嘘の代償
「零、今日はこのまま帰るの?」
レコードの整理を終えて、立ち上がった所をメリッサに呼び止められた。
「ん。」
短く返事して、裏口から出て行こうとすると。
「花音のところ?」
小さく溜め息を吐いて振り返ると、メリッサがにやにやしてこっちを見ている。
「言わなくたってわかるわよー。なんか、嬉しそうだもの。」
「じゃ、訊くなよ」
ふと、時計を見れば、針は19時を差している。
確か花音の仕事が終わるのは早くて21時だと聞いている。
俺はメリッサに構わず、背を向けた。
「零、変わったわよね。花音のおかげかしら?」
茶化すようなメリッサの声を背中に受けながら外に出た。
弓形の月が、こんな明るい街でも空を照らしている。
ふ、と息を悪戯に吐いて、空気を白く染めてから、温めておいた車に乗り込んだ。
「柄じゃ、ねーな。」
運転席から助手席に置いてある紙袋に視線を移して、自嘲気味に笑う。
女に、贈り物をするのは初めてじゃない。
詐欺師の仕事に、それは必要不可欠なことだからだ。
ハイリスク、ハイリターン。
鞄やアクセサリー、女がきらきらしたものを好むのは、恐らく自分を飾るためだ。
安っぽいメロドラマに小道具は要り様だから。
だけど。
ネックレスは、絶対に選ばなかった。
どうしてか。
どうしてだろう。
自分でもわからなかったけど。
今回、彼女にあげようとしたことで、気がついた。
首元に光るそれが。
自分のものだ、という印付けなような気がしたからだ。
つまり。
彼女に関して、俺はそう思っていることになる。
―自分で思ってるより、もしかしたらずっと独占欲が強いのかもしれないな。
今までに無い、自分の感情を完璧持て余している。
夜の高速を走り抜けながら、首を振った。
この感情が『好き』だとか『愛している』とかいうモノとは違うとしても。
彼女を手放したくないと、どこかで願ってる自分に、半ば呆れて。
誰かのことを。
もっと知りたいと願うのは。
初めてのことだった。
なんでだろう。
今までの他の女と何が違う?
問いかけても。
答えなんて見つからないけど。
ただ。
あんたが居るということが。
俺を想って並べるあんたの不器用な言葉が。
眠れない夜に、唯一俺を眠らせてくれる薬のように作用する。
空の青が綺麗にこの目に映るのも。
苦手な夜明けの時間が少しだけ我慢できるようになったのも。
自分の髪の色を許せるようになったのも。
ただ、会いたいとこんなに思うのも。
全部。
やっぱり初めてで。
正直、少し、戸惑うよ。
花音のアパートの下に着いたのは20時半で、連絡がまだないのを確認すると、車を停めた。
言われたとおり、ポストを開けるが、鍵がない。
「帰ってるのか?…いや、忘れたか?」
あり得る。
苦笑しながら、カン、カン、と無機質な音をたて、階段を上る。
煙草でも吸いながら、暫くは外で待とうか、と考え、口に煙草を咥えた。
―やっぱり、遠いな。
物理的な距離の遠さ。
自分の中でのふんぎりをつける為だったとは言え、今となってはそれがもどかしい。
電話した、あの夜。
いつもなら、直ぐに嬉しそうな声で出る筈なのに、あの日に限って、長いコール音が続いて、その後、留守電になった。
留守電に声を吹き込むのが苦手な俺は、仕方なくあまり好きじゃないメールを打った。
後から考えてみて、あの夜花音が電話に出なくて良かったと思った。
どうしても電話が欲しかった理由をもし訊ねられても。
言える訳が無い。
ただ、どうしようもなく、声が聴きたかった、なんて。
「…?」
階段を上りきった所で、足取りが遅くなる。
花音の部屋の前に、人影が見えたからだ。
「…中堀さん、ですね?」
暗がりから、月明かりの下まで出てきた眼鏡を掛けた男に、見覚えはない。
「…誰?」
「初めまして、じゃないんだけど。俺、藤代って言います。」
藤代と名乗った男は、挑戦的な視線を向けてくる。
「櫻田、今日会社で熱を出して、倒れたんです。」
「!」
「今、櫻田がどんな目に遭ってるか、ご存知ですか?」
驚いて反射的に部屋に向かおうとするのを、男の言葉によって遮られた。
「…どういう意味?」
「貴方が吐いた嘘がばれたんです。」
