近づく距離
リーシェは、温室のガラス扉が閉じた音を聞いても、すぐに閉じ込められたのだとは理解できなかった。
次の瞬間、大きな葉の影から覆面をした男が姿を現した。男の手には、鈍い光を放つ短い刃物が握られていた。
「きゃっ……!」
リーシェの腕を引いていた令嬢は、いつの間にか手を離していた。特に慌てることもなく覆面の男と目を合わせると、小さく頷き、リーシェから距離を取るように後ずさっていく。
ようやく、リーシェにも何かがおかしいと分かった。
「ええと……これ、倒れている人を助けるお話ではないんですね?」
覆面の男は答えず、リーシェへ一歩ずつ近づいてくる。
リーシェは後ろへ下がった。背中が低い石壁にぶつかり、逃げ道がないことを知る。
せめて抵抗しようとこぶしを振り上げるが、すぐにはっとした。
(指をけがしたらピアノが弾けなくなるからって、護身術は何もやらせてもらってないんでした!)
リーシェはこぶしを引っ込め、代わりに胸いっぱいに息を吸い込んだ。
幸いここは執務室からそれほど離れていない。歌で鍛えた声なら、執務室にいるカイルにも届くかもしれない。
「カイル様~~~~! 助けて~~~~! あなたのリーシェが襲われていますよ~~~!」
張り上げた声は、温室のガラスを震わせ、庭園じゅうへ突き抜けていった。
覆面の男が思わず耳を押さえ、苦痛に顔を歪めてよろめく。令嬢も両手で耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。
「うるさい……!」
「知ってました? 広い会場全体に響くほどの歌声って、近くで聞いたら『刺さる』んですよ」
命に関わる状況にもかかわらず、リーシェは少し誇らしげに語った。
「黙れ!」
覆面の男が苛立たしげに踏み込んできた。
その瞬間、上階の窓が激しく開く音がした。
カイルは執務室で書類に目を通していた。庭園の方角から、聞き慣れないほど切迫したリーシェの大声が響いたとき、ペン先が紙を裂いた。
声の主を確かめる必要などなかった。
窓辺へ駆け寄ると、温室のガラス越しに、覆面の男と壁を背にしたリーシェの姿が見えた。
「エヴァン、衛兵を呼べ!」
命じるより早く、カイルは窓枠を乗り越えていた。
二階から張り出した枝へ飛び移り、そのまま幹を伝い降りる。銀の髪を風になびかせながら、彼は迷いなく走り出した。
同じ頃、庭園の別の小道からディーターが駆け込んでくる。あまりに都合よく近くにいたその男を、カイルは視界の端で捉えた。
だが、問いただすのは後だ。
カイルはディーターの横を駆け抜け、温室へ飛び込む。リーシェへ刃を向けようとしていた覆面の男の顔面に、ためらいなく拳を叩き込んだ。
鈍い音とともに、男の体が横倒しになる。短剣が石床の上を滑り、鉢植えの陰へ転がった。
「俺の妃に刃を向けるということが、どういうことか。その体で理解しろ」
カイルの声は低く、いつもの冷たさとは違う、凍りつくような怒気を帯びていた。
覆面の男が呻きながら起き上がろうとしたところへ、駆けつけた衛兵たちが取り押さえる。
「犯人はこいつだけか?」
カイルが低く問うと、リーシェは温室の裏口の方を見た。
「さっきまで、もう一人怪しげなご令嬢の方がいたのですけど……。裏口から出て行ってしまったようです」
「共犯か」
カイルの声が、凍るように低くなる。
覆面の男は口を固く閉ざし、衛兵に腕を押さえつけられたまま、うつむいていた。
「牢へ入れろ。口を割るまで誰とも会わせるな」
「はっ」
命令を下すと、カイルは犯人を一瞥もせず、ディーターに向き直った。
「――ここで何をしていた」
「悲鳴が聞こえたので、助けようと」
「ふだん庭園など見ないお前が、たまたま近くを歩いていただけだと?」
カイルはディーターの胸ぐらをつかみ、低く言った。
「次は忠告じゃ済まさない。次に妃に何か仕組んだら、お前の家がどうなるかよく考えろ」
「恐ろしいことをおっしゃる」
ディーターは襟元をつかまれてなお、薄い笑みを崩さなかった。
カイルが手を離すと、ディーターは乱れた衣服を軽く整えた。
「どうか、早く皇妃殿下のおそばへ。今は私を責めるより、なさるべきことがおありでしょう」
その言葉に、カイルの表情がさらに険しくなる。
だが、リーシェの方を見た瞬間、怒りは別の色に変わった。
カイルはすぐにリーシェへ駆け寄った。
「怪我は」
「たぶん、ありません。びっくりしただけで」
「たぶんでは分からない。手を見せろ」
有無を言わせない声だった。リーシェが恐る恐る差し出した手を、カイルは自分の手のひらで包むように取った。
白い手首には、令嬢に引かれたときにできたのか、うっすら赤い跡が残っていた。
「赤くなっている」
「これくらい、大丈夫ですよ」
「お前が大丈夫だと言っても、俺が大丈夫じゃない」
低い声には、押し殺しきれない苛立ちが滲んでいた。
リーシェは、自分の手を包んだまま離さない彼の指先を見つめる。
「陛下、怒ってくださっているんですか?」
「皇妃が襲われたんだぞ」
「……私のこと、ちゃんと皇妃だと思ってくださっているんですね」
「当たり前だろう」
返事は即答だった。そのあまりの迷いのなさに、リーシェは笑みをこぼしてしまった。
カイルはリーシェの手を引き、立ち上がらせた。
「歩けるか」
「はい。でも、腰が抜けてしまいました~」
「どっちだ」
「気持ちは歩けます」
「意味が分からない」
呆れたように言いながらも、カイルはリーシェの手を離さなかった。
