残らない痕跡
日曜日。
金曜とは打って変わって、春らしい木漏れ日が暖かい。
「誰か、、いるかな…」
昼間のル・ルヴェ・デュ・ジュールを目の前にして、私は一人、呟いた。
裏口の駐車場はがらんとしていて、車は一台も停まっていなかった。
―もしかしたら、誰も居ないかもしれない。
それがわかっていながら、夜に訪ねる勇気はなかった。
まだ、中堀さんに会うのは、怖い。
けれど、タカから話を聞いて、居ても立っても居られなくなり、様々な葛藤をしつつも、気付けばここまで来てしまっていた。
別れ際の記憶は、まだ昨日のことのように私に刻み込まれていて、気付かないふりをしていても、胸がチクリと痛む。
―どうして来ちゃったのかな。
来た所で、自分が何をしたいのかもわからないのに。
「裏口は、インターホンみたいのとか、ないのかな。」
正面もとりあえず回ってみたが、開いている気配はなかった。
けれど、裏口はあの日を思い返すには十分で、私はドアノブを見つめたまま、自分の顔が強張るのがわかる。
会いたい、と思いながら。
行かなくては、と思いながら。
自分が傷つくのを恐れて、一歩踏み出せないで居た。
ぷっつりと途絶えた関係は、修復可能なのかどうか、わからなかった。
だけど、雪が降れば。
藤代くんと居ようが、誰と居ようが。
やっぱり貴方に会いたいと思う。
会って、問いかけたいと思う。
あの時、訊けなかった、『どうして?』を。
あの、日。
この、ドアを開けた場所から。
中堀さんの目に、私はどんな風に映っていたのかな。
何を思っていたのかな。
中堀さんの言葉を、『やっぱりか』と受け止めた自分は、間違っていたのかな。
私は中堀さんじゃなきゃ嫌だけど。
でも、もしも。
貴方の傷が癒えたのなら。
私が本当に必要じゃなくなったのなら。
きちんと、さよならを言わないと。
私からも、貴方にさよならを。
そして。
―もう、一人でも、眠れますか、と。
確かめなくては。
貴方が頷いたなら。
強がりや嘘を吐かずに、頷いてくれたら。
その時は、笑って、別れられるようにしたい。
でもきっと。
いや、絶対。
「…無理だ」
決意して直ぐに、弱音が口をついて出る。
笑ってさよならなんて、大好きな相手に向かってできるわけがない。
なんだ、その、絵に描いたようなキレイな別れ方。
不器用な私には、絶対に出来ない。
きっと無様にどうしてなんでと責め立てて、中堀さんがうんざりしてしまう気がする。
「り、理想は高く、現実は低く…」
どちらにせよ、自分なりに何らかの区切りはつけないと、前には進めない。
自身を慰めるようにぼそぼそと呟いていると。
「カノーン?!」
馴染みのある声が、上から降ってくる。
そして、恐らく、私の名前を呼んだ、気がする。
「え?」
つられるように顔を上げると、屋上に何やら人影が。
「きゃー!!カノン!!ちょっと待ってて!!!そこ!絶対動かないで!!!!」
逆光で見えない上に、なにやらわぁわぁと騒いでいるけれど、何を言っているか、全く聞き取れない。
挙句、ちらっと見えていた人影は、直ぐに消えてしまった。
ただ、ひとつわかるのは。
「…メリッサ???」
自分を呼ぶその声が、流暢な日本語を話す、碧眼の黒髪美人のものと似ている、という事だ。
予想だにしていなかった人物の登場に、私はあんぐりと口をあけたまま、その場に立ち尽くす。
バタバタバタバタバタ
「!?」
暫くすると、裏口が俄かに騒がしくなり、何者かが近づいてくる足音がはっきりと聞こえた。
その勢いの強さに、思わず少し、後ずさりした。
ガチャッ、バン!!!