藤代という男の言葉の意味を、一瞬理解できなかった。
「貴方が櫻田を利用する為に吐いた、嘘がね。」
俺の反応など構わずに、藤代はミリタリーコートのポケットに手を突っ込みながら、静かな声で淡々と話し続ける。
「ただでさえ櫻田は会社で良い様に利用されてきた。貴方が兄として登場した時はある意味で会社での悪い噂を払拭するものだったようですけど―それが覆った今、事態は更に悪くなった。櫻田は売女扱いです。」
北風が、アパートの灯りを揺らした。
「なんでバレたか、ですが、社内に貴方の昔を知る人間が居た―全部言わなくてもわかりますね?中堀さん、昔相当荒れてたでしょう。櫻田は良いように言われてます。どうするつもりですか?」
「何が、言いたい?」
訊ねながら、口に咥えた煙草を外す。
「櫻田を、守るつもりですか?」
「…それが、あんたに何の関係があるんだ?」
訊ね返せば、藤代は距離を縮めて。
「初めまして、じゃないと先に伝えました。貴方は覚えてないかもしれませんが―5年前にも、同じように利用して捨てた女が居ましたよね。」
「………」
「俺は、よく覚えてますよ。その金色の髪も、茶色くした髪も。その顔も。名前は違いましたけどね。」
そう言って、藤代は俺を強く睨みつけた。
「貴方の汚い仕事に、彼女を利用した。櫻田もそうでしょう?そんな貴方が、櫻田を守るとでも?どうせそんなつもりないでしょうから、さっさと櫻田から離れてください。」
「花音は、違う。」
「まさか…!本気で好きなんですか?貴方が?ならどうして櫻田を利用するような真似したんですか?犯罪者、ですよ?」
そこまで言うと、藤代はふっと目を逸らし、俺の横を通り過ぎる。
「俺なら、櫻田を幸せにできる。直ぐ傍に居て、守る事だって出来る。でもあんたは違う。」
ゆっくりと階段に足を掛け、吐き捨てるように呟いた。
「あんたと居たら、櫻田は5年前の女みたいに駄目になる。もしあんたが本気だったとしても―櫻田にとってあんたと居ることは、いつか爆発する時限爆弾と一緒にいるようなもんだ。いずれ、追い込むことになる。幸せになんかできるわけがない。それだけのことをあんたはしてきたんだ。」
夜の空気が、一段と冷たく感じる。
「彼女を守る資格はあんたにはない。」
カン、カン、カン。
「櫻田のことを本気で想ってるなら、彼女から手をひいて下さい。」
階段を下りる音が、やけに空っぽに聞こえる。
人の気配が、遠退いても。
暫くその場を動くことが出来なかった。
月明かりが、雲に覆われて。
漸く花音の家のドアノブに静かに手を掛けた。
鍵の閉まっていない所を見れば。
さっきの男が、今までこの中に居たのだと再確認する。
―あんたは違う。
頭の中を、ぐるぐると、言葉が飛び交っている。
静かな部屋。
いつか来た時のことを、思い出す。
突然だから。
いつも、俺が来ると、彼女は困った顔をして、慌てふためく。
顔を、真っ赤にして。
「…ん」
ベットに横たわる花音は、頬を火照らせて、うっすらと汗をかいていた。
赤い花のような唇は、苦しそうな息を漏らしている。
その脇に、屈みこんで、思わず触れそうになった。
―彼女を守る資格はあんたにはない。
「っ…」
こんなに。
こんなにすぐ近くに居るのに。
やっと、会えたのに。
その、額に。
頬に。
唇に。
触れることが、躊躇われる。
気付いて、いなかったわけじゃない。
いずれ、見つめなければいけなかったことだった。
ただ、もう少しだけ、と目を逸らしていた。
もしかしたら、このままでも。
ずっと、気付くことがなくても。
いいんじゃないかって。
淡い期待が募っていた。
空に放してやらなきゃいけない鳥を。
あともう少し。
もう少しだけ、傍に。
置いておきたい。
そんな風にして、先延ばしにして。
この街に長いこと身を置くことが、懸命ではないことを理解していたのに。
「声が―聴きたかったな…」
触れそうで、触れない距離で。
停止していた自分の手を、ゆっくりと、離した。
鍵は閉めて。
ドアポストに入れて。
カチャン、という音に彼女の眠りが妨げられないようにと、願いながら。
========================
何故か無意識に向かった場所は、あの歩道橋で。