「でも、カイル様が来てくれてうれしかったです」
いつものように、へらっとした顔でリーシェが笑う。
目尻がくしゃっと下がり、頬にえくぼが浮かぶ。その愛嬌のある笑顔を、カイルは思わずかわいいと思ってしまい、慌てて視線を逸らした。
「……帰るぞ」
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夜、寝室へ戻ったカイルは、机に向かうリーシェを見つけた。
昼間と変わらない顔で本を開き、こちらに気づいていないかのようにページをめくっている。けれど、読んでいるにしては手元が妙に落ち着かない。さっきめくったばかりの頁を、また開き直していた。
カイルは少し待った。
それでもリーシェは、頑なに顔を上げない。
「……おい」
呼びかけると、リーシェの肩がぴくりと揺れた。ゆっくりと顔を上げた彼女は、どこかばつの悪そうな笑みを浮かべている。
「はい。お帰りなさいませ、陛下」
「気づいていたなら、最初から返事をしろ」
「だって、冷静になった陛下に怒られるかなって」
「何に対してだ」
「温室に一人で入ったこととか。知らない令嬢についていったこととか。あとは、助けを呼ぶときに、ものすごく大きな声を出したこととか……」
「最後のは、むしろ褒めるべきだ」
「褒めてくださるんですか?」
「褒めはしない。だが、あの状況で黙って震えているよりはましだ」
リーシェは少しだけ目を丸くしたあと、ほっとしたように息を吐いた。
「あのときは……ちょっとだけ、怖かったんですよです」
「当たり前だ」
「でも、陛下が来てくださったから、大丈夫でした」
リーシェはそう言うと、何事もなかったように笑った。昼間の恐怖など、とっくにどこかへ置いてきたような顔だった。
そのあっけらかんとした様子に、カイルは呆れたように息を吐く。
「……お前は本当に、変なところで図太いな」
「よく言われます」
カイルは、彼女の手元に視線を落とす。昼間、赤くなっていた手首はもう袖に隠れていた。
「呼び出した女の顔は覚えているか」
「さっぱり……。楽譜以外は、なかなか覚えられないタチでして」
「そうだろうと思った」
カイルはベッドの端に腰を落とし、足を組みながら言った。
「ローゼンハイトにも会ったか」
「その方でしたら、お会いしましたよ。初対面なのにやたらと話が長かったですが、私の心配をしてくれました」
「……初対面の男にまで、簡単に気を許すんだな。面白くない」
「そういう意味ではないですよ、陛下~」
「あいつは、この国の筆頭貴族で、皇位を狙う男だ」
「なんと……。平和ボケした我が国にはいない存在ですね」
「平和ボケはこちらも同じだ」
カイルは窓の外へ目を向けた。夜の庭園は暗く、温室の屋根だけが月明かりを鈍く返している。
「この国を建てたのは、五代前のイース家の始祖だ。皇帝の座は、建国以来ずっと我が家が継いできた」
カイルは窓の外に広がる夜の庭園へ目を向けた。
「だが、平和が長すぎた。皇帝家は危機感を失い、家臣たちは力を蓄えた。ローゼンハイト家は、その歪みをいちばん巧みに利用してきた連中だ」
「陛下がいつもカリカリしてらっしゃるのは、そのせいなのですか?」
「カリカリ……。まぁ、そう言われても仕方がない。人がよすぎる父上の代わりに、俺が万事厳格に対処しなければならない」
カイルはそこでリーシェへ視線を戻した。
「あいつも、お前を男に襲わせてから助ける演出でもして、恩を売るつもりだったんだろう。王宮の中心部ですら皇妃を守れない皇帝だとフォンレーヴに伝われば、この縁談が取りやめになるかもしれない」
「それ言ってました! 嫌になったらフォンレーヴへ帰ってもいい、みたいなことを」
リーシェは頬に手を当てて、顔全体で驚きを表現する。
「希少鉱物の件でフォンレーヴとの縁談をありがたがっている貴族が大半だ。そんな中、俺の失態でその話がなしになったとすれば、ローゼンハイト家は大喜びだろうな」
リーシェは少し黙り込んだ。
「急に神妙な顔をして、どうした?」
「私がフォンレーヴへ帰らないことが、皇国の貴族の方々にとっては重要なことなのですよね?」
「そうだが……」
「私は帰るつもりはありません」
リーシェは顔を上げ、唐突にそう宣言した。
「怖いことがあったからと言って逃げ帰っていたら、今日まで大切に王女として育ててくれたフォンレーヴのみなさんに申し訳が立ちません。ただし……」
カイルが眉を寄せる。
「なんだ」
リーシェは一度息を吸い、自信満々に言った。
「それならばもっと、両国のつながりを強固にするべきではないですか?」
「はぁ?」
「昨日は突然だったので逃げてしまいましたが、あらためて覚悟を決めました!」
リーシェは勢いよく立ち上がると、カイルの前まで歩いていった。
「今夜こそ、子作りしてください」
そのまま、リーシェはカイルに抱きついた。
「まだそこまでやるとは言ってない!」
「まだ、ってことは、近いうち、ですか?」
「そういう意味ではない!」
カイルはリーシェの肩をつかんで引き離し、耳まで赤くしながら背を向けた。
「うるさい! もう寝ろ!」
「はいはい、わかりましたよー」
リーシェはしぶしぶ承諾して寝台の反対側へ向かう。
カイルもそのまま寝ようとしていて、昨日のように本の仕切りを置くそぶりは見せない。
布団に入ったリーシェは、背を向けるカイルを見ながら、小さく口元を緩めた。
(ちょっとずつ近づいているのかも!?)