「カノン!」
予想通り勢い良くドアが開いた先には―開きすぎたせいでドアが壁に激突してめり込んでいるがそれはこの際気にしないことにして―こちらも予想通り、メリッサが、息を切らして私を見ていた。
「め、メリッサ…」
「はぁー!!良かった!!!カノンにもう二度と会えないかと思ってたから!!連絡先も訊いてなかったし!」
出てきたメリッサは私の両手を掴み、ブンブンと振り回す。
「とにかく!ちょっと、中入って!お茶でもしてかない?!」
「え、は、いや、あの…お邪魔じゃないですか…」
気遣いを示せば、メリッサの碧の瞳が不服そうに細められた。
「はぁー??邪魔なわけないでしょ?あぁー!!相変わらずカノンは日本人かぶれね!煮え切らない!!!!誘われたんだから、YesかNoのどちらかしかないでしょうよ!!!」
かぶれって…。
私、生粋の日本人なんですけどとは思うものの。
メリッサと話していると、全てどうでもよくなってくる。
「あ、じゃ、Yesで、お願いします…」
素直に頭を下げると。
「はーい、決まり!!!」
私が言い終わらない内に、メリッサは掴んだままの私の手をぐいぐいと引っ張り、裏口から中に引き入れた。
―あ。
ここに足を運んだのは、たったの2回なのに。
建物の中に入った瞬間、懐かしさが喉仏にまでこみ上げてくる。
鼻の奥が、ツンと痛い。
狭い廊下。
メリッサはずんずんと前に進んで―
「入って。」
いつかの、スタッフルームへと、私を招き入れた。
実家に帰りたくないとごねた私に、中堀さんが、最後のキスをくれた場所。
「…お邪魔します」
声が震えそうになるのを、なんとか堪え、中に入る。
「今コーヒー淹れるから、適当に、そこらへん座って。」
メリッサはカウンターの向こう側に立ち、その前にあるスツールとソファを交互に指差した。
「あ、じゃぁ…」
私はバックを胸に抱えたまま、メリッサの前のスツールに遠慮がちに腰掛ける。
ソファは。
中堀さんが座っていた場所だから、なんとなく、避けた。
「荷物そこらへんに置いといて良いからねー」
メリッサは、間延びした声で言うと、コーヒー豆をミルにかけ始めた。
直ぐにコーヒーの良い香りが、部屋いっぱいに満たされ、少しだけ、気が緩んだ。
「…この時間って、いつもクラブに居るんですか?」
ドリッパーを仕掛けるメリッサに訊ねると、彼女は顔を上げてこちらを見た。
「ううん、今日はたまたま。でも、カノンに会えて良かったわ。ずっと会いたいと思ってたから。カノンは?どうして来たの?」
「その…なんとなく…」
「なんとなく???私に会いに来てくれたのかと思ったわ。」
メリッサは茶化すようにそう言って、再び視線を落とすと、じっくりと真剣な目つきでお湯を注ぐ。
「ねぇ、一個、訊いてもいい?」
メリッサは、ふかふかと膨らんでいるコーヒー豆を見つめたまま呟く。
湯気が、ぷかりと空気に溶け込んだ。
「零、どうしてる?」
たった一言なのに。
一瞬で胸を鷲掴みされたような感覚に陥った。
「どう、してるって…」
私より、メリッサの方がよく知っているでしょ、と言いたいのに、声が出ない。
嫌な、予感がする。
私の動揺など、気づくはずもなく、メリッサは続ける。
「私に挨拶もなく突然、いなくなるから。元気にしてるかなって。」
カタ、と音を立てて、目の前に置かれたコーヒーカップを前にして。
そういえば、私はコーヒーが飲めないんだったと今更思い出す辺り。
どれだけ阿呆なんだか。
下心ありありだった、ということか。
心のどこかでまだ、中堀さんに会えるような気がしていた。
ここに来れば、当たり前に居るような気がしていた。
それで、少し、心があらぬ方向へと飛んでいた。