車を端に停めて、さっき吸えなかった煙草を口に咥える。
「あ、、、」
誰かが階段を上ってきたな、と思ったら、驚いた声がして、振り返ると崇だった。
俺のことを見るなり、あからさまに焦った顔をして、やべぇと呟く。
「崇…」
「おっ、俺、急ぐから!!」
急いで通り過ぎようとした崇の腕をがしっと掴んだ。
「ひっ」
「俺、は、話があるんだけど?」
「・・・・」
崇は返事こそしなかったが、観念したように溜め息を吐いた。
灰色の煙が、何もない空に浮かび上がっていく。
眼下の道路はまだ混雑していて、たまにクラクションが響いた。
「なんで、電話とらねーんだよ。」
引越してからというもの、崇との連絡がどうしても取れない。
何かをした覚えもないし、避けられる理由もないと思っていた。
「………」
なのに崇は難しい顔をしたまま、地面をじっと睨んでいる。
「答えろって」
煙草の灰をトントンと、指で叩いて落とす。
「………まと…」
「は?」
崇が何か呟いたが、道路を走る車の音でよく聞こえなかった。
「燈、真と…」
そこまで言うと、崇は俺と視線を合わせた。
「手を、切ったろ。俺は、良かったなと思った。だけど、ほら。お前も知ってると思うけど、俺はロクでもない人間だからさ。これからも燈真とつるんでいく。だから、、俺のことも、忘れた方が良いと思ってさ。」
崇が情に厚い人間だということは良く知っている。
だけど、へらっと笑う崇の顔は腹が立つ。
「なんだよ、それ。余計なお世話だよ。」
呆れたように笑うと、崇は真顔になった。
「花音ちゃんのことをもしも受け入れるつもりなら、そうした方がいい。」
真剣な顔をして言う崇に、ずしりと重たいものが、胸につかえた気がした。
なんだ、これ。
息が、吸いにくい。
こういうのを、胸が痛いって、言うんだろうか。
「……無理だよ。」
気付けば、弱音が口を付いて出ていた。
「―え?」
今度は俺から、目を逸らす。
出したくも無いのに、深い溜め息が口から漏れる。
「……俺にはさ、誰かと一緒に生きるなんて、性に合わないんだよ」
「何言って…」
「燈真とだって手を切ったわけじゃない。仕事を請けなくなったってだけ。ルナにだって普通に顔出すよ。今はただの気紛れ。」
溜め息は、直ぐに乾いた笑いに変わる。
そうだよ。
似合わない。
「冗談だろ?だって、花音ちゃんは空生を追いかけてった筈だぜ?会ってるんだろ?」
俺の周りは御人好しばっかで、困るな。
「…んなわけないじゃん」
「っ、お前だって惹かれてただろ!!!俺が気付かないとでも思ったか?」
必死の形相で俺を責めるように問う崇の目が濡れている。
「…うるせーな。いちいち面倒臭ぇ。女なんて、皆同じだって。」
ガッ。
煙草が、地面に落ちる。
「ってぇーな…」
倒れこそしなかったものの、頬を殴られた衝撃と、血の味が口に広がった。
「何があったんだよ!?」
肩をわなわなと震わせて、崇が叫ぶ。
「…何もねーよ。何熱くなってるんだよ、うぜぇな」
崇の真っ直ぐな視線を避けて、溜まった血を吐き、切れた口の端を拭った。
「っ、、、、、お前だからっ…お前だから、譲ったんだぞ?!」
「…そんなの知らないね。ったく、あーあ。」
吸いかけの煙草を拾い上げて、わざと残念がって見せた。
「なんで、、自分に正直になんねーんだよ…」
余りに悔しげに、崇が呟くから。
「……昔っからだよ」
消えてしまった炎を、再び灯しながら、思わず本音が漏れた。
自分は、平気だと、何度も心の中で言い聞かせながら。
そうだよ。
昔っからだ。
「俺はさ、受け入れるだけ。何かを欲しい、なんて思う資格ないんだよ。」
そうやって、生きてきたから。
「本当に大事なものは、壊したら駄目だろ?」
アンタもそうだったよな。
俺に近づけば近づくほど、周りが敵になって、悪く言われて。
報われないまま、死んだ。
「俺が居ると、、、壊れんだ。」
母親も。
俺さえ居なかったら、良かったのかな。
もっと、幸せだったのかな。
「空生…」
「俺はさ、」
折角火を着けたが、吸う気の失せた煙草を見つめる。
「大事な人間を傍に置いたらいけないんだよ。」
そう言って、地面に落とした煙草を踏みつけて、崇に背を向けた。
「そんなわけ…ないだろ?」
