はぁ???何を言うかと思えば…」
私は、呆れたように呟いて、飯山を睨め付けた。
「貴方以外に誰が居るんですか。」
が、飯山との目線が交わらない。
飯山は、私ではなく、私の背後の方を見ているようで。
「……櫻田。お前、男見る目、ないってこと、そろそろ自覚した方が良いぜ。」
そう言うと、すっと近づいたので、私は思わずびくりと身を引く。
「んな、警戒すんなって。何もしねーよ。」
飯山は面倒そうに両手を上げて、手にしていたストールを私の首に巻きつけた。
「な?藤代。」
「え?」
同意を求めるように、落とされた名前に。
私は思わず首を捻って、飯山の視線を追った。
「藤代くん…」
グレイのトレンチコートのポケットに、手を突っ込みながら、いつの間にか藤代くんは私の少し後ろに来ていて。
飯山を見る険しい表情に、妙な胸騒ぎを覚える。
「おー、コワ。…今日は、もう行くわ。じゃーな、櫻田。」
私の傍で、飯山はそう言い残して、会社に戻っていく。
すれ違い様に藤代くんに何か呟いたようだけど、間が空いているから、聞こえなかった。
「・・・・」
飯山が立ち去って、藤代くんは再び私を見るが、私は居たたまれないような気になる。
心臓が嫌な音を立てている。
正直、飯山の言動のせいで、自分の中に良くない考えが起ころうとしている。
そうじゃなくても、私は藤代くんに確かめなければならないことがあった。
―でも、まさか。
何も言葉を発せずにいると、藤代くんがゆっくりと距離を縮め始めた。
私はそんな藤代くんの顔を見ることが出来ず、代わりに視界には藤代くんの足と道路が映っている。
「…久しぶり。」
掛けられた声に、上目遣いに藤代くんを見上げると、彼は小さく笑んでいた。
疲れているかのような表情に、緊張が少しだけ解れる。
「忙しいの?」
「…まぁね。」
でも、と続けながら、藤代くんは私をじっと見る。
「櫻田に中々会えないのが、一番キツイ、かな。」
どこから吹いてきたのか、桜の花びらが、ひらりと2人の間を割って入った。
「……それも、嘘?」
気付けば、そんな言葉が口を衝いて出ていた。
見つめた先の藤代くんの瞳が、微かに揺らいだように見える。
「何が?飯山先輩に何か言われたの?」
「―私が熱を出したあの日、本当は中堀さんと会ったんでしょう?」
私は小さく深呼吸して、被せるようにそう言うと、藤代くんをじっと見つめた。
藤代くんは答えない。
「ずっと、おかしいと思ってたの。…藤代くん、いつだったか私に言ったよね。」
私の頭の中には、藤代くんが私の事を好きだと言った、あの夜が浮かんでいる。
―『中堀、、、さんって…』
―『自分から、櫻田の兄だって言ってなかった?』
「なんで、それを、藤代くんが知ってるんだろうって。」
私の記憶が正しければ、中堀さんから直接それを言われたのは、社内で2人だけの筈だった。
噂では、私が保身の為に、中堀さんを兄だと言って、嘘を吐いた説が有力になっていた。
中堀さんから直接言われた椿井は、噂などに左右されずに、今でも中堀さんは私の兄だと信じている。
泉川は疑ってはいるが、コレと言った証拠は持って居そうにないし、何より藤代くんとの接触はほとんどない。
じゃ、どうして。どのルートで、藤代くんはそれを知ったのか。
その疑問はうやむやになったまま。
噂の出所は、ずっと飯山だと決めてかかっていたから。
今の今まで、わからなかった。
気付かなかった。
中堀さんが面と向かって、兄だと言い張った人物が、もう一人、居たことに。
「宏章から、、聞いたの?」
元彼の佐久間宏章は、私を利用して捨てた後に、復縁を迫った。
けれど、それを拒んだ時、ちょうど居合わせた中堀さんが、彼を蹴飛ばしたのだ。
その時に、私のことを『妹』と呼んだ。
それから後になって、もう一度迫った宏章に、私はきっぱり断った。
