どうすればいい?
リーシェが皇国に嫁いでから、一か月が過ぎていた。
その間に変わったことは、数えきれないほどある。
朝食の席では、もう料理長がいちいち二人分と確認することはなくなった。カイルが毎朝、リーシェに今日は何が食べたいか尋ねるのが、いつの間にか習慣になっていたからだ。
音楽室のピアノは、以前よりずっと頻繁に鳴るようになっている。カイルが執務の合間にふらりと顔を出し、リーシェの伴奏で書類を読むという奇妙な習慣まで生まれていた。
「今日は静かな曲がいいな」
「陛下がお疲れの日は分かるんですよ。眉間の皺の深さで」
「見た目で判断するな」
「見た目以外に判断材料がないので」
そんな軽口も、以前より遠慮がなくなっていた。
しかし、リーシェは時折何か言いたそうにカイルを見つめていることがある。カイルはその目線の意味は察していたが、いまだに応じることはできないでいた。
____________________________________________
ある日の午前、カイルはいつもより早く執務室へ入った。
「……エヴァン」
書類を運んできた側近を、カイルは意を決したような声で呼び止めた。
「はい、陛下」
「一般的に、王女は嫁ぐ前に、夫婦のことを教えられるものなのか」
エヴァンの手が止まった。
「夫婦のこと、と申されますと」
「子を成すことについてだ」
一拍の沈黙が落ちる。
エヴァンは書類の束を抱えたまま、ゆっくりと瞬きをした。
「……はい。王家や高位貴族の令嬢であれば、侍女や教育係から、最低限の心得を教わることが多いかと存じます」
「では、男は」
「はい?」
「男にも、同じような教育はあるのか」
今度こそ、エヴァンは完全に固まった。
いつもなら皇帝の質問に即座に答える彼が、珍しく言葉を失っている。
「……陛下」
「何だ」
「差し支えなければ、その質問は、なぜ今……」
「いいから、答えろ」
「……男性の場合、家庭教師や年長の親族、あるいは侍従などから、必要に応じて伝えられることはございます」
カイルの眉間に皺が寄る。
自分には、そんな機会があった記憶がない。
「……俺は聞いていない」
低い呟きに、エヴァンは静かに目を伏せた。
「陛下は幼い頃から、学ぶべきことがあまりにも多くございましたから」
「それで済む話か」
「ごもっともでございます」
カイルはしばらく黙り込んだ。
リーシェは何かを知っている。
自分だけが、知らない。
その事実を認めるのは、政略や戦略で後れを取るよりも、ずっと居心地が悪かった。
「……ご希望であれば、そのようなことを教える専門の女性を手配しますが」
「女はダメだ。男で頼む」
「……かしこまりました。男性ですと少し手配にお時間がかかりますが、構いませんか?」
「それは構わない」
「でしたらお任せください」
エヴァンは丁寧に頭を下げ、足早に部屋を出て行った。
____________________________________________
庭園の温室事件以降はそんな穏やかな日々が続く中、宮殿にひとつの報せが届いた。
「フォンレーヴ王国より、カルディエ家の使者が到着いたします」
侍従の報告を聞いた瞬間、カイルの表情が露骨に曇った。
「使者とは、誰だ」
「次期当主のノア・カルディエ様とのことです。婚姻一か月の御祝いと、両国のさらなる関係強化のご相談で、一週間ほど滞在されるとのことでございます」
「一週間」
カイルは低く繰り返した。
「なぜそんなに長い」
「さあ……フォンレーヴ側のご意向としか、私には分かりかねます」
侍従が退室すると、カイルはリーシェの方を見た。
「お前の元婚約者が来るらしいな」
「あら、ノアが。久しぶりですね」
リーシェは特に気負う様子もなく、むしろ懐かしそうな顔をした。その反応に、カイルの眉間の皺が深くなる。
まだ会ってもいないうちからいらだちが滲むカイルの様子に、リーシェは全く気づいていないようだった。
────────────────────
ノアが到着したのは、それから三日後のことだった。
その日の朝から、宮殿は普段とは違う慌ただしさに包まれていた。フォンレーヴ王国からの使者を迎えるとあって、正面玄関には赤い絨毯が敷かれ、衛兵たちも普段より数を増やして整列していた。侍従たちは客間の準備に走り回り、料理長は歓迎の晩餐に向けて厨房で腕を振るっていた。
カイルは朝からずっと機嫌が悪く、執務室に籠っては書類を必要以上に苛立たしげに扱っていた。エヴァンが恐る恐る声をかけても、返ってくるのは短い返事だけだった。
「陛下、そろそろお出迎えの時間です」
「知っている」
そう言いながらも、カイルの足取りは、いつもの執務室から議場へ向かう時よりも明らかに重かった。
正面玄関にリーシェとともに立ったカイルは、遠くから馬車の音が近づいてくるのを聞きながら、無言のまま前を見据えていた。リーシェは特に緊張した様子もなく、むしろ懐かしい人を待つような、柔らかな表情を浮かべている。その対照的な二人の様子に、周囲に控えていた侍女たちがそっと目を見合わせた。
馬車が停まり、扉が開く。
姿を現したのは、艶のある黒髪を丁寧に整え、切れ長の緑がかった目に柔和な笑みを浮かべた男だった。仕立ての良い衣装は皺一つなく、身のこなしも洗練されていたが、その柔らかな物腰の裏に、どこか計算高さを滲ませる佇まいは、以前と何も変わっていなかった。
ノアは、宮殿の正面玄関で恭しく礫を執った。
「皇帝陛下にご挨拶申し上げます。フォンレーヴ王国カルディエ家、ノアと申します」
その声は柔らかく、けれど一言一言がやけに耳に残る響き方をしていた。
「知っている。用件を早く済ませて帰れ」
カイルは挨拶もそこそこに、そう言い放った。周囲に控えていた侍従たちが、思わず身を固くする。歓迎の言葉にしては、あまりにも素っ気なかった。
「これは手厳しい。まだ一言ご挨拶しただけですよ」
ノアは気にした様子もなく、笑みを崩さない。むしろ、カイルの態度そのものを楽しんでいるようにも見えた。その視線が、ゆっくりとカイルの隣に立つリーシェへ移る。
「リーシェ様。お元気そうで何よりです」
「ノア、久しぶりですね。元気そうで良かったです」
リーシェの返事は、気負いのない、あっさりとしたものだった。故郷の知人に再会したような、ただそれだけの親しみが声に滲んでいる。
二人の間には、長年ともに育った者同士の気安さはあっても、恋人だった頃の名残のようなものは、少しも感じられなかった。それでも、カイルはその光景を苦々しい顔で見つめていた。
隣に立つリーシェが自然な様子でノアと言葉を交わすたびに、カイルの中で、説明のつかない苛立ちがゆっくりと膨らんでいく。