崇の声が、怒りのせいか、それとも悲しんでいるのか、震えている。
「それで、、、いいのかよ?」
答えることなく、歩きだすと、崇が呼び止める。
「おいっ」
いつかも。
こんなことがあったっけ。
あの人が死んだ後。
この街に戻ってきた頃。
あの時と同じように。
数メートル先まで行った所で、俺は振り返る。
そしてやっぱりあの日と同じように。
切ない顔をして、俺を見つめる崇の姿があった。
だから。
「大丈夫だよ」
同じ言葉を言って、安心させるように俺は笑う。
「諦めんのは、慣れてる」
確かに、笑った。
そうして。
何か言いたげな崇から逃げるように背を向けて、階段を下りた。
「…そんな顔して言ったって…説得力ねぇよ。」
歩道橋の上、一人残された崇が、呟いた言葉なんて、聞こえる筈もなく。
冷たい風が、自分の心の中にも舞い戻ってきて。
その痛さに耐えられず、運転席に座るとハンドルに突っ伏した。
「くそ…」
ずっと前から、諦める気はあった。
なのに、思ったよりも、痛い。
「柄じゃないことは、するもんじゃ、ねーな…」
車の助手席に置きっ放しの紙袋を見て、数時間前の自分が馬鹿みたいに思える。
ただの。
長い、夢。
ずっと目を覚まさないでいれれば良かったのにと思うほどに。
ごく稀に、見ることのできる、心地よい夢。
もしかしたら、現実なんじゃないかと、思うようになるほど。
その夢に、囚われていた自分。
滑稽過ぎて、笑えもしない。
========================
翌日。
いくつもの不在着信と、謝罪のメールが送られてきたけれど。
なんか、もう。
どうすることもできなくて。
家にも帰らず。
ただただ、仕事に没頭した。
何もしない時間がないように、クラブに入り浸って。
時間が空いてしまうと、ふと、声が聴きたい衝動に駆られるから。
何かをきっかけに、思い出してしまうから。
何も考えないようにして。
時間が勝手に流れていくのを、黙って見ていた。
何度も何度も何度も、連絡は入ってきたけど。
気付かないフリをして。
その内、端末の電源が勝手に切れたから、そのままにした。
子供染みてるし。
逃げだってことは、わかってた。
だけど、向き合えば―。
顔を合わせてしまったら。
きっと。
笑顔には、させてあげられないから。
そして―。
「零、零ってば―」
寒さが厳しさを増す2月―。
「出番、だよー」
屋上で手すりに寄っかかりながら、紫煙をくゆらせていると、メリッサが呼びにやってきた。
「ん、今行く」
ちらりとメリッサを見て頷く。
「あと、五分もないからね!ほんっと、よくこんな所に居られるわね、うー寒っ!!」
ぴしゃりと言い放ち、彼女は直ぐに向きを変えて屋上を出て行こうとするが。
「…ねぇ。」
出口の前で立ち止まると、背を向けたまま、呟いた。
「花音、、どうした?」
久しぶりに聞いた名前に、痛みがじわりと胸に広がる。
暫くの沈黙の後、メリッサは直ぐに歩き出す。
「ごめんっ、なんでもない!」
ひらひらと手を振って、まんまと苦味だけを残して立ち去った。
「後味悪…」
煙草が苦く感じる。
感情的な問題だということは理解していた。
だけど、気付かないフリをした。
そして、また、仕事に没頭する。
眠らない夜。
眠れない朝。
何にもない、人間だから、空っぽにならないように。
だけど、満杯にもならないように。
中途半端に生きるしか、ないよな。
「お疲れー!」
早朝。
少し居残りしてたスタッフたちも帰って行く。
「お疲れ」
裏口の脇に立って、それぞれに軽く声を掛けながら、水の入ったペットボトルに、口を付けた。
「あ、零。鍵、預けていいの?」
「ん、いいよ。」
言いながら、ケイが放り投げた鍵を受け取る。
ここの所ずっと俺が最後の戸締りをしていく。
と、いっても、寝泊りもしているから、戸締りも何もないんだけど。
いい加減、住む場所も、あの家も、どうにかしなくちゃならないと思うけど、億劫で、前に進むことが嫌で、そのままになっていた。
「じゃ、お先ー」
「おー」
ケイが帰ると、静けさが辺りを包んだ。
「疲れたな―」
一人言ちて、スタッフルームに向かおうと踵を返す。
が。
ダダダダダダ!!
