いらだたせる男
ノアの滞在は、初日こそ穏やかに始まった。
「両国のさらなる関係強化について、ぜひ詳しくご相談を」と言って皇国を訪れたにもかかわらず、ノアが会談の席で口にするのは、どれも当たり障りのない話題ばかりだった。
フォンレーヴでの今年の小麦の収穫量。皇国との交易路における小さな改善案。婚姻を祝うために用意された贈答品への礼。どれも外交上は必要な話ではあるものの、わざわざカルディエ家の次期当主であるノア自身が、一週間も滞在して話し合うほどの内容には思えない。
「『両国のさらなる関係強化のご相談』と言っていたが、どうでもいいような内容ばかりだな」
しびれをきらしたカイルが切り出した。
だがノアは、柔らかな笑みを浮かべたまま、今度は皇国の庭園が見事だったとか、宮殿の客室が大変快適だったとか、そんな話を続けるだけだった。
一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日目になっても状況は変わらない。
ノアは会談には必ず時間どおりに現れ、礼儀正しく振る舞い、決して失言もしない。提出された書類にも問題はなく、フォンレーヴからの使者としての態度も申し分なかった。
しかし、ノアがここに来た目的と思えるような話題は、一向に出てこない。
「で、本題はいつ話すつもりだ」
四日目の会談の終わり、カイルは机の上の書類から目を上げずに言った。
ノアは一瞬だけ目を細めたが、すぐにいつもの柔らかな笑みを浮かべる。
「本題、と申しますと?」
「とぼけるな。もう四日目だが、祝辞と世間話しかしていないだろう」
「両国の関係を深めるには、まず互いの事情を知ることも大切でしょう。急ぐ必要はないかと」
「俺の時間を使ってまで言うことか」
カイルの声には、隠しきれない不快感が滲んでいた。
それでもノアは表情を崩さなかった。
「皇帝陛下はお忙しいお方ですから、貴重なお時間を頂戴していることは理解しております。ですが、焦って結論を出せば、かえって両国にとって良くない結果を招くかもしれません」
もっともらしい言葉ではあった。
けれどカイルには、何かをごまかしているようにしか聞こえなかった。
ノアは会談中、こちらが何かを探ろうとしても一切隙を見せない。一方で、自分からは何も差し出さない。まるで話し合いそのものが目的ではなく、ただ皇宮に滞在するための理由として会談を利用しているようだった。
「……好きにしろ。ただし、次の会談までに話すべきことを整理しておけ」
「承知いたしました」
ノアは丁寧に一礼した。
そして会議室を出るために一歩踏み出しかけてから、何かを思い出したように振り返る。
「そうだ。せっかくですので、このあとリーシェ様にもご挨拶をさせていただこうかと思っております」
その言葉とともに、ノアは意味深な笑みを浮かべた。
ただ旧知の相手を訪ねるだけだと言っているようにも聞こえる。だがその表情は、カイルの胸に小さな棘を残した。
「……今からか」
「ええ。皇妃殿下には到着以来、ゆっくりお話しする機会がありませんでしたので。構いませんよね?」
「止める理由はないが……」
「では、失礼いたします」
ノアは深く一礼すると、今度こそ会議室を出ていった。
カイルはしばらく、ノアが消えた扉を睨むように見つめていた。
ただの挨拶だ。
そう自分に言い聞かせようとしたが、先ほどの笑みが妙に頭から離れない。両国の関係強化などと言いながら、数日間にわたって当たり障りのない話ばかりを続けている男だ。何を考えているのか分からない以上、リーシェと二人きりにすることに、どうしても嫌な予感がした。
「エヴァン」
「はい、陛下」
「この後の予定は」
「十分後に財務局長との面会がございます。その後は……」
「すべて後回しにしろ」
「は?」
エヴァンが目を瞬かせる。
カイルは椅子から立ち上がると、机の上に散らばった書類を無造作に置いた。
「少し、確認したいことがある」
それだけ言って、カイルは会議室を出た。
ノアが向かったであろうリーシェの部屋へ続く廊下を、一定の距離を保って進む。すれ違う侍女たちは、皇帝がなぜこの時間に執務室を離れて私室のあるエリアに向かうのか不思議そうにしていたが、誰も声をかけることはできなかった。
廊下の先に、黒髪の男の背中が見えた。
ノアは迷いなくリーシェの私室へ向かっている。
そのことを確認しただけで、カイルの足取りはさらに速くなった。
けれど、ノアを制止する理由などない。皇妃の旧知の相手が、故郷の話をしに来るだけなのだ。カイルが咎めれば、かえって自分の方が不自然に見える。
カイルはリーシェの部屋から少し離れた柱の陰で立ち止まった。
自分でも、何をしているのか分からない。
皇帝が、客人の後をつけている。
そんなことを知られれば、エヴァンには間違いなく呆れられるだろう。
それでも、立ち去ることはできなかった。
ノアが扉を叩く音が、静かな廊下に響く。
少しして、部屋の中からリーシェが出てきた。
「あらノア、早かったのね」
「皇帝陛下とのお話が予定より早く終わりましたので」
リーシェはにこやかにノアを迎え入れ、扉を大きく開けた。
「どうぞどうぞ。とても素敵な部屋をいただいたのよ」
「それはよかったです」
ノアは柔らかな笑みを浮かべ、リーシェの横を通って室内へ入った。
その直前だった。
ノアはふと足を止め、何気ない仕草のように、今歩いてきた廊下の先を振り返った。
柱の陰にいるカイルの姿は、廊下の薄い影に紛れている。それでもノアの緑がかった瞳は、迷いなくこちらの方を捉えたように見えた。
そして、ほんの一瞬だけ。
ノアは不敵な笑みを浮かべた。
まるで、カイルが後をつけていることを知っていたかのように。
その一瞬の後、ノアは何事もなかったように部屋へ入る。
リーシェが扉を閉めると、重い扉は小さな音を立ててぴたりと閉じた。
廊下には、先ほどまでの気配が嘘のように静けさが戻る。
カイルは柱の陰から出ず、しばらく扉を見つめていた。
中から話し声は聞こえない。
何をしている。
カイルは心の中で自分に問いかける。
ノアがリーシェを訪ねたところで、今の自分には何の権利もない。二人は元婚約者同士とはいえ、フォンレーヴの頃からの知人だ。故郷の話をするくらい、止める理由にはならない。
そして何より、聞こえない以上、ここに立っていても仕方がない。
カイルはわずかに眉を寄せると、踵を返した。
執務室へ戻ろうと、一歩を踏み出した、そのときだった。
「あんたが頭いいのは知ってるけどさぁ。さすがにそれはまずいって。私がちゃんとやるからそろそろ帰って!」
扉越しにもはっきり届くほど、一段大きくなったリーシェの声が廊下に響き渡った。
カイルの足が止まる。
一瞬のためらいのあと、彼はリーシェの私室の扉へ向かう。
今度は柱の陰からではない。
閉ざされた扉のすぐ前まで歩み寄り、周囲に人の気配がないことを確かめると、耳を近づけた。
先ほどよりも、ずっと真剣に。
「ちゃんとやっていないから、こういうことになっているんだろう?」
「え、ちょっと待ってって!」
ノアの声が聞こえた次の瞬間、何かが倒れたような物音とともにリーシェの叫び声が聞こえた。
カイルはたまらず扉を開けた。
ノアがリーシェをソファへ押し倒している場面が見えた。
「離れろ」
カイルは、低く、有無を言わせない声で告げた。