彼が快く思わなかったのは、想像に難くない。
そして、宏章は飯山と交友関係があり、藤代や私にとっては、先輩だ。
「だから、知ってたの?」
つまり、藤代くんも、飯山や宏章とグルだったということになる。
さっきの飯山から聞いたなぞなぞの答えがもしも、藤代くんを指すのだとしたら。
「何が、目的だったの?」
答えようとしない藤代くんに、私は言葉を重ねていく。
目頭が熱くなったからといって、悲しい、わけじゃない。
好きになってもらえて、嬉しい、とか浮かれてたつもりもない。
ただ、真っ直ぐな藤代くんの気持ちに、嘘はないと思っていた。
だから、私も真剣に考えて、利用するような真似はしたくないと心に決めていた。
なのに。
「…私が、遊んでる女だって、後ろ指さされるのが…見てて楽しかったの?」
「それはっ、違う…」
「じゃ、なんで?」
反射的に返された否定の言葉に、私の口調は必然的に荒くなった。
だって、『それは』と言ったという事は、それ以外を認めたということだから。
道を行き交う人々が、ちらちらと振り返ったかもしれないけど、気にする余裕は残されてない。
「藤代くんは、なんで私に近づいたの?なんで噂を広めたの?」
散々色んな男に振り回されてきた。
所詮自分にはそんな価値しかないのだ、と思い知らされてきた。
利用されるだけ、される。
終わったら、さよなら。
それが、今までの私の生き方だった。
藤代くんは、私のことをそうじゃないって言ってくれたのに。
「…結局は、藤代くんも私のこと、そういう軽い女だって、陰で笑ってたってことでしょ。」
口を噤んでしまう藤代くんを、責めるような目で見つめた。
「でも、だからって、中堀さんに会ったことを言わないのはやりすぎじゃない?それとこれとは別問題でしょ?」
あの時、中堀さんが家まで来た事がわかっていたなら、何か変わっていたんじゃないかと。
色々感情的になってしまって、涙が溢れるのも時間の問題な気がしてきた。
「…そうじゃ、ないんだ…」
「何が?」
精一杯気丈に見せようとする私の刺すような問い返しに、藤代くんは身体から力を抜くように、息を吐く。
「…逆だよ。」
やがてぽつり、落とされた声に、私のぐちゃぐちゃな思考は理解を示せない。
「どういうこと?」
一瞬だけ、目を逸らし、伏し目がちに足元を見てから、藤代くんは私に視線を戻した。
「櫻田を陥れたかったんじゃなくて、中堀を陥れたくてやったんだ。」
「-っ?!」
声が、出なかった。
藤代くんが、さっき飯山を見ていた時と同じ表情なこと。
中堀さんのことを、呼び捨てにしたこと。
何か、知っているような物言い。
嫌な胸騒ぎが、近づいてくるようで。
「櫻田から、あの男を引き剥がしてやりたかったんだ。」
藤代くんの口調には、憎しみが宿っているように聞こえる。
「…それって…?」
今度きょとんとするのは、私の番だ。
そのせいで、私からはさっきの毒気がすっかり消えてしまった。
中々止まない春風が、再びざぁっと吹いて、私の髪を揺らし、藤代くんのコートを揺らす。
植え込みの傍に立つ電灯が、ちらちらと途切れた。
「あいつから、大切なもんを奪ってやりたかった。」
ああ、どうしよう。
頭が混乱してきた。
変な汗が、背中を伝う。
「何を、、言ってるの…?」
唇が、乾く。
「詐欺師に、幸せになる資格はない。」
きっぱりと言い切った藤代くんとは反対に、私は眩暈を覚えた。
間違いない。
藤代くんは、中堀さんの、正体を知っている。
「俺は、あいつの羽をもいだんだ。」
晴れ晴れした声色と相反して、藤代くんの表情は傷ついているように見えた。
私はそんな藤代くんを前に、何故だか返せないままの鍵のことを思った。
あの鍵が。
知らなくても良い事実の扉さえも、開けてしまったような。
そんな不思議な感覚に、陥っていた。