ガチャ!!
「零!!!!!」
ものの数秒で賑やか野郎が舞い戻る。
「なんだよ、うるせーな…」
振り返れば、裏口のドアの前に息を切らして立つケイ。
その横に―。
「お、、おはようございます…」
柔らかい長い髪を、緊張した面持ちで耳に掛ける―
櫻田、花音が居た。
「あ、じゃ、俺は帰るねっ」
「はいっ、あの、ありがとうございました!」
踵を返したケイに、花音は小さくお辞儀して見送る。
「・・・」
そんな彼女と視線が交わることのないよう、戸口によっかかったまま、自分の足元を見つめた。
まだ薄暗い外は青みがかっている。
ちらり、雪が舞い始め。
「あ。」
花音がそれに気付いて声をあげた。
「また雪だぁ。空生、さんと居る時って結構雪降る確率が高いですよねっ。」
無邪気に声を上げるけれど。
俺は足元に目をやったまま。
「何しに来たの」
肌を刺す様な寒さと同じくらい、冷たい声が出た。
「なにって…、、私も会社が忙しくってずっと缶詰みたいな感じだったんで会いに来れなくって…ほら、折角、空生、さんと約束してたのに体調崩しちゃったりして、、連絡、、それから取れなくって…空生さんも忙しいんだなって思ってたんですけど…」
頬を真っ赤に染めて、息を白くして、一生懸命話す花音を前に。
「馬鹿じゃねぇの」
俺の名前を呼ぶのに、まだ慣れないあんたに。
「え―」
あと一度だけ。
「連絡が取れない、っていうのが、どういうことか、わかんないの?」
嘘をもう一度だけ。
自分の気持ちを隠すことなんか、前からやってきた。
だけど。
「俺が、あんたを本気で好きになるとか、思ってたわけ?」
結構難しいな。
いつもなら、どうでもいい人間相手に心にも無い愛を囁くだけで良かった。
「ど…どういう、、こと…ですか…」
だけど、今回は。
「前にも言ったよね?最初っから俺のこと好きにさせて利用するつもりだったんだ。志織の件が完璧落ち着くまで予防線張ってただけ。」
その反対だから。
「…で、でも!「わかんない?もう、必要ないってこと。」」
か細い声で、信じられないように首を振る花音に、なるべくピントを合わせないように、背景ばかりに目をやっていた。
雪が。
「そういうの、慣れてるでしょ?」
冷たい雨に、変わる。
「っ!!」
俺の言葉に、花音の片手が上がった。
そう、それでいい。
俺のことなんか。
嫌いに、なって。
そして、忘れて。
なのに。
「………」
花音は、力なく、その手を下ろした。
そして。
雨足が強くなる中、俺の目をぼんやり見つめる。
濡れてしまった髪から滴る水滴が、頬から首筋に伝って服に染みていくのに、それすらも気付かないように、ただじっと視線を絡める。
時間にしたら、数秒のことなんだろうけど、ひどく、長く感じられた。
それから、ゆっくり瞼を閉じて、次に開いた時には、もう俺を見ては居なかった。
―だから、夜明けは嫌いなんだ。
小さな背中が、来たばかりの道を引き返していくのを見ながら思った。
余計なものが見えてしまうから。
暗闇の中でなら、誰かを傷つけても、わからないのに。
泣かせたくない女が。
目に涙をいっぱい溜めて、それが零れないように唇を噛んで。
睫毛を伏せた時に、雨とは違う滴が落ちる所なんて、見なくて済むのに。
「っ…」
姿が見えなくなったと同時にこみ上げてきたものに、咄嗟に裏口の戸を閉めて、その場にしゃがみ込む。
声が漏れないよう、きつく手を当てて。
涙なんて、流した記憶はないよ。
まして、誰かを想って泣いたことなんて、一度もない。
ほんと、あんたと逢ってから。
初めてのことばっかで、嫌になるよ。
「…く」
温かい感触は、寒気ですぐに冷たく頬を這う。
本当は。
あんたが欲しいよ。
あんたに傍に居て欲しいよ。
笑ってて欲しいよ。
不器用な所も、すぐに怒る所も、顔を真っ赤にさせて照れる所も。
お節介な癖にすぐに泣く所も。
全部、知ってる。
全部、思い出せる。
外の、雨音がボリュームを上げた。
彼女の甘い香りも、直ぐに流してしまうだろう。
俺の記憶も、洗い流せたら良いのに。
最後に見た彼女の泣き顔が、頭に焼き付いて離れない。
あんなに聴きたかった声は、震えて、弱くて。
自分が、彼女を沢山傷つけてしまった事実が、こんなにも苦しい。
言いたいことも、伝えたいことも、沢山あった。
その小さな身体を抱き寄せて、閉じ込めて、確かめたかった。
だけど、俺にそんな資格はない。
皮肉だけど。
今回は。
今回だけは、あの女のせいじゃないんだ。
俺が自分自身で蒔いた種で。
あの時、あの薄暗い部屋で。
自分を守るために選んだ道が。
あの女に復讐する為の術が。
一番欲しい物を奪う。
一番大事なものを傷つける。
復讐が、自分に返ってくる。
ねぇ。
もしも。
もう少し早く出逢えていたら、何か変わってたかな?