―ほんと、私って馬鹿…
込み上げて来るものを飲み込んで、我慢するけれど。
「-カノン??」
名前を呼ばれたと同時にぽちゃん、とコーヒーが跳ねる。
「ごめん、コーヒー苦かった?」
メリッサは勘違いして、口を付けてもいないコーヒーについて謝った。
勿論、私としては、コーヒーが跳ねたわけじゃないことを知っている。
「って、え?!やだ、泣いてるの?」
目から零れた涙が、コーヒーの水面を揺らしたということを、よく知っている。
どうして、忘れていたんだろう。
中堀さんは、いつも、そうだ。
私の手をするりと抜けて、何処かへ行ってしまう。
いつも。
私は貴方を追うのが、遅すぎる。
「―そっか」
そう言って、メリッサは私の肩をぽんぽんと優しく叩く。
あれから、コーヒーが飲めないとわんわん泣いて、狼狽えるメリッサに、突然突きつけられた中堀さんからの別れを途切れ途切れに話した。
全くまとまってない上に、支離滅裂な内容だったけれど、メリッサは私の隣に座って辛抱強く聞いてくれた。
「ケイから、カノンがここに来たことは聞いてたけど―何があったのかは、ケイも知らなかったみたいだから、私達は普通に喧嘩して仲直りしたのかと思ってたのよ。」
ぐちゃぐちゃになった私の前には、丸めたティッシュが散乱している。
それでも鼻は垂れるし、涙も同様に零れるので、その量は増すばかりだ。
「けど、ま、様子が明らかに変だったから…特に私にも何も言わずに行っちゃうなんてね。今までだって、ふらりと突然やってきては、やっぱり突然居なくなっちゃってたけど、それでもオーナーと私、ケイにはちゃんと顔見せてたもの。」
無言でグスグスと鼻を鳴らす私の背中を優しく擦りながら、メリッサは空いている方の手で、コーヒーを飲んだ。
もうすっかり冷めている事は、涙で視界が滲んだ私ですらわかる。
カチャ、と静かにカップを置いた音が、静かな室内に響いた。
「その時、零がカノンに言った言葉が、本心だって、カノンは思ってるの?」
一瞬。
私は、返答に窮する。
でも。
「いえ…」
やっぱり、私は、自分が見てきた中堀さんを信じたかった。
「そう。」
私の返答を聞くと、メリッサが小さく頷いた。
「カノンは、零に好きって言われたこと、ある?」
私はカウンターに転がるティッシュを見つめながら、うーん、と首を捻った。
「……カウント、ダウンの…時…、す、好きかも…しれないとは言われ…ました…」
しゃくりあげながらあの日のことを思い出せば、また熱いものが新たに込み上げてくる。
「え、もしかしてあの時?公衆の面前で?」
それまで休めなかったメリッサの背中を擦る手が止まり、驚いたように訊くので、私はこくりと頷いた。
「へー…あの、零がねぇ…。」
少しの間、メリッサは物思いに耽るように遠くを見つめ、やがて感慨深げに息を吐いた。
そして、体ごと私に向き直った。
「ね、カノン。私があの時、零の奴やってくれたわねって言った事、覚えてる?」
メリッサの真剣な顔に戸惑いながらも、再び私は頷いた。
覚えている。
因みに言うなら、ケイも、どうせ零絡みと言っていた。
お客も零の悪い癖だと言っていた。
メリッサとケイの連携プレーは、見事だった。
「…あれにはそれなりに意味があってね。」
メリッサの碧の瞳が真っ直ぐに私を見つめた。
「零って女のファン、多いでしょう?だけど、本人は苦手なわけ。その上、超がつく気分屋でしょ?」
メリッサの言葉に、私は思わずうんうんと頷く。
「そこで」
ぴんと立てられた人差し指。
「もう、面倒!話しかけないで欲しい!!って思う時には、決まって、あの手を使ったの。」
「―え?」
あの手って、何?