あの頃、あんたと逢えてたら、今とは違う結末があった?
けど。
あんたと逢えたのは、俺の嘘が始まりだったんだよ。
なぁ。
最後の。
あんたのために吐いた嘘だけは、、赦されるかな。
あの嘘と引き換えに。
俺はもう二度と、あんたの名前を呼ばないから。
========================
「今回は長く居るんじゃなかったのー?」
よく晴れた日の夕暮れ。
ル・ルヴェ・デュ・ジュールのカウンターの上で、頬杖をついたケイがふてくさっている。
「気が、変わった。」
手続きの書類に、記入しながら答える。
「ほーんと、零の気紛れってコロコロ変わって困るよなー。あの家はどーすんのさー。いつになくほのぼのした所だったじゃん。」
「あー…」
一瞬、脳裏に浮かんだ、いつかの風景。
「誰かに、貸すかな」
それを振り払うように、一旦止まったペンを再度走らせた。
「…ふぅん。」
ケイは不満げに呟く。
店内に居るのは、俺とケイのふたりだけだった。
お互いが黙り込めば、静寂が支配する。
開店準備の為に、換気している店内は、橙色の陽射しが差し込んでいる。
そのせいで、記入している用紙は斜め半分は明るく、もう半分は影になっていた。
「メリッサには、会っていかないの?」
記入し終わったと同時にペンをぱたりとカウンターに置き、荷物を持って。
「いいよ。あいつに会うと色々五月蝿いから。」
空いた手でキャップを深く被り、振り返らずに出て行った。
「零!また、帰ってくるよな?」
ケイが飛び出してきて、訊ねるけど。
「待ってるからな!!」
立ち止まる事無く、クラブの前に停めた車に乗り込んだ。
途端、久々に息を吹き返したスマホが音をたてる。
「これも、替えなきゃな―」
鞄から取り出して、表示を確認した。
「………何」
《久しぶりなのに、その態度はないんじゃない?》
電話の相手は、苦笑交じりに話し出す。
「何か用?」
運転席に深く腰掛けて、天井を仰いだ。
《…いや、どうしてるかな、と思ってね。》
かけてきた割には、目的を中々言おうとしない。
「…燈真こそ、どうしてるのさ。」
この男が、世間話をしに電話を掛けてくるわけがなかった。
《…やっぱりお前が居ないとつまんないんだよね。構ってよ》
「……何言ってんの。つーか、そこには暫く行かないよ。」
《…へぇ。じゃ仕方ないかな。けど、葉月が会いたいって五月蝿いし…時間があったら顔出してやってよ。》
「面倒。」
溜め息を吐けば、燈真は更に楽しそうに笑った。
《相変わらず容赦ないねぇ。…でも、さ、勘違いしてるみたいだったから、ひとつ忠告しておくね。出て行く時に言えばよかったなぁ。》
「…何。」
《空生、さ…所詮詐欺師は詐欺師で生きてくしかないんだよ?今更、捨ててどうこうって道は、ないんじゃないかな。どうあがいたって普通の世界にはいけない。》
西日が、眩しい。
片手で持ったネックレスをかざして見れば、きらりと輝く。
「…知ってる。」
アルバトロスは、もう居ない。