メリッサが何を言わんとしているのか分からず、私は首を傾げた。
「あー、もう、カノンは鈍だわね!いい?ライブが終わった後、客の真っ只中で、誰か一人に声を掛ける、とか、カノンにしたみたいに、抱き締める、とかするわけ!そしたら、ある意味で虫除けになるのよ!」
苛々したように早口で捲し立てるメリッサに、目が回りそうな私。
「でもその気紛れで―、ファンの恨みを買ったりもするの。性質が悪いことに、そういうのは本人には向かずに、選ばれちゃった子に行くから、こっちは毎回フォローに大変なのよ。それで、帰ってきて早々、やってくれたわね、って意味でああ言ったの。」
そこまで説明されて、漸く理解できてきた。
慣れたような動作で屋上に連れて行かれたのも、そういう事があってのことだったのだろう。
「―じゃあ、私の時も、それと同じだったんですね。」
ただの、虫除け?
面倒だったから、なのかな。
止まりかけた涙が、またじわじわとあふれ出しそうになる。
「…そんなこと言ってないでしょ??鈍い癖に最後まで聞かずに決めつけないでよ」
わかってないなぁ!もう!とメリッサが首を振る。
「初めて会った時、私言ったでしょう?女の子を迎えに行ってっていうなんて、初めてだって。いつもカノンに対する零の態度は特別だった。確かに、ライブの時にカノンを抱き締めたのは、いつものパフォーマンスかなって思ったのは否定しないけど。でも、あの時もちゃんと迎えに行ったじゃない。」
「迎え?」
ぐすぐすと鼻を啜りながら、涙で滲んだ目をメリッサに向ける。
「そう。迎え。」
メリッサは力強く頷いた。
「ファンの仕打ちが余りにもひどいんで、裏口から外に出すのも待ち伏せされて駄目だし、スタッフルームだと押しかけられる可能性もあるから、屋上に隠すのが恒例になってたんだけどね。今まで一度として、零は迎えに行った事なんて、なかった。」
ぱちぱちと瞬きすると、涙が弾かれて、ぼけていた視界が開かれる。
「利用するだけして、さよなら、なの。自分のせいでどうなっても構わない、そういう男なのよ。だから、迎えに行ったのは、カノンが初めてよ。」
メリッサに言われて、あの日の光景が、私の中に甦った。
「…そういえば…スタッフ達が驚いて…」
お姫様抱っこにだけ驚いているのだと思っていたけれど。
「当たり前よ。ヒスを起こす女の面倒をいつも見てるのはうちらなんだから、覚悟してた筈だし。…だから―」
少しの間、考えるように空を見つめたメリッサの視線が、私に戻ってきてピタリと止まる。
「あの日の零がとった行動は、パフォーマンスでもなんでもない。本当に、ただ、カノンを抱き締めたかった、それだけなのよ。」
名前を呼んで―。
そう言った中堀さんが、私のことを抱き締めたのは、今年の始まりの朝。
それが。
衝動的だったのだとしても。
それを知った所で、今の私に何ができるだろう。
残らない痕跡ばかりが見つかって、ただただ途方に暮れる。
「…私、どこかで何か、気に障ることでもしちゃったかな…心当たり、ありすぎる…」
コーヒーの代わりに、温かいミルクティーが出されても、漂う湯気すら、私を嘲笑っているようにしか見えない。
狂った歯車は、もう元通りにならない。
「………そういえばさぁ…」
力が抜け切ってしまった私のことを、メリッサは隣に座って暫く見つめていたが、ふいに思い出したように口を開く。
「いつだったかな…大分前…月曜だったっけ?零がカノンに会うって早帰りした日は、どうだった?あの時は零とは何もなかった?」
「―え?」
メリッサの問いかけに、一瞬何の事を訊かれているのかわからなかった。
「ほら、1月、かな?珍しく上機嫌で、からかったから覚えてるわ。あの後スケジュールをやたらきっつきつに入れてて何かあったのかなって思ったんだけど…結局訊けなかったの。」
一度カップを持った手が、震えて、慌ててソーサーに戻す。
「い、1月…?」
カチャン、と思いの外、大きく音がした。
「カノン?」
会社の休憩スペースでの会話がフラッシュバックする。
―『私の、アパートに、、誰か、来なかった?』
―『こなかったよ、誰も、こなかった。』




